第三百三十話
窓のない白い部屋の机の上に、グライ・ブルーガーは、一枚の報告書を置いた。
海の向こうの、中央魔法技術研究院の本部の一室だった。
壁も床も天井も白く塗り込められていて、机の向こうに座る初老の男の顔だけが、その白さの中で、ひどく浮き上がって見えた。
グライは、報告書を置いた手を身体の脇に戻すと、背筋を伸ばして直立したまま、男が書類に目を通し終えるのを待った。
報告書は、短かった。
——回収班指揮官ラングルド・ハインツおよび別動隊四名は、関係者宅へ向かったまま連絡を絶つ。現場には、交戦の痕跡すら確認できず。消息不明。
——調査団団長セルゲイ・ベレンコフは、離反した部下を庇い被弾。星監総帥により運び去られる。致命傷と判断する。
——調査団所属、アイシャ・エインズワース、テレサ・ローズ、フラウ・ミーヴェ。混戦の中で戦死したものと判断する。
——器の回収、失敗。回収班、損耗三割にて撤退。
グライは、ベレンコフの死も、三人の死も、自分の目では確かめていなかった。
それでも、報告書には「戦死」と書いた。
生きているかもしれない者を、生きているかもしれないと書けば、なぜ確かめなかったのかと問われる。
死んだと書けば、敗走の責任の一部は、死者が背負ってくれる。
魔法を持たない男が、魔法少女の戦場で何十年も生き延びてきたのは、そういう計算を、決して間違えなかったからだった。
初老の男は、報告書の最後まで目を通すと、その中の一行に、指先を止めた。
——関係者宅には、ヘクセン・ツィルケルの魔女が滞在していたことが、調査団の報告により判明している。
「……あの結社が、絡んでいるのか」
「調査団の報告による限りは、そのようです」
グライは、表情を変えずに答えた。
「ハインツ指揮官の部隊が痕跡も残さず消えたのは、その魔女の仕業である可能性が高いかと」
初老の男は、しばらく黙って報告書を見下ろしていた。
それから、小さく息を吐いて、書類を机の上に伏せた。
「……割に合わん」
その一言で、全てが決まった。
「日本からは、手を引く。器の件は、凍結だ」
「了解しました」
グライは、短く頭を下げて、部屋を出ていった。
廊下の白い壁に沿って歩きながら、グライは、一度だけ足を止めた。
翼の家の庭で、星監の総帥が、倒れた男を抱え起こしていた。
その女の顔が、ほんの一瞬だけ、悲鳴を上げる少女のように崩れていた。
グライは、その記憶を、灰色の瞳の奥に沈めて、また歩き出した。
消毒液の匂いがした。
セルゲイ・ベレンコフが重い瞼を持ち上げると、白い天井と、点滴の管と、窓から差し込む柔らかな午後の光が見えた。
身体を少し動かそうとすると、胸の奥に、鈍く重い痛みが走った。
撃ち抜かれた場所だった。
星監の医療施設の、個室だった。
ベッドの脇の椅子で、誰かが眠っていた。
プラチナブロンドの髪を、いつものように隙なく結い上げることもせず、肩に流したままにしていた。
黒いコートを膝に掛け、腕を組んで、椅子の背にもたれて眠っていた。
その目の下には、薄い影が落ちていた。
セルゲイが、僅かに身じろぎすると、その女の瞼が、すぐに開いた。
紫の瞳が、まっすぐにこちらを見た。
「……起きたのね」
「……ヴィクトリア」
掠れた声しか、出なかった。
「三日、眠っていたわ」
ヴィクトリアは、椅子の上で背筋を伸ばして、コートを膝の上で畳み直した。
「レイラの治癒魔法がなかったら、あの夜のうちに、死んでいたわよ」
「……そうか」
「弾は、心臓の指一本分だけ横を抜けていた。……運が、良かったのね」
セルゲイは、天井を見上げたまま、しばらく黙っていた。
「……セルゲイ・ベレンコフは、死んだわ」
ヴィクトリアが、静かに言った。
「本部には、そう報告されている。……あの副官が、自分の目で確かめもせずに、戦死と書いたの」
「……ブルーガーらしい」
セルゲイの口元が、僅かに動いた。
