第三百四十二話
白百合の盾の事務室に朝の光が差し込む頃、緋雪のデスクの上では、見慣れない白いマグカップが、紅茶の湯気を静かに立ち昇らせていた。
飾り気のない、つるりとした白い陶器だった。
隊員たちが使う揃いの事務用マグカップの中で、その一つだけが、どこか浮いて見えた。
最初に気づいたのは、出勤してきたばかりの真奈だった。
「あれ? 緋雪ちゃん、そのカップ、新しいね?」
「……ええ。昨日、買ったの」
緋雪は、書類から目を離さずに答えた。
真奈の後ろから、飛鳥がひょいと顔を覗かせると、白いマグカップを一目見て、口の端をにやりと吊り上げた。
「へえ。……もしかして、黒いのと、揃いだったりして」
緋雪のペンが、書類の上で、ぴたりと止まった。
「……何のことかしら」
「昨日の午後、駅前のショッピングモールの雑貨店で、同じ形の白と黒のマグカップが、一組だけ売れています」
背後から聞こえた淡々とした声に、緋雪は肩をびくりと跳ねさせた。
振り返ると、由鶴が、コーヒーの入った紙コップを手に、眼鏡の奥の目を光らせて立っていた。
「……どうして、あなたがそれを知ってるの」
「情報班ですので」
由鶴は、表情一つ変えずに答えた。
真奈が「えー!お揃い!?」と声を上げ、飛鳥が手を叩いて笑い出した。
緋雪は、耳の先まで真っ赤に染めながら、黙って白いマグカップを両手で包み、紅茶を一口すすった。
何を言っても、もう遅かった。
その日の夕方、緋雪は、澪と飛鳥と三人で、郊外の工業地帯の見回りに出ることになった。
数日前から魔獣の反応が断続的に観測されている区域で、念のため別働隊を出すことになったのだった。
河川敷を含む市街地側の巡回は、真奈と鈴乃、きらり、玲奈の四人が受け持つことになった。
「緋雪ちゃんたちがいなくても、大丈夫!任せといて!」
真奈が、ハンマーを肩に担いで胸を張った。
緋雪は、少しだけ不安そうに四人の顔を見回してから、小さく頷いた。
「……無理はしないでね」
郊外の古い工場の地下では、ナンバーズが、無響の前に並んでいた。
一段高くなった場所で、無響は、目を閉じたまま、組みの理屈を一つずつ告げていった。
「風は、炎を煽る」
ナンバー3とナンバー6が、互いを横目で見た。
「水は、光を曲げる。霧の中の刃の向きを、変えられる」
ナンバー4とナンバー5が、無言で顔を見合わせた。
「氷は、影を作る」
ナンバー2の肩が、びくりと跳ねた。
壊れた機械の陰で、ナンバー8は、その一言に背筋が冷えるのを感じた。
氷が影を作り、闇がその影を出口にする。
寮跡の夜、オリジナルと氷の女がやってみせた戦い方そのものだった。
あの夜のナンバー1の戦いを通して、無響はそれを聴いていたのだ。
「大地は、雷を溜める。溜めた雷は、逃げ場をなくす」
「わあ!」
ナンバー1が、目を輝かせてナンバー7の腕にしがみついた。
「ナンバー7、聞いた?あたしたち、いい組なんだって!」
ナンバー7は、大槌に腕を乗せたまま、何も言わなかった。
無響は、そこで言葉を切った。
どの組を最初に出すのかは、まだ告げなかった。
閉じた目の奥で、何かを考えているようだった。
その沈黙が、三つ数えるほども続かないうちに、ナンバー1が、ぱっとナンバー7の腕を引っ張った。
「じゃあ、ナンバー7!遊びに行こ!」
「……」
「試してみようよ、雷を溜めるやつ!ね、ね!」
ナンバー7が、何かを言いかけるように口を開いた。
だが、言葉が出てくるより先に、ナンバー1は紫の稲光になって、ナンバー7の腕ごと地下の出口へ駆け出していた。
大柄な琥珀の髪の少女が、引きずられるようにして、階段の向こうへ消えていった。
「ちょっと、ナンバー1!」
ナンバー3が叫んだ時には、もう二人の気配は地上へ抜けていた。
ナンバー8は、ポケットの中の黒い紙に指を触れたまま、動けなかった。
書く間も、落とす間もなかった。
行き先さえ、ナンバー1自身が決めていないに違いなかった。
