第三百六十四話
夜明け前の郊外の古い工場の地下に、肩にかかる黒髪のナンバー8が戻ってきた時、一段高くなった場所には、片腕のない、温度のない人の形をしたものが、目を閉じたまま立っていた。ナンバー8は、通路の入り口で足を止めた。どこへ行っていたのか、誰と会っていたのか、問われれば、何と答えればいいのか、帰り道の間ずっと考えていたのに、答えは一つも見つかっていなかった。
「……戻ったか」
無響は、ゆっくりと目を開けて、ナンバー8を見下ろし、温度のない声は、それだけを告げると、また閉じた目の奥へと沈んでいった。ナンバー8は、しばらくその場に立ち尽くしていた。問われなかった。咎められもしなかった。それが、問い詰められるよりもずっと恐ろしいことのように思えて、ナンバー8の背中を、冷たい汗がひと筋、流れ落ちていった。
ナンバー7の大きな寝台の上で、紫の髪のナンバー1が、ナンバー8の足音に気づいて顔を上げた。脇腹と太腿には、無響に塞がれた傷の跡が、まだ紫色にうっすらと残っていた。
「……ナンバー8。ナンバー7、どこ……?」
ナンバー8は、ナンバー1の赤く腫れた目を見て、少しだけ迷ってから、短く答えた。
「……生きてる」
ナンバー1の大きな瞳が、まんまるに見開かれた。それから、くしゃりと顔が歪んで、泣いているのか笑っているのか分からない顔のまま、ナンバー1は、ナンバー7の毛布に顔を埋めた。壁際では、燃えるような紅い髪のナンバー3が、長槍を抱えたまま、黙ってこちらに耳を傾けていた。どうして知っているのか、と、ナンバー3は聞かなかった。
その日の夜、三神家の二階の自分の部屋で、零は、机の上に広げた白紙の進路調査票の脇で、緋雪から、昨夜のことを改めて詳しく聞いていた。夜更けに届いた短い知らせだけでは、分からなかったことばかりだった。
ナンバー8が、翼の家の門を叩いたこと。銃を地面に置いて、話がしたいと言ったこと。ナンバー2とナンバー7が生きていると伝えたら、ちゃぶ台の上に涙を落としたこと。そして、残っている仲間が疑われるからと、地下へ戻っていったこと。
『……紙を落とすだけだった子が、自分の足で、門を叩いたのよ』
緋雪の声は、少しだけ震えていた。零は、通信機を握ったまま、窓の外の暗い夜空を見上げた。
「……ありがとう、緋雪さん。俺が行かなくて、よかったのかもしれない」
『どうして』
「あの子は、きっと、俺の前だと、泣けなかったと思うから」
通信を切ったあと、零は、朝食の席で母が何でもないことのように話していたことを思い出していた。昨夜、紫の髪の子がまた一人で出てきたから、汐里ちゃんたちと一緒に相手をしてきた、と。少し深く斬りすぎたかもしれないけれど、泣きながら帰っていったから、きっと大丈夫よ、と。五郎は味噌汁にむせ、澪は箸を置いて黙り込み、玲奈だけが「また若い姿になったの?」と目を輝かせていた。
零は、椅子から立ち上がった。勾玉の施設に預けた二人が、今どうしているのか、自分の目で確かめておきたかった。階下では、居間のテレビの音と、五郎の笑い声と、玲奈が何かを言い返す声が、いつものように賑やかに響いていた。零は、ペンダントを握って変身すると、窓を静かに開け、二階の屋根の影の中へ、漆黒のドレスの少女として沈んでいった。
町外れの公園の駐車場には、八咫の黒塗りの車が一台、エンジンをかけたまま停まっていた。後部座席に乗り込んだゴーストに、運転席の隊員は、振り返らずに一礼しただけだった。車は、街の灯りを抜け、やがて街灯もまばらな山道へと入っていった。窓の外を流れていく暗い木々を見つめながら、ゴーストは、資材置き場で膝をついたナンバー2の、かすれた声を思い出していた。
