第三百六十五話
二日後の夜、北の丘陵の麓の翼の家の門の格子を、こん、こん、と二度叩く音がした。縁側の障子が開くより早く、庭の柿の木の陰から、赤いリボンで銀髪を二つに結ったルカが大鎌を、青いリボンのリリアが双剣を構えて飛び出し、その後ろから、赤みがかった金髪を高く結い上げたテレサが、身の丈ほどもある大鎌を手に、門の前へ滑り込んだ。
門の外には、古い外套のフードを被った、肩にかかる黒髪の少女が立っていた。ナンバー8は、三つの刃が自分に向けられているのを見ても、少しも慌てずに、腰のホルスターから黒い拳銃を抜いて、門の内側の地面へ放り、背中の狙撃銃も下ろして、その隣に置いた。
テレサの大鎌の刃先が、わずかに揺れた。セントラルの研究室で、作られた身体の痛みを知っているテレサにとって、魔獣と魔法少女を混ぜて作られた少女は、他の誰よりも、警戒しなければならない相手のはずだった。
「……ん。この前の子」
リリアが、テレサの腕にそっと手を置いた。
「撃つ気、ない顔してる。……この前と、同じ顔」
テレサは、しばらくナンバー8の顔を見つめていたが、やがて、大鎌の刃先を、ゆっくりと地面に下ろした。縁側の奥から、白鳥と、黒い髪に紅色の瞳の奈緒が顔を出し、奈緒は、門の外の少女を見つけるなり、嬉しそうに声を上げた。
「そっくりさん、また来た!」
その夜、翼の家の居間のちゃぶ台を囲んだのは、いつもより多くの顔だった。白鳥の連絡を受けて集まったのは、緋雪と、ヴィクトリアと、ルディアと、凛花で、縁側の端には、頼まれもしないのに煎餅の袋を提げてやってきたヴィルヘルミナが、湯呑みを両手で包んで座っていた。
そして、ちゃぶ台の上座には、漆黒のドレスの少女が座っていた。ナンバー8は、居間に通された瞬間、その姿を見て、足を止めた。送電鉄塔の上や、中州の影の中で言葉を交わしたことはあっても、二人が明かりの下で、こうして向かい合うのは、初めてのことだった。
ナンバー8の肩が、わずかにこわばった。ゴーストは、ちゃぶ台の上座に座ったまま、静かにナンバー8を見上げた。
「……来てくれて、ありがとう」
それだけ言うと、ゴーストは、自分の隣の座布団を、そっと手で示した。ナンバー8は、少しだけ迷ってから、その座布団に腰を下ろし、奈緒が、反対側の隣に、ぴったりとくっついて座った。
ナンバー8は、湯呑みを両手で包んだまま、しばらく黙っていたが、やがて、一つずつ、言葉を選ぶようにして話し始めた。工場の地下の場所。郊外の、錆びた配管が天井を這う、古い工場であること。無響は、一段高くなった場所から命じるだけで、自分ではほとんど戦わないこと。魔獣を従え、ナンバーズと組ませていること。
そして、今、地下に残っているのは、ナンバー1と、ナンバー3と、ナンバー4と、ナンバー5と、ナンバー6の五人だけで、ナンバー1は、ナンバー7の寝台の上で毎晩泣いていて、ナンバー3は、構えの元に二度負けてから、ずっと荒れていること。
「……それから」
ナンバー8は、湯呑みの中の茶を見つめたまま、少しだけ声を落とした。
「あいつは、時々、空を見てる」
「空?」
ヴィクトリアが、紅茶のカップを置いて聞き返した。
「工場の屋根の上で。……何もない夜空を、長いこと、じっと見てる。何を見てるのかは、分からない」
縁側で、ヴィルヘルミナの湯呑みが、口元で止まった。ゴーストは、勾玉の解析室で見た、灰色の組織の投影図を思い出していた。
「私からも、一つ、伝えておくわ」
ゴーストは、ちゃぶ台の面々を見渡して、静かに言った。