一段高くなった場所で、無響は、目を閉じたまま、何も言わなかった。
市街地を流れる川の、駅にほど近い河川敷の土手に、夕日が長い影を落としていた。
四人の巡回班は、土手の上の遊歩道を、川上に向かって歩いていた。
真奈がハンマーを肩に担いで先頭を歩き、その後ろを、鈴乃が腰に双剣を提げて、のんびりと続いていた。
きらりは、時々立ち止まっては、周りの景色を目を細めて見回していた。
気配を色で見る、きらりにしかできない見回り方だった。
玲奈は、腰の双剣の柄に手を添えて、一番後ろを歩いていた。
「……来る」
きらりが、ぴたりと足を止めた。
「上流のほう。紫と、琥珀色。……それと、灰色がいっぱい」
次の瞬間、上流の空が紫に光った。
稲光が河川敷の草地に突き刺さり、少女の形になって弾けた。
その少し後ろに、大柄な琥珀の髪の少女が、地響きを立てて着地した。
二人の周りの草むらから、灰色の外殻の魔獣が、何体も這い出してきた。
「雷の人、いない!」
ナンバー1が、四人の顔を見回して、不満そうに頬を膨らませた。
「でもいいや! ナンバー7、雷を溜めるやつ、やろ!」
ナンバー1は、返事も待たずに双剣を抜いて、四人に向かって突っ込んできた。
ナンバー7は、大槌を両手で構えて、その後ろから、ゆっくりと地面を踏みしめた。
「みんな、散って!」
真奈が叫んだ。
四人は、土手の上と下へ、二手に分かれた。
最初の数合で、真奈たちは押された。
ナンバー1の双剣は、目で追えないほど速かった。
受け止めた玲奈の双剣が、紫電に打たれて痺れ、玲奈は腕ごと弾き飛ばされた。
ナンバー7が大槌を振り下ろすと、土手の斜面が丸ごと崩れて、真奈の足元が土砂に呑まれかけた。
一人一人の力は、明らかに、こちらより上だった。
「……強い」
玲奈が、痺れた腕を振りながら、唇を噛んだ。
だが、そこから先が、おかしかった。
「ナンバー7! 次、どうする? あたし右から行くね! あ、やっぱり左!」
ナンバー1は、斬り込みながら、ひっきりなしに喋っていた。
ナンバー7は、一言も返さなかった。
返さないまま、自分の判断で、大槌を地面に叩きつけた。
ナンバー1の目の前の地面から、分厚い土の壁が、どんと突き上がった。
守りのつもりだったのだろう。
だが、その壁は、ちょうど左から回り込もうとしたナンバー1の、進路の真正面に立っていた。
——ごんっ。
ナンバー1が、頭から土の壁に激突した。
「いったあ! ナンバー7、なんでそこに壁作るの!」
「……」
「言ってよ! 作るなら作るって、言ってよ!」
ナンバー7は、やはり何も言わなかった。
眉間の皺が、一本だけ深くなった。
土手の上で、きらりが、二人を見下ろして目を丸くしていた。
「……ねえ、みんな。あの二人」
きらりは、両手でメガホンの形を作って叫んだ。
「紫の子と琥珀の子、色が全然混ざってない! ばらばらだよ! 隣にいるのに、お互いの色が、相手のほうに一ミリも伸びてない!」
「……なるほどねえ」
土手の上で、鈴乃が、のんびりと双剣を抜いた。
「強い子が二人いるんじゃなくて、強い子が一人ずつ、二人いるだけってことか。……じゃあ、くっつけないようにしようか」
鈴乃が双剣を交差させて振り抜くと、刃から炎が、帯のように噴き出した。
炎の帯は、生き物のようにうねりながら河川敷の草地に降り立ち、ナンバー1とナンバー7の間に、背丈ほどの高さの炎の幕を張った。
二人の姿が、炎の幕の向こうとこちらに、きれいに分断された。
「ナンバー7? どこ? 見えない!」
ナンバー1が、炎の幕の向こうに向かって叫んだ。
ナンバー7は、返事の代わりに、大槌を振り上げた。
炎の幕ごと吹き飛ばそうとしたのだろう。
だが、その瞬間、炎の幕の向こうから、ナンバー1が、紫の雷を幕越しに撃ち込んできた。
ナンバー7を助けようとしたのか、幕を焼き払おうとしたのかは、分からなかった。
雷は、炎の幕を突き抜けて、ちょうど振り上げられたナンバー7の大槌の頭に、まっすぐ落ちた。
——バチィンッ!
