第三百五十六話
翌日の夕方、翼の家の居間には、いつもより少しだけ多くの湯呑みが並んでいて、台所からはテレサとエリが煎餅を盛り分ける音が、縁側からは庭の柿の木を揺らす夕風の音が、静かに届いていた。ちゃぶ台を囲んだのは、ゴーストと緋雪、ヴィクトリアとルディア、白鳥と奈緒、それに協会の仕事帰りの凛花で、縁側の端には、頼まれもしないのに煎餅の袋を提げてやってきたヴィルヘルミナが、湯呑みを両手で包んで腰を下ろしていた。
緋雪の左肩には白い包帯が巻かれていて、ゴーストは、緋雪が湯呑みに手を伸ばすたびに、何も言わずに先に湯呑みを取って、緋雪の手元へ寄せていた。白鳥は、その様子をちゃぶ台の向こうから眺めて、何かを確信したように、そっと胸に手を当てた。
「……やっぱり、お二人は」
「白鳥さん、違うから」
緋雪が、包帯の肩を押さえながら、ほんのり頬を赤くして遮った。奈緒は、二人の顔を不思議そうに見比べてから、ゴーストの膝の上に、ちゃっかりと頭を乗せた。
「お姉ちゃん、きのう、いっぱい戦った?」
「……ええ。少しだけね」
ゴーストが奈緒の黒髪を撫でると、ヴィクトリアが、紅茶のカップを受け皿に戻して、静かに口を開いた。
「では、昨夜のことを、一つずつ整理しましょう」
報告は、河川敷から始まった。ナンバー2とナンバー7が魔獣を地中に潜ませて糸のように使っていたこと、駐車場の屋上でナンバー5が水を張って雷と光を封じたこと、運動公園で白百合がナンバー3とナンバー4を退けたこと、商店街の外れで奈々美と汐里がナンバー1に襲われたこと。そして、そのどの戦場にも、焔の教団の使徒が一人ずつ現れて、ナンバーズだけを叩き出し、名乗りもせずに去っていったこと。
「汐里さんは、今朝、目を覚ましましたわ」
ヴィクトリアが、屋敷に運び込んだ汐里の様子を短く伝えた。
「魔力はほとんど空でしたけれど、朝食は二杯おかわりしていたわ。……奈々美さんが、雑炊を差し入れてくださったの」
「それは、何よりですわね」
ルディアが、袖で口元を隠したまま、ほっと息を吐いた。最後に、凛花が、湯呑みを両手で包んだまま、運河沿いの夜のことを話し始めた。
「協会の私たちのところには、黒い髪の子が、一人で来ました」
凛花は、言葉を選ぶように、少しだけ間を置いた。
「拳銃で、二十発以上撃ってきました。……四人とも、手や足や肩に当たりました。でも、頭にも、胸にも、お腹にも、一発も向けてこなかったんです。春華さんが、当たった場所を全部数えていて、気づきました」
ちゃぶ台の周りが、しんと静まり返った。ゴーストの指が、奈緒の髪を撫でる途中で、ぴたりと止まった。
「それと、もう一つ」
凛花は、自分の頬に、そっと指先を当てた。
「私が、あの子に何か言いかけた時、一発だけ、頬のすぐ横を撃たれました。……言うな、という意味だと思いました。あの夜、どこかで誰かが聴いているから、と」
「……あの子は、撃ったのね」
ゴーストが、低い声で呟いた。中州の夜、影の中で、あんたに当てるのは嫌だと震えていた少女が、昨夜は、生き延びるために、人の手足を撃ち抜いていた。その弾の一発一発を、どれほどの思いで選んでいたのかを考えると、ゴーストは、膝の上の奈緒の温もりに、思わず縋りつきたくなった。
「撃たなければ、疑われていたでしょうね」
ヴィクトリアが、静かに言った。
「急所を外して当てる。……あの子に選べた中で、一番ましな答えよ。凛花さん、あなたが口を閉じてくれて、本当に助かったわ」
「……はい」
凛花は、小さく頷いた。ヴィクトリアは、紅茶のカップを置くと、ちゃぶ台の上に、一枚の紙を広げた。そこには、星監の几帳面な字で、これまでに無響の手が伸びた先が、日付と共に並べられていた。
