第三百三十二話
紅蓮の炎を纏った槍の穂先が、空になった書棚の間の暗がりを、まっすぐに貫いてきた。
ゴーストは、大剣の腹でそれを受け止めた。
刃と穂先がぶつかった瞬間、火花が散ったが、その音は、この音のない部屋のどこにも響かなかった。
受け止めた大剣を伝って、炎の熱が、腕の奥まで這い上がってくる。
ゴーストは、身体をひねって槍を横へ流し、数歩後ろへ跳び退いた。
「……あら、いい反応」
紅い髪の少女が、槍を引き戻しながら、楽しそうに笑った。
「さすがオリジナルね。……でも、それくらいは知ってるのよ」
ナンバー3は、槍の柄をくるりと回して、穂先を低く構え直した。
その構えに、ゴーストは見覚えがあった。
夜の街で魔獣と向き合う姉の背中に、何度も見た構えだった。
姉が、炎の長槍を構える時の、少しだけ右足を引いた立ち方。
そして、穂先に灯る炎の色は、寮跡の中庭で、母と向き合っていた女の薙刀に灯っていた、あの紅蓮によく似ていた。
(……姉ちゃんと、焔の)
「気づいた?」
ナンバー3は、にっこりと笑った。
「私の戦い方は、白百合の炎の子と、教団の炎の頂点から、いいところだけをもらってるの。……あの方が、ずっと聴いてくれてたから」
「……あの方」
「私たちの、お母様みたいな人よ」
ナンバー3は、槍の穂先に、炎を集め始めた。
炎が、穂先の一点に、細く、白く絞られていく。
姉が、テレサとの戦いの最後に辿り着いた、炎を一点に絞るやり方だった。
ゴーストは、足元の暗がりに目を落とした。
書棚が落とす影が、床のあちこちに、濃く溜まっている。
影移動には、困らない場所だった。
ゴーストは、足元の影に沈んだ。
一つ。二つ。三つ。
浮かび上がった先は、ナンバー3の背後の、書棚の陰だった。
大剣を振りかぶる。
だが、その瞬間、ナンバー3の槍の石突きが、背後に向かって、まっすぐに突き出されていた。
——ガキィンッ!
石突きが、振り下ろしかけた大剣の柄を、正確に打った。
「——っ!」
ゴーストの手から、大剣が離れかけた。
「影から影へ跳ぶのも、知ってるわ」
ナンバー3は、振り返りもせずに言った。
「出口は、たいてい相手の背中。……そう聴いてたもの」
ゴーストは、大剣を握り直して、もう一度影に沈んだ。
今度は、ナンバー3の真上の、天井の照明の残骸が落とす影から。
その次は、足元の、実験台の影から。
その全てを、ナンバー3は、槍の穂先と石突きで、正確に迎え撃った。
河川敷で、あの魔獣は、受けるだけ受けて崩れた。
あの時、ゴーストが見せた影移動の癖も、三つの色を重ねた一撃も、全て、紫色の紋様の中に書き写されていたのだった。
「……まだ、見せてないのがあるでしょう」
ナンバー3が、槍を構え直しながら言った。
「闇。……オリジナルの、闇」
ナンバー3の目が、ほんの一瞬だけ、羨むように細められた。
「私たちには、それだけがないのよね」
ナンバー3は、槍を持っていないほうの手を、床に積もった灰色の砂に向けてかざした。
砂が、ざわりと蠢いた。
床のあちこちに積もっていた魔獣の砂が、一か所に集まり始めた。
集まった砂が、盛り上がり、形を成していく。
四つの脚。灰色の外殻。目も口もない、滑らかな頭部。
二体の魔獣が、ナンバー3の両脇に、音もなく立ち上がった。
「……魔獣を、操れるの」
「当たり前でしょう。私たちは、魔法少女と魔獣の、いいとこ取りなんだから」
ナンバー3は、槍の穂先を、ゴーストに向けた。
「行きなさい」
二体の魔獣が、左右から同時に跳びかかってきた。
ゴーストは、大剣で右の魔獣を受け止め、闇の盾で左の魔獣を弾いた。
だが、その隙に、ナンバー3の槍が、正面から突き込まれてきた。
白く絞られた炎の穂先は、闇の盾には触れず、その縁を回り込むようにして、内側へ滑り込んできた。
「——っ、く……!」
穂先が、ゴーストの左肩を掠めた。
ドレスの布地が焼け焦げ、肩に、焼けるような痛みが走る。
ゴーストは、後ろへよろめいた。
背中が、空の書棚にぶつかった。
右からも、左からも、灰色の魔獣が迫ってくる。
正面には、槍を構えたナンバー3が立っている。
ナンバー3が、槍を大きく引いた。
「……おしまいよ、オリジナル」
白く絞られた炎の穂先が、ゴーストの喉元に向かって、まっすぐに突き出された。
その瞬間だった。
部屋の、一番奥の暗がりから、何かが飛んできた。
黒い、小さな塊だった。
——ガキィンッ!