「あの男は、計算を間違えない」
「あなたの部下の三人も、戦死扱いよ」
セルゲイの目が、ヴィクトリアのほうへ動いた。
「……生きているのか。三人とも」
「ええ」
ヴィクトリアは、窓の外を見た。
「アイシャは、毎日ここに来ているわ。……今は、中庭にいる」
セルゲイは、首を僅かに巡らせて、窓の外を見た。
医療施設の中庭の芝生の上に、栗色の髪の少女が一人、マスケット銃を肩に当てて立っていた。
銃口から、断光は放たれていなかった。
ただ、息を吸い、吐き、吸い、吐き、その呼吸の流れを止めないまま、引き金に指をかけては外すことを、何度も、何度も繰り返していた。
「……あなたが倒れる前に、言ったそうね」
ヴィクトリアは、窓の外の少女を見つめたまま言った。
「息を、止めずに撃て、と。……あの子は、それを、毎日練習しているの」
セルゲイは、何も言わなかった。
ただ、窓の外の、少女の背中を、長い間見つめていた。
「テレサは、翼の家にいるわ」
ヴィクトリアは、静かに続けた。
「エーリカの、隣の部屋よ。……あなたが送り出した子たちが、今、同じ庭にいるの」
セルゲイの喉が、僅かに動いた。
何かを言いかけて、やめた。
「死んだ人間は」
ヴィクトリアは、ようやく窓から目を離して、セルゲイの顔を見た。
「もう、本部の命令に従わなくていいのよ。……円卓で、生きなさい」
「……君の下で、か」
「私の下じゃないわ」
ヴィクトリアは、少しだけ笑った。
「ゴーストの下よ」
セルゲイは、しばらくヴィクトリアの顔を見つめていた。
それから、目を閉じて、小さく息を吐いた。
笑ったのかもしれなかった。
その日の夕方、ヴィクトリアは、星監の屋敷の応接間に、三人の少女を呼んだ。
アイシャと、テレサと、フラウ。
三人とも、表向きは、もうこの世にいない人間だった。
「新しい名前を、用意することもできるわ」
ヴィクトリアは、紅茶のカップを置いて言った。
「セントラルの記録には、あなたたちは戦死として載っている。……別の名前で生きれば、もう誰にも追われない」
三人は、顔を見合わせた。
最初に口を開いたのは、アイシャだった。
「……変えないわ」
アイシャは、膝の上のマスケット銃の銃身を、そっと撫でた。
「団長が、この名前で、私を呼んでくれたもの。……息を止めずに撃てって、言ってくれたのも、この名前の私だった」
「私も、変えない」
テレサが、静かに続けた。
「エーリカが、この名前で、呼んでくれるから」
フラウは、しばらく黙っていた。
それから、パーカーのポケットの中から、包み紙の飴を一つ取り出して、手のひらの上に乗せた。
「……飴の人が、覚えてくれたから」
ヴィクトリアは、三人の顔を順番に見て、それから、小さく頷いた。
「……分かったわ」
テレサは翼の家で、アイシャはセルゲイの病室に通いながら、フラウはこの屋敷で汐里と同じ屋根の下で、それぞれ暮らすことに決まった。
その夜、三神家の縁側に、三つの人影が並んでいた。
真ん中に、浴衣にケープを羽織ったヴィルヘルミナが、湯呑みを両手で包んで座っていた。
その右に、零。
その左に、澪。
夕飯の後、ヴィルヘルミナが、二人に話があると言って、縁側に呼んだのだった。
澪は、腕を組んで、少しだけ距離を空けて座っていた。
この居候が、普通の観光客ではないことは、とっくに分かっていた。
底の見えない魔力。
手のひらの上で回る花びらを、一目で見抜いた目。
家中を片付けて、毛布まで掛けていった、あの留守番の日の手際。
何者なのかは、分からない。
それでも、ただの子供でも、ただの観光客でもないことだけは、最初から分かっていた。
「……で、話って何」
「わしは、そろそろ国へ帰らにゃならん」
ヴィルヘルミナは、湯呑みを傾けながら、のんびりと言った。
「わしの入っとる集まりの連中が、いつ帰ってくるんじゃと、うるさいでのう」
「集まり?」
