第三百四十一話
白百合の盾の情報班解析室では、壁一面のモニターの青白い光が、夕方の薄暗い部屋を照らしていた。
その光の前で、新実由鶴が眼鏡の位置を指先で直しながら、印刷したばかりの勤務表を緋雪の目の前に差し出していた。
「緋雪。あなたの有給休暇、去年度からほとんど手つかずのまま、繰り越されています」
「……そうだったかしら」
「そうです。このままだと、また人事から叱られます」
由鶴は、淡々とした口調のまま、勤務表の一箇所を指で叩いた。
「それと、もう一つ。三神くんの学校、明日は創立記念日でお休みだそうです」
「……どうして、あなたがそれを知ってるの」
「情報班ですので」
由鶴は、表情一つ変えずに答えた。
緋雪が何か言い返そうとした時、解析室の扉が開いて、姫嶋結衣が顔を覗かせた。
「羽衣さん。明日は、お休みしてください」
「会長、でも、ナンバーズがいつ動くか——」
「これは、命令です」
結衣は、柔らかく微笑んだまま、きっぱりと言った。
廊下の向こうから、真奈と飛鳥が並んで顔を出した。
「明日一日くらい、私たちで守るから! 緋雪ちゃんは、たまには休んでよね!」
「そうそう。ずっと働きっぱなしなんだから。……せっかく三神くんも休みなんでしょ?」
飛鳥が、意味ありげに片目をつぶってみせた。
緋雪は、何か言い返そうとして口を開き、結局、何も言えずに閉じた。
頬が、ほんのりと赤くなっていた。
その夜、緋雪は自室の床いっぱいに、手持ちの服を並べていた。
淡い水色のワンピースを手に取っては戻し、白いブラウスと紺のスカートを合わせてみては首を傾げ、また別の服を引っ張り出す。
気がつけば、一時間が過ぎていた。
最後に、緋雪は鏡台の引き出しを開けて、小さな箱を取り出した。
中には、雪の結晶をかたどった髪飾りが、柔らかな布に包まれて収まっていた。
十九歳の誕生日に、零から贈られたものだった。
緋雪は、それをしばらく手のひらに乗せて見つめてから、明日の服の上に、そっと置いた。
翌朝、三神家の台所では、零が無意識のうちに、まな板の上で卵を割っていた。
出汁を合わせ、卵焼き器を火にかけ、弁当箱を二つ並べたところで、今日は仕事が休みだという奈々美が、エプロン姿で台所に入ってきた。
「零。今日は、お出かけでしょう?」
「……あ」
零は、並べた弁当箱を見下ろした。
二つ並んだ弁当箱は、どう見ても、自分と緋雪の分だった。
「ショッピングに行くのに、お弁当を持っていく人がありますか」
奈々美は、笑いをこらえながら、零の手から菜箸を取り上げた。
「外で、美味しいものを食べてきなさい。卵焼きは、お父さんのお弁当に入れておくから」
「……はい」
居間では、出勤前の五郎が、ネクタイを締めながら目を輝かせていた。
「デートか、零! いいなあ、青春だなあ! 父さんの若い頃はな、母さんを初めて誘った時——」
「あなた、ネクタイ、曲がってるわよ」
奈々美が、五郎の首元に手を伸ばして、ネクタイを容赦なく締め上げた。
五郎は、ぐえっと声を上げて、それきり昔話をやめた。
縁側では、ヴィルヘルミナが湯呑みを両手で包んで、しみじみと頷いていた。
「わしの若い頃の男はのう、馬で迎えに来たもんじゃ。白い馬で、花束を抱えてのう」
「……今どき、馬は無理です」
「そうか。最近の若い者は、つまらんのう」
階段を下りてきた玲奈が、零の頭を見て、ぷっと吹き出した。
「お兄ちゃん、寝癖。後ろ、すごいことになってるよ」
「えっ」
零は、慌てて洗面所に駆け込んでいった。
鏡の前で必死に髪を撫でつける零の背中を、居間のソファに座った澪が、じっと目で追っていた。
