第三百六十三話
ナンバー1が地上へ飛び出していく、その同じ夜の少し早い時刻、住宅街の外れにある古い児童公園では、錆びたブランコと滑り台の間を、灰色の外殻の魔獣が三体、低く唸りながらうろついていた。ナンバーズに率いられた群れではなく、どこからか迷い出てきた、ただの魔獣だった。滑り台の影がゆらりと揺れて、漆黒のドレスの少女がせり上がると、ゴーストは、鞘のない大剣を一振りして、一体目の魔獣を黒い霧に変えた。
二体目が跳びかかってくるのを、影に沈んで躱し、ブランコの柱の陰から浮かび上がって背後を斬り払った時、公園の入り口のほうから、いくつもの足音が駆け込んできた。
「いた! 魔獣と……」
先頭に立った背中まで届く長い黒髪の少女が、長槍を構えたまま、ゴーストの姿を見て足を止めた。三神澪だった。その後ろから、双剣を抜いた玲奈と、フリルの多いアイドル風の制服のきらりと、二振りの剣に炎を灯した新堂鈴乃が、次々と公園に飛び込んできた。
漆黒のドレスに、鞘のない大剣。何度も同じ戦場に立ってきた黒いドレスの少女を、見間違えるはずはなかった。それでも、澪の目は、すっと細くなった。その顔は、この数日、母を襲い、自分の構えを写し、街のあちこちに魔獣を連れて現れた少女たちと、同じ顔だった。
「……また、あなたなの」
澪の長槍の穂先には、白く凝縮された炎が灯ったままだった。ゴーストは、大剣を下ろしかけたまま、姉の穂先が自分のほうを向いたまま下りないのを見て、思わず一歩後ずさった。
「澪さん、穂先、穂先!」
きらりが、星眼を大きく見開いて、澪の腕にしがみついた。
「ゴーストさんだってば! オーラも、ちゃんと三色あるもん。黒と、赤と、青。ナンバーズの子たちは、みんな一色だよ!」
「……分かってるわよ」
澪は、ようやく穂先を下ろしたが、その目つきは少しも和らがなかった。玲奈が、くすりと笑った。
「お姉ちゃん、黒いドレスの人の顔見ると、いっつも怖い顔になるよね」
何度も助けられていることは、澪も分かっていた。それでも、弟の周りをうろつき、弟に執着しているという黒いドレスの少女を、澪は、どうしても好きになれなかった。
「……その顔で、うろうろしないでくれる。紛らわしいのよ」
澪が、ぶっきらぼうに言った。ゴーストは、何も言い返せずに、黙って大剣を構え直した。紛らわしい顔をしているのはナンバーズのほうだ、と言いたかったが、姉にそれを言う勇気は、どこにもなかった。
その後ろで、新堂鈴乃は、二振りの炎の剣を構えたまま、一言も発していなかった。ただ、ゴーストのドレスの裾の翻り方と、大剣を構えた時の腰の角度と、こちらを振り返った横顔とを、異様な真剣さで目に焼きつけていた。
(……澪さんに、睨まれて一歩引くゴースト……! 今の構図、次の新刊の表紙に……いえ、落ち着いて私、今は戦闘中……!)
