第三百五十七話
街中に魔獣が出た夜が明けた朝、二階から下りてきた澪と玲奈に続いて、奈々美が欠伸を噛み殺しながら台所の入り口に顔を出すと、居間で新聞を広げていた五郎の咳払いが聞こえる中、その頬に細く赤い線が一本走っているのに、最初に気づいたのは澪だった。
「……お母さん、その頬、どうしたの」
「ああ、これ?」
奈々美は、味噌汁の鍋を覗き込みながら、何でもないことのように頬に指を当てた。
「昨日、商店街で襲われたのよ。汐里ちゃんと買い物に行った帰りに。……だから、ちょっと戦ってきたわ」
食卓の空気が、一瞬で固まった。五郎が新聞を下ろして、深いため息をつき、玲奈が箸を持ったまま目を丸くした。
「戦ったって……また、あの若い姿になったの?」
「ええ。汐里ちゃんに、ずいぶん無理をさせちゃったけど」
「えーっ、いいなあ! 見たかった〜。お母さんの若い頃、すっごく綺麗なんだもん」
玲奈が、卵焼きを頬張りながら身を乗り出したが、澪は、箸を置いたまま、母の顔をまっすぐに見つめていた。
「……襲ってきたのは、誰」
「紫の髪の、小さな女の子よ。双剣を持ってて、雷を使う子」
奈々美は、味噌汁をよそいながら、少しだけ困ったように笑った。
「顔は、あの黒いドレスの子に、そっくりだったわ」
澪の指が、膝の上で、ぎゅっと握りしめられた。昨夜、運動公園で、紅い髪の少女に構えの元と呼ばれ、自分の槍を写した槍で押し込まれたばかりだった。その仲間が、同じ夜に、母のところにまで現れていた。
「……人の構えを勝手に写して、今度は人の家族まで狙うのね」
澪の声は、低く、冷たかった。
「あの子たち、次に出てきたら、私が叩くわ」
「お姉ちゃん、顔こわーい」
玲奈が茶化すように言ったが、澪は笑わなかった。五郎は、味噌汁を一口すすってから、妻の頬をもう一度だけ見て、ぽつりと言った。
「……怪我が、頬だけで良かった」
「ええ。黒いドレスの子と、昔の先輩が、助けに来てくれたの」
澪の眉が、ほんの少しだけ動いたが、何も言わなかった。奈々美はそう言って、ようやく椅子に腰を下ろした。零は、何も言わずに、夜明け前にコンビニまで走って買ってきた卵で焼いた卵焼きを、母の皿の上に一切れ余分に乗せた。奈々美は、その一切れを見て、零の顔を見上げ、それから、何も聞かずに、嬉しそうに箸を伸ばした。
学校の昼休み、屋上へ続く階段の踊り場で、零の隣で焼きそばパンをかじっていた稔は、スマートフォンの画面を零の目の前に突きつけた。
「見たか零、昨日の夜のニュース。河川敷に、駅前に、運動公園に、協会の本部の裏まで、街中で魔獣が出たんだってよ。しかもどこにも、名乗らない謎の魔法少女が現れて、魔獣だけ倒して消えたとか」
「……へえ」
「へえ、じゃねえよ。熱いだろ、こういう展開。謎の助っ人が全国同時多発で現れるとか、完全に第二クールの山場じゃん」
稔が目を輝かせて語るのを聞き流しながら、零は、鞄の中の、まだ白紙のままの進路調査票のことを考えていた。今朝、ホームルームで担任から、提出期限は来週の金曜日だと念を押されたばかりだった。母の頬の、細く赤い線が、零の頭から離れなかった。何を守るために、どこへ進むのか。白紙の欄は、今日もまだ、何も埋まっていなかった。
その日の夜、白百合の盾の地下拠点の情報班のモニタールームでは、白衣に眼鏡をかけた新実由鶴が、無数のモニターに囲まれたまま、昨夜の観測記録を一つずつ並べていた。モニターの前には、澪と玲奈、肩に包帯を巻いた緋雪、そして真奈と飛鳥が集まっていた。
「河川敷、駅前の立体駐車場、協会本部裏の運河沿い、運動公園、そして商店街の外れ。……昨夜、ナンバーズが現れた五つの戦場すべてに、正体不明の第三者が、一人ずつ現れています」
由鶴は、眼鏡の位置を直しながら、淡々と告げた。
「いずれも、ナンバーズだけを攻撃し、こちらには一切手を出さずに去っています。そして、その魔力の波形には、共通する特徴がありました」
「特徴?」
「古いのです」
由鶴は、モニターに映る波形の一つを拡大した。
