第三百二十九話
割れた丸い看板の片割れが、黒い外套の少女の靴に踏まれて、庭の土にめり込んだ。
奈緒が小さな翼を描き足した、少しいびつな木の看板だった。
踏んだ少女は、足元に何があるのかを、一度も見下ろさなかった。
その手に灯った氷の槍が、縁側の奈緒に向かって、まっすぐに構えられていた。
翼の家の庭は、もう庭の形をしていなかった。
崩れた土塀の破片と、焦げた植え込みと、凍りついて砕けた敷石が、あちこちに散らばっていた。
縁側の障子は半分が吹き飛び、居間の奥から、子供たちを抱え込んだ白鳥の、低く宥める声が途切れ途切れに聞こえていた。
回収班は、まだ十一人が立っていた。
円卓とセントラルの三人が加わっても、黒い外套の少女たちの動きは、少しも鈍らなかった。
一人が退けば、すぐに別の一人がその穴を埋める。
倒れた仲間の身体を跨いで、平然と次の攻撃を仕掛けてくる。
誰も、互いの名前を呼ばなかった。
誰も、倒れた者を振り返らなかった。
縁側の手前で、フラウが、岩の籠手を纏った両腕を交差させて立っていた。
氷の槍が、フラウの籠手に叩きつけられた。
籠手の表面が白く凍りつき、亀裂が走る。
フラウは、一歩も退かなかった。
「……どいて」
背後から、奈緒の小さな声がした。
フラウが身体を半歩ずらした瞬間、その脇から、奈緒の炎の奔流が、氷の槍の少女を真正面から呑み込んだ。
少女は、炎に押し戻されて数歩よろめいたが、すぐに体勢を立て直して、また槍を構え直した。
「……かたい」
奈緒が、悔しそうに呟いた。
「……私も、そう思う」
フラウが、凍りついた籠手を振って、氷の欠片を払い落とした。
「でも、割れなかった」
フラウは、奈緒を振り返らずに、もう一度、両腕を前に構えた。
「次も、割れない」
二階の端の部屋の窓の真下では、テレサが、大鎌を構えたまま、一歩も動かずに立っていた。
窓に向かって放たれる炎は、全て、大鎌の刃に溶かされて呑み込まれていった。
雷の鞭が窓を狙えば、大鎌の柄で弾き落とした。
黒く光る刃を持った少女が窓の下まで踏み込んでくれば、大鎌を横薙ぎに振るって、その足を払った。
テレサの額には、汗が滲んでいた。
溶解の熱が、大鎌の刃の中で、限界近くまで膨れ上がっていた。
呑み込んだ炎が多すぎて、刃が、赤を通り越して白く輝き始めていた。
「……テレサ」
窓の上から、エリの声が降ってきた。
「無理、しないで」
「無理じゃない」
テレサは、振り返らずに答えた。
「あの夜、窓から見てるだけだった。……今度は、窓の下に立ってるだけよ」
庭の中央では、ゴーストが、三つ数える間、自分の影に潜っては、庭のどこからでも姿を現していた。
縁側に向かおうとする少女の足元の影から、大剣の腹で脚を払う。
窓の下に回り込もうとする少女の背後の影から、刃を受け止める。
一か所に留まらず、どこにでも現れて、陣の綻びを一つずつ塞いでいく。
だが、それでも、数が多かった。
ゴーストが一つの綻びを塞ぐ間に、別の場所に、二つの綻びが生まれた。
塀の外では、ヴィクトリアとルディアと真里が、崩れた塀の向こうに回り込み、回収班の退路を塞ぐように陣を張っていた。
ヴィクトリアの紫電と、ルディアの光の壁が、外へ逃れようとする者と、外から回り込もうとする者を、まとめて押し返していた。
円卓の陣の中央で、緋雪とアイシャが、背中合わせに立っていた。
「……羽衣緋雪」
アイシャが、銃身を撫でながら、背中越しに言った。
「さっきから、あの雷の鞭の子、厄介よね」
「ええ」
緋雪は、太刀を構えたまま答えた。
「動きが速すぎて、狙いが定まらない」
「なら」
アイシャが、肩越しに、ちらりと緋雪を見た。
「あなたの、音の出る氷。……あれで、あの子の目を一瞬だけ逸らして」
緋雪は、アイシャの顔を見た。
埠頭の夜、コンテナの迷路で、音の氷でアイシャの目を逸らして、懐に飛び込んだ。
その時の相手が、今、背中を預けて、同じ技を使えと言っていた。
「……分かったわ」
緋雪は、太刀の切っ先を地面に下ろした。
深く、息を吸う。
冷気を、庭を取り囲む崩れた塀の破片へ。
——パキパキパキパキッ!
