第三百五十九話
郊外の古い工場の地下の、壊れた機械がいくつも積まれた奥まった一角に、急ごしらえの小さな部屋が一つ、増えていた。
錆びた鉄板を立てかけて仕切っただけの部屋の中には、古い寝台が一つと、色褪せた毛布が二枚、それに、部屋の真ん中を縦にまっすぐ貫くように、腰の高さほどの透き通った氷の壁が一枚、そびえ立っていた。
夜明け前に目を覚ましたナンバー8は、外套にくるまったまま床の上で寝返りを打とうとして、背中に、じっとりとした冷たさを感じた。手で床を探ると、指先が、べしゃりと水たまりに沈んだ。
顔を上げると、昨夜、寝台の上で正座したナンバー2が「……仕切り。ここから先は、入らないで」と宣言しながら立てた氷の壁が、半分ほどの高さまで溶け落ちていて、溶けた水は、見事に床の低いほうへ、つまり、ナンバー8が寝ていた側へと、すべて流れ込んでいた。
「……床、俺の側なんだが」
ナンバー8が、ずぶ濡れの外套を絞りながら呟くと、寝台の上で白銀の長い髪を一つに結い直していたナンバー2が、びくりと肩を跳ねさせて振り返った。
「ご、ごめんなさい……! 夜のうちに、溶けないように、もっと厚くしておけば……」
「厚くしたら、もっと濡れるだろ」
「……あ」
ナンバー2は、真っ赤になって固まった。一昨日の夜、無響に同じ部屋で寝ろと言われた瞬間に意識を飛ばしたナンバー2は、そのまま朝まで目を覚まさず、二人で過ごす夜は、昨夜が初めてだった。
今朝もまた、頭の上から白い湯気が立ち昇りかけたが、ナンバー2は、両手で頬を挟んで、どうにかそれを堪えた。鉄板の仕切りの向こうから、短い翠の髪がひょいと覗いた。
「なになに、朝から騒がしいと思ったら。……うわ、床びっしょびしょじゃん」
ナンバー6は、溶けかけた氷の壁と、外套を絞るナンバー8と、真っ赤な顔のナンバー2とを順番に見て、にやあっと笑った。
「新婚さん、初日から夫婦喧嘩?」
「しっ、新婚……っ!」
ナンバー2の頭の上から、今度こそ、しゅうっと白い湯気が噴き上がった。ナンバー8が「おい、また倒れるなよ」と慌てて寝台の脇に駆け寄り、ナンバー6は、腹を抱えて床を転げ回った。その向こうでは、壁に向かって長槍を構えていたナンバー3が、紅い髪の下の吊り目で、ちらりとこちらを見た。
「……くだらない」
ナンバー3は、そう吐き捨てて槍の稽古に戻ったが、その穂先は、さっきまでよりも、ほんの少しだけ乱れていた。さらにその奥では、外出禁止を言い渡されたナンバー1が、紫の髪を逆立てて、ナンバー7の太い腕にしがみついていた。
「ずるいずるい! あたしも誰かと同じ部屋がいい! ねえナンバー7、あたしと同じ部屋になろうよ!」
ナンバー7は、腕にぶら下がったナンバー1を見下ろして、しばらく黙っていた。それから、何も言わずに、小さく一度だけ頷いた。
「……え、いいの?」
「……ああ」
「やったあ!」
ナンバー1は、ナンバー7の腕にぶら下がったまま、大はしゃぎで足をばたつかせた。ナンバー4が、乱れた金の髪を手櫛で直しながら、芝居がかった仕草でため息をついた。
「まあ。わたくしたちだけ、独り寝でございますのね。……ナンバー5、いかがいたしましょう」
「……一人のほうが、静か」
ナンバー5は、膝を抱えたまま、淡々と答えた。地下のあちこちから聞こえてくる騒ぎを、一段高くなった場所の暗がりで、片腕のない、温度のない人の形をしたものが、黙って聴いていた。
学校の朝のホームルームで、担任は教卓の上で出席簿を閉じると、教室を見渡して、念を押すように言った。
