第三百四十三話
郊外の古い工場の地下では、大柄な琥珀の髪の少女と、紫の髪の少女が、向かい合って床に座り込んでいた。
ナンバー1は、両手で自分の口をぎゅっと押さえて、目だけをきょろきょろと動かしていた。
ナンバー7は、大槌を膝の上に横たえて、眉間に深い皺を寄せたまま、何かを言おうとしては、口を閉じていた。
誰に言われたわけでもない、喋る練習だった。
「……」
「……」
三秒が過ぎた。
「ぷはっ! 無理! 黙ってるの無理!」
ナンバー1が、両手を口から離して叫んだ。
「ねえナンバー7、まだ? まだ何も言わないの? あたし、ちゃんと待ってたよ? 三秒も!」
「……」
ナンバー7は、ナンバー1の顔をじっと見つめてから、ゆっくりと口を開いた。
「……右」
「右! 右ね! それで?」
「……から、行く」
「右から行くのね! 分かった! じゃああたしは左! ……あれ、それって、この前と同じじゃない?」
「……」
ナンバー7の眉間の皺が、また一本深くなった。
少し離れた壁際で、紅い髪のナンバー3と、翠の髪のナンバー6が、その様子を並んで眺めていた。
「……ああは、なりたくないわね」
「……同感」
二人は、珍しく意見が合ったことに気づいて、互いに顔をしかめた。
それから、ナンバー3が、渋々といった様子で口を開いた。
「……合図を、決めましょう」
「合図?」
「あんたが風を出す時に、叫ぶの。『今』って。その声が聞こえたら、私が炎を撃つ。……炎が先に出たら、あんたの風で煽れないでしょう」
「ふうん」
ナンバー6は、槍を抱えたまま身体を揺らした。
「あたしが叫ぶ側ってことね。……いいわよ。叫ぶのは得意だもの」
一段高くなった場所で、無響が、目を閉じたまま告げた。
「次は、ナンバー3と、ナンバー6」
二人の背筋が、同時に伸びた。
「明日の夜。都心の東の、再開発地区。……協会の四人が、見回りに出る」
「協会の?」
ナンバー3が、少しだけ不満そうに眉を寄せた。
「白百合じゃないの。私の構えの元が、いるのは」
「協会の四人は、前に、ただ並んだだけのナンバー4とナンバー5を退けた。……だが、本当に組んだ相手とは、まだ戦っていない」
無響の温度のない声が、地下に落ちた。
「組んだ相手に、組んだ者がどう応じるか。……それを、聴く」
壊れた機械の陰で、ナンバー8は、ポケットの中の黒い紙に指先で触れた。
今度は、出る組も、場所も、日も、決まっていた。
皆が散っていった後、ナンバー8は、一人で地下の隅にしゃがみ込んで、黒い紙に角張った字を書きつけた。
『明日の夜。3と6。都心の東の再開発地区。協会の四人が狙い。
二人で、合図を決めてる。風の時に「今」と叫ぶ。 8』
ナンバー8は、紙に薄く闇を纏わせて、自分の足元の影に落とした。
紙は、音もなく影の中へ沈んでいった。
翌朝、翼の家の郵便受けに、また黒い紙が一枚、差し込まれていた。
見つけたのは、朝の掃除をしていたテレサだった。
紙の端にこびりついた薄い闇の気配が、朝の光の中で、少しずつ薄れ始めていた。
テレサは、前と同じように、すぐに文面を別の紙に書き写した。
書き写し終えた頃には、元の紙は、指先で触れるだけで崩れるほど脆くなっていた。
紙が落とされたのは、夜のうちだったのだろう。『明日の夜』とは、今夜のことだった。
その写しは、昼前には緋雪の手に渡り、昼過ぎには、緋雪から凛花へと届けられた。
協会のエースたちの見回りの割り振りなど、緋雪には知る術がなかった。
だが、凛花から返ってきた短いメッセージを読んで、緋雪は小さく息を吐いた。
『今夜、再開発地区の担当は、私たち四人です』
夕方、魔法少女協会本部の待機室で、凛花は、三人の同僚の前に立っていた。
「今夜の見回りですが、再開発地区に、ゴーストに似た魔法少女が二人、来る可能性があります」
ソファで足を組んでいた船戸真紀奈が、眉を跳ね上げた。
「……出所は」
「確かな筋の情報です。……それ以上は、言えません」
凛花は、まっすぐに真紀奈の目を見て答えた。
真紀奈は、しばらく凛花の顔を睨むように見つめていたが、やがて、ふんと鼻を鳴らした。
「あんたが言えないって言うなら、言えない理由があるんでしょうよ。……いいわ。来るなら来なさいって話よ」
窓際で、湊春華が、眼鏡の位置を指先で直しながら、凛花の横顔を静かに見ていた。
