第三百三十五話
協会本部前の広場の噴水は、夜の照明に照らされながら、いつもと変わらずに白い水を噴き上げていた。
その噴水の縁に、金の髪の少女が、芝居がかった仕草で光の剣を掲げて立っていた。
剣の形も、構えの角度も、柄を握る指の置き方までもが、凛花が毎日の稽古で繰り返してきたものと、寸分違わなかった。
その隣には、青い髪の小柄な少女が、手元に細い水の刃を浮かべたまま、感情の読めない目でこちらを観察していた。
どちらの顔も、凛花が円卓で何度も見てきた、黒いドレスの少女の顔に、よく似ていた。
「……あれは、私の剣です」
凛花は、光の剣を構えたまま、低い声で言った。
隣で、春華が眼鏡を押し上げながら、青い髪の少女の手元を見つめていた。
「あっちの子は、私の水ね。……細く絞って、一点にだけ当てるやり方」
「気持ち悪っ」
真紀奈が、氷の刃を手の中に生み出しながら、吐き捨てるように言った。
「アタシたちの真似して、何が楽しいのよ」
広場の周りには、逃げ遅れた人々が、まだ大勢残っていた。
終電を降りたばかりの会社員や、塾帰りの学生や、コンビニの袋を提げた若い夫婦が、駅の方角から押し寄せる悲鳴に背中を押されるようにして、協会本部の明るい建物の前まで逃げてきていたのだった。
その駅の方角から、低い唸り声が、少しずつ近づいてきていた。
灰色の外殻の魔獣が、一体、二体と、通りの角を曲がって姿を現し始めていた。
真紀奈は、広場の入り口と、噴水の縁の二人と、身を寄せ合う人々とを、順番に見た。
それから、凛花の肩を、拳で軽く小突いた。
「凛花。あの二人、あんたたちに任せるわ」
「真紀奈さん?」
「人を背中にして、あんな写しと遊んでられないでしょ。……入り口は、アタシが塞ぐ」
真紀奈は、凛花の返事を待たずに、広場の入り口へ向かって駆け出した。
駆けながら、右手を振り上げると、アスファルトの上に、鋭い氷の刃が何本も生え揃い、そのまま絡み合って、広場の入り口を塞ぐ分厚い氷の壁になった。
緋雪の氷が静かに凍らせる氷なら、真紀奈の氷は、砕くための氷だった。
壁の向こうに迫ってきた魔獣が、氷の刃に体当たりをして、外殻ごと弾き返された。
「……あの女に届かなかった分、ここで稼いでやるわよ」
真紀奈は、氷の壁の前に立ちはだかって、通りの奥の魔獣の群れを睨みつけた。
噴水の縁で、金の髪の少女が、楽しそうに手を叩いた。
「まあ、素敵。お一人で、殿を務められるのですね」
金の髪の少女——ナンバー4は、噴水の縁からふわりと降り立つと、光の剣を胸の前に掲げて、凛花に向かって優雅に一礼した。
「では、わたくしは、光の方のお相手を。……ナンバー5、あなたは、水の方を」
「……はい」
青い髪の少女——ナンバー5が、小さく頷いて、春華のほうへ一歩踏み出した。
最初に動いたのは、ナンバー4だった。
光の剣が、凛花の胸元に向かって、まっすぐに突き出された。
凛花は、自分の剣でそれを受けた。
光と光が触れ合った瞬間、互いの刃の上で光が揺らぎ、どちらの剣も、僅かに鈍った。
郊外の演習場で、アイシャの断光を受けた時と同じ、光同士がぶつかる時の手応えだった。
凛花は、剣を引いて斬り返したが、ナンバー4もまた、同じ角度で斬り返してきた。
自分の太刀筋を、自分の手で受けているような、奇妙な打ち合いが続いた。
「さすが、光の方ですわね」
ナンバー4は、凛花の剣を受け流しながら、芝居がかった仕草で首を傾げた。
「ですが、ここからは、少しばかり趣向を変えさせていただきますわ」
ナンバー4が、剣を持っていないほうの手を、広場の上に向かって広げた。
その手のひらから、柔らかな光が溢れ出した。
鋭い剣の光ではなく、温かく、どこまでも広がっていく光が、霧のように広場へ流れ出して、噴水を包み、街灯を呑み込み、凛花の視界を白く塗り潰していった。
ナンバー4の姿が、光の霧の中に溶けて、見えなくなった。
凛花は、霧の中で剣を構え直した。
どこかで、似た光を見た気がした。
円卓の席で、袖で口元を隠しながら穏やかに微笑む、黄金の髪の人の手のひらから溢れていた、あの柔らかな光に、よく似ていた。
「光の方」
霧の中から、ナンバー4の声が響いた。
どこから聞こえているのか、分からなかった。
「あなたの光は、わたくしの霧の中では、迷子になりますのよ」
凛花は、声のしたほうへ、光の刃を飛ばした。
だが、光の刃は、霧に触れた瞬間に、無数の光の粒に当たって散らばり、まっすぐには進まなかった。
右へ、左へ、ばらばらに逸れていく光の向こうから、ナンバー4の剣が、凛花の脇腹を浅く掠めていった。