ナンバー7の大柄な身体が、大槌を握ったまま、びくんと硬直した。
琥珀の髪の先から、細い煙が立ち昇った。
大地が雷を溜めるはずだった。
だが、ナンバー7は、自分の大地に雷を溜めるやり方を知らなかった。
雷は、ナンバー7の身体と大槌を素通りして、足元の地面へ、ただ虚しく逃げていった。
「あっ、ごめん! ナンバー7、ごめん!」
炎の幕の向こうで、ナンバー1が叫んでいた。
その隙を、玲奈は見逃さなかった。
玲奈は、痺れの残る腕で双剣を構え直すと、炎の幕の脇をすり抜けて、ナンバー1の正面に回り込んだ。
双剣を交差させて、ただまっすぐに、前へ踏み込む。
玲奈の背中から、ひと筋の風が、まっすぐに吹き抜けた。
ナンバー1は、反射的に土の壁の陰へ跳び退こうとしたが、その土の壁ごと、玲奈のまっすぐな風に呑み込まれた。
崩れた土くれと一緒に、ナンバー1の身体が、河川敷の草地の上を何度も転がっていった。
「真奈さん、今!」
「任せて!」
真奈が、ハンマーを両手で握りしめて、痺れたままのナンバー7の正面に立った。
ナンバー7は、痺れの残る腕で、それでも大槌を構え直した。
地と地だった。
ナンバー7の足元から、また土の壁が突き上がろうとした。
真奈は、その壁が生まれるより先に、ハンマーを地面に叩きつけた。
「——『大地の咆哮』!」
ずん、と腹の底に響く音とともに、河川敷の地面が波打った。
突き上がりかけていた土の壁が、下から割られて崩れ落ち、ナンバー7の足元がぐらりと傾いた。
大槌を構えたまま、ナンバー7の重い身体が、一歩、よろめいた。
真奈は、そのまま踏み込んだ。
土を纏ったハンマーが、横薙ぎに振るわれた。
——ドゴォンッ!
ナンバー7の大柄な身体が、大槌ごと宙に浮いて、草地の向こうの浅瀬まで吹き飛んでいった。
派手な水柱が上がった。
残っていた灰色の魔獣たちは、鈴乃の炎と、きらりの光に追い立てられて、次々と黒い霧になって消えていった。
浅瀬の中から、ずぶ濡れのナンバー7が、のそりと起き上がった。
草地の上では、土まみれのナンバー1が、頭を押さえて座り込んでいた。
「……いたい」
ナンバー1は、涙目になって、浅瀬のほうを睨んだ。
「ナンバー7のばか!壁、邪魔!何にも言ってくれないし!」
ナンバー7は、何も答えなかった。
ただ、ずぶ濡れのまま、ナンバー1のほうを、じっと見ていた。
ナンバー1は、ぐすっと鼻をすすると、紫の稲光になって、暮れかけた空へ駆け上がっていった。
ナンバー7は、しばらくその軌跡を見上げていたが、やがて、足元の地面の中へ、沈むようにして姿を消した。
河川敷に、川の流れる音だけが戻ってきた。
真奈は、ハンマーを肩に担ぎ直して、首を傾げた。
「……なんか、思ったより、弱かったね?」
「ううん」
きらりが、首を横に振った。
「一人ずつなら、すっごく強かったと思う。玲奈ちゃんが最初に弾き飛ばされたの、見たでしょ。……でも、二人になったら、弱くなってた」
「二人になったら、弱くなる、か」
鈴乃が、双剣の刃に残った小さな炎を払いながら、のんびりと呟いた。
「普通は、逆なんだけどねえ」
玲奈は、痺れの抜けてきた腕をさすりながら、二人が消えていった空を見上げていた。
ゴーストとそっくりな顔をした少女たちが、子供のように喧嘩をしながら逃げていった姿が、なぜか頭から離れなかった。
夕暮れの中州では、ヴィルヘルミナが流木に腰掛けて、湯気の立つ水筒の蓋を両手で包んでいた。
その前の砂利の上で、ゴーストは、ヴィルヘルミナが四方から放つ小石を、影から影へと移りながら、一つずつ大剣で弾いていた。
緋雪は、今日は別働隊で来られなかった。