黒い塊が、槍の穂先を、横から正確に弾いた。
穂先が逸れて、ゴーストの喉元の、指一本分横の書棚に突き刺さった。
ナンバー3の目が、見開かれた。
ゴーストもまた、目を見開いていた。
穂先を弾いた黒い塊は、床の上で、ころりと転がって止まった。
小さな、黒い弾丸のような形をしていた。
それは、床に転がったまま、ゆっくりと闇に溶けて、消えていった。
闇だった。
自分と同じ、闇の気配だった。
「……ナンバー8?」
ナンバー3が、部屋の奥の暗がりを、振り返って睨みつけた。
「何してんのよ、あんた!」
暗がりの奥は、何も答えなかった。
ただ、そこに、誰かがいる気配だけがあった。
黒い髪の、細い人影だった。
手に、何かを握っている。
銃のようだった。
その人影が、暗がりの奥から、こちらを見ていた。
ゴーストは、その目と、一瞬だけ視線が合った気がした。
自分と、同じ色の瞳だった。
「……俺は」
暗がりの奥から、低い声がした。
少女の声だった。
それなのに、その一人称は、男のものだった。
「……手が、滑っただけだ」
次の瞬間、その人影は、暗がりの中に溶けるように消えていった。
影から影へ跳ぶ、あの消え方だった。
「ちょっと、待ちなさいよ、ナンバー8!」
ナンバー3が、暗がりに向かって叫んだ。
返事は、なかった。
ナンバー3は、書棚に突き刺さった槍を引き抜くと、苛立たしそうに、穂先についた木屑を払った。
それから、ゴーストのほうを振り返った。
ゴーストは、もう、そこにいなかった。
書棚の足元に、ゴースト自身の闇で作った、小さな影が一つだけ、揺らめいて残っていた。
その影も、すぐに消えていった。
「……逃げたか」
ナンバー3は、舌打ちをして、槍を肩に担いだ。
「あの子のせいよ。……まったく」
三神家の縁側に、ゴーストは、影から転がり出るようにして浮かび上がった。
左肩が、焼けるように痛かった。
ドレスの肩口は焦げて、その下の肌に、赤い火傷の痕が走っていた。
「……おかえり」
縁側の座布団の上で、ヴィルヘルミナが、湯呑みを両手で包んだまま言った。
浴衣にケープを羽織った、いつもの少女の姿だった。
膝の上の茶は、とうに冷めきっていた。
「……ただいま、帰りました」
「派手にやられたのう」
ヴィルヘルミナは、湯呑みを置いて、ゴーストの左肩に、小さな手をかざした。
手のひらから、ひんやりとした空気が流れ出して、火傷の痕を包み込んでいく。
焼けるような痛みが、少しずつ引いていった。
「……私と、同じ顔をしてました」
ゴーストは、縁側に座り込んだまま、俯いて言った。
「髪の色だけが、違って。……紅い髪で、長い槍を持ってて。姉ちゃんと、焔の戦い方をしてた」
「写しじゃな」
ヴィルヘルミナは、手をかざしたまま、静かに言った。
「あの音のない者が、おぬしたちの魔法を聴いて、写し取って、形にしたんじゃろう」
「ナンバー3って、名乗ってました」
「三番、か。……なら、少なくとも、あと二つはおるのう」
ヴィルヘルミナは、少しだけ目を細めた。
「もっと、おるかもしれんが」
ゴーストは、しばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと顔を上げた。
「……師匠。もう一人、いました」
「ほう」
「部屋の奥の暗がりから、撃ってきたんです。……ナンバー3の槍を、弾くために」
ヴィルヘルミナの手が、ゴーストの肩の上で、僅かに止まった。
「黒い、弾でした」
ゴーストは、自分の左手を見下ろした。
「床に落ちて、闇に溶けて、消えました。……私と、同じ闇でした」
ヴィルヘルミナは、しばらく何も言わなかった。
庭の向こうの、夜空を見上げていた。
「……闇は、おぬしだけの色じゃと思うとったがのう」
「ナンバー8、って呼ばれてました」
ゴーストは、暗がりの奥の、あの人影を思い出していた。
「……俺、って言ってました。女の人の声なのに」
ヴィルヘルミナの目が、ゆっくりと、ゴーストのほうへ向いた。
その古い目が、目の前の、女の姿をした弟子の顔を、じっと見つめていた。
「……そうか」
ヴィルヘルミナは、それだけ言って、また夜空を見上げた。
「写しの中に、写しとは思えん匂いの者が、一人おる。……さっき、ここからでも、少しだけ嗅ぎ取れたわい」
郊外のどこかの、古い工場の地下。
錆びた配管が天井を這い、壊れた機械が埃を被って並ぶ、広い空間だった。
その空間だけ、地上の街の音が、何一つ届いていなかった。
