第三百四十七話
その夜、ナンバー8は一睡もできなかった。肩にかかる黒髪を指先で弄びながら、ゴーストとよく似た少女の顔を膝に埋め、腰の黒い銃に時々手を触れては離して、壊れた機械の陰で膝を抱えたまま、無響の温度のない声を何度も頭の中でなぞり、おまえにだけ教える、というその一言に行き当たるたびに、背中に冷たいものが走った。
北の運河沿いの製材所跡に誰かが待ち構えていれば、教えたのは自分しかいないことになり、何も知らせなければ、ナンバー3とナンバー6が誰かを襲うかもしれず、どちらを選んでも、無響の目はきっとそれを聴き取るはずだった。
夜が明けて、地下のナンバーズがそれぞれの持ち場に散っている昼のうちに、ナンバー8は影を渡って北の運河へ向かった。運河沿いの製材所跡は、錆びたトタン屋根が半分崩れ落ち、積み上げられたまま朽ちた材木の山に雑草が絡みついた、何年も前に閉鎖された廃墟で、周りには民家も工場もなく、夜勤の灯りが点るような建物は一つも見当たらなかった。
崩れた屋根の隙間から差し込む光の中で、ナンバー8はしばらく立ち尽くし、ようやく、ここは誰かを襲うための場所ではないのだと悟った。誰が来るのかを確かめるための、空っぽの舞台だった。
その夜、ナンバー8は紙を書かなかった。代わりに影を渡って、湾岸の外れに立つ高い送電鉄塔の頂上へ上がり、初めてオリジナルと話した鉄骨の上に、自分の闇で影を一つだけ落とした。来たくなったら、どこでもいいから、影を一つ落としなさい、あなたの闇なら、私には分かるから、と言ったオリジナルの声を、ナンバー8は鉄骨の上で膝を抱えながら思い出していた。
夜風が甲高く鉄骨を鳴らし続けて、どれくらい経った頃だったか、ナンバー8の足元の細い影が揺れ、漆黒のドレスの少女が音もなく浮かび上がってきた。夜の見回りの途中で、遠くの鉄塔の上に、自分と同じ色の闇がぽつんと一つだけ灯っているのに気づいたのだと、ゴーストは息を整えながら言った。
「……紙じゃないのね」
「紙は、もう落とせない」
ナンバー8は、膝を抱えたまま答えた。
「明後日の夜、北の運河の、製材所の跡。ナンバー3とナンバー6が出る。……でも、それを教えられたのは、俺だけだ。他の誰も知らない」
ゴーストの顔が、僅かに強張った。
「誰か来たら、俺が漏らしたことになる。……あそこには、誰もいない。昼に見てきた。家も、工場も、何もない。誰も襲われない。だから」
ナンバー8は、そこで一度言葉を切り、それから、ゴーストの目をまっすぐに見た。
「誰も、来るな。……罠だ」
ゴーストは、しばらくナンバー8の顔を見つめていたが、やがて、静かに頷いた。
「分かったわ。誰も行かせない」
「……それだけだ」
ナンバー8が立ち上がりかけると、ゴーストは、少しだけ口元を緩めた。
「今日のは、紙より、ずっといい合図だった」
ナンバー8は、照れくさそうにふいと目を逸らし、何も言わずに、足元の影の中へ沈んでいった。
翌朝、三神家の玄関の呼び鈴が鳴ったのは、零がちょうど五つ目の弁当の蓋を閉めた時だった。出勤前の五郎が新聞を片手に戸を開けると、白百合の制服の上着を腕に掛けた緋雪が、少しだけ緊張した顔で、風呂敷に包んだ小さな包みを両手に抱えて立っていた。
「おはようございます。……あの、これを、零くんに」
「おお、緋雪ちゃん! 朝からどうしたんだい」
「お弁当、です。……たまには、私が作ったものを、と思って」
五郎が目を丸くしているうちに、台所から奈々美が顔を出し、「あらあら」と嬉しそうに微笑みながら、エプロンで手を拭いて玄関に出てきた。
「零、緋雪ちゃんよ。……ほら、あなたが作ったお弁当、一つ余るわね。お父さんのが二つになるわ」
「いや、父さんは一つで十分だぞ、奈々美」
