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未登録の魔法少女  作者: 浅川


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第三百四十八話

 翌日の夕方、翼の家の縁側から見える裏の雑木林は、昨夜の戦いの跡を隠すように静まり返っていたが、斜面のあちこちには、焼け焦げた土と、凍って割れた地面の名残が、まだ黒い染みのように残っていた。テレサが朝のうちに、庭の端から雑木林の入り口までを見回って、残っていた魔獣の黒い霧の名残を箒で掃き清めていたが、それでも、家の誰もが一度は、窓の外の斜面に目を向けずにはいられなかった。


 居間では、ちゃぶ台を囲む誰もが、いつもより少しだけ口数が少なかった。ゴーストと緋雪が並んで座り、その向かいでルディアが袖で口元を隠し、ヴィクトリアは紅茶のカップに手もつけずに、ゴーストの話に耳を傾けていて、白鳥はちゃぶ台の端で湯呑みを両手で包み、奈緒は白鳥の隣にぴったりとくっついて、ゴーストの顔を不安そうに見上げていた。台所の入り口には、テレサとエリが並んで立っていた。


「北の丘陵から、魔獣を追って下りてきたみたいだったわ」


 ゴーストは、昨夜の雑木林での出来事を、順を追って話し終えると、静かに付け加えた。


「あの二人が、この家に気づいたかどうかは、分からない。……でも、雑木林のすぐ下に、この家の窓の明かりが見えていた」


 ちゃぶ台の周りに、重い沈黙が落ちた。最初に口を開いたのは、ヴィクトリアだった。


「……奈緒ちゃんを、しばらく別の場所へ移しましょう。星監の施設でも、私の屋敷でもいい。ここが知られたかもしれない以上、同じ場所に置いておくのは危険よ」


 奈緒の身体が、びくりと強張った。奈緒は白鳥の袖をぎゅっと握りしめると、首を何度も横に振った。


「やだ」


「奈緒ちゃん」


「やだ。ここが、奈緒のおうちだもん。白鳥さんがいて、テレサがいて、エリがいて、みんながいるところが、奈緒のおうち」


 白鳥は、奈緒の頭にそっと手を置いてから、ヴィクトリアのほうへ顔を向けた。


「ヴィクトリアさんの言うことは、分かるわ。……でもね、この家を空けたら、ここで暮らしてる皆の居場所が、なくなってしまうの。奈緒ちゃんだけじゃない。テレサさんも、エリさんも、行き場がなくてここに来た子たちなのよ」


 台所の入り口で、テレサとエリが、黙って小さく頷いた。ヴィクトリアは、しばらく白鳥の顔を見つめていたが、やがて、静かに息を吐いた。


「……分かったわ。移さずに、守りましょう。星監からは、レイラを交代で詰めさせる」


「わたくしからは、ルカとリリアを」


 ルディアが、袖の陰で穏やかに頷いた。


「あの子たちは、夜通し起きているのは得意ですわ。……我らが神の大切な方々の家ですもの。指一本、触れさせませんわ」


 奈緒は、白鳥の袖を握ったまま、ようやく少しだけ肩の力を抜いて、ゴーストのほうを見た。ゴーストが小さく頷いてみせると、奈緒は、ほっとしたように白鳥の腕に頬を寄せた。


 話し合いが終わった頃には、窓の外はすっかり暗くなっていて、雑木林の向こうの丘の稜線が、黒い影になって夜空に沈んでいた。ゴーストは帰り際に、庭の端に立ってしばらく丘の方角を見上げ、緋雪がその隣に並んで、何も言わずに同じ方角を見つめていた。

 その夜、皆が帰ったあとの翼の家の門を、煎餅の袋を提げた小さな人影がくぐってきた。応対に出た白鳥が目を丸くすると、ヴィルヘルミナは、可憐な少女の顔で、しれっと言った。


「奈緒に、飴を届けに来ただけじゃ」


「……こんな時間に、ですか」


「年寄りは、夜が長いでのう」


 ヴィルヘルミナは、奈緒に苺味の飴を一つ手渡すと、杖をつきながら庭へ下りて、翼の家の周りを、ゆっくりと一周し始めた。杖の先が地面に触れるたびに、目には見えない何かが土の上に描かれていくようで、白鳥と奈緒は、縁側に並んで、その小さな背中を不思議そうに見送っていた。庭を一周し終えると、ヴィルヘルミナは門の前で杖を一度だけ地面に突き立て、空気が、ほんの一瞬だけ、しんと静まり返った。


