第三百四十四話
工場の地下の片隅には壊れた作業台が一つ置かれ、その台を挟んで、金色の髪の少女と青い髪の小柄な少女が向かい合っていた。台の上には、ナンバー3とナンバー6が戻ってきた夜に二人の服から払い落とされた焦げた砂利と、乾きかけた水の跡が残っていて、ナンバー4はその砂利を白い指先でなぞりながら、芝居がかった仕草でため息をついた。
「叫んだ合図は、敵にも聞こえる。……当然のことですわね。ナンバー6の声は、地下の端から端まで響くほど大きいのですもの」
ナンバー5は何も言わず、指先に浮かべた細い水の刃を、じっと見つめているだけだった。
「ですから、わたくしたちは叫びませんわ」
ナンバー4は、両手を胸の前で優雅に組んだ。
「わたくしの口上に、合図を紛れ込ませるのです。……『幕が上がりますわ』で、わたくしが霧を張る。『第二幕』で、あなたが刃を放つ。『お辞儀』の一言で、二人とも退く。それ以外の言葉は、全部ただの飾りですわ」
水の刃から離れなかったナンバー5の目が、ほんの少しだけナンバー4のほうへ動いた。
「……あなたの台詞は、いつも長い」
ナンバー5は、ぽつりと言った。
「長くて、飾りが多くて、何を言っているのか誰もまともに聞いていない。……だから、その中に一言だけ混ぜても、誰も気づかない」
「……褒められている気が、まったくいたしませんわね」
「褒めてる」
それだけ言ってナンバー5はまた水の刃に目を戻し、ナンバー4は口を開けたまま、しばらく相棒を見下ろしていた。この小柄な少女がこれほど長く喋るのは初めてで、やがてナンバー4がふっと口元を緩めた時、一段高くなった場所から、無響の温度のない声が落ちてきた。
「ナンバー4と、ナンバー5。明後日の夜。港の倉庫街」
二人が、同時に顔を上げた。
「白百合の、三人がいる」
壊れた機械の陰で二人の話を聞いていたナンバー8には、口上に合図を紛れ込ませるというところまでは聞き取れたが、肝心の言葉は、ナンバー4が声を潜めたせいで途切れ途切れにしか届かなかった。皆が散ったあと、ナンバー8は黒い紙に字を書きつけた。
『明後日の夜。4と5。港の倉庫街。白百合の三人が狙い。
合図は、4の口上の中に紛れてる。どの言葉かは、聞き取れなかった。 8』
書き終えた紙をしばらく見つめ、肝心なところが抜けていると唇を噛んだが、それでも何も知らせないよりはましなはずで、ナンバー8が紙に薄く闇を纏わせて足元の影に落とすと、紙は音もなく沈んでいった。
翌朝、翼の家の郵便受けからテレサがまた黒い紙を見つけ、書き写された文面は昼前には緋雪の手に渡り、その足で緋雪は、白百合の盾の会長室を訪ねて結衣の前に立った。
「匿名の情報です。明日の夜、港の倉庫街に、ゴーストに似た魔法少女が二人現れる可能性があります。光と水。……おそらく、協会の周防さんたちが前に退けた二人です」
結衣は書類から顔を上げて、緋雪の目をしばらく見つめた。緋雪が持ち込む「匿名の情報」はこれまでにも何度かあり、そのどれもが正確だったことを、結衣はよく覚えていた。
「……羽衣さんが信じるなら、私も信じます」
結衣は、柔らかく微笑んだ。
「別働隊で、迎え撃ってください。三神さんと、弓さんを連れて」
その日の午後、澪は情報班の解析室の隅の端末にかじりついていて、画面には、協会のエースたちが金と青のナンバーズと戦った噴水の広場の夜の、由鶴がまとめた戦闘記録が映り、光の霧の中で、凛花の放った光の刃が四方に散らばっていった。
「……光が、霧の粒に当たって、全部散らばってる」
画面を見つめたまま澪が呟くと、隣の席で、由鶴が眼鏡を指で押し上げた。
「はい。光で挑めば挑むほど、霧は深くなります。周防さんは最後まで、霧の中のどこから刃が来るのか読めませんでした」
「霧そのものを、どうにかしないと駄目ってことね」
澪は、白く濁った画面の霧から目を離さなかった。
その夜、三神家の縁側では、いつものようにヴィルヘルミナが湯呑みを両手で包んで月を見上げていて、そこへ風呂上がりの澪がやってきて、濡れた長い黒髪をタオルで拭きながら隣に腰を下ろした。
「……ねえ、ミナちゃん」
「なんじゃ」
「霧も、籠に入れられる?」
ヴィルヘルミナは湯呑みを口元で止め、それから、ゆっくりと茶を一口すすった。
「霧はのう、水と光の、小さな粒の集まりじゃ。粒と粒の間には隙間がある。……籠に閉じ込めて、外から押し縮めてやれば、隙間がなくなって、ただの小さな雲になる」
「小さな、雲」