空間の奥の、一段高くなった場所に、人の形をした何かが、静かに立っていた。
片腕のない、温度のない存在。
無響だった。
その前に、七つの人影が、半円を描くように並んでいた。
どの顔も、ゴーストによく似ていた。
ただ、髪の色だけが、それぞれ違っていた。
紫の髪の少女が、双剣の柄を指先で弄びながら、退屈そうに欠伸をしていた。
白銀の髪の少女が、太刀を膝に置いて、目を閉じて正座していた。
紅い髪の少女が、長槍を肩に担いだまま、苛立たしそうに足を踏み鳴らしていた。
金の髪の少女が、光の剣を胸の前に掲げて、芝居がかった仕草で天井を仰いでいた。
青い髪の小柄な少女が、手元の水の刃を、指先で細く研ぎ澄ましていた。
翠の髪の少女が、槍を抱えたまま、落ち着きなく身体を揺らしていた。
琥珀の髪の大柄な少女が、大槌を床に突き立てて、腕を組んで黙っていた。
その七人から、少しだけ離れた、壊れた機械の陰に。
黒い髪の人影が、一人、膝を抱えて座っていた。
手に、黒い銃を握っていた。
「……ナンバー8」
ナンバー3が、黒い髪の人影を、睨みつけた。
「あんた、さっき、何したか分かってるの?」
「……」
「オリジナルに、止めを刺すところだったのよ。それを、あんたが弾いた」
「……手が、滑った」
「滑るわけないでしょ! あんな正確に、穂先だけ弾いておいて!」
「あはは」
紫の髪の少女——ナンバー1が、双剣を指先で回しながら、楽しそうに笑った。
「ナンバー8って、いつもそうよね。……なんか、私たちの邪魔ばっかりしてる」
「……」
「この前も、ナンバー5の測定の邪魔したでしょう。魔獣の位置、わざとずらしたって聞いたわよ」
「おやめなさい、皆さん」
金の髪の少女——ナンバー4が、芝居がかった仕草で、両手を広げた。
「ナンバー8は、わたくしたちの中でただ一人の、闇の持ち主ですもの。……お母様が、特別に目をかけていらっしゃる方ですわ」
「特別に、ねえ」
ナンバー3が、鼻を鳴らした。
一段高い場所で、無響が、静かに口を開いた。
「……ナンバー8」
温度のない声だった。
黒い髪の人影が、膝を抱えたまま、顔を上げた。
「なぜ、撃った」
黒い髪の人影は、しばらく黙っていた。
「……分からない」
低い、少女の声だった。
「俺にも、分からない」
無響は、それ以上は何も問わなかった。
ただ、温度のない目で、黒い髪の人影を、長い間見つめていた。
会議が終わって、他のナンバーズが散っていった後、ナンバー8は、一人で、地下の空間の隅に立っていた。
壁際に、割れた鏡が一枚、立てかけられていた。
ナンバー8は、その鏡の前に立った。
鏡の中に、黒い髪の少女が映っていた。
ゴーストによく似た顔立ちで、細い肩も、柔らかな身体の線も、他のナンバーズと何も変わらなかった。
鏡に映る姿だけを見れば、誰が見ても、少女だった。
それでも、ナンバー8は知っていた。
自分の身体が、他のナンバーズとは、ただ一か所だけ、違う作りをしていることを。
少女の身体の中に、少年の身体が、ひっそりと混ざり込んでいることを。
そして、自分のことを考える時、頭の中に浮かぶのは、いつも「俺」という言葉だった。
他のナンバーズは、誰も、そんなことで迷わなかった。
自分たちは女で、お母様に作られた写しで、戦うために生まれた。
それだけで、十分だった。
自分だけが、違った。
自分だけが、女の身体と男の身体を、一つの身体の中に抱えていた。
自分だけが、闇しか使えなかった。
自分だけが、オリジナルに刃を向けることに、なぜか、指が震えた。
(……俺は、何なんだ)
鏡の中の少女は、何も答えなかった。
ナンバー8は、鏡から目を逸らすと、ポケットから、黒い紙を一枚取り出した。
紙に、何かを書きつけて、小さく折り畳む。
それから、足元の影の中へ、静かに沈んでいった。
翌朝。
郊外の翼の家の、修理したばかりの門柱の脇の郵便受けに、奈緒が手を入れた。
毎朝、新聞を取りに行くのが、奈緒の仕事だった。
郵便受けの中に、新聞と一緒に、黒い紙が一枚、小さく折り畳まれて入っていた。
奈緒は、首を傾げながら、その紙を開いた。
白い字で、短く書かれていた。
——四日後の夜。湾岸の第三倉庫。ナンバー2とナンバー6。
その下に、一文字だけ、数字が書かれていた。
——8
「……はち?」
奈緒は、紙を両手で持ったまま、首を傾げていた。
紙の端が、朝の光の中で、ゆっくりと、闇に溶けるように薄れ始めていた。




