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未登録の魔法少女  作者: 浅川


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第三百三十八話

 東の空が白み始めた頃、縁側の小さな人影は、ようやく湯呑みを盆の上に戻した。

 一晩じゅう月を見上げていた目が、庭の向こうで薄れていく星を、名残惜しそうに一つずつ数えていった。

 廊下の奥、奈々美と五郎の寝室の襖の前には、何も起きなかった夜の静けさだけが残っていた。

 ヴィルヘルミナは、腰を叩きながら立ち上がった。


「……年寄りは、少し寝るわい」


 誰に言うでもなく呟いて、ヴィルヘルミナは足音を殺したまま階段を上がっていった。

 台所からは、まな板を叩く規則正しい音と、出汁の香りが漂ってきていた。

 零が、約束通り、五つの弁当に取りかかっているのだった。

 二階の廊下で、ヴィルヘルミナは一度だけ立ち止まった。

 自分に与えられた客間の襖と、その手前で半開きになっている零の部屋の扉とを、眠そうな目で見比べた。

 零の部屋のベッドには、さっきまで誰かが寝ていた温もりが、まだ布団の中に残っているはずだった。

 ヴィルヘルミナは、迷わずそちらの扉を押し開けた。


 三十分後、二階から悲鳴が上がった。


「——なんで零のベッドで寝てるのよ!」


 台所の零は、卵焼きを巻く手を止めて、天井を見上げた。

 居間で新聞を広げていた五郎が、湯呑みを持ったまま固まった。

 階段を駆け下りてきたのは、パジャマ姿の澪だった。

 長い黒髪が寝癖で跳ねたまま、顔を真っ赤にしていた。


「零! あんた、ミナちゃんと一緒に寝てたの!?」


「寝てないよ」


 零は、卵焼きを皿に移しながら、努めて平静に答えた。


「俺、五時から台所にいたし」


「じゃあ、なんであの子があんたのベッドで丸まってるのよ!」


「知らないって」


 澪の後ろから、ヴィルヘルミナが目をこすりながら下りてきた。

 零のパーカーを、なぜか肩に羽織っていた。


「朝から騒がしいのう」


「騒がしいのは誰のせいよ! なんで零のベッドに潜り込んでるの!」


「ぬくいからじゃ」


 ヴィルヘルミナは、大きなあくびを一つして、当たり前のことのように答えた。


「わしの部屋の布団は、冷え切っとったでな。空いとる温い布団があれば、そっちに入るのが道理じゃろう」


「道理じゃない!」


 澪の叫び声に、二階から玲奈が顔を出した。

 事情を察したのか、玲奈は階段の途中で口元を押さえて、肩を震わせていた。

 居間のほうから、五郎の呑気な声が聞こえてきた。


「いやあ、羨ま——」


「あなた」


 奈々美の声がして、五郎の言葉が途中で途切れた。

 次の瞬間には、耳を摘まれた五郎が、背広の上着を片手に玄関へ引きずられていくのが見えた。


「痛い、痛い、まだ茶が残ってる」


「会社で飲みなさい」


「零、弁当! 父さんの弁当!」


 零は、包み終えたばかりの弁当を一つ掴んで、玄関へ走った。

 五郎は、耳を押さえながら弁当を受け取り、名残惜しそうに振り返りながら出ていった。