「進路調査票、来週の金曜が期限だからな。まだ出してない奴、ちゃんと家族と話しておけよ」
零は、机の中の、白紙のままの調査票を、そっと指先で押し戻した。昼休み、いつもの屋上へ続く階段の踊り場で弁当を広げると、隣でパンの袋を破っていた稔が、零の手元を覗き込んだ。
「お前、まだ出してねえの?」
「……稔は、出したのか」
「当たり前だろ。第一志望、アニメの制作会社。第二志望、声優の専門学校。第三志望、石油王」
「最後のは、進路じゃない」
「夢は、でかいほうがいいんだよ」
稔は、胸を張って焼きそばパンにかぶりついた。零は、自分の弁当箱の中の、今朝焼いた卵焼きを見下ろした。母の頬の傷は、もうほとんど目立たなくなっていた。それでも、あの夜、商店街の広場で膝をついていた母の背中は、まだ零の瞼の裏に残っていた。
「零は、料理の専門学校とか行けばいいじゃん。その弁当、毎日うまそうだし」
「……それも、考えてはいるけど」
「けど?」
零は、答えられなかった。料理は好きだった。だが、それだけで決めていいのかどうか、零にはまだ分からなかった。
その日の夕食後、三神家の居間で、零が台所の洗い物を終えて戻ってくると、居間のテーブルの上に、見覚えのある紙が一枚、堂々と広げられていた。鞄の中にしまっておいたはずの、進路調査票だった。
「お兄ちゃん、これ、まだ真っ白じゃん」
玲奈が、ボールペンを片手に、にこにこと笑っていた。零が止める間もなく、玲奈は、第一志望の欄に、大きく、はっきりとした字で書き込んだ。
『主夫』
「おい、玲奈!」
「だって、お兄ちゃんにぴったりだもん」
玲奈は、悪びれもせずに胸を張った。零が慌てて紙を取り返そうとすると、隣で湯呑みを傾けていた澪が、紙を覗き込んで、真顔で頷いた。
「……向いてるとは、思うわよ」
「姉ちゃんまで」
「だって、本当のことじゃない。毎朝五人分のお弁当作って、特売のチラシを全部覚えてて、洗濯物のたたみ方まで几帳面なんだから」
「あら、いいじゃない」
奈々美が、台所から顔を出して、楽しそうに笑った。
「なんなら、うちの専属で雇おうかしら。お給料は、お父さんのお小遣いから出すってことで」
「待て、なんで俺の小遣いからなんだ」
居間のソファで新聞を読んでいた五郎が、慌てて顔を上げた。縁側で茶をすすっていたヴィルヘルミナが、喉の奥でくつくつと笑った。
「弁当屋も、ええぞ。わしが、毎日買いに行ってやる」
「師匠まで……」
零は、家族と居候の顔を順番に見回して、深く、深くため息をついた。それから、玲奈の手からボールペンをそっと取り上げると、消しゴムで、『主夫』の二文字を、一画ずつ丁寧に消していった。
「えー、消しちゃうの」
「先生に出す紙だからな」
紙は、また白紙に戻った。零は、その白い欄を、しばらく黙って見下ろしていた。
その夜更け、中州での稽古から戻り、家族が寝静まった縁側に、零は一人で座っていた。膝の上には、白紙の進路調査票が一枚、月明かりに白く浮かんでいた。縁側の客間からは、帰るなり床についたヴィルヘルミナの静かな寝息が聞こえていた。
背後で、居間の障子が開く音がした。振り返ると、パジャマ姿の五郎が、缶ビールを二本、指に引っかけて立っていた。五郎は、零の隣に、どっこいしょと腰を下ろすと、缶ビールの一本を、零の手に押しつけた。
「……父さん。俺、未成年なんだけど」
「知ってる」
五郎は、自分の缶のプルタブを開けて、一口だけ飲むと、にやりと笑った。
「持ってるだけなら、法律違反じゃないだろ」
