第三百三十一話
ここ数日間で、何目かわからない魔獣の襲撃にゴーストが対応していた。
ゴーストの大剣が魔獣の外殻に叩き込まれると、火花だけが、音もなく夜の河川敷に散った。
刃と外殻がぶつかる甲高い音も、魔獣の唸り声も、足元の砂利を踏む音も、何一つ聞こえなかった。
魔獣の周りだけ、半径数十メートルにわたって、世界から音という音が拭い取られていた。
凪域だった。
魔獣は、大型犬を二回りほど大きくしたような、四つ足の獣の形をしていた。
全身を灰色の硬い外殻に覆われ、頭部には目も口もなく、ただ滑らかな曲面があるだけだった。
ゴーストは、大剣を引き戻して、数歩後ろへ跳び退いた。
おかしかった。
この魔獣は、さっきから、一度も反撃してこなかった。
大剣で斬りつけても、炎を浴びせても、氷で足を凍らせても、ただその場に立って、受け続けているだけだった。
逃げもしない。
襲いかかってもこない。
ゴーストは、魔獣の外殻をじっと見つめた。
炎を浴びせた右の脇腹に、薄い紫色の紋様が、一瞬だけ浮かび上がって、すぐに消えた。
氷で凍らせた前脚にも、同じ紋様が浮かんで、消えた。
まるで、受けた魔法の形を、どこか別の場所へ、そっと書き写しているかのようだった。
(……戦ってない)
この魔獣は、戦うために、ここに出てきたのではなかった。
受けるために、出てきたのだった。
ゴーストは、大剣を構え直した。
刃の芯に氷を、縁に炎を、その間に、紙のように薄い闇の仕切りを。
三つの色を重ねた一撃を、魔獣の胴体の真ん中に、真正面から叩き込んだ。
芯の氷が外殻を凍らせて脆くし、縁の炎が凍った外殻を内側から弾けさせた。
外殻が、砕けた。
その瞬間、魔獣の全身に、紫色の紋様が一斉に浮かび上がった。
蜘蛛の巣のように細かな紋様が、砕けた外殻の破片の一つ一つにまで、びっしりと刻み込まれていた。
それから、魔獣は、砂のように崩れた。
灰色の細かな砂が、音もなく砂利の上に降り積もっていく。
凪域が、ゆっくりと晴れていった。
川のせせらぎが、遠くの国道を走るトラックの音が、少しずつ戻ってきた。
ゴーストは、大剣を握ったまま、砂の山を見下ろしていた。
倒した手応えが、なかった。
確かに、外殻は砕いた。
それなのに、魔獣が「倒された」というよりも、魔獣のほうが「もういい」と、自分から崩れたような気がした。
同じ頃、湾岸の倉庫街でも、もう一体の魔獣が、同じように攻撃を受け続けていた。
錆びた倉庫が並ぶ通りの真ん中に、灰色の外殻の魔獣が一体、四つ足で立っていた。
その周りを、白百合の隊員たちと、円卓の面々が取り囲んでいた。
緋雪の太刀が、魔獣の前脚を凍りつかせた。
ヴィクトリアの紫電が、魔獣の背中に降り注いだ。
ルディアの光が、魔獣の全身を包み込んだ。
弓飛鳥の風の槍が、魔獣の脇腹を貫き、只野真奈の大地の魔力を纏ったハンマーが、その頭部を打ち据え、新堂鈴乃の双剣が、外殻の継ぎ目を斬りつけた。
魔獣は、その全てを、黙って受け続けた。
「……何なの、こいつ」
真奈が、ハンマーを肩に担ぎ直しながら、眉を寄せた。
「全然、反撃してこないじゃん」
「気持ち悪いね」
飛鳥が、槍の穂先についた灰色の破片を払いながら言った。
魔獣の外殻に、攻撃を受けるたびに、薄い紫色の紋様が浮かんでは消えていく。
緋雪が、太刀を構えたまま、最後の一撃を入れた。
凍りついた魔獣の胴体が、真っ二つに割れた。
その瞬間、魔獣の全身に紫色の紋様が浮かび上がり、それから、音もなく砂のように崩れていった。
崩れていく魔獣を、星宮きらりが、じっと見つめていた。
ツインテールを揺らしながら、少しだけ目を細めて。
人が纏う気配を、光や色として感じ取ることのできる目だった。
その顔から、血の気が引いていった。
「……きらりさん?」
鈴乃が、きらりの肩に手を置いた。
「どうしたの」
「……あの魔獣」
きらりの声が、震えていた。
「崩れる時、最後に、何かを、どこかに送ってた」
「送ってた?」
「細い糸みたいなのが、地面の下に、ずっと伸びてたの。……紫色の、すごく細い糸」
きらりは、崩れた砂の山の真下の、アスファルトの地面を指さした。
「その糸の先に、何かがいた。……ずっと、こっちを聴いてる、何かが」
緋雪は、太刀を握りしめたまま、アスファルトの地面を見下ろした。
その隣で、ヴィクトリアとルディアが、顔を見合わせていた。
