第三百四十六話
工場の地下には、八人のナンバーズが一人残らず集められていて、錆びた配管の下に並んだ少女たちは、誰もが一段高くなった場所の無響を見上げたまま、口を閉ざしていた。ナンバー2の太刀の刃には、中州で弾き飛ばされた時の細い傷がまだ残り、ナンバー3の肩口には、凛花の光に裂かれた跡がうっすらと白く浮いていて、ナンバー4の右手は、失った光の剣の代わりを作り直したばかりで、まだ少しぎこちなく握られていた。
「四度、出た」
無響の温度のない声が、地下に落ちた。
「河川敷。再開発地区。港の倉庫街。川の中州。……四度とも、向こうがいた」
ナンバーズの間に、小さなざわめきが走った。
「ナンバー1とナンバー7の時だけは、少し違ったな。ナンバー1が勝手に出た。だから、向こうも、たまたま居合わせた者で受けた。……だが、残りの三度は違う。場所も、日も、組みも、向こうは知っていた」
無響は、閉じていた目をゆっくりと開け、並んだナンバーズを、端から一人ずつ見渡していった。その目が、壊れた機械の陰の黒い髪の上で、ほんの一瞬だけ長く止まった。
「……ナンバー8の弾、一発も当たらなかったじゃない」
壁際から、ナンバー3が低い声で言った。紅い髪の下の目が、ナンバー8を射抜くように睨みつけていた。
「中州で、オリジナル相手に一発も。倉庫の屋根でも、鉄塔の上でも、あんたはいつも、ちょっと離れたところにいた。……おかしいと思わないの、みんな」
ナンバー8は、膝を抱えたまま、何も言い返さなかった。言い返せば、言葉のどこかで何かがこぼれそうだった。その時、ナンバー8の前に、白銀の髪の少女が一歩、進み出た。
「ナンバー8は、私を庇った」
ナンバー2の声は、いつものように冷たく静かだったが、太刀の柄を握る指は、白くなるほど力が込められていた。
「オリジナルに太刀を弾かれて、私が膝をついた時、ナンバー8は、オリジナルと私の間に立った。……疑うなら、私も疑って」
地下が、しんと静まり返った。普段は誰とも口をきかないナンバー2が、これほどはっきりと誰かを庇うのを、ナンバーズは誰一人として聞いたことがなかった。ナンバー3は、何か言い返そうとして口を開き、それから、舌打ちを一つして顔を背けた。
「ねえねえ、じゃあさあ」
重い空気をまるで気にせず、ナンバー1が首を傾げた。
「誰か、お喋りさんがいるのかな? 向こうに、こっそり教えてる子が——」
言い終わる前に、大柄な琥珀の髪の少女の手が、横からナンバー1の口をぴたりと塞いでいた。ナンバー7は、何も言わずにナンバー1の口を手で覆ったまま、無響のほうへ小さく首を振った。
「むぐっ……むー!」
ナンバー1がじたばたともがいたが、ナンバー7の手はびくともせず、壁際でナンバー6が、思わず吹き出しかけて口を押さえた。無響は、その様子を温度のない目で見下ろしていたが、やがて、誰を咎めることもなく告げた。
「次の行き先は、まだ誰にも告げない」
それだけ言って、無響はまた目を閉じた。ナンバーズが三々五々散っていく中、ナンバー8は膝を抱えたまま、背中に冷たい汗がひと筋流れていくのを感じていた。ナンバー2が、一度だけこちらを振り返り、何か言いたげに唇を動かしたが、結局何も言わずに、通路の奥へ消えていった。
学校からの帰り道、零は夕暮れの商店街で鯵を買い、八百屋の店先で新じゃがを選びながら、昨夜の中州のことを何度も思い返していた。影の中で向き合ったナンバー8の黒い瞳は、怯えているようにも、何かを決めかねているようにも見えて、あの子が今、あの工場の地下でどんな顔をしているのかを考えると、手に提げた買い物袋が、いつもより少しだけ重く感じられた。
