第三百五十四話
同じ頃、市の東の外れにある運動公園では、夜のジョギングを楽しむ人々の足音が、陸上競技場のトラックの外周を、ゆるやかに巡っていた。その競技場の芝生の真ん中に、灰色の外殻の魔獣が何体も、地面から滲み出すように姿を現したのは、白百合の眼が街のあちこちに同時に反応を捉えてから、わずか数分後のことだった。
白百合の夜勤に出ていた澪と玲奈が、真奈、飛鳥、鈴乃、きらりと共に競技場のスタンドの上に降り立った時、トラックを走っていた人々は、もう出口のほうへ駆け出していた。背中まで届く長い黒髪を夜風になびかせた澪が、長槍を手に芝生を見下ろし、その隣で玲奈が双剣を抜き、ショートヘアの真奈が巨大なハンマーを肩に担ぎ、飛鳥が槍を構え、鈴乃が二振りの剣に炎を灯し、きらりが星眼を細めて芝生の上を見渡した。
「……魔獣だけじゃない」
きらりが、星眼の奥で、芝生の真ん中の二つの光を捉えていた。
「二人、いる。……すっごく濃いオーラ。一人は燃えてるみたいに真っ赤で、もう一人は、金色の霧みたい」
芝生の真ん中に、二つの影が立っていた。燃えるような紅い髪を背中に流し、ゴーストとよく似た顔に勝ち気な吊り目を光らせたナンバー3が、身の丈ほどもある長槍を地面に突き立て、その隣では、背中まで流れる金の髪を優雅にかき上げたナンバー4が、手の中に光の剣を形作りながら、舞台の幕開けを待つ役者のように、スタンドの上の六人を見上げていた。
「ようこそ、白百合の皆様。今宵は、わたくしどもの小さな舞台へ——」
「長い」
ナンバー4の口上を、ナンバー3が一言で切り捨てた。紅い髪の下の吊り目が、スタンドの上の六人を一人ずつ見渡していき、長い黒髪の少女の、長槍を握る手元の構えの上で、ぴたりと止まった。
「……あんたね」
ナンバー3の口の端が、獰猛に吊り上がった。
「右足を半歩前、穂先をやや下げて、柄の後ろを腰に当てる。……私の槍の、構えの元」
澪は、眉をひそめた。言われてみれば、芝生の上の紅い髪の少女の構えは、自分が訓練校の頃から何千回と繰り返してきた構えと、そっくり同じだった。
「やっと会えた。……繁華街じゃ、白百合は来なかったからね」
ナンバー3が、長槍の穂先に炎を灯して、芝生を蹴った。炎を引いた穂先が、一直線にスタンドの上の澪へ迫り、澪は長槍でそれを正面から受け止めた。炎と炎がぶつかり合い、スタンドの座席が熱にあぶられて、ぱちぱちと音を立てた。
重かった。同じ構えから繰り出される槍なのに、ナンバー3の一撃には、澪の槍にはない、荒々しい重さがあった。澪は二歩、三歩と押し下げられ、スタンドの段差に踵を取られかけた。
「お姉ちゃん!」
玲奈が双剣を振るって横から斬り込み、ナンバー3はそれを長槍の柄で払いのけると、口の端を吊り上げたまま、澪を見下ろした。
「……何それ。構えの元のくせに、弱いじゃない」
その間に、ナンバー4は、芝生の真ん中で両手を広げていた。指先から溢れ出した金色の光の粒が、霧のように競技場の芝生の上に広がっていき、投光器の光を乱反射させて、スタンドの上からは、どこに何がいるのかも分からないほど眩しい、金色の帳を作り上げた。
「さあ、皆様。霧の向こうで、わたくしを探してごらんなさいませ」
霧の中から、ナンバー4の芝居がかった声だけが響き、その声に合わせるように、霧の中から魔獣が一体、また一体と飛び出してきた。飛鳥の槍が一体を薙ぎ払い、真奈のハンマーが一体を芝生にめり込ませ、鈴乃の炎の剣が一体を焼き斬ったが、霧の中からは、次から次へと新しい魔獣が湧き出してきた。
「霧のせいで、どこから来るか分かんないんだけど!」
「真奈、右! ……って、もう遅い!」
飛鳥が叫んだ時には、真奈の脇腹を魔獣の爪が掠めていた。だが、その時、スタンドの上のきらりが、星眼を大きく見開いて叫んだ。
