第三百五十三話
同じ頃、魔法少女協会の本部ビルの裏手を流れる運河沿いには、資材置き場の古い倉庫が何棟も並び、川面に映る本部ビルの窓明かりが、夜風に揺れてはちらちらと崩れていた。その倉庫の屋根の一つに、肩にかかる黒髪を夜風に揺らしたナンバー8が、銃身の長い黒い狙撃銃を肩に預けたまま、ひとりでしゃがみ込んでいた。腰のホルスターには、もう一挺、黒い拳銃が収められていた。顔立ちはオリジナルとよく似ているのに、他のナンバーズの誰よりも細い肩をして、少女らしい胸のふくらみを隠すように、身体を小さく丸めていた。
ナンバー8の足元の暗がりでは、無響から預けられた灰色の外殻の魔獣が十体ほど、身を低くして並んでいた。合図一つで、この魔獣たちは迷いなく走り出す。本部ビルから出てくる協会の魔法少女に向かって、あるいは、運河沿いの遊歩道を、まだ何も知らずに歩いている人々に向かって。
ナンバー8は、遊歩道の人影が途切れるのを、しばらく黙って待っていた。最後に通り過ぎた、自転車を押す老人の背中が橋の向こうへ消えたのを見届けてから、ナンバー8は、ようやく狙撃銃の銃口を、運河の向こうの本部ビルへ向けた。
(……撃てるかどうか、聴かせてもらう、か)
無響は、きっと今もどこかで、この運河沿いの音を聴いている。銃声が鳴らなければ、それだけで、ナンバー8が何をしているのかは、あいつに伝わってしまう。河川敷へ向かったナンバー2の、何か言いたげに噛みしめた唇が、ナンバー8の脳裏をよぎった。自分が疑われれば、あの子まで巻き込まれるのかもしれなかった。
ナンバー8は、スコープを覗き込んで、引き金を引いた。狙撃銃から放たれた闇の弾丸が、運河を越え、本部ビルの屋上の避雷針を掠めて弾け、乾いた銃声が、運河の上に長く響き渡った。
数分も経たないうちに、本部ビルの裏口から、四つの影が運河沿いへ飛び出してきた。光の剣を手にした周防凛花を先頭に、眼鏡の奥の目を鋭く細めた湊春華、腕を組んだまま氷の冷気を纏った船戸真紀奈、そして紫電を足元に弾けさせる佐伯美羽が、倉庫の屋根の上の黒い影を、一斉に見上げた。
「……ナンバーズ」
凛花が、低い声で呟いた。
「黒い髪の子。……中州の夜に、黒いドレスの方と戦ったという」
「一人みたいね」
春華が、屋根の上と、その足元の暗がりとを、眼鏡越しに見比べた。
「でも、下に魔獣がいるわ。十体くらい」
「一人で、協会の本部に喧嘩を売りに来たってわけ?」
真紀奈が、鼻で笑った。
「舐められたものね。……さっさと凍らせて、終わりにしましょう」
ナンバー8は、屋根の上から四人を見下ろし、狙撃銃を背に回して、腰のホルスターから黒い拳銃を抜いた。この距離なら、狙撃銃はいらなかった。足元の魔獣たちが、一斉に唸り声を上げて、倉庫の屋根から運河沿いの道へ飛び降りていく。ナンバー8が手のひらを返すと、その足元から黒い闇が溢れ出し、運河沿いの街灯の明かりを、一本ずつ呑み込んでいった。
「……っ、暗い!」
「美羽さん、下がって! 春華さん、灯りを!」
凛花が光の剣を高く掲げると、刃から溢れた白い光が、闇の中に小さな陽だまりを作った。その光の輪の外側を、魔獣たちの唸り声が、ぐるぐると回り始めた。真紀奈が氷の刃を放ち、春華が水の鞭で魔獣の脚を払い、美羽が紫電を纏って光の輪から跳び出しかけた、その時、闇の中から銃声が響いた。
光の輪から跳び出しかけた美羽の太腿を、闇の弾丸が浅く抉った。美羽が短い悲鳴を上げて輪の中へ転がり戻った次の瞬間、二発目の弾丸が、氷の刃を放とうと掲げた真紀奈の右の二の腕を掠め、三発目が、水の鞭を振るう春華の手の甲を撃ち抜いて、水の鞭を半ばから霧散させた。
「……っ、狙ってくる!」
真紀奈が、血の滲む二の腕を押さえながら叫んだ。闇の中から放たれる拳銃の弾丸は、恐ろしく正確だった。四人が動こうとするたびに、踏み出した脚を撃ち、四人が魔法を放とうとするたびに、その腕や手を撃って、魔法を形になる前に散らしていく。光の輪の外では、魔獣たちが唸り声を上げて、輪の縁をぐるぐると回り続けていた。