台所の入り口から顔を出した零は、緋雪の手の中の包みを見て、言葉を失ったまましばらく固まっていた。緋雪は頬を赤く染めながら、包みを零の手に押しつけると、「行ってきます」と早口で言って、足早に門を出ていった。
昼休みの教室で零が風呂敷をほどくと、前の席の椅子をくるりと反転させた狭間稔が、身を乗り出して弁当箱を覗き込み、目を見開いた。ふっくらと層の重なっただし巻き卵に、味が中までしっかり染みた筑前煮、ほうれん草の胡麻和えに、小ぶりな鮭の塩焼きまで、彩りよく隙間なく詰められていた。
「なんだその弁当……店のやつか? いや、お前の母ちゃんのとも、お前のとも、なんか違うよな」
「……違う」
「違うって、何が」
「俺が作ったんじゃない」
稔の顔が、みるみるうちに驚愕に染まっていった。
「まさか……彼女か!? お前、彼女の手作り弁当なのか!? 誰だよ、どこの誰だよ!」
「……言わない」
「言えよ! ずるいぞ!」
零は、騒ぐ稔を無視して、だし巻き卵を一切れ口に運んだ。噛んだ瞬間、口の中に、昆布と鰹の出汁がじんわりと広がっていき、零は思わず箸を止めた。缶詰の蓋を開けてそのまま夕食にしていた頃から、ずいぶん腕を上げたことは知っていたが、ここまで丁寧な出汁を引くようになっていたとは思っていなかった。
「……俺のより、出汁が丁寧かもしれない」
「は? 何の勝負してんだよ、お前」
その夜、零が「美味しかった。出汁、何使った?」とメッセージを送ると、緋雪からはすぐに「秘密」と一言だけ返ってきて、その後ろに、少しだけ誇らしげな顔の絵文字が添えられていた。
そして、無響が告げた三日後の夜、北の運河沿いの製材所跡には、崩れかけたトタン屋根の下で、二人の少女が退屈そうに材木の山に腰掛けていた。一人は、燃えるような紅い髪を背中に流し、ゴーストと同じ顔に勝ち気な吊り目を光らせて、身の丈ほどもある長槍を肩に担いだナンバー3で、もう一人は、短めの翠の髪を夜風に遊ばせ、すらりと細い手足を落ち着きなく揺らしながら、槍を胸に抱えたナンバー6だった。その奥の暗がりには、片腕のない人の形をした無響が、目を閉じたまま立っていて、廃墟の周りの雑草の陰には、無響が伏せておいた灰色の魔獣が、何体も身を低くして息を潜めていた。
夜が更けても、誰一人来なかった。運河を渡る風が、崩れた屋根のトタンを時々からからと鳴らすだけで、人の足音も、魔法少女の気配も、どこからも近づいてこなかった。
「……来ないじゃない」
ナンバー3が、長槍の穂先で足元の砂利をつつきながら、苛立たしそうに言った。ナンバー6は大きなあくびを一つして、それから、雑草の陰に伏せていた魔獣の一体に、何気なく指先を向けた。
「ねえ、あんた。あっち」
ナンバー6が指を右へ振った瞬間、魔獣は音もなく雑草の陰から飛び出して、右手の材木の山の向こうへ駆けていった。ナンバー6は、目を瞬かせた。
「……え、速い」
ナンバー3も、面白がるように長槍の穂先を左へ振ってみせると、今度は三体の魔獣が、一斉に左の廃材の陰へ回り込んだ。合図を出した瞬間に、その通りに、迷いなく動く。喋らず、言い返さず、文句も言わない。ナンバー3とナンバー6は、互いの顔を見合わせると、試すように、次々と合図を出し始めた。右、左、囲め、崩せ。灰色の魔獣の群れは、二人の手足のように製材所跡を駆け回り、朽ちた材木の山を、あっという間に崩してみせた。
「……あんたと組むより、こいつらを手足にしたほうが、よっぽど早いじゃない」
ナンバー3が、呆れたように呟いた。
「それは、お互い様でしょ」
ナンバー6はそう言い返したが、否定はしなかった。暗がりの中で、無響は、誰も来なかったことよりも、その光景を、長い間黙って聴いていた。
同じ夜、翼の家の裏手の雑木林では、木々の間から差し込む月明かりの中で、黒髪の少女が、嬉しそうに剣を振っていた。