白百合が非番の日だというのに、澪の目は、勤務中よりも鋭く光っていた。
「行ってきます」
零が玄関を出ていったのは、それから十分後のことだった。
五郎が出勤し、玲奈も出かけていった、その五分後。
澪は、二階から足音を忍ばせて下りてきた。
サングラスをかけ、つばの広い帽子を目深に被り、地味な色のパーカーを羽織っていた。
どこからどう見ても、尾行する気満々の格好だった。
澪は、居間の奈々美に気づかれないように、そろりそろりと玄関へ向かった。
靴を履き、玄関の戸に手をかけた、その瞬間だった。
澪の周りの空気が、くるりと一回転した。
「……え?」
戸にかけた手が、動かなかった。
手だけではなかった。足も、肩も、見えない何かに柔らかく包み込まれたように、三和土の上から一歩も動けなくなっていた。
澪の身体の周りで、空気が、静かに回り続けていた。
自分が中州で稽古している、あの空気の籠だった。
ただし、自分が作るものより、目がずっと細かかった。
「籠の稽古じゃ」
縁側から、のんびりとした声が聞こえてきた。
ヴィルヘルミナが、湯呑みを片手に、こちらを振り返りもせずに茶をすすっていた。
「今日一日、それを内側から破れたら、どこへでも行ってええぞ」
「ちょっと、ミナちゃん! ずるい!」
「ずるくない。稽古じゃ」
「今日じゃなくてもいいでしょ!」
「今日じゃから、ええんじゃ」
ヴィルヘルミナは、湯呑みを盆に置いて、縁側の柱にもたれかかった。
「弟の逢瀬を覗き見する姉なんぞ、昔から、馬に蹴られると決まっとる。……わしが代わりに止めてやっとるんじゃ。ありがたく思え」
「ありがたくない!」
澪は、三和土の上で、籠の内側を両手で押した。
空気は、柔らかく押し返してくるだけで、少しも破れる気配がなかった。
居間から顔を出した奈々美が、玄関で固まっている娘の姿を見て、何も聞かずに、くすりと笑った。
「澪、お昼は何がいい?」
「お母さん、助けてよ!」
「ミナちゃんの稽古なら、邪魔しちゃ悪いわ」
奈々美は、そう言って台所へ戻っていった。
駅前の時計台の下で、零は、腕時計を三回確かめた。
約束の時間まで、まだ十分あった。
改札のほうから、人の流れに混じって、見慣れた姿が歩いてくるのが見えた。
つばの広い帽子を被り、細い縁の伊達眼鏡をかけていた。
淡い水色のワンピースの上に白いカーディガンを羽織り、肩に小さな鞄を提げていた。
変装のつもりらしかったが、帽子の下から背中まで流れる白銀の髪が、駅前の人混みの中で、ひときわ目立っていた。
その髪の、耳の上のあたりに、雪の結晶の髪飾りが光っていた。
零は、思わず見惚れて、言葉を失った。
「……待った?」
「……いや、今来たところ」
零は、慌てて答えた。
緋雪は、零の顔を見上げて、少しだけ眉を寄せた。
「どうしたの。変な顔して」
「いや……その髪飾り、つけてくれたんだなって」
緋雪の頬が、帽子の陰で、ほんのりと赤くなった。
「……今日くらいは、いいでしょう」
その時、通りすがりの若い女性が二人、緋雪の顔を見て足を止めた。
「あの、すみません……もしかして、羽衣緋雪さんのそっくりさんですか?」
「よく言われます」
緋雪は、伊達眼鏡の位置を指で直しながら、真顔で答えた。
女性たちは「やっぱりー!」「似てるー!」と笑い合って、そのまま歩き去っていった。
零は、口元を手で押さえて、肩を震わせていた。
「……笑わないで」
「ごめん。でも、そっくりさんって」
「本人だなんて言えるわけないでしょう」
緋雪は、むっとしたように頬を膨らませると、零の腕を取って、駅前のショッピングモールのほうへ歩き出した。
モールの二階の服屋で、零は、着せ替え人形になっていた。