ナンバー8は、悪くない。あの子は、何もしてない。その言葉を、今夜、八咫の車の中で、もう一度、噛みしめていた。
郊外の山あいにある、宮内庁の管理する白い建物の地下は、窓が一つもなく、白い壁と白い床だけがどこまでも続いていた。八咫の隊員に案内されて解析室に入ったゴーストを、白衣の男が二人、投影された術式図を挟んで待っていた。
一人は、かつて協会の技術部門にいた桧山治夫で、もう一人は、白髪を後ろへ撫でつけた老人、椎葉だった。変身固定の装置を作った老技師と、その設計図を協会の外へ流した元技術者は、今は勾玉の施設で、ナンバーズの身体を解き明かすために、同じ机を囲んでいた。
「……結論から、申し上げます」
桧山が、投影図の一部を拡大しながら、低い声で言った。
「ナンバーズの身体は、魔獣の外殻と、魔法少女の魔力回路とが、一つに混ざり合って作られています。どちらかを後から継ぎ足したのではなく、最初から、両方を一つの身体として、組み上げている」
「……戦姫の研究記録を、元にしたもの?」
「土台は、そうでしょう。人工の魔法少女を作る技術は、戦姫の頃からありました」
桧山の隣で、椎葉が、震える指で別の投影図を指し示した。灰色の外殻の組織を、拡大して映したものだった。
「だが、こちらが分からん。……魔獣の部分の組織だ」
椎葉は、皺だらけの顔をしかめて、投影図を睨みつけた。
「私は、戦姫の頃から、この国の魔獣を何百と見てきた。だが、この組織は、そのどれとも系統が違う。属性の通り方も、外殻の積み重なり方も、まるで、別の場所で生まれて、別の理屈で育った生き物のようだ」
「……別の、場所」
ゴーストは、投影図の灰色の組織を見つめた。縁側で、ヴィルヘルミナが煎餅をかじりながら呟いた言葉が、ふと耳の奥に蘇った。あの灰色の獣ども、この星の匂いがせんのじゃ。
「それから、もう一つ」
桧山が、最後の投影図を呼び出した。二つの細い光の筋が並んだ、魔力回路の模式図だった。
「捕らえた二体の魔力回路の芯に、同じ一つの波形が、組み込まれています。……氷と地、属性はまるで違うのに、一番奥の、芯の部分だけが、同じ形をしている。おそらく、残りの六体も同じでしょう」
投影図の真ん中に、その芯の波形が、大きく拡大されて映し出された。
ゴーストは、息を呑んだ。
その波形を、ゴーストは知っていた。山奥の廃施設で、無響が「確かめた」と言った波形。ペンダントから漏れ出し、人間の姿の時でさえ、微かに外へ滲み出ていた、周防凛音と同じ魔力の波形。変身した自分の身体の、一番奥を流れているものだった。
「……これは」
「心当たりが、おありですか」
桧山が、静かに尋ねた。ゴーストは、答えなかった。答えられなかった。椎葉が、何かを察したように桧山の袖を引き、桧山は、それ以上は何も聞かずに、投影図を静かに閉じた。
「……この結果は、まだ殿下と、あなたにしかお見せしておりません」
桧山は、白衣の胸ポケットに手を当てて、低い声で付け加えた。
「協会にも、白百合にも、福音の鐘にも、星監にも。……どこへ、どこまで伝えるかは、あなたが決めてください」
ゴーストは、小さく頷いた。器は、いずれ貰い受ける。あの言葉が、今になって、まったく違う重さで、胸の奥に沈んでいった。