「——っ」
凛花は、霧の中で身体をひねったが、次の斬撃は、背後から来た。
どこから来るのか、まったく読めなかった。
同じ頃、噴水の反対側では、春華とナンバー5が、静かに向かい合っていた。
二人とも、すぐには動かなかった。
ナンバー5は、細い水の刃を指先に浮かべたまま、春華の足の運びと、肩の動きと、眼鏡の奥の目の動きを、一つずつ確かめるように見つめていた。
春華もまた、ナンバー5の指先の水の刃の細さと、その水がどこから引かれているのかを、黙って観察していた。
「……あなたは、私と同じですね」
ナンバー5が、静かに口を開いた。
「戦う前に、相手を見る」
「そうね」
春華は、眼鏡を押し上げた。
「見られる側に回るのは、あまり好きじゃないけれど」
ナンバー5の指先から、水の刃が放たれた。
細く、細く絞られた水が、糸のように一直線に伸びて、春華の肩口を狙った。
春華もまた、同じように絞った水の糸を放って、それを空中で弾いた。
水の糸と水の糸が、噴水の上でぶつかり合っては、細かな飛沫になって散っていく。
どちらも、相手の糸の軌道を知っていた。
どちらも、相手が次にどこを狙うのかを、見抜いていた。
ナンバー5の水の糸が、春華の頬を掠めて、眼鏡のつるを弾き飛ばした。
眼鏡が、噴水の縁に落ちて、乾いた音を立てた。
「……あなたの水は、全部、聴いています」
ナンバー5が、静かに言った。
「細く絞って、一点にだけ当てる。……それが、あなたの全てでしょう」
春華は、眼鏡を拾わなかった。
噴水の縁に落ちた眼鏡を見下ろしたまま、小さく息を吐いた。
協会の測定の日、春華は、測定器の感知板の一点にだけ、ごく短く水を当てた。
出力の最大値は、ほんの一瞬しか記録されなかった。
研究員たちは、全力の値が取れないと首を傾げていたが、春華は、緊張してうまく出せなかったと答えて、涼しい顔で測定器を出てきた。
あの日から、誰にも、全てを見せたことはなかった。
「……あなたが聴いたのは」
春華は、裸眼のまま、ナンバー5の顔をまっすぐに見た。
「私が、見せてもいいと思った分だけよ」
春華は、両手を、背後の噴水へ向けて広げた。
噴水の水が、止まった。
噴き上がっていた白い水が、空中でぴたりと静止し、それから、まるで生き物のように、噴水の池の水ごと、ゆっくりと持ち上がり始めた。
細い糸ではなかった。
池一つ分の水が、春華の背後で大きくうねりながら、夜の照明を受けて、黒い波のように盛り上がっていった。
ナンバー5の目が、初めて、大きく見開かれた。
「……それは、記録に」
「ないでしょうね」
春華は、広げた両手を、ナンバー5に向かって振り下ろした。
持ち上がった水が、一つの大きな塊になって、ナンバー5の小柄な身体に、正面から覆いかぶさった。
ナンバー5は、細い水の刃で、それを切り裂こうとした。
だが、糸のように細い刃では、押し寄せる水の塊を、断ち切ることはできなかった。
ナンバー5の身体は、水の塊に呑み込まれたまま、広場の石畳の上を押し流されて、街灯の柱にぶつかって止まった。
ナンバー5は、濡れた青い髪を顔に張りつかせたまま、街灯の柱にもたれて、しばらく動かなかった。
それから、ゆっくりと顔を上げて、春華を見つめた。
「……あなたは、まだ、全部を見せていない」
その声には、悔しさよりも、深い興味の色が滲んでいた。
噴水の向こうの光の霧の中では、凛花が、膝をつきかけていた。
脇腹と、肩と、太腿に、浅い傷が増えていた。
霧の中のどこから剣が来るのか、最後まで読むことができなかった。
霧の外で、美羽が、両手を胸の前で握りしめて立ち尽くしていた。
「……凛花ちゃんが、見えない」
美羽の声が、泣きそうに震えていた。
霧の中に飛び込めば、自分も迷う。
雷を撃てば、凛花に当たるかもしれない。
どうすればいいのか、分からなかった。
その時、美羽の頭の中に、協会の地下訓練場の、焦げた匂いが蘇った。
測定器の中で、全力でいいと言われて、思いきり雷を放った日。
感知板が一枚、黒く焼き切れて、研究員たちが慌ててノートパソコンに飛びついていた。
壊すつもりはなかった。
ただ、全力を出したら、壊れてしまったのだった。
——あんたのは、壊すほど強かったってことでしょ。
真紀奈が、そっぽを向きながら言ってくれた言葉が、耳の奥に残っていた。
美羽は、顔を上げて、霧の真上の夜空を見つめた。
「……全力で、いいんですよね」
誰に聞くでもなく、小さく呟いた。
それから、両手を、霧の真上に向かって、まっすぐに突き上げた。
——バチィィィッ!
