第三百五十話
郊外の古い工場の地下は、錆びた配管から落ちる水滴の音だけが響き、天井の古い照明が、床に並んだ八人の少女の影を、長く引き伸ばしていた。
肩の上で紫の髪を跳ねさせた小柄なナンバー1が、大きな瞳をきょろきょろと動かし、白銀の長い髪を背中で一つに結ったナンバー2が、太刀の柄に手を添えて目を伏せ、燃えるような紅い髪を背中に流したナンバー3は、勝ち気な吊り目で一段高い場所を睨んでいた。
背中まで流れる金の髪をかき上げたナンバー4の足元には、肩までの青い髪の小柄なナンバー5が膝を抱えて座り、短い翠の髪のナンバー6は、細い手足を落ち着きなく揺らし、ナンバーズの中で頭一つ抜けて背の高い琥珀の髪のナンバー7は、大槌を肩に担いだまま微動だにせず、壊れた機械の陰では、肩にかかる黒髪のナンバー8が、膝の上に置いた銃に目を落としていた。
一段高くなった場所に、片腕のない、温度のない人の形をしたものが、音もなく立った。
「今夜、出る」
無響の温度のない声が、地下に落ちた。
「全員だ。……今から、組みを告げる」
ナンバーズの間に、ざわめきが走った。これまでは、いつも何日も前に行き先が告げられていた。今から、という言葉に、ナンバー8の指が、膝の上の銃の上で小さく強張った。
「ナンバー2と、ナンバー7。オリジナルを、河川敷へ誘い出せ」
ナンバー2が、弾かれたように顔を上げた。白銀の髪の下の目が、壊れた機械の陰のナンバー8を探し、それから、隣に立つ琥珀の髪の大きな影を、困ったように見上げた。ナンバー7は、何も言わずに小さく頷いただけだった。
「ナンバー3と、ナンバー4。白百合を」
「……白百合」
ナンバー3が、長槍の柄を握り直しながら、口の端を吊り上げた。
「やっと、構えの元に会えるのね」
「ナンバー5と、ナンバー6。繁華街にいた、光の教祖と、紫電の女の一団を。……見つけ次第、当たれ」
ナンバー6が、短い翠の髪を揺らして、細い指をぱきりと鳴らした。
「繁華街の、借りを返せるってわけね」
無響は、閉じていた目をゆっくりと開け、壊れた機械の陰へと顔を向けた。
「ナンバー8。おまえは、一人で協会へ行け」
地下が、しんと静まり返った。ナンバー2が、何かを言いかけて口を開き、そのまま唇を噛んだ。ナンバー8は、顔を上げずに、膝の上の銃を見つめていた。
「おまえの弾は、まだ一発も、誰にも当たっていない」
無響の声は、少しも調子を変えなかった。
「撃てるかどうか、聴かせてもらう」
「……分かった」
ナンバー8は、それだけ答えた。ポケットの中には、何も書いていない黒い紙が一枚入っていたが、今から出るのでは、それを落としに行く時間など、どこにもなかった。
「ねえねえ、あたしは?」
ナンバー1が、紫の髪を跳ねさせて手を挙げると、無響は、ナンバー1のほうへ顔を向けもせずに答えた。
「ナンバー1は、ここで待て」
「ええーっ!?」
「おまえは、勝手に出て、二度負けた。……今夜は、待機だ」
ナンバー1は、頬をぷうっと膨らませて、隣のナンバー7の腕を引っ張ったが、ナンバー7は、ナンバー1の頭に大きな手を一度だけ置くと、何も言わずにナンバー2の後について、通路の奥へ歩き出した。ナンバーズが三々五々散っていき、地下には、膝を抱えたナンバー1だけが残された。
頬を膨らませたまま、ナンバー1は、錆びた配管を見上げていた。寮跡の夜、消えかけた雷を追いかけて、ついに一度も会えなかった人のことを、ナンバー1はずっと考えていた。無響が「消えかけた雷」と呼んだその人は、昔は自分と同じ雷を落としていたのだという。その雷がどんな音をしているのか、ナンバー1はどうしても聴いてみたかった。
ナンバー1は、きょろきょろと周りを見回し、無響の気配が地下のどこにもないことを確かめると、にんまりと笑って立ち上がった。
「……ちょっとだけ、なら、いいよね」
夕方の三神家の台所では、奈々美がエプロンを外しながら、冷蔵庫の中を覗き込んで首を傾げていた。
「あら。お醤油も、卵も、切れてるじゃない」
「俺が、買ってこようか」
包丁を洗っていた零が振り返ると、奈々美は、首を横に振った。
