第三百五十二話
同じ頃、駅前の繁華街の裏手にある古い立体駐車場の屋上では、夜風が吹き抜けるたびに、剥がれかけた区画線のペンキが、薄暗い照明の下でかさかさと鳴っていた。
先日の夜に焦げた路地を見下ろせるその屋上の縁に、銀に近いプラチナブロンドの髪を夜風に揺らしたヴィクトリアと、黄金の長い髪を背中に流したルディアが、互いに三台分ほどの距離を空けて立ち、その少し後ろには、漆黒のコートの須藤真里と、赤いリボンと青いリボンで銀髪を二つに結ったルカとリリアが控えていた。
「……焦げ跡が、まだ残っているわね」
ヴィクトリアが、眼下の路地を見下ろしながら、冷ややかに言った。
「炊き出しの後片付けは、あなたのところの信徒の仕事だったはずよ、ルディア・ロンディニウム」
「鍋は洗いましたわ。アスファルトまで磨けとは、聞いておりませんもの、ヴィクトリア・ローゼンベルグ」
「後始末の確認に来たのは、私だけで十分だったのだけれど」
「あら。わたくしが来なければ、あなたが勝手に何を報告書に書くか、分かりませんもの」
二人の間の空気が、ぴりりと張り詰め、ルカがリリアの袖を引っ張って、小声で囁いた。
「ねえリリア、また始まったよ」
「……ん。いつものこと」
その時、ヴィクトリアの懐のスマートフォンが、短く震えた。画面を一瞥したヴィクトリアの紫の瞳が、すっと細くなった。
「……星監の監視網に、街の何か所にも、同時に反応が出ているわ。河川敷、商店街の外れ、協会の本部の近く、それから……」
画面の上に灯った赤い点の一つが、自分の屋敷からさほど遠くない、商店街の外れに重なっていることに気づいて、ヴィクトリアの指が、ほんの一瞬だけ止まった。屋敷には、汐里を預かっている。だが、今から屋上を降りて車を回しても、商店街までは、どれほど急いでも二十分はかかった。紙は、今夜は一枚も届いていなかった。届かなかったということは、あの子にさえ、知らせる暇が与えられなかったということだった。
ヴィクトリアの言葉が終わる前に、屋上を吹き抜けていた夜風の向きが、ふいに変わった。駐車場のスロープの下から、渦を巻くような突風が吹き上がり、その風に乗って、灰色の外殻の魔獣が、何体も、屋上の床へと躍り上がってきた。
魔獣の群れの真ん中に、二つの影が降り立った。短い翠の髪を逆立つ風になびかせたナンバー6が、細い手足に旋風を纏わせ、穂先の細い槍をくるりと回して構え、その隣では、肩までの青い髪の小柄なナンバー5が、指先から伸びる細身の水の刃を下げたまま、表情一つ変えずに、屋上の五人を一人ずつ見つめていた。
「見つけた!」
ナンバー6が、槍の穂先をルディアに向けて、楽しそうに笑った。
「光の教祖と、紫電の女。……繁華街の借り、返しに来てあげたよ」
「まあ。わざわざ、ご丁寧に」
ルディアは、袖で口元を隠したまま、微笑んだ。その右手に、黄金の光が収束していき、蛇の鱗のように無数の節に分かれた刃が、しゃらりと澄んだ音を立てて形を成した。
「真里、ルカ、リリア。……魔獣を、下の通りへ一体も落とさないように」
「「はい、ルディア様!」」
ルカとリリアが同時に床を蹴り、真里が愛用の出刃包丁を逆手に抜いた。ヴィクトリアも、紫電を纏ったレイピアを抜き放ち、切っ先をナンバー6へと向けた。
ナンバー6が、真っ先に飛び込んできた。風に乗った槍の穂先が、目にも留まらぬ速さでヴィクトリアの喉元へ迫り、ヴィクトリアはそれをレイピアで払いながら、返す刃で紫電を放った。だが、ナンバー6の姿は、紫電が届くより早く、屋上の反対側へと移っていた。
「あはっ、遅い遅い!」
