第三百六十一話
郊外の古い工場の地下に、片腕のない、温度のない人の形をしたものの声が落ちたのは、ナンバー3が澪に敗れて戻ってきた日。
その翌日の夕方のことだった。錆びた配管の下に並んだナンバーズの中で、ナンバー3は治ったはずの肩を押さえたまま壁際に座り込み、ナンバー1は退屈そうに床を転がり、ナンバー4とナンバー5とナンバー6は、それぞれの場所から一段高くなった場所を見上げていた。
「ナンバー2。ナンバー7」
無響の温度のない声に、白銀の長い髪を一つに結ったナンバー2と、ナンバーズの中で頭一つ抜けて背の高い、琥珀の髪のナンバー7が、同時に顔を上げた。
「もう一度、写しの元と当たれ。オリジナルと、氷の太刀の女だ。……魔獣は、前の倍を連れていけ」
地下が、しんと静まり返った。河川敷で、白い法衣の女に太刀を凍らされ、ナンバー7に担がれて逃げ帰ってから、まだ一週間ほどしか経っていなかった。
「写しが、どこまで元に届くのか。……今度こそ、聴かせてもらう」
無響は、それだけ告げると、また目を閉じたが、その出撃は今すぐのことで、壊れた機械の陰で、肩にかかる黒髪のナンバー8は、ポケットの中の黒い紙を握りしめたまま、動けなかった。今から出るのでは、紙を落としに行く時間などどこにもなく、ナンバー8が唇を噛んでいる間に、ナンバー2は、太刀を腰に差して通路の奥へ歩きかけ、二人の部屋の前で、一度だけ足を止めた。部屋の中では、溶けにくいように分厚く作り直した氷の仕切りが、薄暗い明かりを受けて、青白く光っていた。
「……すぐ、戻るから」
ナンバー2は、振り返らずに言った。
「……ああ」
ナンバー8は、それしか返せなかった。ナンバー7は、ナンバー2の後ろについて歩きながら、すれ違いざまに、床を転がっていたナンバー1の頭に、大きな手のひらを一度だけ置いた。
「……行ってらっしゃい、ナンバー7」
ナンバー1が、珍しく小さな声で言うと、ナンバー7は、黙って小さく頷いた。
埋立地の外れにある古い資材置き場は、積み上げられた鉄骨とコンクリートの塊が迷路のように入り組んでいて、海から吹きつける夜風が、錆びた鉄骨の隙間を抜けるたびに、低く唸るような音を立てていた。その資材置き場の真ん中の、ぽっかりと開けた土の広場に、灰色の外殻の魔獣が、前の倍の数、地面から滲み出すように湧き出していた。魔獣探知アプリの警告を受けて、影の中から浮かび上がったゴーストの隣に、太刀を抜いた緋雪が、白い息を吐きながら並んだ。緋雪の左肩の包帯は、もう取れていた。
「……二人とも、また来たのね」
緋雪が見上げた広場の奥の鉄骨の山の上には、白銀の髪の少女と琥珀の髪の大柄な少女が並んで立っていて、それは河川敷の夜と、まったく同じ組み合わせだった。
「今度は、魔獣が倍いるわ」
「ええ。……でも、前とは違う」
ゴーストは、鞘のない大剣を構え直した。刃の芯で氷が白く光り、縁で炎が紅く揺れた。最初に動いたのは、ナンバー7だった。大槌の柄頭で、とん、と地面を一度叩くと、ゴーストの足元の土が、内側から弾けた。地中から跳び出した魔獣の顎を、ゴーストは影に沈んで躱した。
ナンバー7は、二度、三度と柄頭で地面を叩き、ゴーストが浮かび上がりそうな周りの影という影の下に、地中の魔獣を一体ずつ潜ませていった。河川敷の夜と、同じやり方だった。鉄骨の影も、コンクリートの塊の影も、魔獣の外殻の影さえも、どこから浮かび上がろうとしても、その下には、顎を開いた魔獣が待ち構えていた。
だが、ゴーストは、どこの影からも浮かび上がらず、闇の中で、静かに数を数えていた。
闇はもうゴーストを押し戻そうとはせず、ゴーストは、ナンバー7の背後の、何の影もない、月明かりに照らされた土の上だけを思い浮かべていた。
あそこに自分の闇を落とし、あそこから出ればいいと決めて、ナンバー7の背後の、何もない土の上に、ぽつりと、一滴の墨を落としたような黒い染みが浮かばせる。