春華は、何も言わなかった。
ただ、凛花が「確かな筋」と口にする時、いつも同じように、ほんの少しだけ視線を落とすことに、春華は気づいていた。
「属性は、炎と風だそうです。それと、二人は合図を決めているようです。風を出す時に、『今』と叫ぶ、と」
「合図を、叫ぶ?」
佐伯美羽が、目を丸くした。
「それって……次に何をするか、こっちに教えてくれてるようなものじゃないですか?」
「ええ」
春華が、窓の外を見たまま、静かに言った。
「教えてくれるなら、聞いてあげましょう。……合わせて動く練習なら、私たちは、もう何度もしてきましたから」
その夜、都心の東の再開発地区は、取り壊しを待つ古いビルと、骨組みだけの新しいビルとが、入り混じって並ぶ一角だった。
工事用の照明が、ところどころで白く灯り、フェンスに囲まれた空き地の砂利を照らしていた。
巨大なクレーンが、夜空に黒い腕を伸ばしたまま、動かずに立っていた。
協会の四人は、空き地の中央で、背中合わせに立っていた。
「……来ます」
凛花が、光の剣の柄を握り直した。
骨組みだけのビルの上で、紅い光と、翠の光が、同時に瞬いた。
次の瞬間、二つの影が、鉄骨の上から空き地へ飛び降りてきた。
紅い髪の少女は、長槍の穂先に炎を灯していた。
翠の髪の少女は、槍を抱えたまま、砂利の上で軽やかに身体を揺らしていた。
「協会の四人ね」
ナンバー3が、長槍を構えた。
「……私の構えの元じゃないのが、残念だけど」
「行くわよ、ナンバー3!」
ナンバー6が、砂利を蹴った。
翠の髪の少女の姿が、かき消えたように見えた。
次の瞬間には、ナンバー6は、四人の周りを、目で追えない速さで円を描くように駆けていた。
円の軌跡に沿って、風が巻き起こり、空き地の砂利と土埃を巻き上げていった。
「——今!」
ナンバー6の声が、風の中から響いた。
その声と同時に、ナンバー3が、長槍の穂先から炎を放った。
炎は、ナンバー6が描いた風の円に呑み込まれ、風に煽られて、みるみるうちに膨れ上がった。
四人の周りに、炎の壁が、渦を巻いてせり上がった。
炎の竜巻だった。
「っ……熱い!」
美羽が、腕で顔を庇った。
真紀奈が、舌打ちしながら氷の壁を張ったが、炎の竜巻に触れた端から、氷は湯気を上げて溶けていった。
「溶けるのが早すぎる……!」
炎の渦は、少しずつ、四人の立つ場所へと狭まってきていた。
ナンバー1とナンバー7の時とは、まるで違っていた。
風が炎を煽り、炎が風に乗って広がる。
二人の合図は、拙いながらも、確かに噛み合っていた。
「……春華さん」
美羽が、炎の渦の熱に顔をしかめながら、春華を振り返った。
春華は、眼鏡の奥で目を細めて、炎の渦の向こうを見つめていた。
「美羽さん。次に、あの子が『今』と叫んだら」
春華は、静かに言った。
「その声のした方角に、雷を落としてください。……風を出す時、あの子は、必ず声を出すんです。声の出所が、風の出所です」
「……っ、はい!」
「真紀奈さん。氷を、炎にぶつけないで。……地面に張ってください。風の通り道を、塞ぐように」
「……あんた、いつの間にそんな指示出す人になったのよ」
真紀奈は、文句を言いながらも、炎の渦の内側の地面に、手のひらを叩きつけた。
砂利の上に、低く、厚い氷の堤が、円を描くように走った。
炎ではなく、地面すれすれを吹き込んでくる風の入口を、氷が一つずつ塞いでいった。
炎の渦の勢いが、目に見えて鈍った。
炎の向こうで、ナンバー6が、苛立ったように声を上げた。
「……っ、もう一回よ、ナンバー3! ——今!」
その瞬間、美羽が、声のした方角に、右手を突き出していた。
「そこっ!」
紫電が、炎の渦を突き抜けて、一直線に夜空を走った。
風の中を駆けていたナンバー6の足元に、紫電が突き刺さった。
ナンバー6は、寸前で跳び退いたが、足を止めた一瞬、風の円が途切れた。
炎の渦が、支えを失ったように揺らいだ。
「凛花さん、私の後ろに」
春華が、空き地の隅に置かれた工事用の巨大な貯水槽に、手のひらを向けた。
先週の夜、噴水の水を丸ごと持ち上げた時と同じように、春華の指先が、静かに動いた。
貯水槽の蓋が弾け飛び、中の水が、一つの巨大な塊になって夜空へ持ち上がった。
水の塊は、揺らいだ炎の渦の真上で、ほどけるようにして降り注いだ。
——ジュワアアアアッ!
