第三百三十六話
倉庫の錆びたトタン屋根の上で、ナンバー3の長槍の穂先に灯った炎は、強い潮風を浴びながらも、少しも揺らがずに燃えていた。
湾岸の第三倉庫は、港の奥まった一角に建つ、古い大きな倉庫だった。
屋根の上からは、黒い海面と、対岸の工業地帯の灯りと、遠くの都心のビル群の明かりが、一度に見渡せた。
その屋根の端に、紅い髪の少女と、紫の髪の少女が、夜空から降り立ったままの姿で並んでいた。
ナンバー3は、長槍を肩に担いだまま、楽しそうにゴーストを見下ろしていた。
「待ってたわよ、オリジナル」
炎の穂先を、ゴーストのほうへ軽く傾ける。
「今度は、邪魔が入らないといいけど」
その隣で、ナンバー1が、双剣の柄を指先でくるくると回していた。
ナンバー1は、ゴーストを見ていなかった。
紫の瞳は、ゴーストの隣に立つ、プラチナブロンドの髪の女だけを、うっとりと見つめていた。
「……あなたの雷、いい匂いがする」
ナンバー1は、双剣を回す指を止めて、子供が新しい玩具を見つけた時のように、目を細めた。
「あたし、雷の人としか、遊びたくないの」
ヴィクトリアの指先で、紫電が一度、ぱちりと弾けた。
「……趣味の悪い子ね」
倉庫の屋根の、反対側の端から、三つの人影が駆け上がってきた。
栗色の髪のアイシャが、マスケット銃を肩に担ぎ、赤みがかった金髪のテレサが、大鎌の包みを解きながら、白い短髪のフラウが、両腕に岩の籠手を纏いながら。
三人は、屋根の上で、ゴーストとヴィクトリアの背後に並んだ。
その時、倉庫街の奥のほうから、低い唸り声と、男たちの怒鳴り声が聞こえてきた。
夜勤の作業員たちが働く、別の倉庫の方角だった。
灰色の外殻の魔獣が、何体か、倉庫の間の通路に入り込んでいるのが、屋根の上からも見えた。
「ルディア・ロンディニウム」
ヴィクトリアが、振り返らずに言った。
「向こうを、お願いできるかしら」
「ええ」
屋根の端に立っていたルディアが、袖で口元を隠したまま、静かに頷いた。
「我らが神の御前で、無辜の民を見捨てるわけにはまいりませんわ。……真里、参りましょう」
「はい、ルディア様」
ルディアと真里の姿が、屋根の上から消えた。
ナンバー3が、ゴーストに向かって、長槍の穂先を突き出した。
紅蓮の炎が、穂先から奔流となって溢れ出し、まっすぐにゴーストの胸元へ迫る。
ゴーストが大剣を構えるより先に、横から、大鎌の刃が伸びてきた。
——ずるり。
炎の奔流が、大鎌の刃に触れた瞬間、溶けた。
燃え盛っていた炎が、どろりとした赤い液体のように形を崩して、大鎌の刃の中へ吸い込まれていく。
刃が、呑み込んだ炎の分だけ、赤く、熱く輝いた。
ナンバー3の目が、見開かれた。
「……何よ、それ」
「溶解」
テレサは、大鎌を構え直しながら、静かに言った。
「炎から生まれた、炎を溶かす力。……あなたの炎は、私の刃の、餌よ」
ナンバー3の顔が、引き攣った。
写しの記録の中に、赤みがかった金髪の、大鎌の少女はいなかった。
河川敷にも、湾岸の倉庫街にも、高校の近くの通りにも、この少女の溶解は、響いていなかった。
