第三百四十五話
工場の地下の奥まった通路には、昔の工員たちが使っていた古いロッカーが錆びたまま並んでいて、その陰で、白銀の髪の少女が太刀を胸に抱えたまま、何度も口を開いては閉じていた。少し離れた壁際には黒い髪の少女が膝を抱えて座っていて、ナンバー2がそちらへ一歩近づくたびに、白銀の髪の下で頬の色が少しずつ濃くなっていった。
「……ナンバー8」
ようやく絞り出した声は、思っていたよりずっと小さかった。
「……なんだ」
「作戦を、決めておきたいの」
ナンバー2は、ナンバー8の顔を見ないようにしながら、太刀の柄を握りしめた。
「私が、氷の柱を立てる。……あなたは、その影から影へ移って、撃つ。お母様が言っていた、氷は影を作る、というのは、そういうことでしょう」
「……ああ」
ナンバー8は、短く答えた。それが、寮跡の夜にオリジナルと氷の女がやってみせた戦い方の写しだということは、ナンバー2には言わなかった。
「それと」
ナンバー2は、そこで一度言葉を切ると、床の一点を見つめたまま、早口で続けた。
「お風呂の時は、ごめんなさい。……悲鳴を上げて、逃げて。あなたが、どんな顔をしていたか、あとで思い出して、ずっと」
ナンバー8は、驚いたように顔を上げた。ナンバー2の耳の先までが真っ赤に染まり、太刀を抱きしめる腕が、小さく震えていた。
「……別に、いい」
ナンバー8がそれだけ答えると、ナンバー2は小さく頷いて、逃げるように通路の奥へ戻っていった。その背中を見送りながら、ナンバー8はポケットから黒い紙を取り出し、しばらく迷ってから、角張った字を書きつけた。
『明日の夜。2と8。オリジナルと魔女が狙い。場所は、川の中州。
俺も、出る。撃たなきゃいけない。 8』
最後の一行を書いたところで、ナンバー8の指は止まり、消そうかと迷ったが、結局そのまま紙に闇を纏わせて、足元の影に落とした。
翌日の昼過ぎ、テレサが書き写した文面は緋雪の手を経て、学校帰りの零のスマートフォンに届いた。写真の中のテレサの几帳面な字を、零は通学路の途中で立ち止まって何度も読み返し、最後の一行で目が止まったまま、しばらく動けなかった。
その夕方、三神家の縁側でヴィルヘルミナにその文面を見せると、ヴィルヘルミナは湯呑みを両手で包んだまま、ずずっと茶をすすった。
「中州か。……わしらの稽古場を、ようも調べたもんじゃのう」
「師匠も、狙われてます」
「そのようじゃな」
ヴィルヘルミナは、少しも慌てずに湯呑みを盆に戻した。
「じゃが、わしは手を出さん」
「え?」
「訓練の成果確認じゃ。……影を一つしか使えんと思うとった弟子が、この数週間でどこまで来たか、わしはのんびり茶でも飲みながら見せてもらう」
零は、思わず縁側の端から身を乗り出した。
「緋雪さんも、来ると言ってます」
「呼ばんでええ」
ヴィルヘルミナは、月の昇り始めた空を見上げたまま答えた。
「向こうが氷の柱を立てるなら、こっちに氷の娘がおると、どの氷がどっちのものか分からんようになる。……それにのう」
ヴィルヘルミナは、そこで初めて零のほうを振り返り、可憐な少女の顔で、まるで孫を見るように目を細めた。
「あの黒い子と話をするなら、他の者はおらんほうがええじゃろう」
零は、何も言い返せなかった。玄関のほうから「ただいまあ」と五郎の呑気な声が聞こえてきて、ヴィルヘルミナは何事もなかったように湯呑みを持ち上げた。
その夜、川の中州には薄い霧が流れ、葦の間を抜ける夜風が、砂利の上に細かな波紋のような音を立てていた。流木に腰掛けたヴィルヘルミナは、湯気の立つ水筒の蓋を両手で包み、膝の上には飴の入った小さな袋まで置いていて、その少し前の砂利の上では、漆黒のドレスの少女が大剣を手に、川上の暗がりを見つめていた。
霧の向こうで、白銀の光と、ごく薄い闇とが、ほとんど同時に揺らいだ。葦を踏み分けて現れたのは、太刀を腰に提げた白銀の髪の少女で、その少し後ろの葦の影から、黒い髪の少女が黒い銃を手に、音もなく浮かび上がってきた。
「……オリジナル」
ナンバー2が、太刀の柄に手を掛けながら、冷たい声で言った。昨夜ロッカーの陰でナンバー8に謝っていた時の、赤く染まった頬の面影は、どこにもなかった。
「そちらの魔女は、戦わないの?」
「わしは見物じゃ」
流木の上から、ヴィルヘルミナがのんびりと答えた。