炎の渦が、凄まじい音を立てて、白い蒸気に変わっていった。
空き地全体が、真っ白な湯気に包まれた。
「……ちょっと! 何も見えないじゃない!」
ナンバー3の声が、蒸気の中から響いた。
蒸気の中で、ナンバー3は、長槍を構えたまま、周囲を見回していた。
炎が消えた穂先からは、白い煙だけが細く立ち昇っていた。
その時、蒸気の中を、一筋の光が、まっすぐに走ってきた。
凛花の光の剣だった。
ナンバー4の光の霧の中では迷子になった光が、今度は、ただの湯気の中を、迷うことなくまっすぐに進んできた。
霧の粒は、光を散らした。
だが、ただの湯気は、光の行き先を変えなかった。
ナンバー3は、反射的に長槍で光の剣を受けた。
受けた瞬間、凛花のもう一歩が、長槍の内側へ踏み込んでいた。
「……っ!」
光の刃が、ナンバー3の肩口を、浅く、だが確かに裂いていった。
ナンバー3は、よろめきながら後ろへ跳び退いた。
蒸気の向こうでは、ずぶ濡れになったナンバー6が、砂利の上に膝をついていた。
足元の砂利は、春華が降らせた水で、一面の水溜まりになっていた。
その水溜まりに、美羽の二発目の紫電が、音もなく走った。
——バチィッ!
水を伝って、紫電がナンバー6の全身を駆け抜けた。
ナンバー6の翠の髪が、ばさりと逆立った。
「あ……っ、ぐ……!」
「ナンバー6!」
ナンバー3が、肩を押さえたまま叫んだ。
ナンバー6は、痺れの残る身体で、それでも槍を杖にして立ち上がった。
「……あたしたちの合図、筒抜けだったみたいね」
「そうみたいね」
ナンバー3は、蒸気の向こうに並んで立つ四人の影を、睨みつけた。
「……退くわよ」
「……分かってる」
ナンバー6が、最後の風を巻き起こした。
蒸気が一気に吹き散らされ、視界が開けた時には、紅と翠の二つの影は、もう骨組みだけのビルの向こうへ消えていた。
空き地には、水溜まりと、溶けかけた氷の堤と、白く立ち昇る湯気の名残だけが残された。
美羽が、肩で息をしながら、その場にへたり込んだ。
「……勝てた、んですよね?」
「追い払っただけよ」
真紀奈が、溶けかけた氷の堤を靴の先で蹴りながら言った。
「でも、あの二人、最初は本当に厄介だったわ。炎と風が、ちゃんと噛み合ってた。……あれで合図を叫ばなかったら、どうなってたか分からない」
凛花は、光の剣を下ろして、二人が消えていった夜空を見上げていた。
噴水の広場の夜、光の霧の中で膝をつきかけた悔しさが、少しだけ、胸の中で溶けていくのを感じていた。
春華が、凛花の隣に並んで立った。
「凛花さん」
「……はい」
「確かな筋の情報、助かりました」
春華は、眼鏡の奥で、穏やかに目を細めた。
「その筋の方に、よろしくお伝えください。……私は、何も聞きませんから」
凛花は、春華の横顔を見つめたまま、しばらく何も言えなかった。
それから、小さく頭を下げた。
郊外の古い工場の地下に、肩を押さえた紅と、ずぶ濡れの翠が、前後して戻ってきた。
ナンバー3の肩口からは、まだ細く血が滲んでいた。
ナンバー6の翠の髪は、紫電に打たれたまま、あちこちが逆立っていた。
壁際から、ナンバー1が、目を丸くして駆け寄ってきた。
「ナンバー3、ナンバー6! どうだった? 合図、うまくいった?」
「……最初は、うまくいったわよ」
ナンバー3は、不機嫌そうに答えた。
「炎と風が、ちゃんと噛み合った。協会の氷女の壁も、溶かしてやった。……でも」
「あたしの『今』が、全部聞かれてたのよ」
ナンバー6が、逆立った髪を両手で押さえつけながら、悔しそうに言った。
「叫んだ方角に、雷が落ちてきたの。……合図を叫んだら、敵にも合図になるなんて、誰も教えてくれなかったじゃない」
「……あんたの『今』が、大きすぎるのよ」
「あんたの炎が、出るのが早すぎるのよ」
二人は、また睨み合った。
だが、その言い合いは、ナンバー1とナンバー7の時のような、ただの罵り合いにはならなかった。
「……次は、叫ばない合図にする」
ナンバー3が、肩を押さえたまま、ぽつりと言った。
「目で合わせるとか、槍の穂先の向きで決めるとか」
「……槍の穂先なら、あたし、見てられるわ」
ナンバー6が、少しだけ考えてから答えた。
「速く動いてても、あんたの槍の先だけなら、見える気がする」
二人は、そこで初めて、言い合いをやめた。
その様子を、ナンバー1とナンバー7が、並んで黙って見ていた。
ナンバー1は、何かを言いかけて口を開き、それから、珍しく自分で口を閉じた。
ナンバー7が、ほんの僅かに、ナンバー1のほうへ顔を向けた。
一段高くなった場所で、無響が、ゆっくりと目を開けた。
温度のない目が、言い合いをやめた紅と翠の二人を、長い間見つめていた。
壊れた機械の陰で、ナンバー8は、膝を抱えたまま、その目を見ていた。
今夜も、紙は役に立った。
誰も死なず、協会の四人は無事に勝った。
それでも、ナンバー8の胸の奥には、冷たいものが残っていた。
負けるたびに、あいつらは、少しずつ、隣の者の癖を覚え始めている。
ナンバー8は、ナンバー2がまたこちらを盗み見ているのに気づかないふりをして、膝の間に顔を埋めた。