同じ頃、零たちの通う高校の近くの通りでも、三体目の魔獣が、同じように崩れていった。
通りに駆けつけていたのは、協会の周防凛花と、湊春華と、船戸真紀奈の三人だった。
「……終わり?」
真紀奈が、拍子抜けしたように、氷の刃を下ろした。
「ずいぶん、あっけないわね」
「反撃してこなかったわ」
凛花が、光の剣を握ったまま、崩れた砂の山を見下ろした。
「最初から、最後まで。……ただ、受けていただけでした」
春華は、黙って砂の山を見つめていた。
眼鏡の奥の目が、細くなった。
夜の通りには、風がなかった。
街路樹の葉も、電線も、少しも揺れていない。
それなのに、崩れた魔獣の砂が、ゆっくりと、一定の方向へ流れていた。
砂は、まるで小さな生き物の行列のように、アスファルトの上を這っていき、通りの角を曲がって、その先にある建物へと向かっていた。
高校の校舎だった。
「……凛花、真紀奈」
春華の声が、低くなった。
「砂が、学校に向かって流れてる」
翌日の昼過ぎ、白百合の盾の情報班の解析室で、新実由鶴は、三か所の記録を並べたモニターの前に、緋雪を座らせていた。
「三体とも、凪の範囲と形が、まったく同じでした」
由鶴は、三つの円形の図を、画面の上で重ねてみせた。
三つの円は、寸分の狂いもなく、ぴたりと重なった。
「それから、三体とも、倒されたのではありません。……決まった量の魔法を受けた時点で、自ら崩れています」
「決まった量」
「はい。受けた魔法の量を記録しておりますと、三体とも、ほぼ同じ量に達したところで、崩れ始めています」
由鶴は、眼鏡を押し上げた。
「受ける量が、最初から決められていたのだと思います。……必要な分だけ受けたら、それで終わり、というように」
緋雪は、しばらく黙って、重なった三つの円を見つめていた。
「……由鶴。これ、借りていってもいい?」
「もちろんです」
由鶴は、記録の束を、緋雪の手に渡した。
それ以上は、何も聞かなかった。
その日の夕方、翼の家の居間に、円卓が集まっていた。
ゴースト、緋雪、凛花、白鳥、ヴィクトリア、ルディア、真里。
修理を始めたばかりの土塀の向こうで、テレサとエリと奈緒が、割れた丸い看板を、接着剤で一緒に貼り合わせているのが見えた。
緋雪が、由鶴から預かった記録を、要点だけ伝えていった。
三体とも、凪の形がまったく同じだったこと。
三体とも、決まった量の魔法を受けた時点で、自ら崩れていたこと。
それから、きらりが見た、地面の下へ伸びていく紫色の糸のこと。
春華が見た、学校へ向かって流れていく砂のこと。
「……戦力調査ね」
ヴィクトリアが、紅茶のカップを置いて、低い声で言った。
「セルゲイの部下たちがやったのと、同じことよ。……白百合の隊員たちに仕掛けて、どこまで粘るか、どこで崩れるかを測った」
「今度は、魔獣で、それをやっている、と」
ルディアが、袖で口元を隠したまま続けた。
「我らが神の闇も、わたくしどもの光も、白百合の氷も、協会の方々の剣も。……全て、あの音のない方に、聴かれていたということですのね」
居間の空気が、重くなった。
ゴーストは、縁側の向こうの、看板を貼り合わせる三人を見ていた。
河川敷で、外殻を砕いた時に浮かび上がった、紫色の紋様。
受けた魔法の形を、どこかへ書き写すような。
「……書き写してたのよ」
ゴーストが、静かに言った。
「私たちの魔法の、形を。……地面の下と、学校に」
誰も、何も言わなかった。
四体目の魔獣が、三神家の前の通りに現れていたことを、円卓の誰も知らなかった。
縁側で湯呑みの縁を弾いた居候が、そのことを、誰にも話していなかったからだ。
翌日の昼休み、零は、教室の窓際の席で、弁当箱の蓋を開けていた。
「なあ、零。知ってるか」
前の席の稔が、焼きそばパンを齧りながら、椅子ごとこちらに振り返った。
「何を」
「地下の倉庫の奥に、開かずの扉があるんだってさ」
零の箸が、卵焼きの上で止まった。
「……開かずの扉?」
「昔、戦争の頃の防空壕だったとか、もっと古い何かの施設だったとか。……鍵がかかってて、先生たちも開け方を知らないんだと」
稔は、焼きそばパンの最後の一口を口に放り込んだ。
「でさ、最近、その辺りだけ、妙に静かなんだって」
「静か?」
