第三百二十七話
午後十時を回った頃、セルゲイ・ベレンコフは、ブラインドを下ろしたままの部屋で、三人の部下と向かい合っていた。
卓上灯の明かりの下で、机の上の無線機が、低い雑音を立てていた。
回収班の通信は、調査団の無線には流れてこない。
それでも、ドローンの映像だけは、まだセルゲイの画面に届いていた。
郊外の古い日本家屋の周りに、黒い外套の人影が、少しずつ集まり始めているのが見えた。
アイシャは、膝の上に布を解いたマスケット銃を置いていた。
テレサの背中には、三晩ぶりに、布に包まれた大鎌が背負われていた。
フラウは、パーカーのポケットに両手を突っ込んだまま、壁の地図を見つめていた。
三人とも、この二日間、ほとんど口をきかなかった。
「……命令を、伝える」
セルゲイが、静かに口を開いた。
三人の背筋が、同時に伸びた。
「回収班は、我々の指揮系統の外にいる。本部の命令は、待機と情報提供だ」
「……はい」
「だが、調査団の団長として、私には、部下に戦闘の許可を出す権限がある」
セルゲイは、三人の顔を一人ずつ見た。
「自由戦闘を命じる」
アイシャの目が、見開かれた。
「どこで、誰と戦うかは、お前たちが決めろ。……誰の側に立つかもだ」
部屋の中に、長い沈黙が落ちた。
最初に立ち上がったのは、テレサだった。
背中の大鎌の包みを、両手で握りしめて、深く頭を下げた。
「……ありがとうございます、団長」
テレサは、それだけ言うと、部屋を飛び出していった。
アイシャは、マスケット銃を肩に担ぎながら、ゆっくりと立ち上がった。
「……団長。私、ずっと、羽衣緋雪と本気でやりたいって思ってました」
「知っている」
「でも、今夜は、あの子と同じ側に立ちたいです」
アイシャは、少しだけ笑った。
「ああいうやり方は、測定でも、戦いでもないから」
フラウが、黙って二人の後に続いた。
扉の前で、一度だけ振り返った。
「……団長は」
「私は、行かねばならん場所がある」
セルゲイは、コートを手に取った。
「行け。……遅れるな」
三人の足音が、廊下の向こうへ遠ざかっていった。
セルゲイは、コートに袖を通すと、机の上の黒い手帳を内ポケットにしまった。
ブラインドを下ろしたままの窓の前で、一度だけ足を止めて、それから、静かに部屋を出ていった。
同じ頃、郊外の翼の家の門の前に、黒い外套の人影が、音もなく集まっていた。
十五人。
髪の色も、背丈も、肌の色も違う少女たちが、同じ黒い外套に身を包み、表情を消して、門と塀の周りを取り囲んでいた。
その中心に、背の高い女が一人、腕を組んで立っていた。
短い黒髪に、灰色の瞳。
グライ・ブルーガーだった。
「……灯りは、二つ」
グライは、翼の家の窓を見上げて、低い声で言った。
「一階の居間と、二階の端の部屋。……器は、一階の奥の寝室」
ドローンの映像と、調査団の報告書で、家の間取りは頭に入っていた。
「回収目標は、器一つ。……それ以外は、邪魔をすれば処理しろ」
少女たちの誰も、返事をしなかった。
グライは、腕を解いて、片手を上げた。
その手が、振り下ろされた。
門柱の丸い看板が、最初に吹き飛んだ。
奈緒が小さな翼を描き足した、少しいびつな木の看板が、炎の塊に撃ち抜かれて、真っ二つに割れて庭に落ちた。
続けざまに、土塀の三か所に、別々の色の魔力が叩きつけられ、修理されたばかりの塀が、轟音を立てて崩れ落ちた。
翼の家の居間の灯りが、一斉に揺れた。
「——白鳥さん、子供たちを奥へ!」
縁側の障子が開いて、凛花が庭に飛び出してきた。
光の剣を抜き放ち、崩れた塀の向こうの黒い人影の群れを、まっすぐに睨みつける。
その数を見た瞬間、凛花の顔から血の気が引いた。
(……十五)
居間の奥で、白鳥が子供たちを抱え込むようにして、廊下の奥の部屋へ走っていく足音が聞こえた。
まひろの泣き声と、詩織が誰かの名前を呼ぶ声が混じっていた。
崩れた塀を乗り越えて、黒い外套の少女たちが、庭に雪崩れ込んできた。
凛花は、光の剣を振るった。