「金色の子、霧の真ん中じゃないよ! 左奥、ゴールポストの陰! 魔獣は、その子から順番に糸みたいに出てきてる!」
霧の中で、ナンバー4の口上が、ぴたりと止まった。
「……なっ。わたくしの霧が、見えておいでですの?」
「霧は見えないけど、あなたのオーラは丸見え! 金色で、きらきらで、すっごく目立つ!」
「目立つのは、当然でございましょう! わたくしは、この舞台の主役——」
「だから長いってば!」
ナンバー3が、澪と斬り結んだまま、霧のほうへ怒鳴った。ナンバー4は、霧の中で頬を膨らませたらしく、口上の代わりに、小さく舌打ちのような音が聞こえた。紅い髪の少女と金の髪の少女の間には、ナンバー1とナンバー7の時のような、言葉のいらない呼吸はなかった。それでも、霧の中から湧き出す魔獣たちが、二人の隙間を埋めるように動き、ナンバー3が澪を押し込めば、その背後の玲奈を魔獣が阻み、きらりが霧の中のナンバー4を指差せば、その射線を魔獣が塞いだ。
「飛鳥! 霧を、吹き飛ばして!」
「言われなくても!」
飛鳥が槍を大きく振り回すと、風が渦を巻いて競技場の芝生の上を吹き抜け、金色の霧の一角が、大きく裂けた。その裂け目の向こうのゴールポストの陰に、金の髪の少女の姿が一瞬だけ覗き、真奈がハンマーを振りかぶって跳び込み、鈴乃の二振りの炎の剣が、その左右を挟み込むように走った。ナンバー4は、光の剣で真奈のハンマーを受け流しながら、金の髪を乱して跳び退いた。
スタンドの上では、澪が、ナンバー3の長槍に、また一歩押し下げられていた。
「ほら、また下がった」
ナンバー3が、苛立たしそうに吐き捨てた。
「同じ構えなのに、なんであんたのほうが弱いのよ。……写し損ねたかと思って、がっかりしたじゃない」
澪は、長槍を構えたまま、荒い息を整えた。紅い髪の少女の槍は、確かに自分の構えだった。だが、それは、訓練校の頃から何年もかけて身体に染み込ませた、昔の自分の構えだった。縁側の居候に籠の稽古を言いつけられる前の、炎を力任せに広げることしか知らなかった頃の構えだった。
「……写したのは、いつの私?」
「は?」
「その構え、ミナちゃんに教わる前の私よ」
澪は、長槍の穂先を、ほんの少しだけ持ち上げた。それから、左の手のひらを、穂先の周りにそっとかざした。縁側で、何日も、何日も繰り返してきた稽古。炎を出さずに、手のひらの周りの空気だけを、そっと集めて回す。花びら一枚から始まって、霧を雲の珠に変えるところまで、澪は毎晩、ヴィルヘルミナの前で、それを続けてきたのだった。
澪の手のひらの周りで、空気が、目に見えない籠の形に集まっていき、その籠の中で、穂先の炎が、ぎゅうっと小さく、白く、押し込められていった。
「……何、それ」
ナンバー3が、初めて目を見開いた。
「あんたの写しには、入ってない」
澪が、踏み込んだ。同じ構えから、同じ角度で突き出された穂先の、その先端にだけ、白く凝縮された小さな炎が宿っていた。ナンバー3の長槍の炎がそれを迎え撃ち、二つの炎がぶつかり合った瞬間、ナンバー3の荒々しく広がった炎は、澪の白く凝縮された炎に、針で風船を突くように貫かれた。澪の穂先が、ナンバー3の長槍の柄を叩き、紅い髪の少女の身体が、スタンドの段差を三段、転がり落ちた。
「……っ、ふざけ……!」
ナンバー3が、肩口を押さえながら跳ね起きた。紅い髪の下の吊り目が、怒りで燃え上がっていた。長槍の穂先に、さっきまでとは比べ物にならないほど大きな炎が渦を巻いて膨れ上がり、スタンドの座席が、熱に耐えかねて溶け始めた。
「いけない、あれ、スタンドごと……!」
鈴乃が叫んだ。澪は、長槍を構えたまま、背後の玲奈ときらりを振り返った。あの炎を籠に入れるには、澪の籠は、まだ小さすぎた。
その時、競技場の投光器の白い光が、ふいに、さらに白く、眩しく膨れ上がった。
