第三百五十八話
その翌日の夜、家族が寝静まった三神家の縁側では、ヴィルヘルミナが一人、膝の上に湯呑みを載せたまま、庭の向こうの夜空を見上げていた。
台所の片付けを終えた零は、エプロンを外して縁側に出てくると、ヴィルヘルミナの隣に正座して、しばらく黙って同じ夜空を見上げていた。
零の頭の中には、一昨日の夜のことが、何度も繰り返し浮かんでいた。
河川敷で、ナンバー7は、自分が浮かび上がろうとする影の位置を、地中の魔獣で一つずつ先に潰していった。
影から影へ渡るたびに、出口で待ち構えられ、最後には影に潜るのをやめて、グラウンドの真ん中に踏みとどまるしかなかった。
そして商店街では、母の頭上に双剣が振り下ろされようとしていたあの瞬間、自分が間に合ったのは、焔とほとんど同じ、ぎりぎりの一瞬でしかなかった。
あと一呼吸遅れていたら、母を守れたのかどうか、零にはいまだに分からなかった。
「……師匠」
「なんじゃ」
「影の稽古の、続きをお願いします」
零は、ヴィルヘルミナのほうへ向き直り、深く頭を下げた。ヴィルヘルミナは、湯呑みの茶をゆっくりとすすってから、横目で零の顔を見た。
「ぎりぎりじゃったのが、悔しいか」
「……はい」
「ええ顔じゃ」
ヴィルヘルミナは、湯呑みを縁側に置くと、腰を叩きながら立ち上がり、壁に立てかけてあった杖を手に取った。
「六十点のままでは、わしも気持ちが悪いでのう。……中州へ行くぞ」
町外れの河川敷の中州は、いつものように白い霧に包まれていて、川の流れる音だけが、霧の向こうから低く響いていた。漆黒のドレスに姿を変えたゴーストが、砂利の上に降り立つと、ヴィルヘルミナは、杖の先で砂利を一度だけ軽く叩いた。
その途端、中州を覆っていた霧が、まるで見えない手に掬い上げられるように、一斉に空へ昇っていき、雲一つない夜空に、まん丸の月が姿を現した。ヴィルヘルミナがもう一度杖を振ると、月の光が、中州の上に集まるように濃くなっていき、砂利の一粒一粒、流木の一本一本、水際の葦の一本一本の足元から、影という影が、跡形もなく消え去っていった。ゴーストは、自分の足元を見下ろして、息を呑んだ。自分の影さえ、どこにもなかった。
「……影が、ない」
「月の光を、四方から寄せただけじゃ。……元素を少しいじれば、この程度は造作もない」
ヴィルヘルミナは、中州の反対の端の、大きな流木の前に立って、杖の先で、自分の背後の砂利を指し示した。
「ここに、出てみい。……おぬし自身の闇で影を作って潜り、わしの後ろに、出てくるんじゃ」
ゴーストは、右の手のひらを足元にかざした。掌から落ちた闇が、砂利の上で揺らめいて、消えずにとどまり、ゴーストの身体がすっぽりと収まるほどの、黒い影を作った。
ゴーストは、深く息を吸うと、その影の中へ、足首から順に、ゆっくりと身体を沈めていった。影の中は、音のない、冷たい水の底のようだった。ゴーストは、闇の中で、数を数え始めた。一つ、二つ、三つ。
かつては、ここで弾き出されていた。四つ、五つ。闇が、ゴーストの身体を外へ押し戻そうと、ぎしぎしと軋み始めた。六つ、七つ、八つ。次の瞬間、ゴーストの身体は、中州の真ん中の砂利の上に、弾き出されるように転がり出ていた。
流木の前のヴィルヘルミナまでは、まだ半分の距離が残っていた。
「……っ、はあ……っ」
「八つか。前よりは、伸びたのう」
ヴィルヘルミナは、流木の前から一歩も動かずに言った。
「じゃが、ここまでは届かん。……もう一度じゃ」
ゴーストは、砂利の上に手をついたまま、肩で息をしていた。それから、足元をもう一度見下ろした。
