第三百五十五話
商店街の外れの広場を包む夜の空気が、陽炎のようにゆらりと揺れた瞬間、アスファルトに片膝をついた奈々美の頭上へ、ナンバー1の双剣が、紫電を纏って振り下ろされようとしていた。雑居ビルの屋上の縁を蹴ったゴーストは、影から影へと渡るのももどかしく、そのまま夜空へ身を躍らせ、大剣を振りかぶって広場の真ん中へと落ちていった。
ゴーストの大剣がナンバー1の双剣を横から弾き飛ばしたのと、もう一つの刃が、反対側からナンバー1の双剣を受け止めたのとは、ほとんど同時だった。紫電を纏った双剣の片方を漆黒の大剣が、もう片方を、紅蓮の炎を纏った薙刀が、奈々美の頭上でぴたりと止めていた。
「……え」
ナンバー1の大きな瞳が、まんまるに見開かれた。奈々美の前に、二つの背中が並んで立っていた。一つは、漆黒のドレスを纏ったゴーストの背中で、もう一つは、長い髪を緩くまとめ、白いセーターの上にコートを羽織った、二十三歳ほどの美しい女の背中だった。女の周りだけ、夜の空気が陽炎のように揺らぎ、薙刀の刃に触れた双剣の紫電が、じりじりと焼け焦げていた。
「オリジナルだ!……と、誰?」
ナンバー1は、跳び退きながら、目を輝かせて二人を見比べた。天城焔は、その問いには答えずに、薙刀を下ろさないまま、肩越しに振り返った。
「……奈々美」
アスファルトに膝をついたまま、奈々美は、肩で息をしながら顔を上げた。雷を纏って揺れていた髪が、ぱちぱちと小さく火花を散らしていた。
「……先輩」
「あんたが街中で全力出せないのは昔と変わらないのね……立てる?」
「……少し、休めば」
「なら、休んでいなさい」
焔は、それだけ言うと、薙刀の切っ先をナンバー1へ向けた。その目は、奈々美に向けていた時とはまるで違う、燃え盛る炉の底のような色をしていた。
「さて、人形。……私の後輩に、何をしてくれたの」
「人形じゃないよ、ナンバー1だよ!」
ナンバー1は、頬を膨らませて抗議し、それから、焔の薙刀に纏わりつく炎をまじまじと見つめた。
「でも、すごいね。……雷の人より、ずっと熱い」
「そう。……なら、火傷して帰りなさい」
焔の薙刀が、紅蓮の弧を描いた。ナンバー1は双剣を交差させてそれを受けたが、受けた瞬間に、双剣を覆っていた紫電が、炎に呑まれるように焼き切れていった。ナンバー1が驚いて跳び退いた先に、ゴーストの影が先回りしていた。足元の影から伸びた闇が、ナンバー1の足首を一瞬だけ捕らえ、その一瞬に、焔の二の太刀が、ナンバー1の紫の髪の先を、ちりちりと焦がしていった。
「熱っ……! あつ、あつっ!」
ナンバー1は、焦げた髪の先を両手でぱたぱたと叩きながら、広場の端の、古い市場の跡の屋根の上まで跳び退いた。焔は、追わなかった。ゴーストも、大剣を下ろしたまま、奈々美の前から一歩も動かなかった。二つの背中が並んで立ちはだかる向こうで、奈々美は、汐里のほうへ這うように手を伸ばしていた。
ナンバー1は、屋根の上で、焦げた髪の先を摘まんで、しばらく悔しそうに眺めていたが、やがて、ふっと顔を上げると、いつもの無邪気な笑顔に戻った。
「……今日は、ここまでにしとく。一人で出てきたって、ばれたら、怒られちゃうし」
ナンバー1は、屋根の縁に立ち上がり、広場の奈々美に向かって、大きく手を振った。
「雷の人! すっごく、いい音だったよ! また、聴かせてね!」
「街中では……二度と、来ないでちょうだい」
奈々美が、汐里の身体を抱き寄せながら、呆れたように答えると、ナンバー1は、楽しそうに笑い声を上げて、紫電の尾を引きながら、夜の商店街の屋根の向こうへ消えていった。