「お姉ちゃん、見て! こう?」
「ええ。でも、振った後に肩が上がってるわ。……もう少し、肩の力を抜いて」
奈緒は、ゴーストに言われた通りに肩を下ろし、もう一度剣を振った。剣の刃に纏わせた炎が、夜気の中で赤い弧を描き、返す刃からは、細い氷の筋が雑木林の地面を走っていった。奈緒も、お姉ちゃんと組める、と円卓の会議で言った奈緒の言葉を、ゴーストはずっと覚えていて、白鳥の許しを得て、翼の家の裏の雑木林で、二人きりの小さな組み稽古をつけていたのだった。
その時、奈緒の剣が、ぴたりと止まった。紅色の瞳がすっと細められ、奈緒は、雑木林の奥の暗がりを見つめた。
「……お姉ちゃん。変な匂い」
「匂い?」
「お姉ちゃんの匂いに、似てる。……でも、違う。雷と、土の匂い。それと、魔獣がいっぱい」
ゴーストの背筋が、ぴんと強張った。次の瞬間、雑木林の斜面の上から、紫の稲光がばちばちと弾ける音と、地面を踏みしめる重い足音が聞こえてきて、灰色の魔獣の群れを先に立てた二つの人影が、木々の間から斜面を下りてきた。
「ナンバー7、あっちにも魔獣、いるかなあ。……あれ?」
先を歩いていたのは、肩の上で跳ねる紫の髪に、子供のように大きな目をした小柄な少女で、両手には紫電を纏った双剣を、玩具のようにくるくると回していた。斜面の途中で足を止めたナンバー1は、月明かりの中に立つ漆黒のドレスの少女を見て、目を真ん丸にした。その後ろには、ナンバーズの中で頭一つ抜けて背の高い、肩幅の広い琥珀の髪の少女が、太い腕で大槌を肩に担いだまま、眉間に皺を寄せた無表情のまま、ぴたりと固まっていた。
「……え? オリジナル? なんで、ここにいるの? 今日の予定に、ないよ!」
北の丘陵で魔獣を集めておけ、と無響に命じられて、魔獣の群れを追って丘を越えてきた二人にとっても、それはまるで予定にない出会いだった。
「奈緒、後ろに!」
ゴーストは、慌てて奈緒を背中に庇いながら、右手に闇を集めて漆黒の大剣を呼び出した。奈緒は「お姉ちゃんのそっくりさん、いっぱい……!」と目を丸くしながらも、炎を纏った剣を、両手でしっかりと構え直した。
「よく分かんないけど、遊んでくれるならいいや! ナンバー7、魔獣、出して!」
ナンバー1が叫ぶより早く、ナンバー7は黙ったまま、大槌で斜面を一度だけ叩いた。地面が低く唸り、ゴーストと奈緒の足元の土の中から、灰色の魔獣が次々と湧き上がってきて、二人を囲むように壁を作った。その壁の上を、ナンバー1が紫の稲光になって跳ね回り、魔獣を囮にしながら、四方から双剣で斬りかかってくる。言葉を交わさなくても、魔獣が二人の間に入って、ナンバー1の雷とナンバー7の大地を、勝手に繋いでいた。河川敷で喧嘩しながら逃げていった二人とは、まるで別の組だった。
「……っ、噛み合ってる」
ゴーストは、大剣でナンバー1の双剣を受けながら、歯を食いしばった。足元から湧き上がる魔獣の壁は、倒しても倒しても、ナンバー7が大槌を叩くたびに、地中から新しく生まれてくる。
「お姉ちゃん、右の下! 三つ、来る!」
奈緒が、剣を構えたまま叫んだ。魔力の匂いを嗅ぎ分ける奈緒の鼻は、まだ地中にいる魔獣の位置を、湧き上がる前に正確に捉えていた。奈緒はそのまま右手の地面に剣を突き立て、刃から走った氷が、魔獣が湧き上がろうとしていた土を、一瞬で白く凍りつかせた。凍った地面の下で、魔獣がもがく鈍い音がした。
「そこね!」
ゴーストは影を渡って、凍った地面の真上に浮かび上がり、大剣に炎を纏わせて振り下ろした。紅蓮の炎が凍った地面ごと魔獣を焼き払い、湯気と黒い霧が、月明かりの中に立ち昇った。
「次、左! 大きいの、一つ!」
奈緒が嗅ぎ当て、奈緒の氷が地面を封じ、ゴーストの炎がそれを焼く。闇と氷と炎を抱えたゴーストと、炎と氷を抱えた奈緒の、即席の連携だった。言葉は短く、迷いがなく、魔獣の壁は、湧き上がるより早く、一つずつ崩されていった。