「いいのよ、零は煮物を見ていてちょうだい。……せっかくだから、汐里ちゃんも誘っていこうかしら。あの子、あの屋敷にこもってばかりなんだもの」
「なら、荷物持ちに、俺も行くぞ」
居間のソファから、五郎がいそいそと立ち上がりかけたが、奈々美は、エコバッグを肩にかけながら、にっこりと笑った。
「あなたは、留守番」
「……はい」
五郎は、しおしおとソファに座り直した。縁側では、ヴィルヘルミナが茶をすすりながら、その様子を目を細めて眺めていた。奈々美が玄関を出て、垣根の向こうのヴィクトリアの屋敷の呼び鈴を鳴らすと、すぐに、右頬にえくぼを浮かべた汐里が、嬉しそうに顔を出した。
「先輩!お買い物ですか」
「ええ。付き合ってくれる?」
「はい、喜んで!」
連れ立って歩いていく二人の背中を、零は台所の窓から見送っていた。その時、ポケットの中のスマートフォンが、小さく震えた。家族の誰にも見せたことのない魔獣探知アプリの画面に、赤い点が、一つ、二つと浮かび上がり、やがて、街のあちこちに、ほとんど同時に、いくつもの反応が灯った。
「……同時に、こんなに」
零は、画面を見つめたまま、息を呑んだ。紙は、届いていなかった。届くはずの時間が、なかったのだと、すぐに分かった。
「師匠。……煮物の火、お願いできますか」
「年寄りを、こき使うのう」
ヴィルヘルミナは、湯呑みを置いて、腰を叩きながら立ち上がった。
「行ってこい。……鍋は、焦がさんでおいてやる」
「父さん、俺、ちょっとコンビニ行ってくる」
「おお、気をつけてな。……お前まで出ていくと、父さん、鍋の面倒が急に不安になるぞ?」
五郎の情けない声を背中に聞きながら、零は玄関を飛び出し、角を曲がって人目のない路地の影に入ると、そこで、漆黒のドレスの少女へと姿を変えた。
商店街の外れには、シャッターを下ろしたままの古い市場の跡があり、その前の小さな広場は、夕暮れの買い物客が近道に使う、人通りの絶えない場所だった。
醤油と卵とねぎを詰めたエコバッグを提げて、奈々美と汐里が並んでその広場を横切ろうとした時、汐里が、ふと足を止めた。
「……先輩」
「どうしたの」
「空気が、ぴりぴりします」
汐里の言葉が終わるより早く、市場の跡の錆びたトタン屋根の上で、紫色の小さな稲光が、ぱちりと弾けた。屋根の縁に、肩の上で紫の髪を跳ねさせた小柄な少女が、しゃがみ込むようにして、こちらを見下ろしていた。大きな瞳が、夕暮れの中で、獲物を見つけた猫のように、きらきらと光っていた。
「みーつけた」
ナンバー1は、両手に提げた細身の双剣に、ぱちぱちと紫電を纏わせながら、楽しそうに笑った。
「同じ雷の音がしたんだよね。すっごく、すっごく、ちっちゃいけど。……ねえ、あなたでしょ?消えかけた、雷の人」
奈々美の顔から、すっと表情が消えた。その顔立ちが、いつか家に上げてお茶を出した、あの黒いドレスの子とよく似ていることに、奈々美は一目で気づいていたが、何よりも奈々美を凍らせたのは、少女の背後の夕空に、買い物帰りの母親や、自転車を押す学生や、手をつないだ老夫婦が、何も知らずに行き交っていることだった。
「汐里ちゃん」
奈々美は、エコバッグを汐里の腕に預けながら、低い声で言った。
「周りの人たちを、お願い」
「……はい!」
汐里が、どこからともなく取り出した錫杖の石突きで、アスファルトを一度突くと、澄んだ水が足元から湧き出し、広場を包み込むように広がっていき、半球の形を成して、行き交う人々を、ナンバー1の立つ屋根の側から、すっぽりと隔てた。
水の壁の向こうで、人々は何が起きたのかも分からずに立ち止まり、汐里が「こちらへ!」と声を張り上げると、戸惑いながらも、市場の跡とは反対の路地へと流れていった。
奈々美は、水の壁の内側で、一人、ナンバー1を見上げていた。汐里との間に通った細い水路のような道に、意識を沈めると、胸の奥で、ずっと眠っていた何かが、ゆっくりと目を覚ました。
「……汐里ちゃん、ごめんね」
奈々美が呟いた瞬間、青白い光がその身体を包み込み、光が収まった時、そこには、四十代の母親ではなく、雷を纏って揺れる髪をなびかせた、二十歳ほどの若い女が立っていた。右手には、身の丈に迫るほどの幅広の大剣が、左手には、細く長く伸びた長剣が、それぞれ、紫電を走らせながら握られていた。