闇の影は、自分の手のひらから作ることができる。だが、出口のほうは、いつも、どこかにある影を探していた。
河川敷で、ナンバー7に読まれたのは、そこだった。自分が浮かび上がれる場所が、影のある場所だけだと知られていたから、出口を先に潰された。
(……出口も、自分で作ればいい)
ゴーストは、ゆっくりと立ち上がった。入る時に影を作れるなら、出る時にも、影を作れるはずだった。どこかの影を探して出るのではなく、出たい場所に、自分の闇を落として、そこから出る。
そうすれば、誰にも、出口を読まれることはない。ゴーストは、もう一度、足元に闇の影を作り、その中へ身体を沈めた。
今度は、闇の中で、ヴィルヘルミナの背後の砂利だけを思い浮かべた。あそこに、自分の闇を落とす。あそこから、出る。一つ、二つ、三つ。闇が、軋み始めた。五つ、六つ、七つ、八つ。ゴーストは、押し戻そうとする闇の流れに逆らわずに、その流れごと、自分の身体を、行きたい方角へ傾けていった。十。
闇が、少しずつ、ゴーストの形に馴染み始めていた。十二、十五。冷たかった闇の底が、いつの間にか、自分の体温と同じ温度になっていた。十八、十九。二十。
ヴィルヘルミナの背後の、何の影もない砂利の上に、ぽつりと、一滴の墨を落としたような黒い染みが浮かんだ。染みは、見る間に広がって、ゴーストの身体がすっぽり収まるほどの影になり、その中から、漆黒のドレスの少女が、音もなくせり上がってきた。ヴィルヘルミナは、振り返らなかった。杖に両手を重ねたまま、月を見上げていた。
「……二十か」
ヴィルヘルミナの声が、静かな中州に落ちた。
「三つと言うたのに。……欲張りな弟子じゃのう」
「……師匠」
「八十点じゃ」
ヴィルヘルミナは、ようやく振り返って、ゴーストの顔を見上げた。可憐な少女の顔の中で、古い目だけが、ほんの少し、嬉しそうに細められていた。
「出口を、自分で作ったな。……どこにでも出られるということは、どこから出てくるか、誰にも読めんということじゃ。あの大槌の娘にも、もう読まれはせん」
「……残りの、二十点は」
「潜っとる間、外が見えんじゃろう」
ヴィルヘルミナは、杖の先で、ゴーストが出てきた影の跡を、軽く叩いた。
「出た先に、何が待っとるか分からんうちは、満点はやれん。……出た瞬間に、刃の前に立っとったら、二十秒の稽古も、何の意味もないでのう」
ゴーストは、黙って頷いた。影の中から外を見る方法など、考えたこともなかった。
だが、師匠がそう言うのなら、きっと、その先があるのだろうと思った。ヴィルヘルミナは、満足げに頷くと、杖をついて、中州の岸のほうへ歩き出した。
ゴーストも、その後について歩き出した。月の光を寄せ集めていた見えない力が緩み、砂利の上に、少しずつ影が戻り始めていた。岸の手前まで来た時、ヴィルヘルミナが、ふと足を止めた。
「……ついでじゃ」
ヴィルヘルミナは、振り返って、ゴーストの顔をしげしげと眺めた。その目は、さっきまでの師匠の目ではなく、珍しい玩具を見つけた子供のような、純粋な好奇心に光っていた。
「ちょいと、やってみい」
「……何を、ですか」
「姉のように、手のひらの上の空気を、回してみい」
ゴーストは、目を瞬いた。庭で、毎日のように花びらを回していた姉の姿が、脳裏に浮かんだ。
「でも、私は、風は」
「属性の話ではない。……三つの色を持つ者が、色を通さずに元素に触ったら、どうなるのか。わしは、それが見てみたいだけじゃ」
ヴィルヘルミナは、腰の水筒を外して蓋に茶を注ぎながら、杖に寄りかかって、楽しそうに笑った。
「なに、期待はしとらん。……花びら一枚でも動けば、上出来じゃ」