鈴乃の頬が、ほんのりと赤らんでいることに、気づいた者は誰もいなかった。
残った魔獣が、ブランコの陰から、澪の背後へと跳びかかった。ゴーストが動くより早く、澪が振り返りざまに長槍を突き出し、白く凝縮された小さな炎が、魔獣の外殻を、針で突くように貫いて、黒い霧に変えた。
ゴーストは、その穂先の炎を見て、思わず目を見張った。炎の周りの空気が、炎を支えるように静かに流れていた。庭で毎日回していた花びらの、あの小さな渦と同じものが、姉の穂先の周りで、確かに生きていた。
(……姉ちゃん、ここまで)
ゴーストは、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じたが、それを顔には出さなかった。最後の一体は、玲奈の双剣とゴーストの大剣が、左右から同時に斬り払った。公園に、静けさが戻った。
「……ありがとう、ゴーストさん!」
玲奈が、双剣を収めながら、屈託なく笑った。ゴーストは、小さく頷くと、足元の滑り台の影の中へ、静かに沈んでいった。
「ちょっと、礼くらい言わせなさいよ……!」
澪が、消えていく影に向かって叫んだが、影は、もう、ただの滑り台の影に戻っていた。澪は、長槍を収めて、小さく舌打ちをした。
「……いつも、言わせないで、消えるんだから」
「お姉ちゃん、今、言おうとしてたの?」
「言わないわよ」
玲奈がくすくすと笑い、きらりが星眼を細めて影の跡を見つめ、鈴乃は、誰にも見られないように、そっと手帳を取り出して、何かを猛烈な勢いで書きつけ始めていた。
同じ頃、北の丘陵の麓の、雑木林に背を向けて建つ翼の家の門の前に、肩にかかる黒髪の少女が、一人で立っていた。ナンバー8は、古い外套のフードを被ったまま、門柱の脇の小さな郵便受けを、長い間、見つめていた。
三日前に工場を出てから、ナンバー8は、二人の行方を探して街をさまよい、この門の前まで来ては、何度も引き返していた。何度もここへ通い、何枚もの黒い紙を、この郵便受けに落としてきた。だが、今夜、ポケットの中の黒い紙には、まだ何も書かれていなかった。
紙を落とすだけでは、もう足りなかった。ナンバー8は、郵便受けから目を離すと、門の内側の、明かりの灯った縁側を見つめ、それから、震える手で、門の格子を、こん、こん、と二度叩いた。
縁側の障子が、さっと開いた。現れたのは、赤いリボンで銀髪を二つに結った少女と、青いリボンの銀髪の少女で、二人は、門の外のフードの人影を見た瞬間、大鎌と双剣を同時に構えていた。
「……誰」
「止まって。それ以上、入ったら斬る」
ルカとリリアだった。今夜の翼の家の夜番は、二人の番だった。ナンバー8は、門の外で立ち止まると、ゆっくりとフードを下ろした。月明かりの下に、オリジナルとよく似た顔と、肩にかかる黒い髪が現れた。それから、腰のホルスターから黒い拳銃を抜くと、銃口を下に向けたまま、門の内側の地面へ、そっと放り投げた。背中の狙撃銃も、同じように下ろして、地面に置いた。
「……撃つ気は、ない」
ナンバー8の声は、少女のものなのに、どこか低く、かすれていた。
「話がしたい。……ここの人と」
ルカとリリアは、顔を見合わせた。リリアが、双剣を下ろさないまま、ナンバー8の顔と、地面に置かれた二挺の銃とを、じっと見比べた。
「……ん。撃つ気、ない顔してる」
「でも、ナンバーズだよ、リリア」
「ナンバーズでも、銃、捨てた」
その時、縁側の奥から、白鳥が姿を現した。白鳥は、門の外の黒い髪の少女を一目見るなり、何かを悟ったように目を見開いて、それから、ルカとリリアの肩に、そっと手を置いた。
「……二人とも、武器を下ろして」
「でも、白鳥さん」
「この子は、大丈夫よ」
白鳥は、縁側から庭へ下りると、門の格子越しに、ナンバー8の顔を見つめた。
「あなたが、いつも、紙を届けてくれていた子ね」
ナンバー8の肩が、びくりと揺れた。答えられずにいるナンバー8の前で、白鳥は、門の掛け金を外して、格子戸を、そっと内側へ開いた。
「入って。……お茶くらい、出すわ」
縁側の奥の居間から、黒い髪に紅色の瞳の少女が、ひょっこりと顔を出した。テレサとエリと奈緒は、ナンバー8の顔を見て、ぱちぱちと目を瞬かせると、嬉しそうに声を上げた。
「お姉ちゃんの、そっくりさんだ!」