ナンバー6は、速さに酔ったように笑いながら、屋上の上を風のように跳び回り、ルカの大鎌も、リリアの双剣も、ナンバー6の残した風の残像を切るばかりだった。その足元を、魔獣の群れがぴたりとついて回り、ルカが大鎌を振りかぶれば、魔獣がその懐へ飛び込んで刃を止め、リリアが双剣で踏み込めば、別の魔獣が横から体当たりをして軌道を逸らした。
「この犬っころ、邪魔!」
「……ん。風の子の、盾になってる」
真里は、屋上の縁へ向かって這い寄る魔獣の群れの前に立ちはだかり、出刃包丁を逆手に握ったまま、一体ずつ確実に捌いていった。鮮魚コーナーで鯛の頭を落とすのと同じ、迷いのない手つきで、包丁の刃が魔獣の外殻の継ぎ目に滑り込み、灰色の身体が、黒い霧になって崩れていく。それでも、スロープの下からは次々と新しい魔獣が這い上がってきて、真里の足元に、一体、また一体と、灰色の影が積み重なっていった。
「……きりがありませんね」
真里は、包丁の刃についた黒い霧を振り払いながら、低く呟いた。眼下の通りには、まだ仕事帰りの人々が行き交っていて、一体でも縁を越えれば、そこは、先日の夜と同じ光景になるはずだった。
ナンバー6と魔獣の動きは、まるで糸でつながっているかのように噛み合っていた。だが、それ以上に厄介だったのは、一歩も動かずに屋上の隅に立っている、青い髪の小柄な少女のほうだった。
ナンバー5は、戦いが始まってから、一度も前に出てこなかった。ただ、指先の水の刃を下げたまま、ヴィクトリアがレイピアを振るうたびに、ルディアが蛇剣を走らせるたびに、首を小さく傾けて、それをじっと見つめていた。
「……雷は、真っ直ぐ。光は、曲がる」
ナンバー5が、ぽつりと呟いた。それから、指先の水の刃を、足元のコンクリートに、そっと突き立てた。
突き立てた一点から、澄んだ水が湧き出し、薄い膜のように屋上の床一面へと広がっていった。水は、ヴィクトリアのヒールの下にも、ルディアの靴の下にも、真里やルカやリリアの足元にも、音もなく満ちていった。
「……っ、いけない!」
ヴィクトリアが叫んだ時には、遅かった。ナンバー6に向けて放たれた紫電が、床の水に触れた瞬間、四方八方へと散らばるように流れ出し、ナンバー6に届く前に、屋上の床全体へと吸い込まれていった。散った雷の余波が、床の水を伝って真里の足元を走り、真里が短く呻いて片膝をついた。
「真里!」
「……っ、平気です、ルディア様。少し、痺れただけで」
「……雷は、水に逃げる」
ナンバー5は、水の刃を床に突き立てたまま、淡々と言った。
「だから、あなたの雷は、もう誰にも届かない」
ヴィクトリアは、レイピアの切っ先を下げたまま、奥歯を噛んだ。床一面に水が張られている限り、紫電を放てば、敵よりも先に、味方の足元を焼くことになる。ルディアが、すかさず蛇剣を走らせた。黄金の鞭が、しなりながらナンバー5の頭上へ回り込み、浄化の光を纏った切っ先が、真上から突き下ろされる。
だが、ナンバー5は、それを見上げもしなかった。左手の指先を軽く振ると、床の水が一筋、細い柱のように立ち上がり、その頂きで、透き通った水の珠を結んだ。蛇剣の光が水の珠を貫いた瞬間、光は、珠の中で大きく折れ曲がり、ナンバー5の肩の脇を素通りして、屋上の縁のコンクリートを焦がした。
「……あら」
ルディアの黄金の瞳が、わずかに見開かれた。
「光を、曲げましたの」
「……光は、水で曲がる。見てれば、分かる」
ナンバー5は、やはり淡々と答えた。繁華街の夜、ナンバー6と共にいたのはナンバー3で、ナンバー5はそこにいなかった。それでも、ナンバー5は、この屋上での数分間だけで、紫電の女の雷と、光の教祖の光とを、すっかり見抜いてしまっていた。
