第三百二十八話
門の閂が、かちりと小さな音を立てて外れた。
三神家の玄関の上に吊るされた三つの真鍮の鈴は、まだ鳴っていなかった。
門を押し開けたラングルド・ハインツは、白い手袋の指先で鈴を揺らさないように、そっと門扉を支えながら、狭い前庭に足を踏み入れた。
その後ろから、黒い外套の少女が四人、音もなく続いた。
二階建ての家の窓は、どれも暗かった。
一階の居間も、二階の子供部屋も、灯りは全て消えている。
家族は、とうに眠っている時間だった。
「……静かな、いい家ですね」
ラングルドは、玄関の前で足を止めて、家の外観をゆっくりと見上げた。
「調査団の報告によれば、父親と母親と、娘が二人。それから、息子が一人」
ラングルドは、白い手袋の指を、一本ずつ折っていった。
「父親は、会社員。母親は、主婦。……娘二人は、白百合の隊員でしたか。炎と、風」
少女たちの誰も、返事をしなかった。
「訓練を受けた娘たちは、後回しにしましょう。……痛みに慣れていますからね」
ラングルドは、穏やかに微笑んだ。
「最初は、父親です。……娘たちの目の前で、父親から始めれば、たいてい、母親が先に口を割ります。母親が割らなければ、娘たちが割ります」
薄い色の瞳の奥で、何かが、楽しそうに揺れていた。
「黒いドレスの少女は、この家の、誰と、どういう関係なのか。……ゆっくりと、聞かせていただきましょう」
その時、庭のほうから、湯呑みを置く小さな音が聞こえた。
ラングルドは、首を巡らせた。
玄関の脇の、狭い庭の奥。
縁側に、小柄な人影が一つ、ちょこんと座っていた。
浴衣の上に厚手のケープを羽織った、十六か十七ほどに見える少女だった。
淡い金色の髪を、古風なリボンで結んでいる。
膝の上に、湯気の消えかけた湯呑みを一つ、両手で包んでいた。
少女は、庭の向こうの夜空を見上げたまま、ラングルドたちのほうを見ていなかった。
「……おや」
ラングルドは、少女の姿を見て、微笑んだ。
「調査団の報告にあった、居候の観光客ですね。……ヘクセン・ツィルケルの、魔女だとか」
少女は、答えなかった。
「お嬢さん。こんな夜更けに、お茶ですか」
「月見じゃよ」
少女が、ようやく口を開いた。
年寄りくさい、のんびりとした口調だった。
「今夜は、月がええ色をしとる」
「それは、風流ですね」
ラングルドは、白い手袋を嵌め直しながら、縁側のほうへ一歩踏み出した。
「申し訳ありませんが、少しの間、お部屋に戻っていていただけますか。……この家の皆さんと、大事なお話がありますので」
少女は、湯呑みを膝の上から下ろして、縁側の板の上にそっと置いた。
それから、初めて、ラングルドのほうを見た。
可憐な少女の顔の中で、その目だけが、ひどく古かった。
「……傷のある男に、言うたはずなんじゃがのう」
少女の声は、少しも大きくなかった。
「あの家に、手を出すでない、と」
「ベレンコフ団長のことでしたら、もう、本部の指揮系統から外れておりますので」
ラングルドは、穏やかに答えた。
「団長への忠告は、私には、届いておりません」
「そうか」
少女は、ゆっくりと立ち上がった。
「なら、わしが、直接言うしかないのう」
ラングルドは、片手を軽く上げた。
四人の少女たちが、音もなく散開した。
縁側を取り囲むように、狭い庭の四隅に立つ。
それぞれの手に、氷と、雷と、炎と、黒く光る刃が灯った。
「申し訳ありません、お嬢さん」
ラングルドは、微笑んだまま言った。
「我々は、少し急いでおりまして」
四つの魔力が、同時に、縁側の少女へ向かって放たれた。
その瞬間、少女の姿が、変わった。
光ではなかった。
風でも、炎でもなかった。
夜そのものが、少女の周りで一瞬だけ深く沈み込み、そして、もう一度浮かび上がった時には、縁側に立っていたのは、少女ではなかった。
二十歳前後に見える、背の高い女性だった。
つばの広い黒い帽子を目深に被り、裾の長い黒いローブが、夜風もないのに、静かに揺れていた。
淡い金色の髪は、腰のあたりまで長く伸びていた。
その手には、少女の姿の時と同じ、古びた木の杖が握られていた。
ただ、その杖の先に灯る光は、もう、少女の姿の時のような、穏やかなものではなかった。
四つの魔力は、縁側に届かなかった。
氷は、空中で、ただの水に戻った。
雷は、空中で、どこへともなく散っていった。
炎は、空中で、ふっと消えた。