「通常、魔法少女の波形は、変身と解除を繰り返すたびに、わずかに揺らぎます。ですが、この五つの波形には、その揺らぎが一切ありません。……少なくとも十年以上、一度も変身を解いていない者の波形です」
モニタールームが、しんと静まり返った。
「以前、緋雪経由で分析した錠剤の件を、覚えていらっしゃいますか。変身を固定する薬を配っていた、思想団体の」
「……あの団体の、上級者ってこと?」
飛鳥が尋ねると、由鶴は、小さく首を横に振った。
「可能性の一つ、としか申し上げられません。所属を断定できるだけの材料は、まだありませんので」
澪は、腕を組んだまま、黙ってモニターを見つめていた。運動公園で、二本の槍を携えて光の中から降りてきた、十五歳ほどにしか見えない少女。あの少女の光を、きらりは、ずっと消えていない灯りみたいだと言っていた。
「……誰でもいいわ」
澪が、ぽつりと言った。
「あの子たちを叩くのは、私たちの仕事よ。名乗らない誰かに、いつまでも任せておくつもりはないわ」
緋雪は、何も言わずに、澪の横顔を見ていた。昨夜、河川敷に現れた白い法衣の女がどこの誰の仲間なのかを、緋雪は知っていた。だが、それを口にすることはできなかった。
郊外の古い工場の地下では、夜になってもまだ、ナンバー3が壁に向かって長槍を構えていた。右足を半歩前、穂先をやや下げて、柄の後ろを腰に当てる。何度構え直しても、昨夜、白く凝縮された炎に穂先を貫かれた時の感触が、手のひらから消えなかった。少し離れた場所では、外出禁止を言い渡されたナンバー1が、焦げた紫の髪の先をいじりながら、退屈そうに床を転がっていた。壊れた機械の陰で、ナンバー8は、そっと立ち上がった。フードのついた古い外套を頭から被り、肩にかかる黒髪をその中にしまい込むと、通路の奥の、地上へ続く階段のほうへ、足音を殺して歩き出した。
「……どこへ行くの」
背後から、小さな声がした。振り返ると、白銀の長い髪を一つに結ったナンバー2が、まだ霜の残る太刀を抱えたまま、通路の暗がりに立っていた。
「……少し、外の空気を吸ってくるだけだ」
「無断で?」
「……ああ」
ナンバー2は、しばらく黙ってナンバー8を見つめていたが、やがて、太刀を壁に立てかけると、自分も古い外套を一枚手に取って、頭からすっぽりと被った。
「……私も行く」
夜の海は、街の灯りの届かない防波堤の先で、黒く、どこまでも広がっていた。波が防波堤の足元に寄せては返すたびに、白い泡が月明かりを受けて淡く光り、潮の匂いを含んだ夜風が、二人のフードを静かに揺らしていた。
ナンバー2は、防波堤の先端に立ち尽くしたまま、長い間、何も言わなかった。工場の地下と、戦場と、夜の街の屋根の上しか知らなかったナンバー2にとって、果てのない水の広がりを見るのは、生まれて初めてのことだった。
「……大きい」
ようやく、ナンバー2が呟いた。
「どこまで、続いてるの」
「さあな。……俺も、知らない」
ナンバー8は、防波堤の縁に腰を下ろして、膝の上に頬杖をついた。昨夜は、運河の上で二十三発撃った。そのうちの十一発が、人の手足を撃ち抜いた。その感触が、まだ指先に残っていた。
「……撃たなくていい夜も、あるんだな」
ナンバー8の呟きを、ナンバー2は、黙って聞いていた。それから、少しだけ迷うように、ナンバー8の隣に腰を下ろした。肩と肩の間には、拳一つ分ほどの隙間が空いていた。
「……昨日、撃ったんでしょう」
「……ああ」
「でも、急所には撃たなかった」
ナンバー8は、ナンバー2の横顔を見た。ナンバー2は、海を見つめたまま、それ以上は何も言わなかった。
帰り道、二人は海沿いの遊歩道を、並んで歩いていた。ナンバー2は、海で見た波の形や、防波堤の上を歩いていた小さな蟹の話を、ぽつりぽつりと口にし、ナンバー8は、短い相槌を返しながら、それを聞いていた。
「……あの、ナンバー8」
「なんだ」
「お風呂の時のこと。……まだ、怒ってる?」
「だから、もういいって言っただろ」