「これまで、あれが狙ってきたものを並べると、こうなるわ」
奈緒。剣姫の器と呼ばれた、炎と氷の二重属性の少女。黒いドレスの少女。周防凛音と同じ魔力の波形を持つと言われた、三つの属性の魔法少女。消えかけた雷と、その雷に水を注ぐ汐里。戦姫の旧寮と、学校の地下の避難壕に眠っていた、戦姫の研究記録。そして、昨夜、街中のエースと、組織と、使徒の全員。
「……器、という言葉が、何度も出てくるわね」
緋雪が、紙の上の文字を、指先でなぞった。
「奈緒ちゃんのことを、器と呼んだ。ゴーストのことも、器は貰い受けると言った」
「わたくしは、こう考えますわ」
ルディアが、袖を下ろして、紙の上の「剣姫」という二文字を、白い指先で示した。
「あれは、剣姫の器を完成させたいのではなくて? 奈緒さんという器に、周防凛音と同じ魔力の波形を注ぎ込んで、周防凛音を、作り直そうとしている」
凛花の肩が、びくりと揺れた。ゴーストは、凛花の横顔を一度だけ見て、それから、ゆっくりと首を横に振った。
「……それだけなら、ナンバーズを作る理由がないわ」
「ええ、私もそう思う」
ヴィクトリアが、ゴーストに同意した。
「ナンバーズは、それぞれ、エースの誰かの写しよ。ナンバー2は緋雪さんの太刀、ナンバー3は三神澪さんの長槍、ナンバー4は凛花さんの光の剣、ナンバー5は湊春華さんの水、ナンバー7は只野真奈さんの大槌。……あれは、この国の強い魔法少女の戦い方を、一人ずつ集めて、形にしている」
「集めて、どうするの」
「それが、分からないのよ」
ヴィクトリアは、珍しく、苛立たしそうに眉を寄せた。
「最強の兵を作りたいなら、写しなど作らずに、本物を攫えばいい。昨夜だって、あれだけ数を揃えれば、誰か一人くらい攫えたはずよ。……なのに、あれは、ナンバーズを全員、使徒に叩き出されるまで戦わせて、誰一人攫わずに引き上げた」
「戦わせること、そのものが目的なのではなくて?」
ルディアが、首を傾げた。
「ナンバーズに、本物と刃を交えさせて、学ばせている。……まるで、試験をしているように」
「何のための試験よ」
「それは、存じ上げませんわ」
ルディアとヴィクトリアが、ちゃぶ台を挟んで睨み合いかけた時、縁側から、ばりっ、と煎餅を噛み砕く乾いた音がした。
「……音のない者が、なぜ、音ばかり集めるんじゃろうのう」
ヴィルヘルミナが、煎餅の欠片を口の中で転がしながら、夕空を見上げて呟いた。居間の全員が、縁側の小さな背中に目を向けた。
「おばあちゃん、なにか知ってるの?」
奈緒が、ゴーストの膝から顔を上げて尋ねると、ヴィルヘルミナは、奈緒に向かってだけ目を細め、それから、湯呑みの茶を一口すすった。
「知っとるわけではない。……年寄りの勘じゃ」
ヴィルヘルミナは、湯呑みを膝の上に置いて、庭の柿の木の向こうの、暮れかけた空を見つめた。
「ただのう。……あの灰色の獣ども、この星の匂いがせんのじゃ」
居間の空気が、ほんの一瞬、凍りついた。
「……この星の、匂い?」
白鳥が、思わず聞き返した。ヴィルヘルミナは、それには答えずに、のんびりと煎餅の袋に手を伸ばした。
「それにのう、昨夜は、なかなか面白い夜じゃった」
ヴィルヘルミナは、新しい煎餅を割りながら、ちゃぶ台の面々を、一人ずつ眺めていった。
「犬猿の仲の二人が、背中を合わせて戦った。教団の娘たちが、頼まれもせんのに、街中に散って加勢した。協会の娘は、敵の子の秘密を、黙って飲み込んだ。……あやつが暴れるたびに、おぬしらは、一つの卓に寄ってくる」
ちゃぶ台の周りに、しばらく、誰も口を開かない時間が流れた。