黒く光る刃は、それを握る少女の手の中で、さらさらと砂になって崩れ落ちた。
「……は?」
ラングルドの口から、間の抜けた声が漏れた。
縁側に立つ女性は、帽子のつばの下から、ラングルドを見下ろしていた。
「わしはのう」
その声は、少女の姿の時と同じ、年寄りくさい口調だった。
ただ、その声の奥に、百年分の何かが、静かに沈んでいた。
「普段は、あの姿でおることにしとる。……力が、強すぎるでな。あのくらいに抑えておかんと、うっかり、町一つ平らにしてしまう」
「……な、何を」
「この家はのう、ええ匂いがするんじゃ」
女性は、杖の石突きで、縁側の板を、こん、と一度だけ軽く叩いた。
「味噌汁と、洗濯物と、日向の匂いじゃ。……百年、あちこちを歩いてきたが、こういう匂いのする家は、そう多くない」
その音が、狭い庭に響いた瞬間、庭の四隅に立っていた少女たちの気配が、一つ、消えた。
ラングルドは、振り返った。
庭の東の隅に、氷を灯していた少女が立っていたはずの場所には、何もなかった。
ただ、土が、ほんの少しだけ、新しく掘り返されたように柔らかくなっていた。
「……な」
二つ目の気配が、消えた。
西の隅で、雷を灯していた少女が、喉を押さえて、膝をついていた。
口を大きく開けて、何かを叫ぼうとしている。
だが、声が出ていなかった。
少女の周りの空気だけが、まるで初めからそこになかったかのように、消えていた。
少女は、何度か喉を掻きむしるように動いてから、静かに崩れ落ちた。
三つ目の気配が、消えた。
南の隅で、炎を灯していた少女の足元から、水が湧き上がっていた。
どこから来たのか分からない水が、少女の身体を下から包み込み、炎を消し、声を消し、そして少女そのものを、夜の闇の中へ呑み込んでいった。
四つ目の気配が、消えた。
北の隅で、砂になった刃の柄を握りしめていた少女の周りの空気が、一瞬だけ、ひどく熱く揺らいだ。
陽炎のように揺らいだ空気が、少女の輪郭を、ゆっくりとぼやかしていった。
ぼやけた輪郭は、そのまま、夜の空気の中に溶けて、見えなくなった。
ラングルドは、狭い前庭の真ん中に、一人で立ち尽くしていた。
何が、起きているのか。
理解が、追いつかなかった。
S級からA級に相当する魔法少女が、四人。
どの子も、何十もの「回収不能」を処理してきた、この部隊の中でも選りすぐりの子たちだった。
その四人が、一人ずつ、何の手応えもなく、目の前から消えていった。
悲鳴も、断末魔も、抵抗の気配すらもなかった。
ただ、土が柔らかくなり、空気が消え、水が湧き、陽炎が揺らいだだけだった。
まるで、最初から、そこに誰もいなかったかのように。
「……ば、馬鹿な」
ラングルドは、白い手袋の手を、震えながら上着の内ポケットへ伸ばした。
拳銃が、入っているはずだった。
魔法を使えない男が、最後の手段として、いつも持ち歩いているもの。
指先が、拳銃の冷たい金属に触れた。
次の瞬間、その金属が、指先の中で、ひどく熱くなった。
「——っ!?」
ラングルドは、反射的に手を引き抜いた。
白い手袋の指先が、焦げていた。
内ポケットの中から、どろりと溶けた金属が、上着の布を伝って、地面に滴り落ちていった。
縁側の女性は、杖を軽く持ち上げただけだった。
「……何、なんだ」
ラングルドの声が、初めて、震えた。
「お前は、何なんだ……!」
「観光客じゃよ」
女性は、帽子のつばの下で、穏やかに答えた。
「浅草で団子を食うて、鎌倉で大仏を見るつもりの、ただの年寄りじゃ」
女性は、縁側から、庭の土の上へ、ゆっくりと降りてきた。
黒いローブの裾が、地面に触れずに、静かに揺れていた。
「おぬしは、この家の主人を、娘たちの目の前で、どうするつもりじゃった」
「……」
「奥さんを、どうするつもりじゃった」
女性は、ラングルドの目の前で、足を止めた。
帽子のつばの下で、その古い目が、ラングルドを見下ろしていた。
「この家の者は、朝が来れば、また味噌汁を作る。弁当を詰める。洗濯物を干す。……そういう家に、おぬしは、何をしに来た」
ラングルドは、後ずさった。
足が、もつれた。
地面が、ひどく柔らかかった。
踏みしめようとした靴底が、ずぶりと、土の中に沈んでいった。
「……っ、た、助け」
ラングルドの口から、言葉にならない声が漏れた。
何が起きているのか、最後まで、理解できなかった。
地面が柔らかくなっていく理由も。