だが、春華は、撃ち抜かれた手の甲に水を巻きつけて止血しながら、眼鏡の奥で目を細めて、黙って弾丸の当たった場所を数えていた。美羽の太腿、真紀奈の二の腕、自分の手の甲、凛花の肩口、もう一度美羽の脹脛。十発、十五発と銃声が重なるうちに、春華の眉が、少しずつ寄っていった。
「……凛花さん」
春華が、凛花の背中に向かって、小さな声で言った。
「あの子の弾、全部、手足にしか当たっていないわ。……頭も、胸も、お腹も、一発も狙ってこない」
「……ええ」
凛花は、浅く裂かれた肩口を押さえたまま、光の剣を構えて頷いた。凛花も、とうに気づいていた。闇の中から放たれる弾丸は、恐ろしいほど正確だった。それほど正確に撃てる者が、四人の誰の急所にも、一発も向けていない。どの傷も、痛みはあっても、命には届かない場所ばかりだった。それは、撃ち損じているのではなく、そこだけを選んで撃っているのだと、凛花には分かった。
「それに、魔獣も」
春華が、光の輪の縁を回り続ける灰色の影を、目で追った。
「さっきから、輪の外を回ってるだけで、一度も飛び込んでこない。……あれは、私たちを足止めしているだけよ。あの子は、私たちを戦えなくしたいだけで、殺そうとはしてない」
凛花は、闇の向こうの倉庫の屋根を見上げた。暗がりの中で、黒い髪の少女が、銃を構えたままこちらを見下ろしていた。その顔は、凛花が何度も見上げてきた黒いドレスの人とよく似ていて、それなのに、どこか、ひどく怯えているように見えた。
緋雪から渡されてきた紙のことを、凛花は思い出した。行き先と、日と、組みとが、角張った字で書かれた黒い紙。どこから来たのかは、緋雪も詳しくは言わなかったし、凛花も、深くは聞かなかった。だが、あの紙を書いた誰かは、きっと、ナンバーズの内側にいるはずだった。
「……もしかして、あなたが」
凛花が、思わず一歩前に出て、屋根の上へ向かって口を開きかけた。
その瞬間、闇の中から放たれた一発の弾丸が、凛花の頬のすぐ脇を、髪の毛一本分の距離で掠めていった。背後の倉庫の壁に穴が穿たれ、凛花の頬に、熱い風だけが残った。
「凛花!」
真紀奈が叫んだ。凛花は、頬に手を当てたまま、屋根の上を見上げていた。黒い髪の少女は、銃口をまだ凛花に向けたまま、小さく、ほとんど見えないほど小さく、首を横に振っていた。
言うな、と言っているのだと、凛花には分かった。この夜の、この運河沿いの、どこかで、誰かが聴いている。その誰かに、今の言葉を聴かせてはいけないのだと、少女の震える銃口が、凛花に告げていた。
凛花は、口を閉じた。隣で、春華が眼鏡を押し上げながら、誰にともなく、ぽつりと言った。
「……私は、何も聞いていませんから」
「春華? 何の話よ」
「独り言です、真紀奈さん。……それより、魔獣を片付けましょう。あの子の相手は、それからでいいわ」
真紀奈は、怪訝そうに春華の横顔を見たが、それ以上は何も言わずに、両手を頭上に掲げた。光の輪の外を回り続ける魔獣たちの頭上に、鋭利な氷の刃が、無数に具現化していった。
「——『凍てつく断頭台』ッ!」
降り注いだ氷の刃が、魔獣の群れを容赦なく貫き、春華の水の刃が、生き残った魔獣の脚を切り払い、美羽の紫電が、鋭い閃光となってその間を駆け抜けた。ナンバー8は、屋根の上から、崩れていく魔獣たちを黙って見下ろしながら、また拳銃の引き金を引いた。弾丸は、真紀奈の脛を浅く掠め、紫電を纏って駆ける美羽の、肩の布地だけを裂いていった。銃声だけが、運河の上に、何度も、何度も響いていた。
その時、運河沿いの街灯の光が、ふいに、ねじれた。
光の輪の外の暗がりに、街灯の明かりを歪めて作られたような、細く黒い糸が、何本も、何十本も浮かび上がった。糸は、夜の空気の中を蜘蛛の巣のように張り巡らされ、残っていた魔獣の脚に、胴に、首に絡みついて、灰色の身体を、その場に縫い止めていった。
「……何、これ」
美羽が、紫電を纏ったまま立ち止まった。糸は、光の輪の中の四人には、一本も触れていなかった。運河の向こうの橋の欄干の上に、黒い衣を纏った細い女が、いつの間にか腰を下ろしていた。女の指先から伸びた無数の糸が、街灯の光を受けて、影のように黒く光っていた。