「……何を、なさったんですか」


 白鳥が尋ねると、ヴィルヘルミナは、腰を叩きながら縁側に戻ってきた。


「あの音のないやつはのう、匂いではなく、魔力の響きで物を探す。……じゃから、この家の周りだけ、響かんようにしてやった。前にうちの縁側で、あやつの測りを湯呑み一つで消したのと、同じ理屈じゃ」


「響かない、ように」


「茶と煎餅の礼じゃ」


 ヴィルヘルミナは、白鳥が淹れた茶を一口すすってから、少しだけ真面目な顔になって付け加えた。


「ただし、聴こえんだけで、見えんわけではないぞ。誰かが目で見に来れば、家はここにある。……その時は、おぬしらの番じゃ」


「おばあちゃん、ありがとう」


 奈緒が、飴を口の中で転がしながら言うと、ヴィルヘルミナは嬉しそうに目を細めて、奈緒の頭を撫でた。


 郊外の古い工場の地下では、ナンバーズが、それぞれの組で魔獣を連れる稽古を始めていた。錆びた配管の下に、灰色の外殻の魔獣が何体も身を低くして並び、その前で、肩の上で紫の髪を跳ねさせた小柄なナンバー1が、魔獣の頭を両手でわしゃわしゃと撫で回していた。


「よしよし、いい子いい子! わんちゃんみたいで、可愛いねえ!」


 その隣で、ナンバーズの中で頭一つ抜けて背の高い、琥珀の髪のナンバー7が、太い腕に大槌を抱えたまま、黙って小さく頷くと、床の下の地中から、魔獣が音もなく顔を出して、ナンバー7の足元に控えた。言葉を一つも使わずに魔獣を動かすナンバー7を見て、ナンバー1は目を輝かせた。


「ナンバー7、すごい! 何も言ってないのに!」


「……言わなくても、いい相手だ」


 ナンバー7が、ぽつりと答えた。少し離れた壁際では、背中まで流れる金色の髪を優雅にかき上げたナンバー4が、魔獣の一体一体に、芝居がかった仕草で名前をつけていた。


「あなたは、アルフォンス。あなたは、ベアトリーチェ。それから、あなたは——」


「……覚えられない」


 ナンバー4の足元で、肩までの青い髪を揺らした小柄なナンバー5が、指先の水の刃を見つめたまま、淡々と言った。


「全部、同じ顔をしてる」


「顔ではありませんわ。魂が違いますのよ」


 ナンバー5は、それ以上何も言わずに、手近な魔獣に指先を向けて、黙って動かしてみせた。ナンバー4は、ぷいと顔を背けた。

 壊れた機械の陰では、背中まで届く白銀の長い髪を一つに結い、太刀を腰に提げたナンバー2が、一体の魔獣を間に挟んで、ナンバー8と並んで座っていた。肩にかかる黒髪を指先で払いながら、ナンバー8が魔獣の背に手を置くと、ナンバー2は、間に何かがいるほうが落ち着くらしく、いつもの冷たい顔を少しだけ取り戻して、魔獣の頭を撫でていた。


「……この子、温かい」


「……ああ」


 ナンバー2は、魔獣の頭を撫でる手を止めずに、ちらりとナンバー8の横顔を盗み見た。中州で庇われた夜から、ナンバー2は、ナンバー8の隣に座ることを、前ほど怖がらなくなっていたが、それでも頬に差す赤みだけは、どうしても消せないようだった。

 ナンバー8は、合図一つで迷いなく動く魔獣の群れを、黙って見渡していた。この魔獣たちが街に向けられた時、最初に牙を向けられるのは、魔法少女ではなく、夜道を歩く誰かかもしれなかった。魔獣の背に置いた手のひらが、知らず冷たくなっていた。


 その夜更け、北の丘陵の雑木林の上に、片腕のない人の形をしたものが、音もなく立っていた。無響は目を閉じたまま、丘の向こうへ、長い間耳を澄ませていた。

 雑木林の斜面の先には、ナンバー1とナンバー7が魔獣を追って下りていった谷があり、その谷のどこかに、オリジナルと黒髪の小さな剣の子がいたはずだった。だが、どれほど耳を澄ませても、その先からは、魔力の波形一つ聴こえてこなかった。人の家の気配も、魔法少女の気配も、何もない。ただ、虫の声と風の音だけが、谷の上を通り過ぎていった。