「籠の目を細かくするんじゃ。この前、玄関で破りかけたじゃろう。あれより、もう一段細かくな」
澪はタオルを握ったまましばらく黙っていたが、やがて、小さく頷いた。
「……やってみる」
居間のほうから、テレビの音に混じって五郎の声が聞こえてきた。
「なあ、母さん。澪、最近ずっと夜勤じゃないか。ちゃんと寝てるのか、あいつ」
「寝てるわよ。あなたより、よっぽど」
「そうかなあ……顔色、悪くないか?」
「心配なら、自分で聞いてあげなさい」
「いや、それは……ほら、年頃の娘に、そういうのは……」
縁側で澪が小さく吹き出し、ヴィルヘルミナも、湯呑みの陰で口元を緩めていた。
翌日の夕方、澪が玄関で靴を履いていると、小さな包みを一つ手にした零が台所から出てきた。
「……これ。夜食」
「あら。気が利くじゃない」
澪が包みを受け取って鞄にしまう間、零は何かを言いかけて口を閉じた。姉が今夜どこへ行くのかを零は知っていたが、知っていることを、姉に知られるわけにはいかなかった。
「……気をつけて」
「何よ、改まって」
澪は怪訝そうに弟の顔を見たが、すぐにいつもの調子で笑った。
「行ってきます」
玄関の戸が閉まったあとも、零はしばらく、その場から動かなかった。
夜の港の倉庫街は、人の気配がすっかり途絶え、海から吹き寄せる湿った風が、積み上げられたコンテナの間を抜けていくたびに、錆びた鉄の匂いを運んできた。ところどころに灯った水銀灯が、濡れたアスファルトを白く照らし、コンテナが迷路のように積まれた一角で、緋雪と澪と飛鳥の三人は背中合わせに立っていた。
「……来るわ」
緋雪が太刀の柄に手を掛けるのとほとんど同時に、コンテナの上に金色の光が灯り、光の中で、金色の髪の少女が光の剣を胸の前に掲げて優雅に一礼し、その少し後ろには、青い髪の小柄な少女が指先に細い水の刃を浮かべて立っていた。
「まあ、白百合の皆さま。ようこそ、今宵の舞台へ」
ナンバー4が、芝居がかった声で言った。
「わたくしたちのささやかな演目を、どうぞ最後までご覧くださいませ。この港の夜風、この水銀灯の白い光、すべてが今宵のための舞台装置ですのよ。……さあ、幕が上がりますわ」
その言葉と同時に、ナンバー4の手のひらから柔らかな光が溢れ出し、霧のように広がってコンテナの迷路を満たし、水銀灯の光を呑み込んで、三人の視界を白く塗り潰した。
「……っ、これが、光の霧」
飛鳥は槍を構えたまま周囲を見回したが、手元の槍の穂先さえ霧の中で白く霞んで何も見えず、ナンバー4の声だけが、四方八方から響いてきた。
「ご覧なさいませ、この霧の美しさ。月の光も、街の灯りも、すべてを柔らかく包み込んで、ほら、まるで夢の中のよう。……ここからが、第二幕ですわ」
霧の奥で何かがひゅっと空気を裂き、飛鳥は反射的に槍で身を庇ったが、水の刃は正面からではなく、霧の中で光に曲げられて、左の死角から飛んできた。
「——っ!」
細い水の刃が飛鳥の二の腕を掠め、制服の袖が裂けて、白い霧の中に赤い筋が走った。
「飛鳥!」
「……大丈夫、浅い」
飛鳥が腕を押さえて歯を食いしばる横で、緋雪は太刀を構えたまま、霧の中で耳を澄ませていた。口上の中に合図があると紙には確かに書かれていたが、ナンバー4の口上は長すぎて、霧だの月の光だの夢だの、飾りの言葉ばかりが次々と流れてきて、どれが合図なのか、緋雪には見抜けなかった。
「さあ、まだまだ物語は続きますわ。白百合の皆さまの、なんと健気なこと。霧の中で、迷い子のように立ち尽くして。……第二幕は、まだ終わりませんのよ」
また水の刃が霧を裂いて、今度は緋雪の頬のすぐ脇をかすめていき、太刀で弾くことはできたものの、次の刃がどこから来るのかはまるで読めず、このままでは一人ずつ削られていくだけだった。
「……緋雪さん、飛鳥」
澪が、低い声で言った。
「少しだけ、時間をちょうだい」
澪は長槍を足元に置き、両手を胸の前で丸く合わせて目を閉じると、手のひらの間で、中州で何度も繰り返してきた空気の籠が静かに回り始めた。澪がその籠を両手の間から外へ押し広げていくと、籠は澪の身体を越え、緋雪と飛鳥を越え、コンテナの迷路を越えて膨らんでいき、やがて回る空気の壁が、霧の外側をぐるりと取り囲んだ。
「……籠の目を、細かく」