「ちいとした、年寄りの集まりじゃよ」
ヴィルヘルミナは、湯呑みを膝の上に置いた。
それから、右と左の二人を、順番に見た。
「おぬしら姉弟、二人とも、わしの国に来んか」
縁側に、沈黙が落ちた。
「……は?」
澪が、組んでいた腕を解いた。
「わしの集まりでは、魔法の扱いを、一から学べる。……おぬしの花びらが何なのかも、そこへ来れば、分かる」
「……集まりって、何の集まりなのよ」
澪は、ヴィルヘルミナの横顔を、じっと見つめた。
「あんたが普通じゃないのは、最初から分かってたけど。……魔法の扱いを学べる集まりって、何」
「ただの年寄りの集まりじゃよ」
ヴィルヘルミナは、にこにこと笑ったまま、それ以上は何も言わなかった。
澪は、しばらく黙ってヴィルヘルミナを睨んでいたが、やがて、隣の弟のほうへ視線を移した。
「……零も?」
「零もじゃ」
「なんで、零まで誘うのよ。零は、魔法なんて使えないのに」
「弁当が、上手いからじゃ」
澪は、口を開けたまま固まった。
「……は?」
「あの弁当は、大したもんじゃ。わしの集まりの連中にも、食わせてやりたい」
「……弁当係として誘ってるの?」
「そういうことにしておこうかの」
澪が、呆れて額を押さえた。
その横で、零は、何も言わずに、ヴィルヘルミナの目だけを見ていた。
師匠の目は、笑っていなかった。
零の答えを、静かに待っていた。
零は、膝の上で、両手を握りしめた。
百年、弟子を取らなかった魔女が、三つの色を持つ自分を、本気で誘っている。
その集まりに行けば、重ね方も、影の作り方も、今よりずっと先まで学べるのだろう。
師匠が言っていた、「誰にもほどかれん重ね方」の、その先まで。
それでも、零は、静かに首を横に振った。
「……家を、離れる気はありません」
零は、ヴィルヘルミナの目をまっすぐに見て、言った。
「弁当、五つ作らないといけないので」
ヴィルヘルミナは、しばらく零の顔を見つめていた。
それから、喉の奥で小さく笑った。
「……そう言うと思うた」
ヴィルヘルミナは、湯呑みを口に運んだ。
「条件の一つ目じゃからのう。……破られたら、わしが困る」
澪は、二人のやり取りの意味が分からずに、首を傾げていた。
それから、自分の手のひらに、目を落とした。
気がつくと、手のひらの上で、庭から舞い込んだ藤の花びらが一枚、くるくると回っていた。
回そうと思ったわけではなかった。
考え事をしていると、いつの間にか、回っているのだった。
「……私は」
澪は、手のひらの上の花びらを見つめたまま、しばらく黙っていた。
白百合のこと。
結衣会長のこと。
玲奈のこと。
家族のこと。
それから、この花びらのこと。
炎属性のはずの自分の手のひらで、なぜ、空気が回っているのか。
「……考える時間が、欲しい」
澪は、ようやく、絞り出すように言った。
「白百合のこともあるし、家族のこともあるし。……すぐには、決められない」
「……」
「でも、この花びらが何なのか、知りたいとも、思ってる」
ヴィルヘルミナは、穏やかに頷いた。
「ええ。急がんでええ」
「……でも、あんた、そろそろ帰るんでしょ」
「来る時は、飛行機じゃったがのう」
ヴィルヘルミナは、夜空を見上げた。
「帰りは、どうとでもなるでの」
「どうとでもって」
「おぬしの答えが出るまで、ここにおる」
ヴィルヘルミナは、湯呑みを傾けた。
「わしは、気長な年寄りじゃからの」
澪は、その言葉の意味が分からないまま、ヴィルヘルミナの横顔を見つめていた。
その時、居間の障子が開いた。
新聞を畳んだ五郎が、縁側に出てきた。
いつもの、ヴィルヘルミナにデレた顔ではなかった。
「……ミナちゃん」
「なんじゃ、父さん」
「悪いが」
五郎は、縁側の端に立ったまま、まっすぐにヴィルヘルミナを見下ろした。
「澪を、よその国へやるのは、父さんは反対だ」
澪が、目を見開いた。