崩れた土塀の破片が、一斉に乾いた音を立てて凍りついた。
四方から響く破裂音に、雷の鞭の少女の視線が、ほんの一瞬だけ、右へ流れた。
その一瞬に、アイシャが、肩に銃を当てていた。
アイシャの肩が、僅かに沈んだ。
息を吸い込んで、止める。
その瞬間だった。
崩れた塀の外の、暗がりの奥で、何かが光った。
月の光を受けた、長い銃身だった。
グライ・ブルーガーは、塀の外の暗がりに片膝をついて、狙撃銃を構えていた。
黒い外套の内側に隠していた、魔力を一切持たない、ただの鉄と火薬の銃だった。
魔法を持たない男が、魔法少女の戦場で生き延びるために、何十年も手放さなかった武器。
調査団の団長と同じように、魔力の気配を纏わないからこそ、魔法少女の誰にも読まれない武器だった。
グライは、アイシャの癖を知っていた。
調査団の報告書に、それは書かれていた。
撃つ前に、必ず、息を止める。
その一瞬だけ、アイシャの身体は、完全に静止する。
グライの指が、引き金にかかった。
「……裏切り者から、処理する」
グライの声は、誰にも聞こえないほど、低かった。
銃声が、夜の庭に響き渡った。
アイシャは、自分の胸に向かって飛んでくる何かを、見ることすらできなかった。
息を止めていた。
断光を撃つために、身体の全てが、銃口の一点に集まっていた。
その一瞬だけは、何が来ても、躱せなかった。
だが、銃弾は、アイシャの胸に届かなかった。
アイシャの目の前に、黒いロングコートの背中が、割り込んでいた。
崩れた塀の破片を蹴って、庭の中に飛び込んできた男の背中だった。
短く刈り込んだ灰色の髪と、右の頬の古い傷跡が、庭の炎の光の中で、一瞬だけ見えた。
銃弾は、その男の胸を、撃ち抜いた。
「——っ」
男の身体が、ぐらりと揺れた。
黒いロングコートの胸に、黒い染みが、ゆっくりと広がっていった。
アイシャの手から、マスケット銃が、滑り落ちかけた。
「……団長」
アイシャの声が、掠れた。
「団長……!」
セルゲイ・ベレンコフは、アイシャの前に立ったまま、膝から崩れ落ちかけていた。
行かねばならない場所がある、と言った。
それは、ここだった。
魔法を持たない男が、魔法少女の戦場で、自分の部下の前に立つための場所。
ドローンの画面の前ではなく、戦場の、ただ中だった。
セルゲイは、崩れ落ちながら、アイシャのほうへ振り返った。
その口元から、細く血が流れていた。
それでも、セルゲイの目は、少しも揺らいでいなかった。
戦場の全てを見通してきた、指揮官の目だった。
「……撃て」
セルゲイの声は、掠れていたが、はっきりとしていた。
「息を、止めずに」
アイシャの目から、涙が溢れた。
何度も言われた。
撃つ前に息を止める癖を、直せと。
何度言われても、直らなかった。
アイシャは、落としかけたマスケット銃を、もう一度、肩に当てた。
銃口を、塀の外の暗がりへ向ける。
月の光を受けて鈍く光る、もう一つの銃身へ。
息を、止めなかった。
泣きながら、震えながら、息を吸って、吐いて、その呼吸の流れの途中で、引き金を引いた。
——シュッ。
髪の毛ほどに細い光の線が、塀の外の暗がりを、まっすぐに貫いた。
グライの狙撃銃の長い銃身が、銃口から引き金の手前まで、一筋の線に沿って、真っ二つに断ち割られた。
「……っ」
グライは、断ち割られた狙撃銃を見下ろした。
息を止めない断光。
報告書には、どこにも書かれていなかった撃ち方だった。
グライが顔を上げた時、その目の前の、自分自身の影が、揺れた。
影の中から、漆黒のドレスの少女が、せり上がってきた。
「……あなたが、撃ったのね」
ゴーストの声は、静かだった。