 玄関の扉が閉まると、奈々美は小さく息をついて、居間へ戻ってきた。

 澪は、まだヴィルヘルミナに何か言い募っていたが、ヴィルヘルミナは座布団の上に丸くなって、早くもうとうととし始めていた。


「お母さんも、何か言ってよ」


「いいじゃない、澪。疲れてるのよ、ミナちゃん」


「疲れてるって、居候が何に疲れるのよ」


 奈々美は、答えなかった。

 代わりに、ソファの背に掛けてあったひざ掛けを取ると、座布団の上で丸くなった小さな身体に、そっと掛けてやった。

 その時、奈々美の目が、ヴィルヘルミナの目の下に、うっすらと浮かんだ青い影を捉えた。

 夜通し起きていた人間の顔だった。

 奈々美は、戦姫の寮で、仲間が交代で寝ずの番をしてくれた夜明けのことを思い出した。

 あの朝も、番を終えた誰かが、こうして談話室の隅で丸くなっていたのだった。

 奈々美は、ひざ掛けの端を、ヴィルヘルミナの肩口まで引き上げた。


「……ありがとうね」


 小さな声で、奈々美は言った。

 ヴィルヘルミナは、目を閉じたまま、何も答えなかった。

 ただ、ひざ掛けの下で、ほんの僅かに口元を緩めたように見えた。

 台所の入り口からその様子を見ていた零は、何も言わずに、残りの弁当を包む作業に戻った。


 零が学校から帰ってきたのは、夕方の四時を過ぎた頃だった。

 居間には誰もおらず、ヴィルヘルミナの姿もなかった。

 二階へ上がって自分の部屋の扉を開けると、ベッドの上に、ヴィルヘルミナが胡坐をかいて座っていた。


「……師匠。まだ俺のベッドにいたんですか」


「昼寝の続きじゃ」


 ヴィルヘルミナは悪びれもせずに言って、それから、零が提げている鞄のほうへ顎をしゃくった。


「さっきから、おぬしの鞄がぶるぶると震えとるぞ。やかましゅうて、おちおち寝てもおれん」


 零は、鞄を床に下ろして、中からスマートフォンを取り出した。

 画面には、緋雪からのメッセージが、何件も続けて届いていた。

 翼の家の郵便受けに、また黒い紙が入っていたという知らせだった。

 昼過ぎに見つかったその紙の端には、前の時と同じように、ごく薄い闇の気配が、焦げ跡のようにこびりついていたという。

 前の紙は、朝の光の中で溶けるように消えてしまったが、今度の紙は日が傾いてから届いたせいか、まだ形を保っていた。

 それでも、いつ消えてもおかしくなかったので、テレサがその場で、文面をそっくり別の紙に書き写しておいたらしい。

 最後のメッセージには、その書き写しを撮った写真が添えられていた。

 テレサの几帳面な字で、短い文が並んでいた。


『明日の夜、ナンバー1が一人で出る。

 古い雷の居場所を、探してる。

 あいつは止めてる。でも、ナンバー1は聞かない。 8』

 零は、画面を握る指に、知らず力が入っていた。

 ふと顔を上げると、ヴィルヘルミナが、ベッドの上から首を伸ばして、零の手元を覗き込んでいた。


「……見ましたか」


「見えてしもうたもんは、仕方なかろう」


 ヴィルヘルミナは、ベッドから下りて、零の肩を軽く叩いた。


「古い雷、のう」


 それだけ言って、ヴィルヘルミナは部屋を出ていった。