ナンバー3は、もう一度、炎を放った。
溶かされる。
穂先に炎を一点に絞り込んで、白く輝かせた。
澪から写した、炎を一点に集めるやり方だった。
テレサの大鎌が、その白い穂先を、横から薙いだ。
——ずるり。
白く絞られた炎さえ、刃に触れた瞬間に、溶けて呑み込まれていった。
「……っ、ふざけないで!」
ナンバー3は、炎を捨てた。
穂先から炎を消し、長槍そのものを、まっすぐに構えた。
炎がなくても、槍術がある。
姉の構えと、焔の槍捌きを写した、本物と変わらない鋭さの槍術が。
ナンバー3は、テレサを無視して、ゴーストに向かって踏み込んだ。
突き。払い。石突き。
炎を纏わない長槍が、ゴーストの急所を次々と狙ってくる。
ゴーストは、大剣で槍を受けながら、後ろへ退いた。
ナンバー3の槍術は、鋭かった。
姉の足捌きと、焔の手首の返しが、一本の槍の中で、隙間なく組み合わさっていた。
「どうしたの、オリジナル!」
ナンバー3が、槍を突き出しながら叫んだ。
「影に、潜らないの? ……潜ったって、出口は、全部分かってるのよ!」
ゴーストは、何も答えなかった。
ただ、四日間、中州の霧の中で、何度も繰り返した動きを、頭の中で、もう一度なぞっていた。
——影は、一つしか使えんと、誰が決めた。
ゴーストは、自分の足元に、自分の闇で影を落とした。
それと同時に、ナンバー3の背後のトタン屋根の上にも、もう一つ、小さな影を落とした。
それから、ナンバー3の左側の、倉庫の換気塔が落とす長い影を、目の端で確かめた。
ゴーストは、足元の影の中へ、身体を沈めた。
「——やっぱり!」
ナンバー3が、笑った。
「背中でしょう!」
ナンバー3は、振り返りもせずに、背後に向かって、長槍の石突きを、まっすぐに突き出した。
前回、避難壕の中で、ゴーストの大剣の柄を正確に打った、あの石突きだった。
ナンバー3の背後の、小さな影から、何かが伸びてきた。
闇の手だった。
身体ではなかった。
闇でできた、手だけが、背後の影から伸びて、宙を掴むように指を開いた。
ナンバー3の石突きが、その闇の手を、正確に打った。
——ぱしゅっ。
闇の手が、石突きに打たれて、霧散した。
手応えが、なかった。
「……え?」
ナンバー3の顔に、初めて、戸惑いが浮かんだ。
その瞬間だった。
ナンバー3の左側の、換気塔が落とす長い影が、揺れた。
漆黒のドレスの少女が、その影の中から、音もなく浮かび上がっていた。
手は、背中から。
身体は、左から。
中州の霧の中で、四日間、繰り返した。
最初の夜は、半分しか浮かび上がれずに、砂利の上に放り出された。
二日目の夜は、手を出した瞬間に、身体のほうの影が揺らいで弾き出された。
三日目の夜に、ようやく、手と身体が、別々の影から同時に出られるようになった。
四日目の夜に、ヴィルヘルミナが、初めて「半分」とは言わなかった。
今日の、一手だった。
ゴーストの大剣が、横から薙がれた。
刃ではなく、大剣の腹が、ナンバー3の長槍の柄を、真横から叩いた。
——ガキィンッ!