その手の中の大剣の芯で、氷が白く光り、縁で、炎が紅く揺れていた。
薄い闇の仕切りに隔てられて、二つは静かに並んでいた。
グライは、断ち割られた狙撃銃を捨てて、一歩後ろへ下がった。
その背後で、庭の中央から、眩い光が溢れ出した。
ルディアが、塀の内側に回り込み、両手から光の奔流を放っていた。
狙撃の瞬間に気を取られた、雷の鞭の少女を、正面から呑み込んでいく。
「我らが神の御前で、子供の家を荒らした報いですわ」
光が収まった時、雷の鞭の少女は、庭の土の上に倒れて、動かなくなっていた。
グライは、庭を見渡した。
黒い外套の少女たちのうち、倒れて動かない者が、五人。
十五人のうちの、五人。
損耗、三割。
グライの灰色の瞳が、一瞬だけ、計算するように細められた。
残りの十人で、このまま戦い続ければ、器を回収できる見込みはあった。
だが、その代わりに、さらに五人か、それ以上を失う。
黒いドレスと、星監の総帥と、福音の鐘の教祖と、白百合と協会のS級と、寝返った調査団の三人。
割に合わなかった。
「……撤退する」
グライの声が、低く、短く響いた。
その一言で、まだ立っていた十人の少女たちが、一斉に動きを止めた。
次の瞬間には、倒れた五人を置き去りにしたまま、崩れた塀の外へ、夜の闇の中へと退いていった。
誰も、倒れた仲間を振り返らなかった。
グライは、最後に、目の前のゴーストを見た。
それから、庭の中央に視線を移した。
庭の土の上に、黒いロングコートの男が倒れていた。
その傍らに、プラチナブロンドの髪の女が膝をついて、男の身体を抱え起こしていた。
グライは、その光景を、灰色の瞳で一度だけ見つめた。
それから、何も言わずに踵を返して、闇の中へ消えていった。
ゴーストは、追わなかった。
追うより先に、しなければならないことがあった。
庭の中央で、ヴィクトリアが、セルゲイの身体を両腕で抱え上げていた。
黒いロングコートの胸の染みは、もう、コートの半分を覆うほどに広がっていた。
セルゲイの顔は、血の気を失って、ひどく白かった。
「……セルゲイ」
ヴィクトリアの声が、震えていた。
いつも冷たく張り詰めていた紫の瞳が、今は、ひどく揺れていた。
「……ヴィクトリア」
セルゲイの唇が、微かに動いた。
「……君の、雷の、匂いがする」
「喋らないで」
「……昔から、君の背中ばかり、見ていた」
「喋らないでって、言ってるでしょう……!」
ヴィクトリアの声が、初めて、悲鳴のように裏返った。
崩れた塀の外から、淡い水色の髪を三つ編みにした小柄な少女が、駆け込んできた。
星監で治癒を担う、レイラ・メリクスだった。
星監の車で、シルヴィアと共に、塀の外に控えていたのだった。
レイラは、セルゲイの傍らに膝をつくと、胸の傷に両手をかざした。
水の癒しの淡い光が、レイラの掌から溢れ出して、傷口を包み込んでいく。
広がり続けていた黒い染みが、ほんの少しだけ、その広がりを緩めた。
「……ここでは、止血しかできません」
レイラの声も、震えていた。
「急いでください、ヴィクトリア様。……星監の、医療施設へ。車の中でも、治癒を続けます」
「……ええ」
ヴィクトリアは、セルゲイを抱えたまま、立ち上がった。
崩れた塀の外に、星監の黒い車が、エンジンをかけたまま停まっていた。
シルヴィアが、後部座席の扉を開けて待っていた。
アイシャが、マスケット銃を抱きしめたまま、ヴィクトリアの後を追いかけてきた。
「団長……! 団長、死なないで……!」
セルゲイは、ヴィクトリアの腕の中で、薄く目を開けた。
泣きじゃくるアイシャの顔が、ぼんやりと見えた。
「……今の、断光」
セルゲイの唇が、微かに動いた。
「……息を、止めていなかった」