 階段を下りていく足音を聞きながら、零は、緋雪に「いつもの河川敷で」とだけ返信して、スマートフォンをポケットにしまった。


 河川敷の土手に、夕日が長い影を落としていた。

 緋雪は、白百合の制服の上着を腕に掛けて、土手の斜面に腰を下ろしていた。

 隣に座った零に、緋雪は昨夜のことを、順を追って話した。

 白銀の髪の、氷の太刀を持つナンバー2が、緋雪の音を立てる氷を受けて「覚えた」と言ったこと。

 玲奈のまっすぐな風が、翠の髪のナンバー6を地面に叩き落としたこと。

 澪の空気の籠の中で、炎がいつまでも消えずに燃え続けていたこと。


「……二人とも、強くなってたわ」


 緋雪は、川面を見つめたまま言った。


「澪さんも、玲奈さんも。あの子たちが写したものより、ずっと先に行ってた」


「そっか」


 零は、短く答えた。

 姉と妹のことを、緋雪の口から聞くのは、少しだけ誇らしく、少しだけ落ち着かなかった。

 緋雪は、鞄から一枚の紙を取り出して、膝の上に置いた。

 テレサが書き写した、ナンバー8の文面だった。

 零は、それを横目に見ながら、鉄塔の上でのことを、緋雪に話した。

 黒い髪のナンバー8のこと。

 弾も紙も、わざとだったと認めたこと。

 自分の作りに、ずっと一人で悩んでいること。

 大浴場のことだけは、話さなかった。

 あれは、ナンバー8が自分にだけ打ち明けたことだと思ったのだった。

 最後に、零は、ナンバー1が言っていた「古い寮の雷」のことを、緋雪に話した。

 緋雪は、膝の上の紙にもう一度目を落とすと、しばらく黙っていた。


「……零くんの、お母様ね」


「たぶん」


「戦わせちゃ駄目よ」


 緋雪は、即座に言った。


「あの子たちは、聴いたものを写すわ。ナンバー1が雷を写すなら、お母様が本気で戦えば、その戦い方ごと持っていかれる。……二本の刃の型まで、全部」


「分かってる」


 零は、膝の上で拳を握りしめた。

 寮跡の夜、倒れた自分の前に立った母の背中が、目に焼きついていた。

 あの背中を、写しの記録の一つにさせるわけにはいかなかった。


「円卓に伝えましょう」


 緋雪は、立ち上がって、上着の裾についた草を払った。


「それと、汐里さんにも。……お母様が戦えるかどうかは、汐里さんの魔力にかかってるんだから」


 その夜、三神家の隣に建つヴィクトリアの屋敷の応接間には、五人が顔を揃えていた。

 暖炉の前の肘掛け椅子にヴィクトリアが座り、ソファの端でルディアが袖で口元を隠していた。

 窓際に緋雪が立ち、テーブルの向こうには、汐里が両手を膝の上で固く組んで座っていた。

 そして、暖炉の火から少し離れた壁際に、漆黒のドレスの少女が、腕を組んで立っていた。

 テレサが書き写したナンバー8の文面を読み終えた汐里の顔からは、すっかり血の気が引いていた。


「……先輩を、狙ってるんですか」


「正確には、先輩の雷をね」


 ヴィクトリアが、紅茶のカップを受け皿に戻しながら言った。


「ナンバー1は、雷の人としか遊びたくない子よ。私の雷を見て、うっとりしていたもの。……それが、消えかけているのにきれいな雷のほうに、すっかり心を奪われてしまった」