その夜、三神家の食卓には、零が作った鯵の南蛮漬けと、新じゃがの煮っころがしと、豆腐とねぎの味噌汁が並んでいて、五郎はビールの缶を片手に、上機嫌で南蛮漬けをつついていた。夕食が済んで、零が台所で洗い物を始めた頃、澪は湯呑みを二つ持って、縁側で月を見上げていたヴィルヘルミナの隣に腰を下ろした。
「……ミナちゃん」
「なんじゃ」
「この前の話の、答え」
ヴィルヘルミナは、差し出された湯呑みを受け取りながら、何も言わずに澪の横顔を見た。台所で皿を洗う水音が、ほんの少しだけ小さくなった。
「今は、行かない」
澪は、月を見上げたまま、はっきりと言った。
「港で霧を籠に入れられたのは、緋雪さんと飛鳥が、私の後ろで時間を稼いでくれたからよ。その前の夜、ミナちゃんに教わって、お父さんがうるさく心配して、零が夜食を作ってくれたからよ。……一人で遠くに行って、同じことができるとは思えない」
澪は、両手で包んだ湯呑みに目を落とした。
「でも、いつか、自分の足で行く。誰かに連れていってもらうんじゃなくて、自分で決めて、自分で行く。……その時まで、ここで籠を極める」
ヴィルヘルミナは、しばらく黙って茶をすすっていたが、やがて、ゆっくりと頷いた。
「ええ答えじゃ」
その時、居間のほうから、がしゃん、という音がした。こっそり聞き耳を立てていた五郎が、安堵のあまり、テーブルの上の缶ビールを倒してしまったのだった。
「あなた!」
「す、すまん、手が滑って……」
「台拭き、台拭き! 畳に染みるじゃないの!」
奈々美の叱る声と、五郎の慌てた声が、居間から賑やかに聞こえてきて、縁側で澪が肩を震わせて笑い出した。台所では、零が洗い物の手を止めたまま、窓に映る姉の背中を、黙って見つめていた。
「……でも、ミナちゃん」
笑いが収まったところで、澪が少しだけ寂しそうに言った。
「答えが出たら、帰っちゃうんでしょう。……そういう約束だったものね」
「そうじゃったかのう」
ヴィルヘルミナは、とぼけた顔で湯呑みを傾けた。
「答えは出たが、おぬしの籠の稽古は、まだ半分じゃ。それに、もう一人の弟子の六十点も、せめて八十点にはしてやらんとのう。……年寄りは、やりかけの仕事を残して帰るのが、一番嫌いなんじゃ」
「もう一人の弟子?」
「こっちの話じゃ」
居間から、台拭きを手にした奈々美が顔を出して、くすりと笑った。
「じゃあ、ミナちゃんのお部屋は、そのままにしておくわね」
「頼むぞ、奈々美殿」
台所の窓に映るヴィルヘルミナの横顔に向かって、零は小さく頭を下げ、また洗い物の続きに戻った。
翌日の夜、翼の家の居間では、ちゃぶ台を囲んで、ゴーストと緋雪、ヴィクトリアとルディア、白鳥が顔を揃えていて、台所のほうからは、テレサとエリが湯呑みを洗う音と、奈緒がそれを手伝う楽しそうな声が聞こえていた。ゴーストは、ナンバー8の紙に書かれていた最後の一行と、中州の影の中で交わした言葉を、順を追って話した。テレサが書き写した『俺も、出る。撃たなきゃいけない。』という几帳面な文字の写真が、ちゃぶ台の真ん中に置かれたスマートフォンの画面に映っていて、誰もがしばらく、その一行から目を離せずにいた。
「……あんたに当てるのは、嫌だ、と言ったのね」
ヴィクトリアが、紅茶のカップを受け皿に戻しながら、静かに言った。
「ええ。だから、全部私が躱したことにして、と言ったの」
「それで、あの子は向こうに戻った」
ヴィクトリアは、しばらく紅茶の表面を見つめていたが、やがて、少しだけ眉を寄せた。
