第三百六十話
それから二日後の夜更け、郊外の古い工場の地下は、錆びた配管から落ちる水滴の音と、仕切りの鉄板の向こうから漏れてくる寝息だけに満たされていた。その静けさの中を、燃えるような紅い髪を背中に流したナンバー3が、身の丈ほどもある長槍を肩に担いで、足音を殺しながら、地上へ続く階段のほうへ歩いていった。ナンバー2とナンバー8の部屋の前を通りかかった時、鉄板の隙間から、低い声がした。
「……行くのか」
外套にくるまったまま床に座り込んでいたナンバー8が、肩にかかる黒髪の下から、こちらを見上げていた。寝台の上では、白銀の髪のナンバー2が、溶けにくいよう分厚くした氷の仕切りの向こうで、小さく寝息を立てていた。
「止めたら、刺すわよ」
「止めない」
ナンバー8は、短く答えた。
「……あんたの槍だろ。あんたが決めればいい」
ナンバー3は、勝ち気な吊り目で、しばらくナンバー8を見下ろしていたが、やがて、ふんと鼻を鳴らして、また歩き出した。少し先の、ナンバー1とナンバー7の部屋からは、紫の髪の少女の「むにゃ……雷の人……」という寝言と、大柄な少女の低く規則正しい寝息とが、重なり合って聞こえていた。
一段高くなった場所の暗がりで、片腕のない、温度のない人の形をしたものが、遠ざかっていく長槍の足音を、黙って聴いていた。無響は、ナンバー3を止めなかった。写しと、写しの元とを、一対一でぶつけたら、どちらの音が残るのか。それを、確かめておきたかった。
夜明け前の運動公園は、まだ空が群青色に沈んでいて、陸上競技場の投光器も消えたまま、トラックの外周を照らすのは、遠くの街灯の頼りない明かりだけだった。白百合の夜勤を終えた澪は、背中まで届く長い黒髪を夜風になびかせながら、一人で競技場の前の道を歩いていた。玲奈は先に帰らせ、澪だけが、拠点で報告書を書き終えるのに手間取っていたのだった。競技場のスタンドの一番上に、人影が一つ、座っていた。紅い髪が、暗がりの中でも、燃え残りの炭のように鈍く光っていた。
「……遅いじゃない」
ナンバー3は、スタンドの最上段から立ち上がると、長槍を肩から下ろして、澪を見下ろした。周りには、灰色の外殻の魔獣は一体もいなかった。
「二人だけって、言ったでしょ」
澪は、立ち止まって、しばらくナンバー3を見上げていた。母の頬の、細い赤い線が、脳裏をよぎった。この子の仲間が、母を襲った。それを思うと、腹の底が冷たく燃えた。だが、目の前の少女は、本当に一人だった。魔獣も連れず、誰の合図も受けずに、ただ、自分の槍だけを提げてそこに立っていた。
「……いいわ」
澪の身体を、紅い光が包み込み、白百合の戦闘服に姿を変えた澪の手の中に、長槍が現れた。澪は、トラックの内側の芝生の上へ降りていき、ナンバー3も、スタンドの段差を一跳びで飛び降りて、芝生の上に立った。
二人は、ほとんど同時に、同じ構えを取った。右足を半歩前、穂先をやや下げて、柄の後ろを腰に当てる。夜明け前の芝生の上に、鏡に映したような二本の長槍が向かい合った。最初に踏み込んだのは、ナンバー3だった。
前回のように力任せに振り回すのではなく、穂先を細く絞って、一直線に澪の喉元を突いてきた。運動公園の夜に、白い法衣の少女に「槍の振り方が、雑です」と言われたことが、ナンバー3の中で、確かに効いていた。だが、澪は、その突きを正面から受けなかった。穂先が届く寸前に、左足を半歩だけ外へ滑らせ、長槍の柄でナンバー3の穂先を軽く撫でるように逸らすと、そのまま、柄の後ろでナンバー3の肩口を打った。
「……っ!」
ナンバー3が跳び退いた時には、澪はもう、元の構えに戻っていた。ナンバー3は、歯を食いしばって、もう一度突いた。今度は、払いと突きを織り交ぜて、上段から、下段から、続けざまに穂先を走らせた。