広場に、静けさが戻った。薄くなりきっていた水の壁が、汐里の錫杖から力が抜けると同時に、ぱしゃりと音を立てて崩れ、アスファルトの上に、ただの水たまりとなって広がった。その水たまりの中で、奈々美の身体を、青白い光が包み込み、光が消えた時には、そこには、雷を纏った若い女ではなく、エコバッグの散らばった傍らで、汐里を膝に抱いた、四十代の母親が座り込んでいた。
「汐里ちゃん。……汐里ちゃん、しっかりして」
「……先輩」
汐里は、真っ白な顔のまま、薄く目を開けて、それでも右頬に小さな笑みを浮かべた。
「……ちゃんと、守れましたか。……お夕飯の、買い物の人たち」
「ええ。誰も、怪我していないわ。……ありがとう」
「よかった……」
汐里は、それだけ言うと、奈々美の膝の上で、ことりと眠りに落ちた。焔は、薙刀を炎の粒に散らしながら歩み寄り、眠る汐里の顔を、しばらく黙って見下ろしていた。
「……よく、守ったわね。汐里」
焔は、眠る汐里の額に、そっと手を置いた。それから、奈々美の顔へ、ゆっくりと目を移した。
「あなたは、もう剣を握らなくていいと、言ったはずよ」
「握りたくて、握ったんじゃありません」
奈々美は、膝の上の汐里の髪を撫でながら、少しだけ口を尖らせた。
「夕飯の、お醤油と卵を買いに来ただけなのに。……あの子が、勝手に降ってきたんです」
焔は、一瞬だけ目を丸くし、それから、堪えきれないように、小さく吹き出した。
「……あなたは、二十年経っても、そういうところが変わらないのね」
「先輩こそ。……来てくださるの、遅いですよ」
「街中に人形が散っていたのよ。……皆に叩き出させてから来たら、手間取ったわ」
焔はそう言って、広場の端に立つ漆黒のドレスの少女へと、目を向けた。ゴーストは、大剣を下ろしたまま、黙って二人のやり取りを見守っていた。
「あなたも、来ていたのね。……黒いドレスの子」
「……ええ」
「奈々美の傍に、あなたがいるのは、これで何度目かしら」
焔の目が、ほんの少しだけ細められたが、それ以上は何も問わなかった。奈々美は、ゴーストのほうを振り返ると、まだ少し荒い息のまま、柔らかく微笑んだ。
「また、助けてもらっちゃったわね。……ありがとう」
ゴーストは、何も答えられなかった。母が、二十歳の姿で大剣と長剣を振るい、膝をつき、それでも汐里に手を伸ばしていた背中が、まだ瞼の裏に焼きついていた。寮跡の夜には、自分が庇われる側だった。今夜は、間に合ったはずなのに、間に合ったのは、焔と同じ瞬間でしかなかった。もし焔が来なければ、自分一人で、あの紫の雷から母を守りきれたのかどうか、ゴーストには分からなかった。
「……怪我は、ありませんか」
ようやく、それだけを口にすると、奈々美は、頬の浅い傷を指先でなぞって、くすりと笑った。
「このくらい、平気よ。……それより、あなた。うちの零には、今夜のこと、内緒にしておいてね。あの子、心配性だから」
ゴーストは、大剣の柄を握る手に、ぎゅっと力を込めた。
「……ええ。言いません」
それだけ答えると、ゴーストは、足元の影の中へ静かに沈んでいった。焔は、ゴーストの消えた影を、しばらく黙って見つめていた。
それから五分ほど経った頃、商店街の通りのほうから、コンビニの白い袋を提げた少年が、息を切らして広場に駆け込んできた。
「母さん!」
「あら、零」
奈々美が、汐里を膝に抱いたまま目を丸くすると、零は、散らばったエコバッグと、水たまりと、焦げたアスファルトとを見回して、母の前に膝をついた。
「サイレンがすごかったから、コンビニの帰りに、こっちに来てみたんだ。……母さん、怪我は? 汐里さんは?」
「平気よ。汐里ちゃんは、少し疲れて眠っちゃっただけ」
奈々美は、頬の傷を手で隠しながら、何でもないことのように笑った。零は、その頬の傷から目を逸らさずに、黙って、散らばった卵のパックを拾い上げた。卵は、半分ほど割れていた。
「……あなたの息子ね、奈々美」
焔が、零の顔を見下ろして、ふっと目元を和らげた。