息が、少しずつ吸えなくなっていく理由も。
足元から這い上がってくる、冷たい水の理由も。
目の前の女性が、ただ杖を握って立っているだけなのに、なぜ自分の身体が、少しずつ、夜の闇の中に溶けていくのかも。
ラングルド・ハインツの意識は、そのどれ一つも理解しないまま、静かに途切れた。
三神家の狭い前庭に、静寂が戻った。
虫の声すら、しなかった。
向かいの家の屋根の上で、赤いリボンの少女と、青いリボンの少女が、身を伏せたまま、凍りついていた。
ルカの大鎌を握る手が、震えていた。
リリアは、目を見開いたまま、瞬き一つしていなかった。
「……リリア」
「……ん」
「今の、なに」
「……ん。わかんない」
リリアの声が、初めて、震えていた。
隣の洋館の、庭木の陰。
天城焔が、薙刀を握ったまま、立ち尽くしていた。
その後ろに、白峰透と、雨鏡鏡花と、永瀬久遠と、水瀬汐里が、身を寄せ合うようにして立っていた。
奈々美を守るために、今夜、この家の周りに潜んでいた。
回収班が三神家に向かうと聞いて、汐里が、いざとなれば先輩が変身できるように、三百メートルの内側で待っていた。
だが、誰も、動けなかった。
動く必要が、なかった。
動く暇すら、なかった。
「……あれが」
焔の唇から、掠れた声が漏れた。
「あれが、魔女」
十二年、変身を解かずに生きてきた。
一騎当千の力を、永遠に保つために。
変身を固めるという在り方の根が、遠い異国の魔女たちにあるという話を、いつかどこかで聞いたことがあった。
今、その本物を、初めて見た。
真似事は、どこまでいっても、真似事だった。
「……先輩」
汐里が、焔の袖を、震える手で握りしめていた。
「……奈々美先輩たちは、無事、ですよね」
「……ええ」
焔は、三神家の二階の、暗いままの窓を見上げた。
「窓の一つも、揺れていないわ」
鏡花は、両手で口を覆ったまま、涙を浮かべていた。
透は、細剣の柄を握りしめたまま、一言も発しなかった。
久遠は、腰の二丁拳銃に手をかけることすら、忘れていた。
前庭の真ん中で、黒いローブの女性が、杖を軽く地面に突いた。
夜そのものが、もう一度、深く沈み込んだ。
浮かび上がった時には、そこに立っていたのは、浴衣にケープを羽織った、小柄な少女だった。
少女は、ふう、と一つ息を吐いて、腰をとんとんと叩いた。
「……久しぶりに、本気を出すと、腰にくるわい」
それから、杖の先で、前庭の土を、ゆっくりとなぞっていった。
柔らかくなっていた土が、元の固さに戻っていく。
掘り返されたような跡が、平らに均されていく。
溶けて地面に滴った金属が、土の中に沈んで、見えなくなっていく。
焦げた草が、根元から、元の緑を取り戻していく。
元素に、還していた。
そこに何かがあった痕跡を、一つ残らず、元の土と、水と、空気と、熱に還していく。
五人がこの庭に立っていたという事実ごと、夜の中に溶かしていくように。
最後に、少女は、開け放たれたままの門扉を、杖の先で、そっと押して閉めた。
閂が、かちりと、元の位置に戻った。
玄関の上の三つの真鍮の鈴は、一度も鳴らなかった。
少女は、縁側に戻って、座布団の上にちょこんと腰を下ろした。
板の上に置いておいた湯呑みを手に取って、口に運ぶ。
「……冷めてしもうたのう」
少女は、残念そうに呟いた。
それから、湯呑みを膝の上に置いたまま、向かいの家の屋根と、隣の洋館の庭木の陰を、順番に見やった。
「見んかったことにせい」
その声は、静かだった。
それなのに、屋根の上にも、庭木の陰にも、はっきりと届いた。
「……この家の者は、何も知らんでええ」
屋根の上で、ルカとリリアが、こくこくと何度も頷いた。
庭木の陰で、焔が、ゆっくりと薙刀を下ろした。
「……承知、したわ」
焔は、それだけ答えるのが、精一杯だった。
少女は、満足そうに頷いて、冷めた茶を、もう一口すすった。
二階の暗い窓の向こうでは、五郎のいびきが、規則正しく響いていた。
奈々美は、夫の隣で、穏やかな寝息を立てていた。
澪は、枕元に藤の花びらを一枚置いたまま眠っていて、玲奈は、布団を蹴飛ばして大の字になっていた。
零の部屋だけが、空だった。
少女は、その空の部屋の窓を見上げて、小さく目を細めた。
「……向こうは、まだ、終わっとらんようじゃのう」
郊外の、翼の家の方角の夜空が、遠く、僅かに赤く染まっていた。