紫色の雷光が、広場の夜空を真っ白に染め上げた。
雷は、霧の真上から、まっすぐに降り注いだ。
凛花のいる場所を避けて、霧の中心を、ただ一点だけ。
雷の熱と衝撃が、霧の中に満ちていた無数の光の粒を、一斉に弾き飛ばした。
柔らかな光の霧が、内側から破裂するように、広場の四方へ吹き散らされていった。
霧が晴れた広場の真ん中に、金の髪の少女が、剣を振りかぶったまま、むき出しになって立っていた。
「——っ、なんて、無作法な雷……!」
ナンバー4の目が、驚きで見開かれていた。
その一瞬を、凛花は見逃さなかった。
膝をつきかけていた身体を、地面を蹴って跳ね起こし、光の剣を下から斬り上げる。
凛花の剣が、ナンバー4の剣を、根元から弾き飛ばした。
光の剣が、くるくると回転しながら宙を舞い、噴水の池の中に落ちて、光の粒になって消えていった。
ナンバー4は、空になった手を、しばらく見つめていた。
それから、芝居がかった仕草で額に手を当てて、大きく嘆息した。
「……わたくしの霧が、雷一つで散らされるなんて。屈辱ですわ」
その口元は、言葉とは裏腹に、楽しそうに笑っていた。
「でも、素敵な雷でしたわ。……覚えました」
街灯の柱の前で、ナンバー5が、濡れた髪をかき上げながら立ち上がった。
「ナンバー4。……必要な分は、聴きました」
「ええ、ええ。分かっておりますわ」
ナンバー4は、ナンバー5の隣に歩み寄ると、凛花に向かって、もう一度優雅に一礼した。
「次は、雷の対策も、してまいりますわね。……ごきげんよう、光の方」
二人の姿が、広場の照明の届かない暗がりの中へ、溶けるように消えていった。
広場に、噴水の水音だけが戻ってきた。
春華が持ち上げていた水は、全て池に戻っていて、噴水はまた、何事もなかったかのように白い水を噴き上げていた。
凛花は、光の剣を握ったまま、肩で息をしていた。
美羽が、泣きそうな顔のまま、凛花に駆け寄ってきた。
「凛花ちゃん! 大丈夫!? 当たってない!?」
「……大丈夫です。美羽さんの雷は、私には一度も当たっていません」
凛花は、少しだけ笑って、美羽の頭にそっと手を置いた。
広場の入り口では、真紀奈が、半分崩れかけた氷の壁の前に、肩で息をしながら立っていた。
その足元には、灰色の魔獣の残骸が、いくつも転がっていた。
氷の壁の内側では、逃げ遅れた人々が、一人も欠けることなく、身を寄せ合っていた。
美羽が、今度は真紀奈のほうへ駆け寄っていった。
「真紀奈ちゃん、すごい! 一人で、全部止めたんだね!」
「……褒めても、何も出ないわよ」
「褒めてないよ、すごいって言っただけ!」
「それを褒めてるって言うのよ」
真紀奈は、ぷいとそっぽを向いた。
その耳が、照明の下で、少しだけ赤くなっていた。
噴水の縁で、春華が、拾い上げた眼鏡のつるを、指先で元の形に直していた。
隣に立った凛花に、眼鏡をかけ直しながら、凛花にだけ聞こえる声で言った。
「写しは、私たちが見せたものしか、知らないのよ」
「……はい」
「だから、見せていないものが、私たちの武器になる。……でも、一度見せたら、もう武器じゃなくなるわ」
春華は、眼鏡の奥の目を細めて、二人の写しが消えていった暗がりを見つめていた。
「今夜、私は、一つ使ってしまった。……美羽も、ね」
協会本部の向かいの、古いビルの屋上の、給水塔が落とす影の中に、黒い髪の人影が一つ、膝を抱えて座っていた。
ナンバー8は、眼下の広場を、黙って見下ろしていた。
噴水一つ分の水を持ち上げた、水の少女。
霧を一撃で吹き飛ばした、小さな雷の少女。
どちらも、写しの記録にはない力だった。
ナンバー8は、膝の上の黒い銃を、両手で握り直した。
写しは、見せられたものしか知らない。
それなら、自分は、何を見せられて、ここにいるのだろう。
ナンバー8は、答えの出ない問いを抱えたまま、湾岸の方角の夜空に目を向けた。
遠くの空の一角で、紅蓮の炎と、紫色の雷が、続けざまに瞬いていた。