「おぬしらの相手は、そこの黒いのだけで十分じゃろう。……ほれ、遠慮せんと、始めい」
ナンバー2の眉が、ほんの僅かに寄った。それから、ナンバー2は太刀を抜き放ち、その切っ先を砂利に向けて振り下ろした。キィン、と澄んだ音が、中州の夜気に響き渡った。
砂利の上から、背丈を超える氷の柱が次々と突き上がり、中州のあちこちに透明な柱が森のように立ち並ぶと、月の光が氷柱の一本一本を透かして、砂利の上に細く長い影を何十本も落としていった。ゴーストは、その光景を見つめたまま、大剣を握る手に力を込めた。氷柱の影を出口にして、影から影へと渡る戦い方は、寮跡の夜、自分と緋雪がナンバー1を相手に組み上げたものだった。それが今、そっくりそのまま、自分に向けられていた。
ナンバー8が、足元の影に沈んだ。次の瞬間、ゴーストの右手の氷柱の影から黒い銃口が覗き、乾いた音とともに黒い弾丸が放たれた。ゴーストは大剣の腹で弾丸を弾いたが、弾いた時にはもう、左手の別の氷柱の影から次の銃口が覗いていた。
「……っ」
二発目は、ゴーストの肩口のすぐ脇を抜けて、背後の葦を薙いでいった。その隙を突くように、ナンバー2が氷の上を滑るように踏み込んできて、白銀の太刀を横薙ぎに振るい、ゴーストは大剣でそれを受けながら、氷柱の影の中へ身を沈めた。影から影へと渡りながら、ゴーストは、黒い弾丸がどこを狙っているのかを一発ずつ確かめていった。三発目は大剣の柄に当たり、四発目は足元の砂利を弾き、五発目は、頬から指一本分だけ離れた空を抜けていった。
どれも、当てようと思えば当てられる距離だった。それなのにナンバー8の弾丸は、一発もゴーストの身体に届いていなかった。
(……外してる)
流木の上で、ヴィルヘルミナが水筒の蓋に口をつけたまま、ほんの僅かに目を細めた。
ゴーストは氷柱の影の一つに沈むと、今度は外へ浮かび上がらずに、影の中をそのまま渡っていった。氷柱が落とす影は、どれもナンバー2の氷が作ったものだったが、その中を満たしている闇は、ゴーストのものとナンバー8のものの、二色しかなかった。ゴーストは自分の闇を薄く広げて、影から影へとナンバー8の闇の気配を辿っていき、やがて川寄りの、一番大きな氷柱が落とす影の中で、その気配に追いついた。
影の中には、音も光もなく、ただ二人分の闇だけが静かに漂っていた。黒い銃を構えたまま振り返ったナンバー8の顔が、闇の中で、すぐ目の前にあった。
「……なんで、来た」
ナンバー8の声は、外の誰にも届かない、影の中だけの声だった。
「あなたが、外してるからよ」
ゴーストは、大剣を下ろしたまま答えた。
「一発も当ててない。……狙えば当たる距離なのに」
「……撃たなきゃいけないって、書いただろ」
「撃ってはいるわね。当ててないだけで」
ナンバー8は、銃を握る手に力を込めたまま、何も言い返さなかった。闇の中で、黒い瞳が揺れていた。
「あいつは、見てる」
しばらくして、ナンバー8はぽつりと言った。
「戻ったら、聴かれる。全部当てなかったら、あいつは、俺を疑う。……でも、あんたに当てるのは、嫌だ」
「なら、当てなくていいわ」
ゴーストは、静かに言った。
「その代わり、私が、あなたたちに勝つ。……あなたが撃ち損ねたんじゃなくて、私が全部躱した。そういうことにすればいい」
ナンバー8は、目を見開いた。
「それと」
ゴーストは、少しだけ口元を緩めた。
「あの子のことも、ちゃんと守ってあげなさい。……あなたの組の相手でしょう」
「……変な奴だな、あんた」
ナンバー8の声が、ほんの少しだけ震えた。次の瞬間、ゴーストは影の中から外へ、ナンバー8の目の前から消えるようにして浮かび上がっていった。
中州の砂利の上では、ナンバー2が太刀を構えたまま、氷柱の森の中を見回していた。オリジナルの気配も、ナンバー8の気配も、さっきから影の中に沈んだきり、どこにも浮かんでこなかった。
「……ナンバー8?」
ナンバー2が不安そうに呼んだその時、氷柱の森の真ん中で、紅蓮の炎が噴き上がった。ゴーストが、大剣を砂利に突き立てたまま、自分の足元から炎を広げていた。闇と氷と炎、三つの属性を抱えた少女の、もう一つの色だった。炎は円を描くように中州を駆け抜け、氷柱を根元から一本ずつ溶かしていき、透明な柱が湯気を上げて崩れ落ちるたびに、砂利の上の細長い影も、一つずつ消えていった。
