第三百三十三話
奈緒の手の中の黒い紙は、朝の光に当たった端から、少しずつ闇に溶けて薄れていった。
翼の家の、修理したばかりの門柱の前だった。
新聞を小脇に抱えたまま、奈緒は、消えていく紙を両手で持ち直して、そこに書かれた白い文字を、一文字ずつ指でなぞった。
紙は、指でなぞった先から、まるで最初からそこになかったかのように、空気の中にほどけていった。
「……よっかご。わんがんの、だいさん、そうこ」
奈緒は、文字を声に出して読んだ。
「なんばー、に。なんばー、ろく。……はち」
最後の数字を読み終えた時には、紙は、奈緒の手のひらの上から、すっかり消えていた。
奈緒は、空になった手のひらを、しばらく見つめていた。
それから、新聞を放り出して、家の中へ駆け戻った。
「しらとりさん!」
台所で朝食の支度をしていた白鳥が、驚いて振り返った。
「奈緒ちゃん、どうしたの、そんなに慌てて」
「かみ、きえた!」
「紙?」
「くろいかみ。ゆうびんうけに、はいってた。……よっかご、わんがんの、だいさんそうこ、なんばーにと、なんばーろく、はち」
奈緒は、忘れないうちにと、覚えた言葉を一息に繰り返した。
白鳥は、菜箸を置いて、奈緒の前にしゃがみ込んだ。
「……もう一度、ゆっくり言って」
奈緒が、もう一度、同じ言葉を繰り返した。
居間の奥から、赤みがかった金髪の少女が、眠そうな顔で現れた。
テレサだった。
翼の家に移ってきてから、まだ数日しか経っていなかった。
「……紙が、溶けたって?」
「うん。ひかりにあたったら、とけて、なくなった」
テレサの眠そうな目が、すっと細くなった。
「……白鳥さん。それ、ただの紙じゃない」
「……ええ」
白鳥は、エプロンのポケットから携帯端末を取り出して、ヴィクトリアの番号を呼び出した。
その日の夕方、翼の家の居間に、円卓が集まった。
ゴースト、緋雪、凛花、白鳥、ヴィクトリア、ルディア、真里。
縁側の近くには、テレサとアイシャとフラウが、少し遠慮がちに並んで座っていた。
ゴーストは、左肩に巻いた包帯の上から、そっと手を当てながら、昨夜の出来事を順番に話していった。
学校の地下の、戦姫の紋章が刻まれた扉。
空になった書棚と、床に残されていた、人工魔法少女の研究の切れ端。
自分と同じ顔をした、紅い髪の少女。ナンバー3と名乗ったこと。
姉の構えと、焔の炎を写した戦い方。
影から背後に出る癖を、全て読まれていたこと。
それから、暗がりの奥から撃たれた、黒い弾のこと。
「……闇、でしたの」
ルディアが、袖で口元を隠したまま、低い声で言った。
「我らが神と、同じ」
「ええ。……私と、同じ闇だった」
ゴーストは、包帯の上から肩を押さえた。
「ナンバー8、って呼ばれてた。……少女の声だったのに、自分のことを、俺って言ってた」
居間に、短い沈黙が落ちた。
「そして今朝、そのナンバー8から、手紙が届いたというわけね」
ヴィクトリアが、紅茶のカップを置いた。
「四日後の夜。湾岸の第三倉庫。ナンバー2と、ナンバー6」
白鳥が、奈緒から聞いた言葉を書き留めた紙を、卓の上に置いた。
「……罠よ」
ヴィクトリアは、迷わずに言った。
「敵の中から、こんなに都合よく、日時と場所と相手まで書いた手紙が届く。……疑わないほうが、どうかしているわ」
「私は、本物だと思う」
ゴーストが、静かに言った。
ヴィクトリアが、ゴーストのほうを見た。
「あの弾がなかったら、私は、昨夜、喉を貫かれてた」
「……」
「ナンバー8は、自分の仲間の槍を、わざと弾いたのよ。……罠を仕掛けるために、そこまでする理由がない」
ヴィクトリアは、しばらく黙っていた。
それから、小さく息を吐いて、縁側のほうに目を向けた。
「アイシャ。……あなた、何か預かってきているでしょう」
アイシャが、少しだけ背筋を伸ばした。
「はい。……団長から、伝言です」