ナンバー7が気配に気づいて振り返った時には、染みの中からせり上がったゴーストの大剣が、横薙ぎに振り抜かれていた。ナンバー7は、大槌の柄でそれを受け止めたが、受け止めた大槌ごと、その大柄な身体が、鉄骨の山の上から弾き飛ばされた。
「……っ!」
ナンバー7の口から、短い声が漏れた。大槌が、ナンバー7の手を離れて、土の上を転がっていった。
地中の魔獣たちが、糸を断たれたように、一斉に動きを止めた。どこの影の下で待ち構えていればいいのか、もう、誰にも分からず、気が付けば、一方的にゴーストの攻撃を防御するだけになってしまった。
広場の反対側では、ナンバー2の太刀が、緋雪の太刀と、何度もぶつかり合っていた。ナンバー2は、河川敷の夜よりも、ずっと落ち着いていて、右足を半歩引き、刃を寝かせ気味に構えて、受けた瞬間に手首を返すという写した構えが、今夜は少しも崩れていなかった。
「……前より、ずっといいわね」
緋雪は、ナンバー2の太刀を受けながら、静かに言った。
「でも、その構え。……私が、先月直したばかりの癖が、まだ残ってる」
「……え」
ナンバー2の目が、見開かれた。受けた瞬間に手首を返す、その返しの角度がほんのわずかに浅いのは、緋雪が先月まで持っていて、ゴーストとの稽古で指摘されて直した、緋雪自身の癖だった。
写された時の緋雪には、まだその癖があったが、今の緋雪には、もう、なかった。
緋雪は、ナンバー2が手首を返す、その浅い角度の内側へ、太刀の切っ先を滑り込ませた。刃と刃が触れた一点から、白い霜が、ナンバー2の太刀を伝って柄元まで駆け上がり、ナンバー2の指を、柄ごと凍りつかせた。
「……っ、動かない……!」
ナンバー2が、凍った太刀を握ったまま、膝をついた。鉄骨の山の下で、大槌を失ったナンバー7が、それを見て、迷わず走り出した。
河川敷の夜と同じように、ナンバー2を担いで、逃げようとしていた。
だが、ナンバー7がナンバー2の身体に手を伸ばした時、その足元の土の上に、また黒い染みが浮かんでいた。染みの中からせり上がったゴーストが、ナンバー7とナンバー2の前に、大剣を構えて立ちはだかった。
逃げ道は、もう、どこにもなかった。ナンバー7は、何も言わずに、膝をついたナンバー2の前に立ち、大槌はもう手元になく、ゴーストによる攻撃でボロボロだったが、それでも、大きな両腕を広げて、ナンバー2を背中に庇ったまま、一歩も退こうとしなかった。
そして、周りの魔獣は、緋雪の氷にすべて閉じ込められていた。
「……もう、終わりよ」
ゴーストが、静かに言った。ナンバー7は、しばらくゴーストを見下ろしていたが、やがて、広げていた両腕を、ゆっくりと下ろした。
その大きな身体から、力が抜けていき、ナンバー7は、ナンバー2の隣に、どさりと膝をついた。凍った太刀を握ったまま、ナンバー2が、ゴーストの顔を見上げた。オリジナルと同じ顔の、冷たい目が、ほんの少しだけ揺れていた。
「……ナンバー8は」
ナンバー2の声は、かすれていた。
「ナンバー8は、悪くない。……あの子は、何もしてない」
ゴーストの指が、大剣の柄の上で、ぴたりと止まった。ナンバー2が、何を知っていて、何を知らないのか、ゴーストには分からなかった。
ただ、膝をついた少女が、自分のことではなく、地下に残してきた黒い髪の少女のことを、真っ先に口にしたのだということだけは、はっきりと分かった。ゴーストは、何も答えられなかった。答えれば、どの答えも、あの子を危うくする気がした。
ゴーストが懐から取り出した、八咫から預かっている小さな通信機に短く告げてから、十分も経たないうちに、資材置き場の入り口に、黒塗りの車が三台、音もなく滑り込んできた。最初に降りてきたのは、スーツ姿の八咫の隊員たちで、その後ろから、白衣を羽織った勾玉の解析班の男女が、銀色の箱を抱えて降りてきた。八咫の隊員の一人が、ゴーストの前で一礼した。