「……それではまるで」
ルディアが、袖を口元に戻しながら、ゆっくりと言った。
「あれが、わたくしたちを束ねるために、暴れているようではありませんの」
「考えすぎよ、ルディア・ロンディニウム」
ヴィクトリアが、すぐに首を横に振った。
「人を襲わせて、人の命を狙わせる存在が、そんな殊勝なことを考えるはずがないわ」
「ええ。……わたくしも、そう思いますわ、ヴィクトリア・ローゼンベルグ」
ルディアは、珍しく素直に頷いた。だが、その黄金の瞳は、縁側の小さな背中から、しばらく離れなかった。ヴィルヘルミナは、もう何も言わずに、夕空を見上げて煎餅をかじっているだけだった。
ゴーストは、奈緒の髪を撫でながら、黙って紙の上の文字を見つめていた。器は、いずれ貰い受ける。山奥の廃施設で、無響はそう言った。あの時、無響が見ていたのは、奈緒ではなく、自分だった。それから、人混みの中で、人間の姿の零の前に立ち、お前は、いつもそこにいる、とも言った。
(……器は、奈緒のことなのか。それとも)
ゴーストは、自分の手のひらを見下ろした。三つの属性を宿した、日本でただ一人の、男の魔法少女の手。その手の形を、無響は、ずっと前から聴き続けているのかもしれなかった。その考えを、ゴーストは、ちゃぶ台を囲む誰にも、口にすることができなかった。
隣で、緋雪が、包帯の肩をそっとゴーストの肩に寄せた。何も言わなかったが、その温もりだけで、ゴーストには、緋雪が同じことを考えているのだと分かった。
「……結論は、出ないわね」
ヴィクトリアが、紙を畳みながら言った。
「分かっているのは、あれが、まだ何かを集めている途中だということだけ。……次に、あれが何を聴きに来るのか。それに備えるしかないわ」
「八番の子のことは、どうしますの」
ルディアが、尋ねた。
「昨夜で、あの子の立場は、さらに危うくなったはずですわ」
「紙が届く限り、受け取る。届かなくなったら……」
ゴーストは、そこで言葉を切った。届かなくなった時、それが何を意味するのかを、ちゃぶ台を囲む誰もが分かっていた。
「その時は、迎えに行くわ」
白鳥が、湯呑みを置いて、あっさりと言った。
「部屋なら、空いてるもの」
台所から、テレサとエリが、新しい煎餅の皿を持って出てきた。奈緒が「おせんべい!」と歓声を上げてゴーストの膝から跳ね起き、居間の重い空気が、ほんの少しだけほどけていった。
郊外の古い工場の屋根の上に、片腕のない、温度のない人の形をしたものが、音もなく立っていた。足元の地下では、ナンバーズが、それぞれの傷を舐めながら、浅い眠りについていた。凍った太刀を抱えたまま眠るナンバー2の隣で、ナンバー8が、拳銃を胸に抱えて、目を開けたまま天井を見上げていることを、無響は、屋根の上からでも聴き取っていた。
無響は、昨夜、街中から聴こえてきた音を、もう一度、一つずつ並べていった。氷の太刀と、地を這う大槌。水の刃と、風の槍。炎の長槍と、光の霧。双剣の雷と、急所を外した二十三発の銃声。そして、それを迎え撃った、写しの元の魔法少女たちの音と、焔の教団の使徒たちの音。昨夜、街の上で響いたすべての音が、互いに背中を合わせ、一つの方向へ向かって、重なり合っていた。
「……揃ってきた」
無響の温度のない声が、夜風の中に落ちた。それから、無響は、閉じていた目をゆっくりと開け、街の灯りの届かない、遥かな夜空を見上げた。雲の切れ間に、冷たい星が、いくつも瞬いていた。
「だが、まだ足りない。……あれらが、来るまでには」
その呟きを聴いた者は、誰もいなかった。片腕のない人の形は、星を見上げたまま、長い間、そこに立ち尽くしていた。