「……一つ、気になることがあるわ。私たちは、紙が届くたびに、完璧に待ち伏せしてきた。場所も、日も、組みも、全部当てて。……向こうがそれに気づかないはずがない。寮跡の夜から数えて四度も続けば、どこから漏れているのか、必ず探し始める」
ちゃぶ台の周りが、しんと静かになった。寮跡の夜から数えて四度の待ち伏せのどれもが、紙一枚から始まっていたことを、そこにいる誰もが知っていて、その紙を落とし続けている少女が、いま工場の地下でどれほど危うい場所に立っているのかを、ヴィクトリアの言葉が、改めて突きつけていた。
「次は、紙が来ても、全部は備えないほうがいいかもしれない」
ヴィクトリアは、ゆっくりと言った。
「わざと遅れて駆けつけるとか、人数を減らすとか。……あの子を守るためには、こちらが、少しだけ負けてみせる必要があるわ」
「負けてみせる、か」
緋雪が、膝の上で手を握りしめた。
「誰かが、その分、傷つくことになるわ」
「ええ。だから、慎重に選ばないといけないの」
ルディアが、袖で口元を隠したまま、静かに口を開いた。
「わたくしは、いずれ、あの方をお救いしたいと思っておりますわ。……我らが神の写しが、たった一人で、我らが神のために嘘をつき続けているのですもの。その嘘が、いつまでも続くとは思えませんわ」
「お救いするって、どこへ」
ゴーストが問うと、ちゃぶ台の向こうで、白鳥が湯呑みを置いて、あっさりと言った。
「うちでいいじゃない。一人増えても、構わないわ。……奈緒ちゃんだって、テレサさんだって、最初は皆、どこにも行き場がなかったんだもの」
台所のほうから、奈緒の「お姉ちゃんのそっくりさん、来るの?」という嬉しそうな声が聞こえてきて、ゴーストは、思わず口元を緩めた。
「……ありがとう、白鳥さん」
ゴーストは、ちゃぶ台の上に視線を落としたまま、小さく言った。影の中で、変な奴だな、と言ったナンバー8の震える声が、耳の奥で、もう一度だけ響いていた。次に紙が届いた時、どこまで備え、どこまで負けてみせるのかは、その夜のうちには決まらず、湯呑みの茶が冷めていくのを、五人はそれぞれ黙って見つめていた。
その夜更け、工場の地下では、ナンバーズが皆寝静まっていた。壊れた機械の陰で膝を抱えていたナンバー8は、自分を呼ぶ温度のない声に、顔を上げた。一段高くなった場所の前に、無響が一人で立っていて、片方しかない手で、こちらへ来いと示していた。
ナンバー8が無響の前に立つと、無響は、閉じていた目をゆっくりと開け、温度のない目で、ナンバー8の顔をしばらく見下ろしていた。
「次の行き先を、おまえにだけ教える」
ナンバー8の背中が、ぴんと強張った。
「三日後の夜。北の運河沿いの、古い製材所の跡。……出るのは、ナンバー3とナンバー6だ」
無響は、少しも声の調子を変えずに続けた。
「おまえは、出なくていい。ここで、待っていろ」
それだけ言うと、無響はまた目を閉じて、それきり何も言わなかった。ナンバー8は、自分の寝床の壊れた機械の陰へ戻り、膝を抱えて座り込んだ。ポケットの中には、何も書いていない黒い紙が、一枚だけ残っていた。
この行き先を知っているのは、無響と、自分だけだった。ナンバー3にもナンバー6にも、まだ告げられていない。もし三日後の夜、北の運河沿いの製材所の跡に、白百合や協会や円卓の誰かが待ち構えていたら、それを教えたのは、自分以外にあり得なかった。かといって、何も知らせなければ、ナンバー3とナンバー6が、誰かを襲うことになるのかもしれなかった。
あるいは、北の運河沿いの製材所など、最初から誰も行かないのかもしれない。ナンバー8は黒い紙を指先で握りしめたまま、闇を集めることも、紙を手放すこともできずに、暗い天井の古い照明を、いつまでも見上げていた。