解析室の奥の、白い扉の向こうの小さな部屋で、ナンバー2とナンバー7は、ベッドを二つ並べて過ごしていた。両手首には、黒い金属の輪が二重に嵌められたままだったが、部屋の中を歩き回ることは許されていて、小さなテーブルの上には、食べ終えた食事の皿が、きちんと重ねて置かれていた。部屋の隅には、勾玉の職員が差し入れたらしい古い文庫本が数冊と、折り紙の束が置かれていて、テーブルの端には、不格好な折り鶴が一羽、ぽつんと載っていた。大きな指で、慣れない手つきで折ったのだろう、片方の翼が少しだけ曲がっていた。
扉が開いて、漆黒のドレスの少女が入ってくると、ベッドに腰かけていたナンバー2が、弾かれたように顔を上げた。白銀の長い髪は、一つに結ばれないまま、肩に流れていた。
「……ナンバー8は」
ナンバー2の最初の言葉は、それだった。ゴーストは、部屋の真ん中で立ち止まると、ナンバー2の目をまっすぐに見て答えた。
「昨夜、翼の家に来たそうよ。……あなたたちが生きてるって聞いて、泣いてたって」
ナンバー2は、何も言わなかった。ただ、ゴーストから顔を背けて、白い壁のほうを向いた。その肩が、小さく、一度だけ震えたのを、ゴーストは見なかったふりをした。
隣のベッドの上で、ナンバーズの中で頭一つ抜けて背の高い、琥珀の髪のナンバー7が、太い腕を膝の上に置いたまま、じっとゴーストを見上げていた。捕まってから、ナンバー7は、ほとんど口をきいていないと、八咫の隊員から聞いていた。そのナンバー7が、ゆっくりと口を開いた。
「……ナンバー1は」
ゴーストは、少しだけ驚いて、ナンバー7の顔を見た。それから、静かに答えた。
「無事よ。……少し、怪我はしたけど。一人で出てきて、強い人とぶつかって、泣きながら帰っていったって」
ナンバー7は、しばらく黙っていた。琥珀の髪の下の目が、白い床の一点を、じっと見つめていた。
「……頭を、撫でてやれない」
ナンバー7は、それだけ言うと、また口を閉ざした。大きな手のひらが、膝の上で、何かを撫でるように、ゆっくりと一度だけ動いて、止まった。
部屋に、長い沈黙が落ちた。ゴーストは、二人の前に立ったまま、さっき解析室で見た、芯の波形のことを考えていた。この二人の、一番奥にあるもの。それが、自分と同じ形をしていた。写しの元と同じ構えを持ち、写しの元と同じ顔をして、その芯に、自分と同じ波形を宿した少女たちが、今、手首に黒い輪を嵌められて、白い部屋の中で、仲間の名前を呼んでいた。
「……また、来るわ」
ゴーストが言うと、ナンバー2は、壁のほうを向いたまま、小さく答えた。
「……来なくていい」
だが、その声は、来るなと言っている声には、聞こえなかった。
帰りの車の後部座席で、ゴーストは、膝の上に置いた自分の手のひらを、長い間見つめていた。窓の外を、夜の山道の木々が、黒い影になって流れていった。
器は、いずれ貰い受ける。山奥の廃施設で、無響はそう言った。あの時、無響が見ていたのは、奈緒ではなく、自分だった。そして今夜、捕らえた二人の写しの芯に、自分の波形が刻まれていることを知った。八人とも、きっと同じなのだろう。写しを作るために、無響は、すでに自分の何かを、どこかで聴き取り、写し取っていたのだ。
(……写しじゃ、届かなかったんだ)
澪に槍で敗れたナンバー3、母の四本の刃に斬られたナンバー1、緋雪の氷と自分の影に捕らえられたナンバー2とナンバー7。写しは、どれも、写しの元に届かなかった。写しを重ねて届かなかった者が、次に何を欲しがるのかは、考えるまでもなかった。
ゴーストは、手のひらをぎゅっと握りしめた。車の窓に映る自分の顔は、八人の写しの誰とも違って、ひどく青ざめて見えた。