ナンバー8が少しだけ呆れたように答えると、ナンバー2は、フードの陰で頬を赤くして、それきり黙り込んだ。その時、遊歩道の向こうから、二つの人影が歩いてきた。
一人は、肩に白い包帯を巻いた銀髪の少女で、もう一人は、その隣を半歩遅れて歩く、ごく普通の顔をした少年だった。
白百合の拠点まで緋雪を迎えに行った帰り道、緋雪が少しだけ海が見たいと言い、零はその隣を、何も言わずに歩いていたのだった。
すれ違う寸前、ナンバー2の足が、ぴたりと止まった。フードの陰から覗く目が、銀髪の少女の顔を捉えていた。昨夜、河川敷で、自分の太刀の荒れを見抜いた、写しの元。ナンバー2の手が、外套の下で、無意識に腰へと伸びかけた。
だが、太刀は工場の地下に置いてきていた。緋雪もまた、足を止めていた。フードの陰の、白銀の髪と黒い髪。ゴーストによく似た、二つの顔。緋雪の右手が、ゆっくりと持ち上がりかけ、その指先に、うっすらと冷気が集まり始めた。
零は、緋雪の前に、半歩だけ出た。何も言わなかった。ただ、フードの陰の黒い瞳を、まっすぐに見つめていた。ナンバー8は、腰へ伸びかけたナンバー2の手首を、そっと押さえた。それから、銀髪の少女と、その前に出た少年の顔を一度だけ見て、小さく、首を横に振った。
数秒の間、遊歩道の上を、波の音だけが通り過ぎていった。やがて、緋雪の指先の冷気が、すっと消えた。零は、緋雪の手を取って、何事もなかったように、二人の脇を通り過ぎた。
ナンバー8も、ナンバー2の手首を押さえたまま、反対の方角へ、静かに歩き出した。しばらく歩いてから、ナンバー2が、ようやく息を吐いた。
「……今の、写しの元。どうして、止めたの」
「太刀もないのに、やり合ってどうする」
ナンバー8は、短く答えて、それから、ほんの一瞬だけ、肩越しに振り返った。
銀髪の少女の手を引いて歩いていく、少年の背中が見えた。
オリジナルの相棒の隣にいる、あの少年は、誰なのだろう。どこにでもいそうな顔をしていたのに、まっすぐにこちらを見たあの目だけが、なぜか、妙に見覚えがある気がした。
ナンバー8は、その考えを振り払うように前を向き、それきり、もう振り返らなかった。遊歩道の反対側を歩きながら、零は、緋雪の手を握ったまま、小さく息を吐いた。ナンバー8が、ナンバー2の手を止めてくれた。それだけで、胸の奥が、少しだけ軽くなった気がした。
「……あの子、止めてくれたわね」
緋雪が、零の顔を見上げて、小さく言った。
「うん」
零は、それだけ答えて、緋雪の手を、少しだけ強く握り直した。
工場の地下に戻った二人を、一段高くなった場所で、片腕のない、温度のない人の形をしたものが待っていた。ナンバー8とナンバー2は、外套を脱ぐ間もなく、その場に立ち尽くした。無断で外へ出たのだ。どんな罰が下っても、おかしくなかった。
「……ナンバー8。ナンバー2」
無響の温度のない声が、地下に落ちた。ナンバー2の肩が、びくりと震えた。
「今日から、おまえたちは、同じ部屋で寝ろ」
地下が、しんと静まり返った。ナンバー8は、言葉の意味が分からずに、無響の顔を見上げた。その隣で、ナンバー2の顔が、見る見るうちに、耳の先まで真っ赤に染まっていった。白銀の髪の先に、ぱきぱきと霜が走り、頭の上から、白い湯気のようなものが立ち昇った。
「お、同じ……へ、部屋……ナンバー8と、同じ……」
「おい、ナンバー2?」
ナンバー8が手を伸ばした時には、ナンバー2の身体は、ゆっくりと後ろへ傾いていた。ナンバー8が慌ててその背中を抱き止めると、ナンバー2は、真っ赤な顔のまま目を回して、完全に気を失っていた。ナンバーズとして生まれて、ナンバー2が意識を飛ばしたのは、これが初めてのことだった。
「……熱暴走か」
無響は、温度のない声でそれだけ言うと、それ以上は何も言わずに、闇の中へと消えていった。ナンバー8は、腕の中で目を回しているナンバー2を見下ろし、それから、無響の消えた闇を見上げて、途方に暮れたように、深く、深く、ため息をついた。