長槍が、ナンバー3の手から弾き飛ばされて、トタン屋根の上を滑り、屋根の端で止まった。
ナンバー3は、空になった両手を見下ろした。
それから、ゆっくりと、左側に立つゴーストのほうへ顔を向けた。
「……知らない」
ナンバー3の声が、震えていた。
「そんなの、記録にない」
「あなたが知ってるのは」
ゴーストは、大剣を下ろしながら、静かに言った。
「昨日までの、私よ」
屋根の反対側では、雷と雷が、ぶつかり合っていた。
ナンバー1は、双剣を左右の手に一本ずつ握って、ヴィクトリアと、アイシャと、フラウの三人を、一人で相手にしていた。
ヴィクトリアが、夜空に紫電の網を張った。
地面から足が離れた瞬間を狙う、フラウを撃ち落とした、あの網だった。
ナンバー1は、それを見上げて、楽しそうに笑った。
「それ、知ってる!」
ナンバー1が、双剣の片方を、夜空に向かって突き上げた。
剣の先から、紫電が奔り、ヴィクトリアの網のすぐ上に、もう一枚の網を張り返した。
二枚の紫電の網が、夜空でぶつかり合って、互いに絡み合い、激しい火花を散らしながら、相殺されていった。
「……っ」
ヴィクトリアの眉が、寄った。
自分の網を、そのまま写して張り返された。
湾岸の倉庫街で、ヴィクトリアの紫電を受けるだけ受けて崩れていったあの魔獣を通して、無響はその雷の響きを聴いていたのだった。
フラウが、岩の籠手で、ナンバー1に殴りかかった。
ナンバー1は、双剣を交差させて、それを受け止めた。
刃と岩がぶつかった瞬間、双剣を伝って紫電が奔り、岩の籠手の表面を焼いた。
「……っ、痺れる」
フラウが、後ろへ跳び退いた。
アイシャが、マスケット銃を肩に当てて、断光を放った。
ナンバー1は、それを双剣の片方で弾いた。
弾いた勢いのまま、身体をくるりと回して、もう片方の剣で、アイシャの銃身を払った。
その動きを見て、ヴィクトリアの目が、僅かに細くなった。
ナンバー1の双剣の扱いには、自分のものではない、もう一つの型が混ざっていた。
左右の刃を、交互に。
身体ごと回るように、舞うように。
一本の刃で受けて、もう一本の刃で返す。
ヴィクトリアの知らない、古い二刀流の型だった。
「……その剣の型、どこで覚えたの」
ヴィクトリアが、低い声で問うた。
「あなたの雷じゃないわよね」
ナンバー1は、双剣を指先でくるりと回しながら、うっとりと目を細めた。
「あなたの雷と、もう一つ、どこかで聴いた雷を、混ぜたの」
「もう一つ」
「消えかけてたけど、すごく、きれいな雷だった」
ナンバー1は、楽しそうに笑った。
「お母様が、前に、どこかの古い寮で聴いたんだって。……その雷、本当は、二本の刃で戦う人の雷だったみたい」
屋根の反対側で、ナンバー3の長槍を叩き落としたばかりのゴーストの肩が、僅かに強張った。
古い寮で聴いた、消えかけたきれいな雷と、二本の刃で戦う人という言葉が、ゴーストの耳の奥で重なっていった。
寮跡で、無響に胸を抉られた夜。
倒れた自分の前に立った、青白い雷光を纏った、若い姿の母。
母の雷が、聴かれていた。
そして、写されていた。
ヴィクトリアの脳裏に、寮跡の夜のことが、一瞬だけよぎった。
だが、それを口に出すことはしなかった。
ただ、屋根の向こうのゴーストの背中が、一瞬だけ、ひどく固くなったのを、目の端で見ていた。
「……アイシャ」
ヴィクトリアが、短く呼んだ。
「はい」
「撃って」
アイシャは、マスケット銃を、もう一度肩に当てた。
ナンバー1は、それを見て、楽しそうに双剣を構えた。
断光の撃ち手が、引き金を引く前に、必ず息を止めること。
写しの記録の中に、その癖は、はっきりと残っていた。
息が止まった一瞬に、身体をずらせばいい。
だが、アイシャの息は、止まらなかった。
吸って、吐いて、吸って、その流れの途中で、引き金が引かれた。
——シュッ。
髪の毛ほどに細い光の線が、ナンバー1の右手の剣を、根元から断ち割った。
断たれた刃が、トタン屋根の上に落ちて、乾いた音を立てた。
ナンバー1は、柄だけになった右手の剣を、ぽかんと見下ろした。
「……あれ?」
それから、首を傾げて、アイシャの顔を見た。
「撃つ前に、息、止めるんじゃなかったの?」
「止めないことにしたの」
アイシャは、銃身を撫でて、次の断光を込めた。
「団長に、言われたから」
ナンバー1が、アイシャに気を取られた、その一瞬。
ヴィクトリアの指先に、夜空に張った紫電の網の残りが、全て収束していた。
小さな、小さな、紫色の点。
「……ごめんなさいね」
ヴィクトリアは、穏やかに言った。
指先から、一本の細い紫電が放たれた。
——バキィンッ!