一人で受けるしかない小石は、二人で受ける時よりも、ずっと重く感じられた。
市街地の河川敷は、ここからずっと川上にあって、町外れの中州までは、稲光の音も届かなかった。
やがて、川面に霧が立ち始めた頃、土手のほうから、白百合の制服の上着を腕に掛けた緋雪が駆け下りてきた。
「……河川敷で、真奈たちがナンバー1とナンバー7とやり合ったそうよ」
緋雪は、少しだけ息を切らしながら言った。
「四人とも無事。……向こうの二人、喧嘩しながら逃げていったって」
ゴーストは、大剣を下ろして、緋雪の顔を見た。
「喧嘩しながら?」
「きらりが言うには、二人の色が、全然混ざってなかったんですって。隣にいるのに、お互いのほうに、一ミリも伸びてなかったって」
流木の上で、ヴィルヘルミナが、ずずっと茶をすすった。
「向こうも、組み始めたか」
ヴィルヘルミナは、霧の向こうの川面を見つめながら、のんびりと言った。
「じゃが、組んだだけでは、強うはならん。……隣の者の癖を知らんまま並んだら、ただの、邪魔な壁じゃ」
ゴーストは、黙って頷いた。
それから、緋雪のほうへ、そっと手を差し出した。
緋雪は、少しだけ頬を染めて、その手を取った。
「……続き、やりましょう」
ヴィルヘルミナは、口元を緩めて、新しい小石を拾い上げた。
郊外の古い工場の地下に、土まみれの紫と、ずぶ濡れの琥珀が、前後して戻ってきた。
先に階段を下りてきたナンバー1は、髪も服も土と煤にまみれて、頭のてっぺんに大きなこぶを作っていた。
その後ろから、ナンバー7が、ずぶ濡れのまま、まだ痺れの抜けない足取りで、のそりと下りてきた。
ナンバー3が、壁際から呆れたように二人を見た。
「……で?雷を溜めるやつは、できたの」
「できなかった!」
ナンバー1は、頬を膨らませて、ナンバー7を指差した。
「だって、ナンバー7、何にも言ってくれないんだもん! 壁作るのも、どっちに動くのも、全部黙ってやるの! あたし、壁に頭ぶつけたんだよ!」
ナンバー7は、大槌を床に下ろしたまま、黙っていた。
地下にいる誰もが、いつものように、ナンバー7は何も言わないのだろうと思っていた。
長い沈黙の後、ナンバー7の口が、ゆっくりと開いた。
「……うるさくて、聞こえなかった」
低く、短い声だった。
ナンバーズの誰もが、ナンバー7の声を、ほとんど初めて聞いた気がした。
ナンバー1は、ぽかんと口を開けた。
「……え?」
「……ずっと、喋ってた。……だから、言う隙が、なかった」
「あ、えっと……その、ごめん」
ナンバー7は、それだけ言うと、また口を閉ざした。
地下の空間に、気まずい沈黙が落ちた。
壁際で、ナンバー3とナンバー6が、ちらりと互いを見て、すぐに目を逸らした。
ナンバー4は、まだ少し短い髪の先を指で弄びながら、ナンバー5のほうを見なかった。
ナンバー5も、指先の水の刃を見つめたまま、ナンバー4のほうを見なかった。
ナンバー2は、太刀を胸に抱えたまま、壊れた機械の陰のナンバー8を、ちらりと盗み見た。
目が合いそうになって、慌てて顔を背けた。
一段高くなった場所で、無響は、目を閉じたままだった。
勝手に出ていった二人を咎めることも、負けて戻った二人に何かを告げることもしなかった。
ただ、ナンバー7の短い言葉が地下に落ちた時だけ、閉じた瞼が、ほんの僅かに動いたように見えた。
壊れた機械の陰で、ナンバー8は、ポケットの中の黒い紙を、指先でそっと撫でた。
今日は、何も書けなかった。
だが、少なくとも今夜、誰も死ななかった。
ナンバー8は、小さく息を吐いて、まだこちらを盗み見ているナンバー2の視線から、そっと目を逸らした。