昨夜、縁側で教わった言葉を口の中で繰り返しながら、澪は玄関で破りかけたあの籠より、もう一段細かく締めていき、籠の目が詰まっていくのが手のひらに伝わってきた。両手の間の空間をゆっくりと押し縮め始めると、霧を包んだ巨大な籠が外側から少しずつ縮んでいき、粒と粒の隙間が押し潰されて、白く濁っていた視界が端のほうから透き通り、水銀灯の白い光が、霧の外側から再びアスファルトに差し込んできた。
「……な、何ですの、これは」
霧の奥でナンバー4の声が初めて上ずり、澪は歯を食いしばって最後まで押し縮めた。コンテナの迷路を満たしていた光の霧は、両手の間で拳ほどの白く光る小さな雲の玉になり、額から汗がひと筋流れ落ちた時には、視界は完全に開けていた。コンテナの陰には、指先にまだ水の刃を浮かべた青い髪の小柄な少女が立ち尽くし、霧の中では誰にも見えなかったその姿が水銀灯の下にむき出しになって、ナンバー5の目が、初めてはっきりと見開かれた。
「……見えてる」
その時には緋雪はもう動いていて、太刀の切っ先で氷が鳴り、キィン、と澄んだ音が港の夜気に響き渡ると、ナンバー5が放とうとしていた水の刃は、指先を離れる寸前で指先ごと白く凍りつき、氷の欠片になって砕け落ちた。
「……っ、冷たい」
ナンバー5が凍った指先を抱えて後ずさる間に、飛鳥はコンテナの上のナンバー4へまっすぐ駆け、傷ついた腕で槍を構えて、風を纏った穂先をひと息に突き上げた。
「さっきの、お返しよ!」
ナンバー4は光の剣で槍を受けたが、風を纏った穂先の勢いは止まらず、光の剣ごとナンバー4の腕を跳ね上げ、手を離れた剣は夜空にくるくると舞い上がって、そのままコンテナの向こうへ落ちていった。
「……まあ」
空になった両手を見下ろして、ナンバー4はほんの一瞬、本当に驚いた顔をしたが、すぐにいつもの芝居がかった笑みを取り戻した。
「今宵の舞台は、ここまでのようですわね」
ナンバー4は、コンテナの上で優雅に片足を引いた。
「それでは、皆さま。……お辞儀の時間ですわ」
その言葉と同時に、ナンバー5が凍った指先を抱えたままコンテナの陰へ跳び退き、ナンバー4も深々と一礼すると、光の残像だけを残して向こうの暗がりへ消えていった。港に湿った夜風の音が戻り、澪の両手の間で白い雲の玉がふっと解けて夜気の中に溶けていくと、澪はその場に膝をついて、肩で大きく息をした。
「……できた」
「澪さん!」
緋雪が駆け寄って、澪の肩を支えた。
「今の、霧を……」
「籠に入れて、押し縮めたの。……ちょっと、教わってね」
汗だくの顔で澪が照れたように笑い、腕の傷を押さえながら、飛鳥も二人のそばへ歩いてきた。
「……最後の『お辞儀』っていうの、あれが逃げる合図だったのね」
「たぶん、そうね」
緋雪は、ナンバー4が消えていった暗がりを見つめていた。
「どの言葉が合図なのか、最後まで分からなかった。……でも、最後のは分かりやすかったわね」
港の向こうで、汽笛が一つ、低く鳴った。
工場の地下に、凍った指先を抱えた青と手ぶらの金の二人が静かに戻ってくると、ナンバー4は、光の剣を失った右手を芝居がかった仕草で胸に当てた。
「わたくしたちの口上、最後まで見破られませんでしたわ」
ナンバー5が、凍った指先をさすりながら小さく頷いた。
「……一人、斬った」
「ええ。風の槍の方の腕を、確かに」
壁際でナンバー3とナンバー6が悔しそうに顔を見合わせ、ナンバー1は目を丸くして、ナンバー7の袖を引っ張っていた。
「すごい! ナンバー4とナンバー5、ちゃんと斬ったんだって!」
「……」
「あたしたちも、次は斬ろうね!」
ナンバー7が何も言わずにほんの僅かに頷いた時、一段高くなった場所で無響がゆっくりと目を開け、温度のない目がナンバー4とナンバー5を見つめてから、壊れた機械の陰へと移っていった。
「次は、ナンバー2と、ナンバー8」
地下の空気が張り詰め、ナンバー2の肩がびくりと跳ねたが、無響は少しも声の調子を変えずに続けた。
「相手は、オリジナルと、あの魔女だ」
ナンバーズの間にざわめきが走った。あの魔女とは、古い住宅街の一軒家の縁側で、湯呑み一つ弾いて無響の測定を消してしまった者のことで、無響が測ろうとして、ただ一人測りきれなかった響かない魔女だった。ナンバー2は太刀を胸に抱きしめたまま硬直し、さっきまで頬に差していた赤みが、すっと引いていった。壊れた機械の陰で、ナンバー8はポケットの中の黒い紙を握り潰していた。氷の影を出口にして、あの夜の戦い方をそのまま写し、オリジナルに銃を向けなければならず、握り潰した紙を手のひらに感じたまま動けないナンバー8の手元を、無響の温度のない目が、じっと見下ろしていた。