だが、そのどれもが、澪の穂先の角度一つ、足運び一つで、少しずつ外へ逸らされていき、そのたびに、澪の柄や穂先の腹が、ナンバー3の肩や脇腹や太腿を、浅く打っていった。同じ構えのはずだった。それなのに、澪の槍は、ナンバー3の知っている構えから、半歩ずつ、ずれていた。
突きが来ると思えば払いが来て、受けたと思えば、受けたはずの穂先が、するりと別の角度から抜けていく。ナンバー3が写したのは、訓練校の頃から澪が積み重ねてきた、型としての構えだった。だが、目の前の澪は、その型の上に、写された後に覚えたものを、いくつも重ねていた。
「……なんで、当たらないのよ」
ナンバー3が、肩で息をしながら吐き捨てた。澪は、答えなかった。ただ、穂先をやや下げて、静かに次の一手を待っていた。ナンバー3の吊り目が、怒りで燃え上がった。
「……だったら、こっちで潰すまでよ!」
ナンバー3の長槍の穂先に、炎が灯った。灯った炎は、見る間に膨れ上がっていき、穂先を中心に、ナンバー3の背丈の倍ほどもある、紅蓮の渦を巻き上げた。芝生が熱にあぶられて焦げ、スタンドの座席が、ぱちぱちと音を立てた。澪の籠の炎とは、比べ物にならない魔力の量だった。
ナンバー3が、炎の渦ごと長槍を振り下ろした。澪は、穂先に籠の炎を灯して受け止めたが、白く凝縮された小さな炎は、押し寄せる紅蓮の渦に、正面から押し潰されていった。澪の足が芝生の上を滑り、身体が、二歩、三歩と後ろへ押し下げられた。
「ほら、どうしたのよ、構えの元! 槍が上手くても、燃やされたら終わりでしょ!」
ナンバー3が、炎の渦の向こうで叫んだ。二撃目、三撃目と、紅蓮の渦が叩きつけられるたびに、澪の籠は小さく縮み、澪の戦闘服の袖が、熱で焦げていった。魔力の量では、どうやっても敵わなかった。籠を大きくしようとすればするほど、籠の中の炎は、外の熱に呑まれて揺らいでいった。
澪は、奥歯を噛みしめた。怒りが、腹の底からせり上がってきた。母を襲った連中の仲間に、こんなところで押し負けるわけにはいかなかった。籠を、もっと大きく。もっと、強く。そう思った瞬間、手のひらの周りの空気が、ぐらりと乱れ、籠の中の炎が、澪の手元で、ぼうっと危うく膨れかけた。
——怒りで籠を広げると、籠ごと燃えるぞ。
縁側で、湯呑みを傾けながら、可憐な見た目の居候が言った言葉が、耳の奥で響いた。澪は、息を一つ吐いた。籠を広げるのをやめて、手のひらの周りの空気だけに、静かに意識を向けた。花びらを回していた時と同じように。炎のためではなく、空気そのものに、触れるように。その時、澪は、ふと、いつかの夕方の縁側を思い出した。藤の花びらの輪の真ん中に、初めて小さな炎を灯した日、居候は言った。籠の空気を、外から断たれたら、炎は消える、と。
(……逆なら)
澪の目が、紅蓮の渦の、その根元を捉えた。あの炎も、燃えるためには、空気が要る。どれほど大きくても、どれほどの魔力を注ぎ込まれていても、炎である以上、それは変わらないはずだった。ナンバー3が、四撃目の渦を振りかぶった。澪は、長槍を左手一本に持ち替えると、右の手のひらを、紅蓮の渦の根元に向けて、まっすぐに突き出した。
そして、渦の周りの空気を、手のひらで掴んで、引き剥がすように、ぐいと引いた。音が、消えた。ナンバー3の長槍の穂先で、背丈の倍ほどもあった紅蓮の渦が、まるで蝋燭の火を指で摘んだように、一瞬で掻き消えた。
穂先から立ち昇っていた熱も、芝生を焦がしていた火の粉も、何もかもが、跡形もなく消え失せ、後には、焦げた芝生の匂いと、夜明け前の冷たい空気だけが残った。ナンバー3は、炎の消えた穂先を、呆然と見下ろしていた。
魔力は、まだ身体の中に溢れるほど残っていた。それなのに、どれほど魔力を注いでも、穂先には、火の粉一つ灯らなかった。その一瞬の隙に、澪が踏み込んだ。左手から右手へ長槍を持ち替え、同じ構えから、同じ角度で、まっすぐに突き出された穂先が、ナンバー3の右肩から胸にかけてを、深く、確かに捉えた。