「……っ、影が」
ナンバー2が、目を見開いた。氷の柱がなくなれば、影もなくなり、影がなくなれば、ナンバー8が渡る出口もなくなる。ナンバー2はすぐに太刀を砂利に向けて、新しい氷柱を立てようとしたが、その切っ先が砂利に届くより先に、ゴーストが目の前に立っていた。
大剣が振るわれ、刃ではなく大剣の腹が、ナンバー2の太刀を真横から叩いた。甲高い音とともに白銀の太刀がナンバー2の手から弾き飛ばされ、湯気の立つ砂利の上を滑って、川の浅瀬の手前で止まった。ナンバー2は、空になった両手を見下ろしたまま、その場に膝をついた。
「……負け、た」
ゴーストが大剣を構え直した瞬間、ナンバー2の目の前の、まだ一本だけ残っていた氷柱の影から、黒い髪の少女が飛び出してきた。ナンバー8は、ナンバー2を背中に庇うようにしてゴーストとの間に立ち、黒い銃口をまっすぐゴーストに向けた。その腕は少しも震えていなかったが、銃口は、ゴーストの胸ではなく、大剣の刃の先に向けられていた。
「……もう、終わりだ」
ナンバー8は、低い声で言った。
「こいつを連れて、帰る」
ゴーストは、しばらくナンバー8の顔を見つめていたが、やがて、大剣をゆっくりと下ろした。
「……行きなさい」
ナンバー8は、膝をついたままのナンバー2の腕を取って立たせると、浅瀬の手前に落ちていた太刀を拾い上げ、ナンバー2の手に握らせた。ナンバー2は、太刀を受け取りながら、ナンバー8の横顔を呆然と見上げていた。二人の姿は、最後に残った氷柱の影の中へ、静かに沈んでいった。
中州に、川の流れる音だけが戻ってきた。砂利の上には溶けた氷の水溜まりがあちこちに残り、湯気が霧に混じって、ゆっくりと川面のほうへ流れていった。ゴーストが大剣を下ろして振り返ると、流木の上で、ヴィルヘルミナがぱちぱちと小さく手を叩いていた。
「ふむ。……六十点、というところかのう」
「……六十点、ですか」
「影から影へ渡るのは、まあ及第じゃ。炎で相手の出口を消したのも悪うない。じゃが、途中で影の中に長居しすぎじゃ。あれが本当の敵なら、外で氷の娘に囲まれとったぞ」
ヴィルヘルミナは、飴の袋から一つ取り出して、ゴーストのほうへ放った。ゴーストが片手でそれを受け止めると、ヴィルヘルミナは水筒の蓋に新しい茶を注ぎながら、川面を見つめたまま言った。
「影の中で何を話しとったかは、聞かん。……ただ、あの黒い子の弾は、最初から最後まで、一発もおぬしに向いとらんかったのう」
ゴーストは、手のひらの中の飴を見下ろしたまま、何も答えなかった。
工場の地下に、白銀と黒の二人が戻ってくると、ナンバー2は太刀を胸に抱えたまま、ナンバー8の少し後ろを、俯いて歩いていた。壁際で待っていたナンバーズの視線が一斉に二人に集まり、ナンバー1が真っ先に駆け寄ってきた。
「ねえねえ、どうだった? 魔女、強かった?」
「……魔女は、何もしなかった」
ナンバー2が、小さな声で答えた。
「ずっと、流木に座って、お茶を飲んでいただけ。……私たちは、オリジナル一人に、負けた」
地下の空気が、しんと静まり返った。一段高くなった場所で、無響がゆっくりと目を開け、その温度のない目が、ナンバー2の上を通り過ぎて、ナンバー8の上で止まった。
「ナンバー8」
「……なんだ」
「おまえの弾は、一発も、当たらなかったな」
ナンバー8は、無響の目をまっすぐに見返した。
「……全部、躱された」
短い沈黙が、地下に落ちた。ナンバー8の背中に、冷たい汗がひと筋流れ落ちたが、無響はそれ以上何も問わず、また、ゆっくりと目を閉じた。
ナンバーズが三々五々散っていったあと、ナンバー8が壊れた機械の陰に戻ろうとすると、後ろから袖を小さく引かれた。振り返ると、ナンバー2が太刀を胸に抱えたまま、床の一点を見つめて立っていた。
「……さっきは」
ナンバー2は、耳の先まで真っ赤に染めながら、蚊の鳴くような声で言った。
「庇ってくれて、ありがとう」
それだけ言うと、ナンバー2は返事も待たずに、逃げるように通路の奥へ駆けていった。ナンバー8はその背中を見送りながら、影の中で聞いたオリジナルの声を思い出していた。あの子のことも、ちゃんと守ってあげなさい。ナンバー8は小さく息を吐き、ポケットの中の何も書いていない黒い紙を、指先でそっと撫でた。