「わあ……!」
ナンバー1の大きな瞳が、まんまるに見開かれた。
「すごい、すごい! ほんとに、雷だ!」
「あなた」
奈々美の声は、静かだった。
「ここは、皆がお夕飯の買い物をする場所なの。……遊ぶなら、よそでやりなさい」
「やだ!」
ナンバー1は、屋根の縁を蹴って、紫電の尾を引きながら一直線に飛び降りてきた。両手の双剣が、左右から交差するように、奈々美の首元へ振り下ろされる。
奈々美は、右手の大剣を盾のように立ててその二本を正面から受け止め、刃と刃がぶつかり合った瞬間、紫の雷と、青白い雷とが、広場の真ん中で激しく弾け合い、市場の跡のトタン屋根が、びりびりと震えた。
「重っ……!」
ナンバー1が目を丸くした時には、奈々美の左手の長剣が、大剣の陰から滑るように伸びて、ナンバー1の脇腹を浅く薙いでいた。ナンバー1は、きゃっと声を上げて跳び退き、脇腹の裂けた服を見下ろして、それから、嬉しそうに笑った。
「あはっ。今の、全然見えなかった!」
ナンバー1は、今度は双剣を細かく振り回しながら、紫電の残像を引いて、奈々美の周りを跳び回り始めた。
右から、左から、上から、手数に任せた斬撃が、雨のように降り注ぐ。奈々美は、その一つ一つを大剣で受け、受けた瞬間に、大剣の陰から長剣を返していった。
軽い双剣の手数と、重い大剣と長剣の一撃とが、広場の真ん中で、紫と青白の火花を散らしながら、何度もぶつかり合った。
水の壁の向こうで、汐里は錫杖を握りしめながら、その戦いを見つめていた。二十年以上前、前線の先頭で雷を落としていた先輩の背中が、今、目の前にあった。
だが、汐里の額には、もう、うっすらと汗が滲み始めていた。奈々美が大剣を振るうたびに、汐里の中の水が、ものすごい勢いで向こう側へと汲み出されていく。
人々を守る水の壁を張りながら、先輩に魔力を送り続けるのは、汐里が思っていたよりも、ずっと重かった。
(……三倍、なんて、言われてたけど)
汐里は、錫杖に体重を預けながら、唇を噛んだ。
(……先輩が、本気で振るうと、もっと……)
ナンバー1の双剣が、大剣の縁を滑って、奈々美の頬を浅く掠めた。一筋の赤い線が走り、奈々美は、少しも顔色を変えずに、長剣でナンバー1の双剣の片方を弾き飛ばした。くるくると回りながら宙を舞った剣を、ナンバー1は跳び上がって空中で掴み取り、市場の跡の屋根の上に着地して、肩で息をしながら、それでも楽しそうに笑っていた。
「すごいすごい!星監の人より、ずっとびりびりする!」
「褒めても、何も出ないわよ」
「ねえ、もっと聴かせて! あなたの雷の音、もっと!」
ナンバー1の双剣に、これまでよりもずっと太い紫電が絡みついていき、奈々美は、大剣と長剣を交差させるように構え直した。その背後の水の壁が、ほんの一瞬だけ、波打つように揺らいだ。汐里が、錫杖を支えにして、片膝をついていた。
広場から通り二つ離れた、雑居ビルの屋上の給水塔の陰で、黒髪を金色に染めた女が、緑の瞳を細めて、その一部始終を見下ろしていた。第五使徒、疾風早苗は、焔から汐里を見守るよう命じられて以来、汐里がヴィクトリアの屋敷を出るたびに、こうして遠くから後をつけていたのだった。
「……第七の水が、乱れてる」
早苗は、指先で弄んでいたナイフを止めると、懐から小さな通信の札を取り出して、短く告げた。
「焔様。……第七が一緒にいる、あの雷の人が、襲われてます。相手は、あの音のない奴のところの、紫の子です」
白い壁と白い床だけの、窓のない礼拝堂で、天城焔は、紅蓮の薙刀を膝の上に置いたまま、目を閉じていた。早苗の報せを聞き終えた焔の唇が、ゆっくりと、笑みとは違う形に歪んだ。
「……奈々美に、手を出したのね」
焔は、薙刀を手に取って、静かに立ち上がった。礼拝堂の空気が、焔の足元から、陽炎のように揺らぎ始めた。
「全員、出なさい」
焔の声が、白い礼拝堂の隅々まで響き渡った。
「あの音のない人形どもが、今夜、街のどこに出ていようと構わないわ。……一人残らず、叩き出しなさい」