真昼のような光の中を、白い法衣を纏った小柄な少女が、音もなく芝生の上へ降りてきた。長い白銀の髪が光の中に溶けるように揺れ、その顔立ちは、玲奈と変わらない、十五歳ほどにしか見えなかった。少女の両手には、穂先の細い槍が、一本ずつ握られていた。
少女は、スタンドの上の白百合の六人には、一度も目を向けなかった。左手の槍を軽く振ると、穂先から放たれた光の奔流が、ナンバー3の膨れ上がった炎を正面から呑み込み、跡形もなくかき消した。右手の槍を振ると、ゴールポストの陰に残っていた金色の霧が、より強い光に塗り潰されるように、一瞬で晴れていった。
「……っ、わたくしの霧が!」
「光を霧にするなら、もう少し、粒を揃えたほうがよろしいですよ」
少女の声は、幼さの残る澄んだものだったが、そこに温度はなかった。少女は、二本の槍を胸の前で交差させると、ナンバー3とナンバー4を、静かに見比べた。
「それから、そちらの紅い方。……槍の振り方が、雑です。力で押すのは、炎の振り方であって、槍の振り方ではありません」
「……何よ、あんた」
ナンバー3が、肩で息をしながら長槍を構え直した。だが、少女は答えなかった。次の瞬間、少女の姿が光の中から消え、二本の槍が、上下から同時にナンバー3の長槍の柄を挟み込んで、その手から弾き飛ばしていた。くるくると宙を舞った長槍を、ナンバー4が慌てて光の霧で受け止めた。
「ナンバー3、ここは退き際でございますわ!」
「……っ、分かってるわよ!」
ナンバー4が、残った光の粒を一斉に撒き散らすと、競技場の芝生が、もう一度だけ金色の霧に包まれた。その霧が晴れた時には、紅と金の二つの影も、残っていた魔獣の群れも、どこにも見えなくなっていた。ただ、霧が消える寸前、ナンバー3の声だけが、スタンドの上の澪に向かって投げつけられていた。
「……次は、二人だけでやるわよ。構えの元!」
競技場に、静けさが戻った。白い法衣の少女は、二本の槍の穂先を下げると、スタンドの上を一度も振り返らずに、芝生の上を、出口のほうへ歩き出した。
「待って!」
澪が、スタンドの手すりから身を乗り出して叫んだ。
「あなた、誰? ……どうして、私たちを」
少女の足が、ほんの一瞬だけ止まった。振り返りはしなかったが、白銀の髪の向こうから、澄んだ声だけが、静かに返ってきた。
「……あなた方を守りに来たのではありません。今夜は、そう命じられただけです」
それだけ言って、少女の姿は、投光器の光の中に溶けるように消えていった。
「……行っちゃった」
玲奈が、双剣を下ろしてぽつりと呟いた。真奈が脇腹を押さえながら芝生に座り込み、飛鳥がその傍らに膝をついて傷を確かめ、鈴乃は、炎の剣を収めながら、溶けかけたスタンドの座席を、呆然と見上げていた。きらりは、まだ星眼を細めたまま、少女の消えた光の中を見つめていた。
「……すっごく、古い光だった」
「古い?」
「うん。ずっと、ずーっと、何年も消えてない灯りみたいな。……あんなオーラ、初めて見た」
澪は、長槍を握ったまま、少女の消えた出口のほうを見つめていた。二本の槍の構えは、自分のものとは違っていた。それなのに、穂先を下げて歩き去るその背中には、なぜか、自分の槍よりもずっと古い、槍の使い手の匂いがした。
「お姉ちゃん、さっきの、何?」
玲奈が、澪の袖を引っ張った。
「穂先の炎、ぎゅってなってた。……あれ、新しい技?」
「……稽古の、成果よ」
澪は、それだけ答えた。縁側で茶をすする、可憐な見た目の居候の顔が浮かんで、澪は、ほんの少しだけ口元を緩めた。
商店街の外れの広場で、奈々美の膝が、初めてアスファルトについた。水の壁の内側で、汐里が錫杖を抱きしめるようにして座り込み、壁は、もう向こう側が透けて見えるほど薄くなっていた。雑居ビルの屋上で、ゴーストが屋上の縁を蹴ろうとした、その時、広場を包む夜の空気が、陽炎のように、ゆらりと揺れた。