アイシャは、膝の上で両手を握りしめて、病室で聞いてきた言葉を、一言ずつ正確に繰り返した。
「漏らす者がいるなら、その情報は本物だ。……だが、知られたと分かった時点で、敵は、計画を広げる」
居間が、静まり返った。
「……広げる」
凛花が、繰り返した。
「第三倉庫だけでは、終わらないということですか」
「団長は、そう言っていました」
アイシャは、小さく頷いた。
「情報が本物でも、本物のままでは使えない。……そう思っておけ、って」
ゴーストは、卓の上の紙を、長い間見つめていた。
四日後の夜。湾岸の第三倉庫。
「……それでも、第三倉庫は押さえる」
ゴーストが、静かに言った。
「少なくとも、そこに来ることだけは、本当だから。……ナンバー8が、命がけで教えてくれたことだもの」
ヴィクトリアは、ゴーストの顔を見つめていたが、やがて、紅茶のカップを手に取って、一口だけ飲んだ。
「……分かったわ。ただし、他の場所への備えも、同時にしておく」
郊外の、古い工場の地下。
錆びた配管が天井を這う広い空間の、一段高くなった場所で、無響は、目を閉じて立っていた。
その前に、八つの人影が並んでいた。
七人のナンバーズが、半円を描くように立ち、その少し外れた、壊れた機械の陰に、黒い髪のナンバー8が、膝を抱えて座っていた。
「……昨夜、湾岸の第三倉庫のことを、外へ漏らした者がいる」
無響の温度のない声が、地下の空間に落ちた。
ナンバーズの何人かが、一斉に、壊れた機械の陰のほうを振り返った。
ナンバー8は、膝を抱えたまま、動かなかった。
「ナンバー8、あんた——」
ナンバー3が、長槍の柄を握りしめて、一歩踏み出した。
「よい」
無響の声が、ナンバー3の足を止めた。
「咎めるつもりは、ない」
ナンバー3が、目を見開いた。
「……お母様?」
「漏れたなら、漏れたで構わない」
無響は、ゆっくりと目を開けた。
「向こうは、第三倉庫に備える。……なら、第三倉庫だけでは、なくせばいい」
無響の長い指が、宙に、見えない地図を描くように動いた。
「同じ夜に、おまえたちを、三方へ出す」
ナンバーズの目が、一斉に、無響に向いた。
「ナンバー2、ナンバー6。白百合を」
白銀の髪のナンバー2が、目を閉じたまま、膝の上の太刀に手を置いた。
翠の髪のナンバー6が、槍を抱えたまま、嬉しそうに身体を揺らした。
「ナンバー4、ナンバー5。協会を」
金の髪のナンバー4が、芝居がかった仕草で、胸に手を当てて一礼した。
青い髪のナンバー5が、手元の水の刃を、指先で細く研ぎ澄ましながら、小さく頷いた。
「ナンバー3、ナンバー1。……オリジナルの、いる場所へ」
紅い髪のナンバー3が、長槍を肩に担いで、にやりと笑った。
紫の髪のナンバー1が、双剣の柄を指先でくるりと回しながら、楽しそうに目を細めた。
「ナンバー7は、ここに残れ」
琥珀の髪の大柄なナンバー7が、大槌を床に突き立てたまま、黙って頷いた。
「お母様」
ナンバー4が、芝居がかった仕草で首を傾げた。
「わたくしたちは、勝ってくればよろしいのでしょうか」
「勝たなくて、よい」
無響は、静かに答えた。
「戦え。……写した相手と、刃を合わせろ。おまえたちが写したのは、あの者たちの昨日までの戦い方だ。今日の戦い方を、身体で覚えてこい」
ナンバーズの間に、小さなざわめきが広がった。
「それから」
無響の指が、もう一度、宙をなぞった。
「同じ夜、街の広い場所に、魔獣を放つ」
ナンバー5が、水の刃を研ぐ手を止めた。
「……民間人を、襲わせるのですか」
「そうだ」
無響は、少しも声の調子を変えずに答えた。
「守る者がいる時、あの者たちが、どう動くのか。……それも、聴いておきたい」
ナンバー6が、嬉しそうに槍を振り回した。
「あたし、速さ、試せるんだよね! いっぱい、いっぱい、走っていいんだよね!」
「好きにしろ」
ナンバー2は、目を閉じたまま、ぽつりと呟いた。