「わあ、あの小さい子、すごい! 土の中、見えてるの?」
ナンバー1が、稲光になって跳ねながら、楽しそうに笑った。その隙に、奈緒が斜面を駆け上がり、大槌を振り上げかけたナンバー7の懐へ飛び込んだ。炎を纏った奈緒の剣が、大槌の柄を、根元から一息に断ち割った。ナンバー7は、柄だけになった大槌を見下ろして、珍しく目を見開いた。
同じ瞬間、ゴーストの大剣が、ナンバー1の双剣を横から薙いだ。闇と炎を重ねた刃に打たれて、紫の双剣が二本とも、ナンバー1の手から弾き飛ばされて斜面の下の茂みへ落ちていった。
「あーっ! また剣、なくなっちゃった!」
ナンバー1は、空っぽになった両手をひらひらと振りながら、柄だけの大槌を抱えたナンバー7の腕を引っ張った。
「予定にないもん、今日は帰る! ナンバー7、行こ!」
ナンバー7は、何も言わずに頷くと、ナンバー1の腕を掴んだまま、足元の地面の中へ沈むように姿を消し、紫の稲光が一筋、丘の向こうの夜空へ駆け上がっていった。残された魔獣の群れも、主を失って、黒い霧になって次々と消えていった。
雑木林に、夜の虫の声だけが戻ってきた。奈緒は剣を下ろして、肩で大きく息をしながら、ゴーストを見上げた。
「お姉ちゃん、奈緒、組めた?」
「……ええ。組めたわ」
ゴーストは、奈緒の頭に、そっと手を置いた。奈緒は、嬉しそうに目を細めた。だが、ゴーストの目は、二人が消えていった丘の向こうと、雑木林のすぐ下に灯る翼の家の小さな窓の明かりとを、何度も見比べていた。あの二人が、この雑木林のすぐ向こうに何があるのかに気づいたのかどうか、ゴーストには分からなかった。
工場の地下に戻った無響は、壊れた機械の陰で膝を抱えていたナンバー8の前に、まっすぐに立った。
「誰も、来なかった」
「……そうか」
ナンバー8が短く答えると、無響はしばらくナンバー8の顔を見下ろし、それから、ゆっくりと口を開いた。
「漏れは、おまえではなかったか。……あるいは」
無響はそこで言葉を切り、それ以上は続けなかった。そこへ、剣を失ったナンバー1と、柄だけの大槌を抱えたナンバー7が、前後して地下に戻ってきて、ナンバー1は、無響の顔を見るなり、楽しそうに報告を始めた。
「お母様、北の丘でね、オリジナルに会ったの! 黒い髪の、小さい剣の子と一緒だった! その子、土の中の魔獣、全部見えてるみたいだったよ!」
ナンバー8の肩が、僅かに強張った。ナンバー1は、そんなことには気づかずに、はしゃいだまま続けた。
「でもね、魔獣と一緒だと、ナンバー7と喧嘩しなかったの! 魔獣が間に入ってくれるから、何にも言わなくても、ちゃんと噛み合ったの!」
ナンバー7が、柄だけの大槌を抱えたまま、黙って小さく頷いた。無響は、製材所跡で聴いた光景と、ナンバー1の報告とを、温度のない目の奥で重ね合わせるように、しばらく黙っていた。
「おまえたちは、まだ、互いの癖を知らない」
無響の声が、地下に落ちた。
「だが、魔獣の癖は、もう知っている。……次からは、魔獣を連れて出ろ」
ナンバー1が「わんちゃんみたいで可愛いもんね!」とはしゃぎ、ナンバー3とナンバー6が、珍しく同時に頷いた。
「それと、北の丘陵」
無響は、少しも声の調子を変えずに、短く付け加えた。
「……覚えておく」
壊れた機械の陰で、ナンバー8は、膝を抱えた腕に、知らず力を込めていた。魔獣を手足にしたナンバーズが街に出れば、狙われるのは魔法少女ではなく、夜道を歩く誰かになるかもしれなかった。そして、何度も紙を落としに通ったあの家が、北の丘のすぐ先にあることを、ナンバー8は誰よりもよく知っていて、その丘の先に何があるのかを、無響は今、聴き始めていた。