膝をついた二人のナンバーズの耳を気にしてか、隊員は、ゴーストを名前で呼ぼうとはしなかった。
「お預かりいたします。……保管施設へ、移送いたします」
勾玉の解析班が、銀色の箱から、黒い金属の輪を取り出した。輪には、細かな術式の紋様が、隙間なく刻み込まれていた。
「魔力の流れを、外から封じる拘束具です。……魔獣の外殻の性質も持つ方々と伺っておりますので、二重にかけさせていただきます」
白衣の女が、淡々と説明しながら、ナンバー2の両手首と、ナンバー7の両手首に、黒い輪を一つずつ嵌めていった。
輪が閉じた瞬間、ナンバー2の凍った太刀から霜が引いていき、太刀そのものが、光の粒になってほどけて消えた。ナンバー7は、自分の手首に嵌められた輪を、黙って見下ろしていた。
「……乱暴には、しないで」
ゴーストが、白衣の女に向かって言った。白衣の女は、少しだけ意外そうにゴーストの顔を見て、それから、静かに頷いた。
「解析は、いたします。……ですが、傷つけるための解析ではございません。殿下からも、そのように申しつかっております」
ナンバー2とナンバー7は、八咫の隊員に両脇を支えられて、黒塗りの車の後部座席へと乗せられていった。ナンバー2が先に乗り込み、ナンバー7が、その隣に身体を押し込むようにして座った。隊員が、二人を別々の車に分けようとした時、ナンバー7が、低い声で、はっきりと言った。
「……離れない」
隊員は、ゴーストの顔を振り返った。ゴーストが小さく頷くと、隊員は、それ以上は何も言わずに、後部座席の扉を閉めた。
三台の黒塗りの車は、来た時と同じように、音もなく資材置き場から走り去っていき、その赤い尾灯が、埋立地の夜の闇の中へ、少しずつ小さくなって消えていった。緋雪が、太刀を鞘に納めながら、ゴーストの隣に並んだ。
「……白百合には、報告できないわね」
「ごめんなさい、緋雪さん」
「謝らないで。……あの子たちを、白百合や協会の檻に入れるよりは、ずっといいわ」
緋雪は、小さく息を吐いて、走り去った車の方角を見つめた。ゴーストもまた、同じ方角を見つめながら、ナンバー8は悪くない、あの子は何もしてない、というナンバー2の最後の言葉を、何度も頭の中で繰り返していた。
郊外の古い工場の地下で、夜が明けても、ナンバー2とナンバー7は、戻ってこなかった。紫の髪のナンバー1は、ナンバー7の大きな寝台の上に座り込んで、膝を抱えていた。夜中に何度も地下を走り回り、地上への階段を上がりかけては、外出禁止を思い出して引き返し、最後には、ナンバー7の寝台の上で、そのまま動かなくなっていた。
「……ナンバー7、帰ってこない」
ナンバー1の大きな瞳に、涙が溜まっていた。
「……何も言わないで、頭、撫でてってくれたのに……」
一段高くなった場所で、無響が、二人の音が途切れた埋立地の方角へ、長い間、耳を澄ませていた。
「……元に、届かなかったか」
温度のない声が、地下に落ちた。それきり、無響は何も言わなかった。ナンバー2とナンバー8の部屋で、ナンバー8は、寝台の脇の床に座り込んでいた。部屋の真ん中では、分厚く作り直した氷の仕切りが、主のいなくなった部屋で、少しずつ、少しずつ溶けていた。
溶けた水は、昨日までと同じように、床の低いほう、ナンバー8の座っている側へと流れてきて、ナンバー8の外套の裾を、静かに濡らしていった。ナンバー8は、濡れていく裾を見下ろしたまま、動かなかった。
それから、ポケットの中の黒い紙を取り出して、長い間、それを見つめていたが、紙を落とすだけでは、もう足りないことは分かっていて、ナンバー8は、黒い紙を握りしめて、ゆっくりと立ち上がった。溶けかけた氷の仕切りに、一度だけ手を触れてから、ナンバー8は、地上へ続く階段のほうへ、音もなく歩き出した。