「……白銀の、太刀」
それだけだった。
「オリジナルと、もう一回できるのね」
ナンバー3が、長槍の穂先に、ちろりと炎を灯した。
「今度は、邪魔が入らないといいけど」
ナンバー3の視線が、壊れた機械の陰の、黒い髪のナンバー8に向いた。
「……ナンバー8」
無響が、静かに呼んだ。
ナンバー8が、膝を抱えたまま、顔を上げた。
「おまえは、見ていろ」
「……」
「手は、出すな」
ナンバー8は、しばらく無響の顔を見つめていた。
何を見せたいのか、無響は、何も言わなかった。
「……分かった」
ナンバー8は、それだけ答えて、また膝の上に顔を伏せた。
その夜、町外れの河川敷の中州は、いつものように白い霧に包まれていた。
ゴーストは、包帯を巻いた左肩を庇いながら、砂利の上に立っていた。
「写しが知っとるのは、昨日までのおぬしじゃ」
中州の端で、ヴィルヘルミナが杖を突いて言った。
「影から背後に出る。炎と氷を重ねる。……そういう、もう見せた手は、全部、写されとると思え」
「……はい」
「なら、今日の一手を、作れ」
ヴィルヘルミナは、杖の先で、砂利の上に小さな丸を二つ描いた。
「影は、一つしか使えんと、誰が決めた」
ゴーストは、砂利の上の二つの丸を見下ろした。
影に沈む。
影から出る。
これまでずっと、入る影と出る影は、一つずつだった。
だから、出口が読まれた。
背後の影から出れば、背後に石突きが来た。
(……出口を、一つに絞らせない)
ゴーストは、自分の足元に、自分の闇で影を落とした。
それから、少し離れた、右手の砂利の上にも、もう一つ、小さな影を落とした。
足元の影に、身体を沈める。
そして、右手の小さな影からは、闇の手だけを、先に伸ばした。
闇の手が、右の影から伸びて、空を掴む。
その一瞬だけ、相手の目は、そちらに向く。
その間に、身体は、別の、三つ目の影から出る。
身体が、浮かび上がったのは、左手の、葦の根元の影だった。
だが、その瞬間、足元の影が揺らいで、ゴーストは、砂利の上に半分だけ放り出された。
「……っ」
「ほう」
ヴィルヘルミナが、目を細めた。
「手は右、身体は左か。……まだ、半分じゃのう」
「……もう一度、やります」
「やれ。……四日あるでな」
中州の端で、緋雪が、太刀を抜いて構えていた。
ゴーストの稽古を見ながら、自分の太刀の刃を、じっと見つめていた。
ナンバー2。白銀の髪。太刀。
自分の写しが、いる。
(……私の写しは、昨日までの私しか、知らない)
緋雪は、太刀を握り直した。
それから、足元の砂利に、冷気を落とした。
——パキッ。
音を立てる氷が、静かに弾けた。
三神家の、それからの数日は、いつもと変わらないように過ぎていった。
ある朝、零が台所で弁当を詰めていると、母が、何も言わずに隣に立った。
奈々美は、息子の左肩のあたりを、ちらりと見た。
腕を動かすたびに、ほんの僅かに、肩の動きが硬くなる。
零は、それを隠しているつもりだった。
奈々美は、何も聞かなかった。
ただ、朝食の席に着いた時、零の茶碗の隣に、湿布の箱が一つ、そっと置かれていた。
零は、湿布の箱を見下ろした。
それから、母の顔を見た。
奈々美は、味噌汁の椀を持ったまま、何事もなかったように、玲奈の寝癖を直していた。
「……ありがとう、母さん」
「何のこと?」
奈々美は、少しだけ笑って、味噌汁をすすった。
居間では、五郎が新聞を広げていた。
新聞の陰から、妻と息子のやり取りを、黙って見ていた。
夕方の庭では、澪が、手のひらの上で藤の花びらを回していた。
花びらは、もう十枚を超えていた。
淡い紫の輪が、澪の手のひらの上で、静かに回り続けている。
澪は、その輪を見つめながら、縁側の柱に掛けた白百合の制服を、時々横目で見ていた。
白百合の盾。
結衣会長。玲奈。由鶴。緋雪。
それから、この手のひらの上の花びら。