ナンバー1の左手に残っていた剣が、弾き飛ばされて、夜空にくるくると舞い上がり、黒い海の中へ落ちていった。
ナンバー1は、両手の空になった柄と、空っぽの左手を、交互に見下ろしていた。
それから、楽しそうに、声を上げて笑った。
「あははっ! すごい、すごい! 剣、二本とも、なくなっちゃった!」
屋根の端で、ナンバー3が、弾き飛ばされた長槍を拾い上げていた。
ナンバー3は、長槍を肩に担ぐと、笑い転げているナンバー1の腕を、乱暴に掴んだ。
「……退くわよ」
「えー、まだ遊びたい」
「必要な分は、聴いた」
ナンバー3は、ゴーストのほうを、一度だけ振り返った。
その目には、悔しさと、それから、ほんの少しの羨望が浮かんでいた。
「……次は、手と身体の出口も、全部覚えてくるから」
「次は」
ナンバー1が、ナンバー3に腕を引かれながら、空の両手を、ヴィクトリアに向かってひらひらと振った。
「もっと、楽しくなるね」
二人の姿が、倉庫の屋根の端から、夜の闇の中へ、溶けるように消えていった。
屋根の上に、潮風の音だけが戻ってきた。
倉庫街の奥から、ルディアと真里が戻ってきた。
ルディアの白い礼装の裾が、少しだけ煤で汚れていた。
「夜勤の方々は、皆さん、ご無事ですわ」
ルディアは、袖で口元を隠しながら、穏やかに言った。
「魔獣は、全て退けました。……我らが神のほうも、お怪我はございませんか」
「……大丈夫」
ゴーストは、短く答えた。
その声が、いつもより少しだけ硬いことに、ヴィクトリアは気づいていた。
だが、何も聞かなかった。
ゴーストは、倉庫の屋根の端に立って、夜の湾岸を見渡した。
黒い海面の向こうに、対岸の工業地帯の灯りと、遠くの都心の明かりが滲んで見えた。
それから、湾岸の外れに立つ、高い送電鉄塔の、一番上に、目を向けた。
鉄塔の頂上の、鉄骨の上に、黒い髪の人影が、一つ、膝を抱えて座っていた。
ゴーストは、何も言わなかった。
ただ、自分の足元に、自分の闇で、影を一つ落とした。
そして、その中へ、静かに沈んでいった。
送電鉄塔の、一番上。
夜風が、鉄骨の間を、甲高い音を立てて吹き抜けていた。
協会本部の向かいのビルから影を渡ってきたナンバー8は、膝を抱えたまま、眼下の倉庫の屋根を見下ろしていた。
さっきまでそこにあった漆黒のドレスの背中は、今はもう、どこにも見えなかった。
ナンバー8の背中に、何かの気配が触れた。
ナンバー8は、黒い銃を握ったまま、振り返った。
自分が座っている鉄骨が落とす、細い影の中から、漆黒のドレスの少女が、音もなく浮かび上がっていた。
自分と、よく似た顔だった。
自分と、同じ色の瞳だった。
自分と、同じ、闇の気配だった。
「……あなたが」
ゴーストは、鉄骨の上に立ったまま、静かに言った。
「ナンバー8ね」
ナンバー8は、何も答えなかった。
黒い銃を握った手を、膝の上に置いたまま、自分とよく似た顔を、ただ、黙って見上げていた。
夜風が、二人の黒い髪を、同じ方向へ揺らしていった。