「……っ」
「……よく、やった」
それだけ言って、セルゲイの目は、静かに閉じた。
「団長……!」
「大丈夫よ」
ヴィクトリアが、アイシャのほうを振り返らずに言った。
「死なせないわ。……この人だけは、絶対に」
ヴィクトリアは、セルゲイを後部座席に横たえると、自分もその隣に乗り込んだ。
レイラが、反対側の扉から乗り込んで、セルゲイの胸に、もう一度両手をかざした。
扉が閉まり、星監の黒い車は、夜の坂道を、猛烈な速さで走り去っていった。
アイシャは、坂道の真ん中に立ち尽くしたまま、遠ざかっていく尾灯を見送っていた。
その隣に、テレサが立った。
その隣に、フラウが立った。
三人とも、何も言わなかった。
ただ、尾灯が見えなくなるまで、坂道の向こうを、黙って見つめていた。
夜明け前の、翼の家の庭に、薄い光が差し込み始めていた。
倒れた回収班の五人は、ルディアの光の枷と、緋雪の氷で、庭の隅に拘束されていた。
八咫の者たちが、間もなく、勾玉の施設へ移送するために来ることになっていた。
崩れた塀の前に、テレサが立っていた。
大鎌は、もう背負っていなかった。
呑み込んだ炎の熱で刃が焼けて、庭の隅に立てかけたまま、まだ白い湯気を上げていた。
翼の家の玄関の戸が開いて、エリが、庭の飛び石を渡ってきた。
裸足のまま、白鳥の大きなサンダルもつっかけずに、まっすぐにテレサのほうへ。
門は、もうなかった。
門柱も、丸い看板も、崩れた塀も、二人の間には、何もなかった。
エリは、テレサの前で足を止めた。
それから、何も言わずに、テレサの胸に、飛び込んだ。
テレサは、一瞬だけ身体を強張らせた。
それから、震える両腕で、エリの細い背中を、強く抱きしめた。
「……エーリカ」
「……テレサ」
二人は、それ以上、何も言わなかった。
白い部屋の、隣り合った寝台。
あの夜、窓から見送った背中。
何年も経って、ようやく、その背中に、手が届いた。
縁側の、焦げた板の上に、奈緒がしゃがみ込んでいた。
小さな両手に、割れた丸い看板の、二つの片割れを持っていた。
片方には、踏まれた靴の跡が、土に汚れて残っていた。
奈緒は、二つの片割れを、割れ目のところで、そっと合わせた。
少しいびつな、小さな翼の絵が、割れ目の線を挟んで、元の形に戻った。
「……なおせる?」
奈緒が、隣に立ったゴーストを見上げた。
ゴーストは、奈緒の隣にしゃがみ込んで、看板の割れ目を、指先でそっとなぞった。
「……直せるわ」
「ほんと?」
「みんなで、直しましょう」
奈緒は、看板の片割れを胸に抱きしめて、小さく頷いた。
夜明けの空が、少しずつ白んでいった。
三神家の縁側で、ヴィルヘルミナは、座布団の上に正座したまま、白み始めた空を眺めていた。
膝の上の湯呑みの茶は、とうに冷めきっていた。
足元の、縁側の板が落とす影が、ふと、水面のように揺れた。
影の中から、漆黒のドレスの少女が、せり上がってきた。
ドレスは、煤と土で汚れていた。
大剣の刃の芯の氷も、縁の炎も、もう消えていた。
ゴーストは、縁側の前に立って、ヴィルヘルミナを見上げた。
何かを言おうとして、口を開きかけて、また閉じた。
ヴィルヘルミナは、湯呑みを膝の上に置いたまま、穏やかに笑った。
「おかえり」
「……ただいま、帰りました。師匠」
「……茶は、冷めとるぞ」
ヴィルヘルミナは、冷めた湯呑みを、ゴーストのほうへ差し出した。
「淹れ直すかの」
ゴーストは、しばらく黙って、その湯呑みを見つめていた。
それから、小さく首を横に振って、両手でそれを受け取った。
「……これで、いいです」
冷めきった茶は、少しだけ苦くて、少しだけ、甘かった。