 何もない場所なら、何もない音がするはずだった。だが、その谷から聴こえてくるのは、何もない音ではなく、何かを丁寧に塗り潰したような、不自然な無音だった。


「……響かない」


 無響の温度のない声が、夜の雑木林に落ちた。


「あの魔女と、同じ音だ」


 無響は、それ以上何も言わずに、長い間その無音を聴き続けていた。何もないと判断したのか、何かが隠されていると見抜いたのか、温度のない顔からは何一つ読み取れないまま、やがて、片腕のない人の形は、夜の闇の中へ、音もなく溶けて消えていった。


 翌日の夕方、三神家の縁側では、澪が両手を胸の前で丸く合わせ、目を閉じて籠の稽古を続けていた。手のひらの間で回る空気の中で、小さな炎が揺らぎもせずに燃えていて、その様子を、居間の座布団に寝転がった五郎が、テレビのリモコンを片手に、首を傾げながら眺めていた。


「なあ、澪。それ、何の体操だ?」


「体操じゃないわよ」


「じゃあ、ヨガか? 母さんも最近、腰が痛いって言ってたし、教えてやったらどうだ」


「ヨガでもないってば!」


 澪が目を開けて振り返った途端、手のひらの間の炎が、ふっと消えた。澪は五郎を睨みつけたが、五郎は「おお、すまんすまん」と笑って、またテレビに目を戻した。

 その時、玄関の戸が開いて、翼の家に一晩泊まってきたらしいヴィルヘルミナが、杖をつきながらのんびりと帰ってきた。台所で夕飯の支度をしていた零は、包丁を置いて廊下へ出ると、ヴィルヘルミナの横に並んで、小声で頭を下げた。


「……師匠。ありがとうございました」


「何のことじゃ」


 ヴィルヘルミナは、とぼけた顔で縁側のほうへ歩いていきながら、零の肩を、杖の先で軽く一度だけつついた。


「年寄りが夜に散歩をしたら、たまたま煎餅を一袋、食べ損ねただけじゃ」


 台所の奥では、奈々美が味噌汁の鍋をかき混ぜながら、廊下の二人のやり取りを、何も言わずに横目で見ていた。奈々美の口元には、ほんの僅かに、困ったような笑みが浮かんでいた。


 その夜、郊外の古い工場の地下で、前の晩に北の丘陵から戻っていた無響が、一段高くなった場所に音もなく立った。ナンバーズは、稽古の手を止めて、一段高くなった場所を一斉に見上げた。紫も、白銀も、紅も、金も、青も、翠も、琥珀も、そして壊れた機械の陰の黒も、ゴーストとよく似た顔をした八人の少女たちが、無響の言葉を待っていた。


「次は、街に出る」


 無響の温度のない声が、地下に落ちた。


「魔獣を連れて。……狙うのは、魔法少女ではない。魔法少女を呼ぶための、人の多い場所だ」


 ナンバーズの間に、ざわめきが走った。燃えるような紅い髪を背中に流したナンバー3が、勝ち気な吊り目を細めて、長槍を握り直し、短い翠の髪を揺らしたナンバー6が、細い手足を落ち着きなく弾ませた。


「出るのは、ナンバー3と、ナンバー6。四日後の夜。駅前の、繁華街」


 無響は、少しも声の調子を変えずに続けた。


「人が逃げ惑えば、魔法少女は、必ず来る。……来た者を、魔獣と共に、迎えろ」


 ナンバー3とナンバー6は、顔を見合わせて、同時に頷いた。今度の出撃は、八人全員が聞いている場で告げられていた。紙を落としても、ナンバー8一人だけが疑われることはないはずだった。

 それでも、ナンバーズが三々五々散っていったあと、壊れた機械の陰に戻ったナンバー8の指は、ポケットの中の黒い紙を握ったまま、小刻みに震えていた。魔獣を連れて、人の多い繁華街へ出る。逃げ惑う人々の中で、魔獣が誰に牙を向けるのかを考えると、ナンバー8は息が苦しくなった。ナンバー8は震える指で黒い紙を取り出し、角張った字を、一文字ずつ書きつけ始めた。

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