緋雪が棚から次々とシャツやジャケットを引き抜いては、零の胸に当てて、首を傾げる。
紺のシャツを当てては「違う」、灰色のジャケットを当てては「もう少し明るい色」、白いシャツを当てては「……これは、悪くない」と呟く。
「緋雪さん、俺、別にどれでも——」
「どれでもよくない」
緋雪は、零の言葉を遮って、またシャツを一枚当てた。
「あなた、いつも同じような服ばかり着てるでしょう。たまには、こういうのも着なさい」
「……はい」
零は、観念して、試着室に押し込まれた。
だが、本当の試練は、その後だった。
今度は緋雪が、自分の服を選び始めたのだった。
試着室のカーテンが開くたびに、緋雪は、違う服を着て立っていた。
淡い桜色のブラウス。紺のロングスカート。白い麻のワンピース。
そのどれもが、普段の白百合の制服姿とはまるで違っていて、零は、カーテンが開くたびに、言葉を失った。
「……どう?」
「…………」
「何か言ってよ」
「……いや、その。……全部、似合ってる」
「全部、じゃ参考にならないわ」
「でも、全部似合ってるんだから、仕方ないだろ」
緋雪は、カーテンの陰で、耳まで赤くなった。
少し離れたところで、二人の様子を見ていた店員が、微笑ましそうに目を細めていた。
昼前、二人は、モールの一階にある調理器具の専門店の前を通りかかった。
零の足が、ぴたりと止まった。
ショーウインドウの中に、黒々とした鉄のフライパンが、照明を受けて鈍く光っていた。
次の瞬間には、零は店の中に吸い込まれるように入っていっていた。
「……緋雪さん、見てくれ。これ、打ち出しの鉄フライパンだ。職人が一枚一枚叩いて作ってるやつで、使い込むほど油が馴染んで、焦げつかなくなるんだ」
「……そう」
「こっちは出刃包丁。この重さなら、鰆も鯛も、骨ごと綺麗に捌ける。うちの包丁、そろそろ研ぎ減ってきてて——」
零は、鉄のフライパンを両手で持ち上げて、うっとりとその重みを確かめていた。
その目は、さっき試着室の前で緋雪を見ていた時よりも、明らかに熱を帯びていた。
緋雪は、腕を組んで、零の横顔をじっと見つめていた。
「……私より、そのフライパンを見る目のほうが、熱い」
「えっ」
「気のせいかしら」
「き、気のせいだよ」
零は、慌ててフライパンを棚に戻した。
緋雪は、ふいと顔を背けたが、その口元は、少しだけ笑っていた。
昼食は、モールの上階のレストランで、オムライスを頼んだ。
運ばれてきた皿の上には、半熟の卵が、ナイフを入れるととろりと広がる仕掛けのオムライスが載っていた。
零は、ナイフを入れる前に、皿をじっと見つめていた。
「……卵三個に、牛乳少し。火は中火の強め。フライパンを揺すりながら、半分固まったところで巻いてる。……いや、生クリームも入ってるな、これ」
「零くん」
「ん?」
「今日は、お仕事しないの」
緋雪が、スプーンを持ったまま、呆れたように笑った。
零は、はっとして、照れ隠しにオムライスを大きく一口頬張った。
食事の後、二人は本屋に立ち寄った。
零が文庫本の棚を眺めている間に、緋雪の姿が、いつの間にか見えなくなっていた。
探してみると、緋雪は、料理本の棚の前で、一冊の本を手に取って、真剣な顔でページをめくっていた。
表紙には、『季節の和食 献立帖』と書かれていた。
「……それ、買うの?」
零が後ろから声をかけると、緋雪は、肩をびくりと跳ねさせた。
本を胸に抱えて振り返った顔が、みるみるうちに赤くなっていった。
「……あなたに作ってあげる分の、研究よ」
「俺に?」
「いつも、作ってもらってばかりだから」
緋雪は、本を胸に抱えたまま、小さな声で言った。