居間のちゃぶ台を囲んで、ナンバー8は、白鳥が淹れた湯呑みを両手で包んだまま、なかなか口を開けなかった。台所の入り口には、赤みがかった金髪のテレサと、色素の薄い髪を肩の上で切り揃えたエリが並んで立ち、縁側では、ルカとリリアが、まだ少しだけ警戒を解かずに座っていた。奈緒は、ナンバー8の隣にぴったりとくっついて座り、湯呑みの湯気越しに、黒い髪の少女の横顔を、興味津々に見上げていた。
「……ナンバー2と、ナンバー7が、帰ってこない」
ようやく、ナンバー8が口を開いた。
「三日前、オリジナルと、氷の太刀の女のところへ出て、それきりだ。……生きてるのか、死んでるのか。どこに、いるのか」
ナンバー8は、湯呑みを握る手に、力を込めた。
「それが、知りたい。……知らせてくれるなら、俺が知ってることは、全部話す」
白鳥は、しばらく黙ってナンバー8の顔を見つめていたが、やがて、静かに頷いた。
「私には、分からないわ。……でも、分かる人に、今すぐ連絡する」
白鳥は、ちゃぶ台の端に置いていた通信の端末を手に取ると、短く誰かに呼びかけた。その間、ナンバー8は、湯呑みの中の茶を、黙って見つめ続けていた。
郊外の古い工場の屋根の上で、片腕のない、温度のない人の形をしたものが、北の丘陵の方角へ、目を閉じたまま顔を向けていた。
黒い髪の少女の足音が、三日前に工場を出てから街をさまよい、今夜、北の丘陵へ向かっていくのを、無響は、最初から最後まで聴いていた。その足音は、丘陵の麓の、あの不自然な無音の一角に入った瞬間、ふっと途切れた。何かを丁寧に塗り潰したような、響かない場所。魔女と同じ音のする、場所だった。
無響は、追わなかった。追えば、あの無音の内側にいる者たちと、ここで事を構えることになる。そして、あの黒い髪の少女が、どこへ紙を落とし、誰と通じていたのかを、無響は、もうずいぶん前から、おおよそ聴き取っていた。
「……行かせておけ」
温度のない声が、夜風の中に落ちた。それが、何を待つための黙認なのかを知る者は、誰もいなかった。
翼の家の庭の、柿の木の影がゆらりと揺れて、漆黒のドレスの少女がせり上がったのは、白鳥の連絡から十分も経たない頃だった。公園の魔獣を片付けたばかりのゴーストは、縁側に上がると、居間のちゃぶ台の前に座る、黒い髪の少女の姿を見て、足を止めた。
ナンバー8も、湯呑みを置いて、顔を上げた。影の中で言葉を交わした夜から、二人がこうして、明かりの下で向かい合うのは、初めてのことだった。
「……ナンバー2と、ナンバー7は」
ナンバー8が、ゴーストの顔を見上げて、かすれた声で言った。
「生きてるわ」
ゴーストは、ナンバー8の前に膝をついて、まっすぐにその目を見た。
「傷も、手当てしてもらってる。……乱暴は、されてない。私が、そう頼んだから」
ナンバー8の肩から、ふっと力が抜けた。黒い髪の少女は、湯呑みの横に両手をついたまま、しばらく俯いて動かなかった。その肩が、小さく震えていた。奈緒が、心配そうにナンバー8の背中を撫でた。
「……ナンバー2はね」
ゴーストは、少しだけ迷ってから、静かに付け加えた。
「捕まる前に、私に言ったの。ナンバー8は、悪くない。あの子は、何もしてない、って」
ナンバー8は、顔を上げなかった。ただ、ちゃぶ台の上に、ぽたり、と、一滴、何かが落ちた。
「……馬鹿だな、あいつ」
ナンバー8の声は、震えていた。
「俺のほうが、ずっと、何かしてるのに」
居間の誰も、何も言わなかった。台所の入り口で、テレサがエリの手を握り、縁側のルカとリリアは、いつの間にか武器を膝の上に置いていた。白鳥は、ナンバー8の湯呑みに、そっと新しい茶を注ぎ足した。
しばらくして、ナンバー8は、袖で目元を拭うと、ゆっくりと立ち上がった。
「……戻る」
「戻るの?」
ゴーストが尋ねると、ナンバー8は、小さく頷いた。
「これ以上戻らないと、残ってる奴らが疑われる。……ナンバー1も、ナンバー3も、まだ、あそこにいるから」
白鳥が、門まで見送りに出た。門の格子の前で、白鳥は、ナンバー8の手に、ルカが拾い上げていた二挺の銃を返しながら、穏やかに言った。
「いつでも、来ていいのよ。……部屋なら、空いてるから」
ナンバー8は、銃を受け取ったまま、白鳥の顔を見つめていた。それから、ほんの少しだけ頭を下げて、フードを被り直すと、夜の雑木林の向こうへ、足音を殺して消えていった。
ゴーストは、縁側に立ったまま、その背中が見えなくなるまで見送っていた。郵便受けに紙を落とすだけだった少女が、今夜、初めて、門を叩いた。その意味を、ゴーストは、胸の奥で、何度も噛みしめていた。