「捕まえたナンバー2とナンバー7を、勾玉で調べてもらったの。……ナンバーズの身体の、魔獣の部分の組織は、この国で見つかったどの魔獣とも、系統が違うそうよ。まるで、別の場所で生まれた生き物みたいだ、って」
「この星の匂いがせん、と言うたのう」
ヴィルヘルミナが、湯呑みをすすりながら、ぽつりと呟いた。居間の空気が、しんと静まり返った。ゴーストは、それ以上は言わなかった。ナンバーズの芯に、自分と同じ魔力の波形が刻まれていたことは、まだ、誰にも言えなかった。
最初に口を開いたのは、ヴィクトリアだった。
「工場の場所が分かったのなら、踏み込むべきよ。残っているナンバーズを保護して、無響を押さえる」
「お待ちなさい、ヴィクトリア・ローゼンベルグ」
ルディアが、袖で口元を隠したまま、静かに首を横に振った。
「わたくしたちは、まだ、あれが何をしたいのかを知りません。……人を襲わせて、それでいて、わたくしたちが一つの卓に寄るたびに、どこか満足そうにしている。そんな相手の巣に、目的も分からぬまま踏み込むのは、危のうございますわ」
「では、ずっと様子を見ていろというの、ルディア・ロンディニウム」
「様子を見る、のではなく、備えるのですわ」
二人が睨み合いかけた時、凛花が、湯呑みを置いて、まっすぐに顔を上げた。
「……残っている五人も、救いたいです」
凛花の声は、静かだったが、少しも揺れていなかった。
「ナンバー2とナンバー7が、どんな顔で捕まったのか、緋雪さんから聞きました。……あの子たちも、きっと、同じです。踏み込むなら、救うために踏み込みたい。壊すためじゃなく」
ゴーストは、凛花の横顔を見て、小さく頷いた。それから、ちゃぶ台の面々を、もう一度見渡した。
「……突入は、まだしない。でも、いつ何が起きてもいいように、今夜、それぞれの動きを決めておきましょう」
話し合いは、夜更けまで続いた。
協会は、組織としては動けなかった。凛花は、春華と二人で、工場の周辺へ少しずつ巡回の経路を寄せ、異変があれば、協会の上層部を通さずに、凛花個人の判断で円卓に知らせることになった。春華なら、きっと、何も聞かずに付き合ってくれるはずだと、凛花は小さく笑った。
白百合の盾は、円卓の存在そのものを知らなかった。緋雪は、由鶴の白百合の眼が拾った反応を、そのまま円卓へ流すことにした。白百合の本隊には、街に出た魔獣とナンバーズへの対処に専念してもらい、澪たちの夜勤で、街の守りを固める。それが、緋雪にできる精一杯だった。
福音の鐘は、信徒の網を張ることになった。港の荷役も、運送屋の運転手も、近所の主婦も、工場の周りを行き交う人の出入りと、魔獣の影とを、それとなく見張る。有事には、ともしびの会の名で避難の道を敷き、真里と宮子は、いつでも動けるよう待機する。
星監は、衛星とドローンで、工場を遠巻きに見張ることになった。シルヴィアとレイラは即応の待機に入り、ヴィクトリアの屋敷では、汐里と、垣根の向こうの三神家とを守る。奈々美の周りについては、休戦中の焔の教団が、勝手に目を光らせているだろうと、ヴィクトリアは、少しだけ苦い顔で付け加えた。
翼の家は、受け皿になることになった。ナンバー8と、これから無響のもとを離れるかもしれない少女たちを、いつでも迎え入れられるように。夜番は、ルカとリリアとテレサが交代で続け、ヴィルヘルミナが、響かない結界を、もう一度張り直してやると請け負った。
そして、ゴーストは、遊撃に回ることになった。ヴィルヘルミナのもとで、影と元素の稽古を続けながら、無響本人が動いた時に、真っ先に駆けつけられるように。