ゴーストは、少しだけ迷ってから、右の手のひらを上に向けた。闇も、炎も、氷も、出さない。
手のひらの周りの空気にだけ、そっと意識を向けた。姉の手のひらの上で回っていた、あの小さな渦を思い浮かべながら、空気を、ほんの少しだけ、手繰り寄せようとした。
その瞬間、中州の空気が、ぐらりと揺れた。ヴィルヘルミナが空へ掬い上げたはずの霧が、四方の夜空から、一斉に降りてきた。霧は、渦を巻くようにして中州の上を流れ、ゴーストの手のひらへ向かって、吸い寄せられるように集まっていった。
足元の川面が、ざわりと波立ち、水面から、細い水の糸が、一本、二本、十本と立ち昇って、霧と一緒に、ゴーストの手のひらへと伸びていった。ゴーストの手のひらの上で、霧と水の糸とが絡み合い、拳ほどの大きさの、透き通った水の珠を形作りかけた。だが、それは、ほんの数秒のことだった。
水の珠は、形を保てずに、ぱしゃりと弾けて、ゴーストの足元の砂利を濡らし、立ち昇っていた水の糸も、霧も、力を失って、川面と夜空へと崩れ落ちていった。
ゴーストは、息を切らして、その場に片膝をついた。魔力を使ったわけではないのに、身体の芯から、何かをごっそりと持っていかれたような疲れが、全身に押し寄せていた。
「……っ、はあ……」
からん、と、乾いた音がした。ヴィルヘルミナの手から、茶を注いだばかりの水筒の蓋が滑り落ちて、砂利の上を転がっていった。
ゴーストは、顔を上げた。ヴィルヘルミナは、杖を握りしめたまま、言葉もなく、ゴーストの手のひらを見つめていた。
百年以上を生き、どんな魔法を見ても眉一つ動かさなかった魔女の顔から、いつもの年寄りくさい笑みが、すっかり消え失せていた。長い沈黙のあと、ヴィルヘルミナが、ようやく、ぽつりと言った。
「……花びら一枚と、言うたんじゃがのう」
「すみません」
ゴーストは、濡れた手のひらを見下ろしながら、申し訳なさそうに言った。
「……失敗、しました」
ヴィルヘルミナは、何も答えなかった。笑いもせず、叱りもせず、砂利の上に転がった水筒の蓋を、ゆっくりと拾い上げた。蓋の底に残っていた茶を、砂利の上に捨てると、ヴィルヘルミナは、杖をついて、また岸のほうへ歩き出した。
「明日から、稽古を一つ、増やす」
振り返らずに、それだけ言った。
「……影の、ですか」
「両方じゃ」
ゴーストは、師匠の小さな背中を見つめながら、首を傾げた。自分が何をしたのか、よく分かっていなかった。ただ、手のひらに残る、冷たい水の感触だけが、いつまでも消えなかった。
その夜更け、三神家の客間で、ヴィルヘルミナは布団の上に正座したまま、障子越しの月明かりを、じっと見つめていた。膝の上の湯呑みには、新しく淹れ直した茶が、まだ湯気を立てていた。姉の手のひらで、最初の日に回ったのは、花びらが一枚きりだった。それが、元素に手の届く者の、ごく当たり前の始まりだった。
百年の間に、結社の魔女たちが魔女になる前に通ってきた道も、みな同じだった。それなのに、あの子は、花びら一枚どころか、中州の霧と、川の水とを、まとめて手のひらへ呼び寄せた。それも、何の稽古もなしに、ただ、やってみいと言われただけで。
「……三つの色の奥に、まだ、何かある」
ヴィルヘルミナは、湯呑みを両手で包んだまま、小さく呟いた。三つの属性を持つ魔法少女など、百年生きても、あの子ただ一人しか見たことがなかった。そして、その三つの色の奥に、さらに元素へ届く手まで持っている。
「……この子は、何でできとるんじゃ……いずれわしらの驚異になるやもしれんな」
障子の向こうで、月が、ゆっくりと雲に隠れていった。ヴィルヘルミナは、冷めかけた茶を一口すすり、それきり、朝まで眠らなかった。