「先輩を戦わせちゃいけません」


 汐里は、膝の上の手を握りしめた。


「先輩が全盛期の姿で戦えば、私の魔力は三倍の速さで減ります。長くはもちません。それに、写されるんでしょう。……先輩の雷を、あんなものに」


「ええ。だから、奈々美さんには戦わせない」


 ヴィクトリアは、穏やかに頷いた。

 それから、暖炉の火を見つめながら、静かに言った。


「ナンバー1が欲しいのは、消えかけた雷。……なら、私が雷を細く絞って、消えかけているように鳴らしてあげればいいわ」


 ルディアが、袖の陰で目を細めた。


「囮になる、とおっしゃるのですわね、ヴィクトリア・ローゼンベルグ」


「ええ。あの子は、音で獲物を探す。姿を見るより先に、雷の響きに飛びついてくるはずよ」


 ヴィクトリアは、窓の外の夜を見やった。


「場所は、戦姫の旧寮跡。無響が奈々美さんの雷を聴いた場所。……あの子にとっては、一番それらしく聞こえるでしょう」


「仕留めるのは、私と緋雪がやるわ」


 壁際から、ゴーストが言った。


「ナンバー1は、雷なら何でも写せる。でも、私の闇と、緋雪の氷は雷じゃない。……あの子の写しには、私たちに返せる手がないはずよ」


「お母様は、三神家から動かさない」


 緋雪が、窓際から言葉を継いだ。


「汐里さんは、お母様のそばに。……万が一の時は、魔力パスが届く距離にいてほしいの」


「必ず、そばにいます」


 汐里は、まっすぐに顔を上げた。


「焔様たちにも、私から伝えておきます。双子の子たちにも、ルディアさんのほうから」


「ええ。ルカとリリアには、わたくしから申し伝えますわ」


 ルディアが、袖の陰で穏やかに頷いた。


「それと、ヴィルヘルミナさんにも」


 汐里が、少しだけ表情を緩めて言った。


「あの方が家にいてくだされば、正直、私が何もしなくても大丈夫な気がします」


 誰も、それを否定しなかった。

 話がまとまりかけた時、ゴーストが、ふと応接間の窓に目を向けた。

 カーテンの隙間から見える夜の庭に、大きな楠が一本、月明かりに黒い影を落としていた。

 その影の奥に、ごく薄い闇が一つ、じっと息を潜めていた。

 自分と同じ色の、闇だった。

 ゴーストは、何も言わずに、ヴィクトリアのほうへ視線を戻した。

 ヴィクトリアは、ゴーストの目の動きだけで、何かを察したようだった。


「……少し、庭に出ましょうか」


 ヴィクトリアが、椅子から立ち上がった。


「暖炉の前は、暑すぎるわ」


 五人は、テラスの扉から夜の庭へ出た。

 楠の影から、少し離れた芝生の上で、ヴィクトリアは、わざと普段より少しだけ大きな声で言った。


「明日の夜、奈々美さんを寮跡へ移すわ。あそこなら、戦姫の古い結界がまだ生きている。家にいるより、ずっと安全よ」


「先輩には、昔の寮をもう一度見に行こう、と誘います」


 汐里が、ヴィクトリアに話を合わせた。


「先輩なら、懐かしがって、きっと来てくださいます」


「私たちは、寮跡の周りを固めておくわ」


 緋雪が、続けた。

 ゴーストは、何も言わなかった。

 ただ、楠の影の奥の薄い闇が、ほんの一瞬だけ揺れたのを、目の端で確かめていた。

 闇は、それきり、音もなく影の中から消えた。

 ゴーストは、誰にも聞こえないくらいの小さな声で、呟いた。


「……ごめんなさい。でも、お願いね」


 郊外の古い工場の地下では、錆びた配管の下を、ナンバー1が落ち着きなく歩き回っていた。

 両手には、新しい双剣が握られていた。

 海に落とされた剣も、断ち割られた剣も、ナンバー1の魔力から形を作り直されて、前と変わらない紫の光を放っていた。


「早く、早く、早く」


 ナンバー1は、剣先で床を叩きながら、子供のように繰り返した。

 壁際に座ったナンバー3が、うんざりしたように顔をしかめた。


「うるさい。少しは黙ってなさいよ」


「だって、会いたいんだもん」


 一段高くなった場所で、無響が目を閉じたまま言った。


「古い雷は、まだだ」


「はぁい」


 ナンバー1は、素直に返事をした。

 だが、その口元は、少しも引き下がっていない笑い方をしていた。

 壊れた機械の陰の暗がりから、ナンバー8が、音もなく浮かび上がった。

 ちょうど廊下から戻ってきたナンバー2と、出口のところで鉢合わせになった。

 ナンバー2は、白銀の髪を揺らして、びくりと足を止めた。

 頬が、みるみるうちに赤く染まっていった。

 ナンバー2は、太刀の柄を胸に抱きしめるようにして、ナンバー8から目を逸らし、早足で壁際へ逃げていった。

 ナンバー8は、小さくため息をついて、無響の前へ進み出た。


「……円卓の連中の話を、盗み聞きしてきた」


 ナンバー1の足が、ぴたりと止まった。


「明日の夜、古い雷の女を、戦姫の寮跡へ移すらしい。昔の結界が残ってて、家にいるより安全だって」


「寮跡!」


 ナンバー1が、目を輝かせて振り返った。


「お母様が、あの雷を聴いた場所だ!」


「家から連れ出すなら、周りは手薄になる」


 ナンバー8は、淡々と付け加えた。


「……俺が聞いたのは、そこまでだ」


 ナンバー1は、双剣を胸の前で打ち合わせて、紫の火花を散らした。


「ありがと、ナンバー8!」


 無響は、何も言わなかった。

 ただ、閉じていた目を、ほんの僅かに開いただけだった。

 その温度のない目が、はしゃぐナンバー1と、俯いたままのナンバー8とを、順に、ゆっくりと見比べていった。

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