「……っ、あ……!」
ナンバー3の手から長槍が離れかけ、紅い髪の少女は、芝生の上に片膝をついた。肩口から、紫色の光が、血のように漏れ出していた。澪は、穂先をナンバー3の喉元に向けたまま、それ以上は突かなかった。
「……空気を、取った……?」
ナンバー3が、肩を押さえながら、信じられないものを見るように澪を見上げた。
「あんた……炎の、魔法少女でしょ……」
「炎は、空気がないと燃えないのよ」
澪は、それだけ答えた。自分でも、今の手のひらの感触が何だったのか、はっきりとは分からなかった。ただ、庭で毎日回していた花びらの、あの小さな渦と、同じものに触れた気がした。
「……写しても」
ナンバー3は、唇を噛みしめた。
「写しても、あんたは、先に行くのね」
ナンバー3は、長槍を杖のようにして立ち上がると、肩口を押さえたまま、競技場の出口のほうへ、よろめきながら跳び退いた。澪は、追わなかった。母を襲った仲間への嫌悪は、まだ消えていなかった。
それでも、一人で槍だけを提げてここへ来た少女の背中を、後ろから突く気には、どうしてもなれなかった。
「……あんたの突きも、前より、ずっと良くなってたわよ」
澪の声が、夜明け前の競技場に落ちた。ナンバー3は、振り返らなかった。紅い髪の背中は、群青色の空の下を、まだ暗いビルの谷間へと、静かに消えていった。競技場の照明塔の一番上で、寝間着の浴衣に、いつものケープを羽織った小柄な少女が、水筒の蓋を傾けながら、芝生の上を見下ろしていた。
「……籠ごと燃えずに、済んだのう」
ヴィルヘルミナは、蓋の中の茶を一口すすって、目を細めた。
「炎の娘が、炎を消して勝つか。……姉も弟も、教え甲斐のある子らじゃわい」
郊外の古い工場の地下に、ナンバー3が戻ってきたのは、空がすっかり白んだ頃だった。肩口から漏れる紫色の光を押さえたまま、ナンバー3は、一段高くなった場所の前で、膝をついた。
「……負けた」
ナンバー3の声は、悔しさで震えていた。
「槍でも、負けた。……炎まで、消された」
無響は、何も言わなかった。片方しかない手を、ナンバー3の肩口にかざすと、紫色の光が、ゆっくりと傷口を塞いでいった。ナンバー3は、礼も言わずに立ち上がると、長槍を引きずるようにして、自分の寝床のほうへ消えていった。地下に、再び静けさが戻った。
無響は、一段高くなった場所に一人で立ったまま、今しがた聴いた音を、もう一度、頭の中で並べていった。写しは、写した時点の元しか持てない。元は、写された後も、稽古を重ね、技を覚え、先へ進んでいく。だが写しは、写された日のまま、そこに取り残される。
ナンバー3の槍は、確かに三神澪の槍だった。ただし、何週間も前の、三神澪の槍だった。魔力の量でも、届かなかった。ナンバー3の炎は、三神澪の炎の何倍もあった。それなのに、元素に手の届く者の前では、どれほどの魔力を積み上げても、空気一つ断たれれば、それで終わりだった。
そして、ナンバーズ同士は、いまだに噛み合わなかった。組を替えても、同じ部屋で寝かせても、仲間同士の呼吸は合わず、魔獣を間に挟まなければ、連携らしい連携さえ取れなかった。無響は、片方しかない手を、ゆっくりと額に当てた。温度のない顔の上で、その仕草だけが、ひどく人間じみていた。
「……足りない、このままではやつらに……」
温度のない声が、地下の暗がりに落ちた。写しを重ねても、写しの元を越えられない。器を八つ作っても、どれも、器の形をしているだけだった。もっと強い器が要る。写しではなく、元そのものに近い、器が。無響は、額に手を当てたまま、長い間、そこから動かなかった。地上では、もう朝の光が、街の屋根を照らし始めていた。