「……私が作るものも、もっと、食べてほしいの」
零は、何も言えなかった。
ただ、胸の奥が、じんわりと温かくなっていくのを感じていた。
本屋を出た後、二人は、雑貨屋で揃いのマグカップを選んだ。
何十種類も並んだ棚の前で、二人は長いこと迷った末に、同じ形の、白と黒の二つを手に取った。
緋雪が白を、零が黒を。
「……私たちらしいわね」
緋雪が、二つのマグカップを並べて、ぽつりと言った。
零は、その言葉の意味を、半分だけ分かったような気がした。
白い氷と、黒い闇。
ずっと並んで戦ってきた、二人の色だった。
モールの屋上は、小さな庭園になっていた。
ベンチに並んで座り、二人は屋台で買ったクレープを分け合った。
零は苺と生クリーム、緋雪はチョコレートとバナナ。
互いのクレープを一口ずつ交換して、緋雪が「こっちのほうが美味しい」と零の苺を指差すと、零は黙って自分のクレープを緋雪に差し出した。
春の風が、屋上の花壇の花を揺らしていた。
モールを出た時には、空はすっかり茜色に染まっていた。
二人は、川沿いの遊歩道を、ゆっくりと並んで歩いた。
両手に提げた紙袋が、歩くたびに軽く揺れていた。
「零くんは、来年、どうするの」
緋雪が、川面を見つめたまま尋ねた。
零は、少し間を置いてから、正直に答えた。
「……まだ、決めてない。進路の調査票、白紙のままなんだ」
「そう」
「母さんのこととか、家のこととか、夜のこととか。……今の自分を作ってるものが、全部、あの紙の欄に書けないものばっかりで」
緋雪は、しばらく黙って歩いていた。
それから、零の手を、そっと握った。
「急がなくていいわ」
緋雪の手は、少しひんやりとしていた。
「決まったら、一番に教えて。……それだけで、いいから」
「……うん」
零は、緋雪の手を握り返した。
三神家の門が見えるところまで来た時、街灯が、ぽつりぽつりと灯り始めていた。
門の手前で、緋雪は立ち止まって、零のほうへ向き直った。
「今日は、ありがとう」
「いや、こっちこそ——」
零が言い終わる前に、緋雪が、少しだけ背伸びをした。
白銀の髪が、ふわりと揺れた。
頬に、柔らかく、ひんやりとしたものが、一瞬だけ触れた。
零は、何が起きたのか分からないまま、その場で固まった。
緋雪は、すぐに身体を離すと、帽子のつばを深く下ろして、顔を隠した。
「……おやすみ、零くん」
それだけ言って、緋雪は、白銀の髪を翻して、足早に去っていった。
街灯の下を通り過ぎる時、その耳の先までが、真っ赤に染まっているのが見えた。
零は、頬に手を当てたまま、門の前で立ち尽くしていた。
どれくらいそうしていたのか、自分でもよく分からなかった。
やがて、ようやく我に返って、零は玄関の戸を開けた。
三和土の上に、澪が座り込んでいた。
汗だくの顔で、両手を前に突き出し、見えない何かを必死に押し広げようとしていた。
サングラスはずり落ち、帽子は脱げて、長い黒髪が汗で頬に張りついていた。
澪の周りの空気は、朝よりずっと緩んでいたが、まだ、くるくると回り続けていた。
「……姉ちゃん、何やってんの?」
「うるさい……っ、あと少しなのよ……!」
縁側のほうから、ヴィルヘルミナの声が聞こえてきた。
「半分は、破れたのう。筋はええ」
澪は、ぜえぜえと肩で息をしながら、ようやく顔を上げて、零を見た。
それから、怪訝そうに目を細めた。
「……零。顔、赤いけど」
零は、黙って紙袋を背中に回した。
その中で、黒いマグカップが、白いマグカップと触れ合って、小さく、かちりと鳴った。
縁側のヴィルヘルミナは、何も言わずに、ずずっと茶をすすった。