零は、冷えた缶を両手で包んだまま、呆れたように父の横顔を見た。五郎は、しばらく黙って庭の向こうの夜空を見上げていたが、やがて、ぽつりと口を開いた。
「……母さんがな、昔、魔法少女だったのは、知ってるだろ」
「……うん」
「父さんが、母さんに初めて会ったのはな、瓦礫の下だったんだ」
零は、缶を握る手を止めて、父の顔を見た。五郎は、照れくさそうに、缶の縁を指で叩いた。
「もう二十何年も前か。まだ若かった頃、仕事の現場で魔獣が暴れて、崩れたビルの下敷きになった。……もう駄目だと思った時に、空が、真っ白に光ったんだ。雷だった。その雷の真ん中から、髪を一つに束ねた女の子が降りてきて、瓦礫をどけて、俺を引きずり出してくれた」
「……それが、母さん」
「そうだ。……今思うと、あの頃の母さん、怖いくらい強かったんだぞ。父さんを引きずり出したあと、振り向きもせずに、また魔獣のほうへ飛んでいった」
五郎は、懐かしそうに笑って、また一口ビールを飲んだ。
「それから何度か会って、まあ、いろいろあって、結婚した。母さんは、その時に、魔法少女を辞めたんだ」
「……どうして、辞めたの」
零が尋ねると、五郎は、少しだけ考えるように黙り込んだ。
「父さんも、本当のところは、聞いたことがない。……ただ、母さんは一度だけ、こう言ったことがある。守りたいものの、一番近くにいられる場所を選んだんだって」
五郎は、缶ビールを膝の上に置いて、零の膝の上の白い紙に、ちらりと目を落とした。
「母さんにとって、それが、この家だったんだろうな。前線の真ん中じゃなくて、台所の鍋の前が、一番、守りたいものの近くだった。……で、この前、その鍋の材料を買いに出た帰りに、また雷を落とす羽目になったわけだが」
「……父さん、それ、笑い事じゃないって」
「笑い事にしとかないと、父さんの心臓がもたないんだよ」
五郎は、わざとらしく胸を押さえて笑った。それから、零の頭に、大きな手のひらを、ぽんと一度だけ載せた。
「だからな、零。お前も、焦らんでいい。……その紙に書くのは、何になりたいか、じゃなくていいんだ。何を、どこで守りたいか。それが決まれば、仕事なんて、後からいくらでもついてくる」
「……何を、どこで、守りたいか」
「そうだ。父さんなんて、守りたいもんが母さんとお前たちだって決めたら、仕事は何でもよくなった。おかげで、毎月の小遣いは二万円だ」
「それは、母さんに減らされただけじゃ」
「言うな」
五郎は、缶ビールを飲み干すと、よっこいしょと立ち上がり、零の手の中の、まだ開けていない缶を、ひょいと取り上げた。
「これは、二十歳になったら、一緒に飲もうな」
障子の向こうに父の背中が消えたあと、零は、縁側に一人残されて、膝の上の白い紙を見下ろしていた。何を、どこで、守りたいか。
母と、父と、姉と、妹。この縁側で茶をすする師匠。肩に包帯を巻いて、それでも隣を歩いてくれる緋雪。翼の家で待っている奈緒。それから、夜の海辺の遊歩道で、白銀の髪の少女の手首を、そっと押さえていた、黒い髪の少女。
守りたいものは、思い浮かべれば思い浮かべるほど、増えていった。そのどれもが、同じ一つの場所には収まりそうになかった。零は、ポケットからボールペンを取り出して、第一志望の欄の上に、ペン先をそっと当てた。
だが、ペン先は、紙に触れたまま、一文字も書き出せずに止まっていた。しばらくして、零は、ボールペンをポケットに戻した。紙は、白紙のままだった。だが、それを見下ろす零の顔は、昨日までより、ほんの少しだけ、落ち着いていた。