「ホントよく似ているわ。……眉の形が、あなたにそっくり」
「先輩、うちの子をじろじろ見ないでください」
奈々美に睨まれて、焔は、肩をすくめて笑った。零は、目の前の美しい女が誰なのかを知らない顔をして、黙って頭を下げた。
その時、広場の入り口に、黒い大きな車が滑り込んできた。後部座席の扉が開き、銀に近いプラチナブロンドの髪を揺らしたヴィクトリアが降りてきて、広場の様子を一目見るなり、ほんの一瞬だけ、肩から力を抜いた。
「……奈々美さん。お怪我は」
「あら、ヴィクトリアさん。……ごめんなさいね、汐里ちゃんを、こんなに疲れさせちゃって」
「いいえ。……屋敷まで、私がお送りします」
ヴィクトリアは、焔のほうを一度だけ見た。焔もまた、ヴィクトリアを一度だけ見返し、二人の間に、短く、冷たい沈黙が落ちた。
「……自称守護者が、ずいぶん遅いお着きね」
「街中の騒ぎを、片付けていたものですから」
焔はそれ以上何も言わずに、奈々美の肩に一度だけ手を置くと、陽炎のように揺らぐ夜の空気の中へ、溶けるように消えていった。零は、汐里を抱えて車へ運ぶヴィクトリアを手伝いながら、母の手から、割れた卵のパックをそっと受け取った。
「……卵、また買いに行かなきゃね」
「いいよ、明日、俺が買ってくる」
零は、それだけ言った。家に帰れば、煮物の鍋は、焦げずに待っているはずだった。
三神家の台所では、ヴィルヘルミナが、鍋の火を止めて、蓋の隙間から立ち昇る湯気を、満足げに眺めていた。居間のソファでは、五郎が、テレビのニュース速報に映る街のあちこちの騒ぎを見て、落ち着きなく立ったり座ったりを繰り返していた。
「なあ、ミナちゃん。奈々美たち、遅くないか。……零まで、コンビニに行ったきり帰ってこないし」
「心配いらん。……煮物も、ちょうど食べ頃じゃ」
ヴィルヘルミナは、杖をつきながら縁側に出て、商店街の方角の夜空を、しばらく黙って見上げていた。陽炎のような熱の名残が、遠くの空で、ゆっくりと夜の色に溶けていくところだった。
郊外の古い工場の地下に、ナンバーズが一人、また一人と戻ってきた。ナンバー2は、凍りついた太刀を抱えたまま、ナンバー7の肩から下ろされ、ナンバー6は焼けた太腿を引きずりながら、ナンバー5の肩を借りて歩き、ナンバー3は、長槍を握りしめたまま、悔しそうに壁を蹴りつけ、ナンバー4は、乱れた金の髪を手櫛で直しながら、ため息ばかりついていた。壊れた機械の陰には、ナンバー8が、膝の上に拳銃を置いたまま、黙って座り込んでいた。
最後に、紫の髪の先を焦がしたナンバー1が、そろりそろりと通路の奥から顔を出した。一段高くなった場所に、片腕のない、温度のない人の形をしたものが、目を閉じて立っていた。
「……ナンバー1」
無響の温度のない声に、ナンバー1は、びくりと肩を跳ねさせた。
「待て、と言ったはずだ」
「……ご、ごめんなさい。でも、雷の人、すっごくいい音だったよ!」
無響は、それには答えなかった。閉じた目のまま、今夜、街のあちこちから聴こえてきた音を、一つずつ思い返していた。河川敷の、硬く冷たい氷の音。駐車場の屋上の、炎の弾丸の音。運河沿いの、影の糸が張りつめる音。運動公園の、十二年灯り続けた光の音。そして、商店街の外れの、紅蓮の薙刀の音。
「……焔の教団まで、出てきたか」
無響の声は、少しも調子を変えなかった。それから、閉じた目を、壊れた機械の陰へと、ゆっくり向けた。
「ナンバー8。……二十三発、聴いた」
ナンバー8の背中が、ぴんと強張った。
「十一発は、肉に当たる音だった」
無響は、それだけ言うと、また目を閉じて、それきり何も言わなかった。ナンバー8は、膝の上の拳銃を握りしめたまま、息を殺していた。その隣に、凍った太刀を抱えたナンバー2が、何も言わずに、そっと腰を下ろした。