ナンバー6の槍が、風の残像を引いてリリアの脇腹を掠め、ルカの大鎌が魔獣の群れに押し返された。床の水に雷を封じられたヴィクトリアと、水の珠に光を曲げられるルディアとが、屋上の真ん中で、ほとんど同時に背中を合わせた。
「……ヴィクトリア・ローゼンベルグ」
「何かしら、ルディア・ロンディニウム」
「あなたの雷が、水に逃げるのでしたら、水を消して差し上げればよろしいのではなくて?」
「簡単に言うわね。……あなたの光で、どうやってこの水を消すというの」
「わたくしの光は、浄化と、収束の光ですわ」
ルディアは、袖で口元を隠したまま、ほんの少しだけ笑った。
「散らせば照らすだけですけれど、一点に集めれば、焼きますの。……虫眼鏡で、紙を焦がすように」
ヴィクトリアは、背中合わせのまま、一瞬だけ黙り込んだ。それから、小さく、ふん、と鼻を鳴らした。
「……あなたと手を組むのは、これで何度目かしら」
「数えておりませんわ。数えると、腹が立ちますもの」
「同感よ。……三秒、ちょうだい」
「二秒で、十分ですわ」
ルディアが、蛇剣の切っ先を足元の床に向け、黄金の光を、一筋の細い線になるまで絞り込んだ。絞り込まれた光が床の水に触れた瞬間、水は、じゅっと音を立てて白い湯気に変わり、光の線が床を走るたびに、その跡から水が蒸発していき、ヴィクトリアの足元から、ナンバー5の足元へ向かって、乾いたコンクリートの一本道が、真っ直ぐに伸びていった。
「——今ですわ」
ヴィクトリアが、乾いた一本道の上を、紫電を纏って駆け抜けた。レイピアの切っ先が、ナンバー5の胸元へ一直線に迫り、ナンバー5が初めて目を見開いて、水の刃でそれを受け止めた。刃と刃がぶつかり合った瞬間、紫電がナンバー5の水の刃を伝って駆け上がり、ナンバー5の小さな身体が、びくりと跳ねて、屋上の床を転がった。
「ナンバー5!」
ナンバー6が、風を巻き起こしてナンバー5の前に滑り込み、槍でヴィクトリアの追撃を払った。ナンバー5は、痺れた腕を押さえながら、ゆっくりと身体を起こした。表情は、相変わらず変わらなかったが、その青い瞳だけが、乾いた一本道と、ルディアの蛇剣とを、何度も見比べていた。
「……光で、水を焼いた」
「感心してる場合じゃないでしょ!」
「……覚えた。次は、焼かれる前に、張り直す」
ナンバー5が、再び水の刃を床に突き立てた。蒸発しかけた水の跡に、新しい水が、さっきよりも速く、さっきよりも厚く満ちていく。魔獣の群れが、二人の前に壁のように並び、ナンバー6が、ナンバー5の肩に手を置いて、にっと笑った。
「……あんた、喋らないくせに、意外とやるじゃん」
「……ナンバー4ほど、喋らなくていいから、楽」
屋上の床に、再び水が満ちていった。ルディアが、もう一度光を絞り込もうと蛇剣を構え直し、ヴィクトリアが、乾いた一本道の端でレイピアを握り直した。だが、ナンバー5の水が張り直される速さは、ルディアの光が焼く速さを、少しずつ上回り始めていた。
その時、屋上のスロープの入り口のほうから、乾いた銃声が、二発、立て続けに響いた。
床に満ちかけていた水の上に、炎の色をした弾丸が二つ突き刺さり、その瞬間、水面が、ごぼごぼと音を立てて激しく沸き立った。白い湯気が屋上いっぱいに噴き上がり、張り直されかけた水の膜が、見る間に煮え立って、薄い湯気の帳へと変わっていった。
湯気の向こうから、二丁の拳銃を両手に提げた人影が、だるそうに歩いてきた。銃口から立ち昇る煙は、やはり炎の色をしていた。人影は、湯気の中で立ち尽くすナンバー5とナンバー6を一瞥し、それから、屋上の真ん中で蛇剣を構えるルディアを見つけて、心底うんざりしたように肩をすくめた。