「それから、あなた」
話し合いの最後に、白鳥が、ナンバー8の顔をまっすぐに見て言った。
「次に、危ないと思ったら、迷わず、ここへ来なさい。……紙も、門を叩くのも、いらないから。そのまま、帰ってきなさい」
ナンバー8は、湯呑みを握る手に、力を込めた。何かを言おうとして、言葉が見つからずに、ただ、小さく頷いた。
会議が終わり、ナンバー8が門のほうへ立ち上がった時、ずっと隣にくっついていた奈緒が、ナンバー8の外套の袖を、くいっと引っ張った。
「ねえ、そっくりさん。……名前は?」
「……ナンバー8」
ナンバー8が答えると、奈緒は、ぶんぶんと首を横に振った。
「それ、名前じゃないよ」
奈緒の紅色の瞳が、ナンバー8の顔を、まっすぐに見上げていた。
「奈緒もね、前は、名前がなかったの。番号で呼ばれてたの。……でも、お姉ちゃんが、奈緒って、つけてくれたの」
ナンバー8は、何も言えなかった。奈緒は、少しの間、首を傾げて考え込んでいたが、やがて、居間の隅の本棚に目をやって、ぱっと顔を明るくした。本棚には、白鳥が読み聞かせに使っている、日本の昔話の絵本が並んでいた。
「さくや」
「……さくや?」
「絵本にね、すっごくきれいなお姫さまがいるの。お花が咲くの、さく、の字の。……咲耶」
奈緒は、ナンバー8の手を両手で握りしめた。
「そっくりさん、お姉ちゃんと似た顔なのに、いつも、さみしい顔してるから。……咲いたら、いいなって」
居間の誰も、何も言わなかった。白鳥が、そっと目元を押さえ、凛花が小さく微笑み、ルディアが袖の陰で目を細めた。縁側のヴィルヘルミナは、湯呑みを傾けたまま、黙って夜空を見上げていた。
ゴーストは、ナンバー8の横顔を見ていた。黒い髪の少女は、奈緒に握られた手を見下ろしたまま、どんな顔をすればいいのか分からないように、唇を固く結んでいた。
「……俺には、似合わない」
「似合うよ!」
奈緒が、即座に言い返した。ナンバー8は、それ以上何も言い返さずに、奈緒の手を、そっと、一度だけ握り返した。
門の外へ出て、北の丘陵の雑木林の暗がりへ足を踏み入れたところで、ナンバー8は、一度だけ立ち止まった。夜風が、肩にかかる黒い髪を揺らしていった。
「……咲耶」
口の中で、小さく、一度だけ繰り返した。誰にも聞こえない声だったが、その名前は、夜の雑木林の暗がりの中で、確かに、ナンバー8の胸の奥のどこかに、そっと落ちていった。
会議が終わったあと、翼の家の庭の柿の木の下で、ゴーストは、緋雪と二人きりになった。
「……緋雪さん。会議では、言わなかったことがあるの」
ゴーストは、柿の木の幹に背を預けたまま、夜空を見上げた。
「捕まえた二人の芯に。……私と同じ魔力の波形が、刻まれてたの。きっと、八人全員に」
緋雪は、息を呑んで、ゴーストの横顔を見た。ゴーストは、それ以上は何も言わなかった。緋雪も、何も聞かなかった。ただ、ゴーストの冷たい指先を、自分の手で、そっと包み込んだ。
郊外の古い工場の屋根の上で、片腕のない、温度のない人の形をしたものが、夜空を見上げていた。北の丘陵の、響かない一角から、黒い髪の少女の足音が、ゆっくりと工場へ戻ってくるのを、無響は、目を閉じたまま聴いていた。
その足音は、二日前よりも、ほんの少しだけ、軽くなっていた。
「……そろそろ、か」
温度のない声が、夜風の中に落ちた。無響は、閉じていた目を開けると、星の瞬く遥かな夜空を、長い間、見上げ続けていた。