縁側で、五郎が、湯呑みを手に、娘の背中を見ていた。
「……澪」
「なに、お父さん」
「急がなくて、いいんだぞ」
澪の手のひらの上で、花びらの輪が、僅かに揺れた。
「……分かってる」
澪は、振り返らずに答えた。
その日の夕食の席で、玲奈が、白百合で聞いてきた話を、少しだけ不安そうにこぼした。
「最近、変な噂があるんだよね。……風を使う魔獣が出たって」
「魔獣は、いろいろいるでしょ」
澪が、唐揚げを摘みながら答えた。
「そうなんだけど。その魔獣の動きがね、なんか、私の風に似てたって。……飛鳥さんが、気持ち悪いって言ってた」
零の箸が、一瞬だけ止まった。
ナンバー6。翠の髪。槍。速さ。
零は、何も言わずに、唐揚げを口に運んだ。
四日後の夜。
湾岸の、第三倉庫。
錆びた大きな倉庫の屋根の上に、円卓の面々が陣を張っていた。
ゴーストと、ヴィクトリアと、ルディアと、真里。
倉庫の陰には、アイシャとテレサとフラウが、それぞれの武器を構えて身を潜めていた。
白百合の緋雪と、協会の凛花は、ここにはいなかった。
白百合にも協会にも、それぞれの夜間の待機があった。
ヴィクトリアの言う「他の場所への備え」とは、そういうことだった。
夜の海風が、潮の匂いを運んでいた。
遠くの倉庫街の灯りが、黒い海面に細く揺れていた。
零時を、少し回った頃だった。
白百合の盾の、情報班の解析室。
新実由鶴は、壁一面のモニターの前で、思わず椅子から腰を浮かせていた。
都内の地図を映したモニターの上に、魔獣の出現を示す赤い印が、一斉に灯り始めていた。
一つ。二つ。五つ。十。
住宅街。駅前。繁華街。河川敷。
都内のあちこちで、数えきれないほどの赤い印が、ほとんど同時に灯っていく。
「……そんな」
由鶴の指が、キーボードの上で震えた。
「全域、です」
白百合の本部から、魔獣の出現地点へ急行していた白百合の隊員たちの車が、夜の幹線道路の途中で、急停止した。
先頭の車のヘッドライトの中に、二つの人影が立っていた。
一人は、白銀の髪を背に流し、太刀を手にした少女。
一人は、翠の髪を揺らし、槍を抱えた少女。
どちらも、黒いドレスによく似たドレスを纏っていた。
その顔は、緋雪がよく知る顔に、よく似ていた。
後部座席から降りた緋雪は、白銀の髪の少女の顔を見て、太刀の柄に手をかけた。
「……私の、写しね」
白銀の髪の少女——ナンバー2が、目を開けた。
「……白銀の、太刀」
同じ頃、都心の協会本部の前の広場に、凛花と春華と真紀奈と美羽が駆けつけたところで、二つの人影が、広場の噴水の縁に降り立っていた。
金の髪の少女と、青い髪の小柄な少女。
金の髪の少女——ナンバー4が、芝居がかった仕草で、凛花に向かって一礼した。
「ごきげんよう、協会の光の方。……あなたの剣、写させていただきましたわ」
そして、湾岸の第三倉庫の屋根の上。
ゴーストたちの前に、二つの人影が、夜空から音もなく降り立った。
紅い髪の少女と、紫の髪の少女。
「待ってたわよ、オリジナル」
ナンバー3が、長槍の穂先に炎を灯して、にやりと笑った。
その隣で、紫の髪の少女——ナンバー1が、双剣を指先でくるくると回しながら、ヴィクトリアの顔を見上げて、楽しそうに目を細めた。
「……あなたの雷、いい匂いがする」
ヴィクトリアの指先で、紫電が、ぱちりと弾けた。
少し離れた、湾岸の高い送電鉄塔の、一番上。
夜風に吹かれながら、黒い髪の人影が、一人、膝を抱えて座っていた。
ナンバー8だった。
手に、黒い銃を握ったまま、眼下の倉庫街と、遠くの幹線道路と、都心の広場と、街のあちこちに灯り始めた魔獣の気配を、黙って見下ろしていた。
見ていろ、と言われた。
手は出すな、と言われた。
何を見せたいのか、お母様は、何も言わなかった。
ナンバー8は、膝の上に顎を乗せて、倉庫の屋根の上の、漆黒のドレスの背中を、じっと見つめていた。