「……また、変態教祖のとこか」
「あら」
ルディアは、袖で口元を隠したまま、振り返りもせずに答えた。
「今夜も、たまたまですの?」
「さあね」
人影は、それ以上何も答えずに、二丁拳銃の銃口を、湯気の向こうの翠の髪へと、ゆっくりと向けた。
ナンバー6が、風を巻き起こして跳んだ。速さなら、誰にも負けないはずだった。だが、人影の二丁拳銃は、ナンバー6が跳んだ先ではなく、跳ぼうとする先を、正確に撃ち抜いていた。炎の弾丸がナンバー6の足元のコンクリートを弾き、風の向きをわずかに乱し、乱れた風の上で、ナンバー6の身体が一瞬だけ宙に浮いた。その一瞬に、二発目の弾丸が、ナンバー6の太腿を浅く焼いた。
「……っ、何、こいつ!」
ナンバー6が、焼けた太腿を押さえて着地した。その脇で、ナンバー5が水の刃を床に突き立て、もう一度水を張り直そうとしたが、湧き出した水は、床に広がる端から、炎の弾丸が残した熱に触れて、じゅうじゅうと湯気に変わっていった。人影は、ナンバー5のほうを見もせずに、床の上に、もう二発、炎の弾を撃ち込んだ。屋上の床は、もう水を張れる温度ではなくなっていた。
「……水が、張れない」
ナンバー5が、初めて、わずかに眉を寄せた。乾いた床の上で、ヴィクトリアのレイピアに、再び紫電が満ちていった。
「ナンバー5、退くよ!」
ナンバー6が、焼けた脚を引きずりながらナンバー5の腕を掴み、残った魔獣を盾にして、屋上の縁から、夜の繁華街の上空へと風に乗って跳び出した。ヴィクトリアの放った紫電が、その背中を追ったが、盾になった魔獣が二体、黒い霧になって崩れただけで、翠と青の二つの影は、ビルの谷間の暗がりへ、あっという間に消えていった。
屋上には、白い湯気と、焦げたコンクリートの匂いだけが残った。真里が最後の魔獣を出刃包丁で捌き終え、ルカとリリアが、肩で息をしながら背中合わせに座り込んだ。人影は、二丁拳銃をくるりと回して腰に戻すと、誰とも目を合わせずに、スロープのほうへ歩き出した。
「……お礼くらい、言わせていただけませんの?」
ルディアが、袖で口元を隠したまま、その背中に声をかけると、人影は、振り返りもせずに、片手をひらひらと振っただけだった。
「いらない。……こっちも、命令で来ただけだから」
スロープの暗がりに足音が遠ざかり、やがて、それも聞こえなくなった。ヴィクトリアは、レイピアを下ろしたまま、その暗がりを見つめていた。
「……命令、と言ったわね」
「ええ。あの方たちに命令を下せる方は、一人しかおりませんわ」
ルディアの黄金の瞳が、すっと細くなった。
「天城焔が、動いておりますのね。……この街のあちこちに、自分の使徒を放つほどに」
「あの人が、それほど本気になる理由なんて」
言いかけて、ヴィクトリアは口をつぐんだ。懐のスマートフォンの画面では、自分の屋敷からさほど遠くない、商店街の外れの赤い点が、まだ消えずに脈打っていた。汐里を預かっている屋敷の、すぐ近く。焔が、何を差し置いても動く理由など、この街には一つしかなかった。
「……屋敷の車を、商店街の外れへ。今すぐ」
ヴィクトリアは、レイピアを収めながら、スマートフォンに向かって短く言った。ルディアは、一瞬だけ意外そうにヴィクトリアの横顔を見て、それから、何も言わずに、真里たちに引き上げの合図を送った。
商店街の外れの広場では、水の壁が、また一回り薄くなっていた。汐里の膝はもう錫杖なしでは立っていられないほど震えていて、壁の内側では、奈々美の大剣が、ナンバー1の双剣を受け止めるたびに、ほんのわずかずつ、押し込まれ始めていた。