「用務員のおっちゃんが言ってたんだけどさ。地下の倉庫に入ると、ボイラーの音も、配管の水の音も、何にも聞こえなくなる場所があるんだって。……で、その一番静かなところが、ちょうど、開かずの扉の前なんだってさ」
稔は、楽しそうに笑った。
「七不思議の新作だな、こりゃ」
零は、何も言わずに、卵焼きを口に運んだ。
甘い卵焼きの味が、少しも分からなかった。
その夜、零時を回った頃。
ゴーストは、三神家の自室の床に、自分の闇で影を落とし、その中へ沈んでいった。
一つ。二つ。三つ。
浮かび上がった先は、高校の校舎の、地下へと続く階段の踊り場の影だった。
非常口の緑色の誘導灯だけが、階段の壁を、ぼんやりと照らしていた。
ゴーストは、足音を立てないように、階段を一段ずつ降りていった。
地下の倉庫は、古い机や椅子や、体育祭で使う大道具が、天井近くまで積み上げられた、埃っぽい空間だった。
奥へ進むにつれて、音が、一つずつ消えていった。
ボイラーの低い唸りが、消えた。
配管を流れる水の音が、消えた。
自分の衣擦れの音さえ、聞こえなくなった。
倉庫の、一番奥。
積み上げられた古い机の陰に、錆びた鉄の扉が一枚、壁に埋め込まれるようにしてあった。
扉の表面には、古い紋章が刻まれていた。
一本の剣と、その両脇に広げられた、二枚の翼。
ゴーストは、その紋章を、じっと見つめた。
寮跡の、崩れかけた門柱の上に、同じ紋章があった。
母が、天城焔と向き合った、あの古い寮の門に。
(……戦姫)
母さんたちが、昔、いた場所の印だった。
扉の前の床に、灰色の細かな砂が、薄く積もっていた。
河川敷で崩れた魔獣の、あの砂だった。
湾岸の倉庫街の砂も、高校の近くの通りの砂も、全て、ここに流れ着いていた。
扉は、僅かに開いていた。
ゴーストは、扉の隙間に手をかけて、ゆっくりと押し開けた。
錆びた蝶番が軋んだはずだったが、その音は、どこにも響かなかった。
扉の向こうには、細長い部屋が続いていた。
壁の両側に、天井まで届く古い書棚が並んでいた。
書棚の棚は、ほとんどが空だった。
かつて、そこに何かが詰め込まれていたことを示す、埃の跡だけが、四角く残っていた。
部屋の奥には、古い実験台がいくつか並んでいて、その上に、錆びた器具や、割れた硝子の容器が、雑然と散らばっていた。
床に、一枚だけ、紙が落ちていた。
ゴーストは、それを拾い上げた。
黄ばんで、端が破れた、古い書類の切れ端だった。
ほとんどの文字は掠れて読めなかったが、一番上の見出しだけが、辛うじて判読できた。
——人工魔法少女生成に関する基礎研究 第■次報告
ゴーストの指が、紙の上で止まった。
人工魔法少女。
奈緒の顔が、頭に浮かんだ。
周防凛音と、玲奈の遺伝子から、政府の旧組織によって作られた少女。
その技術が、どこから来たのか。
ゴーストは、空になった書棚を、もう一度見回した。
ここにあった記録は、誰かが、全て持ち出していった。
同じ頃、三神家の縁側で、ヴィルヘルミナは、一人で夜空を見上げていた。
膝の上の湯呑みの茶は、もう冷めていた。
ヴィルヘルミナは、湯呑みを両手で包んだまま、学校のある方角の夜空を、じっと見つめていた。
「……あの音のない者」
小さく、呟いた。
「わしを、まだ測り足りんらしいのう」
それから、少しだけ目を細めた。
「……弟子が、その巣に、潜り込んどるわい」
避難壕の、細長い部屋の奥で、ゴーストは、古い書類の切れ端を握りしめたまま、立ち尽くしていた。
その時、背中に、何かを感じた。
音のない部屋の中で、誰かが、こちらを聴いていた。
息遣いでも、足音でもなかった。
ただ、自分という存在そのものの、輪郭を、波形を、背後からじっと聴き取られているような感覚だった。
ゴーストは、大剣を握り直して、振り返った。
空になった書棚と書棚の間の、暗がりの中に、少女が一人、立っていた。
漆黒のドレスに、よく似たドレスを纏っていた。
顔立ちは、鏡を見ているかと思うほど、ゴーストによく似ていた。
ただ、その髪だけが、違っていた。
燃えるような、紅の髪だった。
少女の手には、身の丈ほどもある、長い槍が握られていた。
その穂先に、紅蓮の炎が、静かに揺らめいていた。
少女は、ゴーストの顔を見て、にっこりと笑った。
好戦的な、楽しそうな笑みだった。
「……はじめまして、オリジナル」
紅い髪の少女は、槍の穂先を、ゴーストに向けた。
「ナンバー3よ」