「ミナちゃんのことは、家族みたいに思ってる。……本当だ。毎朝、一緒に草をむしって、将棋を指して。娘がもう一人増えたみたいで、楽しかった」
「……」
「でも、それとこれとは、別だ」
五郎の声は、穏やかだった。
それでも、その奥に、一歩も引かないものがあった。
「澪は、うちの娘だからな」
縁側に、長い沈黙が落ちた。
ヴィルヘルミナは、しばらく五郎の顔を見上げていた。
それから、湯呑みを膝の上に置いて、ゆっくりと、深く頷いた。
「……ええ父親じゃのう」
「……」
「決めるのは、澪じゃ。わしは、待つだけじゃよ。……父さんが反対しとることも、よう覚えておく」
澪は、父の顔を見上げたまま、何も言えなかった。
台所の暖簾の陰で、奈々美が、布巾を握ったまま、そのやり取りを黙って聞いていた。
同じ頃、白百合の盾の情報班の解析室で、新実由鶴は、壁一面のモニターを見つめていた。
都内の上空の電波の流れを示す図から、暗号化された通信の線が、一本残らず消えていた。
調査団のドローンの線も、回収班の冷たい通信の線も。
「……静かになりましたね」
由鶴は、眼鏡を押し上げて、小さく呟いた。
その時、モニターの隅で、別の表示が、三つ同時に点灯した。
魔獣の出現を示す、赤い印だった。
町外れの河川敷。湾岸の倉庫街。それから、三神零の通う高校の近く。
三か所とも、ほとんど同時だった。
そして、三か所とも、出現地点の周りの音響の記録が、ぽっかりと空白になっていた。
由鶴の指が、キーボードの上で止まった。
「……凪」
三神家の二階の自室で、零のスマートフォンが短く震えた。
自作の、魔獣探知アプリだった。
地図の上に、赤い点が三つ、同時に点滅していた。
零は、胸元の匣を開けて、ペンダントを握った。
それから、自室の床に、自分の闇で影を落とし、その中へ沈んでいった。
三神家の縁側では、ヴィルヘルミナが一人、冷めかけた茶をすすっていた。
五郎も、澪も、もう家の中に戻っていた。
居間の灯りが消え、二階の窓の灯りが、一つずつ消えていく。
ヴィルヘルミナは、湯呑みを口元で止めた。
家の前の通りの、街灯の届かない暗がりに、何かがいた。
小さな魔獣が、一体。
その周りだけ、音が消えていた。
四つ目だった。
ヴィルヘルミナは、杖を取らなかった。
立ち上がりもしなかった。
ただ、湯呑みの縁を、指先で、一度だけ、軽く弾いた。
——ちん。
小さな、澄んだ音がした。
通りの暗がりの魔獣が、音もなく、地面に吸い込まれるように消えた。
そこに何かがいたという気配すら、残らなかった。
「……見せてやる義理は、ないのう」
ヴィルヘルミナは、何事もなかったように、冷めた茶をすすった。
零たちの通う高校の、夜の校舎の地下。
立ち入り禁止の倉庫の奥に、錆びた鉄の扉が一枚あった。
戦姫の時代に造られた、古い避難壕の扉だった。
その扉の前に、人の形をした何かが、立っていた。
片腕のない、温度のない存在。
失われた片腕の跡から、紫色の光が微かに漏れている。
その周りだけ、地下の空気の微かな唸りすら、消えていた。
無響は、目を閉じて、四つの方角の気配に、耳を澄ませていた。
町外れの河川敷から、闇が響いてきた。
湾岸の倉庫街から、紫電と、光と、氷が響いてきた。
高校の近くの通りから、光の剣と、水と、鋭い氷が響いてきた。
炎の使徒たちは、牙を収めた。
海の向こうの者たちは、退いた。
この国に残っているのは、闇の娘と、その周りに集まった者たち。
それから、百年の魔女。
四つ目の方角からは、何も響いてこなかった。
放った魔獣が、ただ、消えた。
何の音も、何の揺らぎも、残さずに。
「……魔女は、響かない」
温度のない声が、地下の暗がりに落ちた。
無響は、目を開けた。
「なら、響くまで、叩くだけだ」
錆びた扉に、長い指が、そっと触れた。
扉の向こうの、古い暗がりの奥で、何かが、微かに軋んだ。