女は、四人の魔法少女には目もくれず、倉庫の屋根の上のナンバー8を、まっすぐに見上げた。女が指先をくいと曲げると、屋根の上に伸びていた影が、ナンバー8の足首に絡みつき、ナンバー8は、闇の中へ沈もうとして、沈めずにその場に縫い止められた。
「……っ!」
「闇に潜る子だと、聞いていたけれど」
女の声は、ひどく淡々としていた。
「影なら、私も作れるの。……光を歪めれば、いくらでも」
ナンバー8は、足首に絡みついた影の糸を見下ろし、それから、橋の上の女に拳銃の銃口を向けた。だが、引き金は引けなかった。ナンバー8の指が、引き金の上で小さく震えているのを、女は、橋の上から黙って見下ろしていた。
「……撃たないのね」
女が、少しだけ首を傾げた。
「あなた、さっきから手足ばかり撃って、一発も急所に向けていない。……面白い子」
女は、それ以上何も言わずに、指先をもう一度くいと曲げた。縫い止められていた魔獣たちが、影の糸に引き絞られて、一体残らず黒い霧になって崩れ落ち、ナンバー8の足首に絡みついていた糸も、するりと解けた。
「帰りなさい」
女は、ナンバー8に向かって、それだけ言った。
「叩き出せ、と言われているの。……捕まえろ、とは言われていないわ」
ナンバー8は、しばらく女を見上げていたが、やがて、銃を下ろして、足元の闇の中へ沈んでいった。最後に一度だけ、光の輪の中の凛花のほうへ顔を向けたように見えたが、その表情までは、闇に紛れて見えなかった。
闇の底を渡りながら、ナンバー8は、銃を胸に抱えたまま、何度も指を折って数えていた。二十三発。運河の上に響いた銃声は、二十三。そのうち、人の身体に当たったのは、手足ばかりの十一発。誰の命にも届かなかった二十三発の銃声が、ちゃんと撃った音として、無響の耳に届いていてくれればいいと、ナンバー8は、祈るように思った。そして、その中の一発だけは、本当に、あと少しで急所に当たるところだった。光の剣の少女の頬を掠めた時の、引き金の感触が、まだ指先に冷たく残っていて、ナンバー8は、闇の中で、その指をきつく握りしめた。
運河沿いに、街灯の明かりが戻ってきた。ねじれていた光が元に戻ると、張り巡らされていた影の糸も、跡形もなく消えていた。橋の欄干の上の女は、ゆっくりと立ち上がると、四人の魔法少女に背を向けて、橋の向こうの暗がりへと歩き出した。
「待ってください!」
凛花が、女の背中に向かって叫んだ。
「あなたは、どなたですか。……どうして、私たちを」
女は、振り返らなかった。黒い衣の裾が橋の向こうの暗がりに溶け込み、それきり、足音さえ聞こえなくなった。
「……何なのよ、今夜は」
真紀奈が、氷の刃を消しながら、苛立たしそうに呟いた。美羽は、まだ紫電を纏ったまま、ナンバー8が沈んでいった倉庫の屋根を見上げていた。春華は、眼鏡を外してハンカチでレンズを拭きながら、凛花の横顔を、一度だけ、ちらりと見た。凛花は、頬に残った熱い風の名残に、そっと指先で触れていた。あの弾丸は、凛花の言葉を止めるためだけに、髪の毛一本分の距離を、正確に選んで撃たれたのだった。
「凛花ちゃん、ほっぺ、大丈夫?」
撃たれた脚を引きずりながら、美羽が、ようやく紫電を収めて駆け寄ってきた。凛花は、頬から指を離して、小さく笑ってみせた。
「ええ。……頬は、風が当たっただけです。肩のほうも、浅いですから」
「あんな正確に撃てるくせに、手足ばっかり。……気味が悪いわね」
真紀奈が、倉庫の屋根を睨みつけたまま吐き捨てると、春華は、拭き終えた眼鏡をかけ直しながら、静かに言った。
「本部への報告は、私が書くわ。……ナンバーズ一体と魔獣十体が出現、四名軽傷、正体不明の第三者の介入により撃退。それで、十分でしょう」
凛花は、春華の横顔を見て、何も言わずに頷いた。報告書に書かれないことが、この夜には、一つだけあった。
商店街の外れの、古い市場の跡を見下ろす雑居ビルの屋上の影が、静かに揺れた。影の中から浮かび上がったゴーストは、屋上の縁に手をついて、眼下の広場を見下ろした。薄くなった水の壁の向こうで、雷を纏って揺れる髪をなびかせた若い女が、大剣と長剣を交差させて、紫の髪の小さな少女の双剣を受け止めていた。
その背中を、ゴーストは知っていた。寮跡の夜、自分を庇って立った、あの背中だった。