先頭の少女の放った氷の槍を、剣の腹で弾き、返す刃で、その少女を後ろへ吹き飛ばす。
だが、その隙に、左右から二人が回り込んできていた。
一人の手から、鞭のようにしなる雷が奔り、凛花の剣を絡め取ろうとする。
もう一人が、凛花の脇をすり抜けて、縁側へ向かって駆けていく。
「——っ、行かせない!」
凛花は、雷の鞭を剣で断ち切ると、縁側へ向かう少女の背中に、光の刃を飛ばした。
光の刃が、少女の肩を捉えて、縁側の手前で転倒させる。
だが、その少女は、肩から血を流しながら、表情一つ変えずに立ち上がった。
痛みを、何とも思っていない顔だった。
凛花の背筋が、凍りついた。
(……この人たち、人を傷つけることにも、傷つけられることにも、何も感じてない)
縁側の奥の障子が、からりと開いた。
黒髪の小柄な少女が、寝間着のまま、裸足で縁側に立っていた。
両手に、白い冷気と、紅蓮の炎を纏っている。
「……奈緒さん! 奥に!」
「ここ、みんなのおうち」
奈緒は、紅色の瞳で、庭の黒い人影たちを睨みつけた。
「こわしちゃ、だめ」
グライが、崩れた塀の外から、奈緒の姿を見て、短く言った。
「器だ。……確保しろ」
黒い外套の少女たちが、一斉に縁側へ向かって動き出した。
奈緒が、両手を突き出した。
氷の壁が縁側の前に立ち上がり、その壁の向こうから、炎の奔流が少女たちを薙ぎ払う。
氷で止めて、炎で砕く。
二人の少女が、炎に呑まれて庭の端まで吹き飛ばされた。
だが、残りの少女たちは、止まらなかった。
氷の壁が、三方から同時に叩きつけられた魔力に耐えきれず、音を立てて砕け散った。
砕けた壁の向こうから、黒い外套の少女が一人、奈緒の目の前まで踏み込んできた。
少女の手に、黒く光る刃が握られていた。
回収できなければ、抹殺。
刃が、奈緒の首筋に向かって、振り下ろされた。
その瞬間、縁側の床板が落とす、細い影が揺れた。
——ギィンッ!
黒く光る刃が、漆黒の大剣に受け止められていた。
奈緒の前に、漆黒のドレスの少女が立っていた。
ゴーストだった。
「……っ!?」
黒い外套の少女が、目を見開いて後ろへ跳び退いた。
「影から、出てきた……!?」
ゴーストは、大剣を構えたまま、奈緒を背中に庇った。
回収班がいつ動くのかは、誰にも分からなかった。
だから、この二晩、三神家の自室で、ペンダントを握ったまま夜を待っていた。
ヴィクトリアから「今夜、動いた」と短い知らせが届いた瞬間、零は、自分の部屋の床に、自分の闇で影を落としていた。
一つ。二つ。三つ。
三つ数える間、自分の影の中に潜り続けた。
そして、三神家の自室から、翼の家の縁側の影まで、一息に跳んでいた。
(……間に合った)
中州で、二週間かけて、ようやく三つに届いた。
——三つ数える間潜っていられれば、どこからでも、どこへでも行ける。誰かが危ない時に、間に合う。
師匠の言葉通りだった。
「……お姉ちゃん」
奈緒が、ゴーストのドレスの裾を、小さな手で握りしめた。
「大丈夫。……下がってて」
ゴーストは、庭に雪崩れ込んでくる黒い外套の群れを、静かに見据えた。
崩れた塀の外で、グライの灰色の瞳が、細くなった。
「……黒いドレス」
グライは、腕を組んだまま、低い声で言った。
「記録しろ。……そして、可能なら、捕獲だ」
黒い外套の少女たちが、一斉に、ゴーストへ矛先を向けた。
その時、翼の家の上空を、紫色の閃光が奔った。
——バリバリバリッ!
庭の中央に、紫電の雨が降り注ぎ、ゴーストへ向かっていた三人の少女たちが、まとめて地面に叩き伏せられた。
崩れた塀の上に、プラチナブロンドの髪を夜風に靡かせて、ヴィクトリアが立っていた。
「……子供の家の看板を、最初に壊したのは、誰かしら」
ヴィクトリアの紫の瞳が、庭に転がる割れた看板を見下ろしていた。
その隣に、白い礼装のルディアが、ふわりと降り立った。
袖で口元を隠したまま、黒い外套の少女たちを、冷えた目で見渡している。
「神の御前で、子供に刃を向けるなど。……許されることではございませんわ」
ルディアの背後で、無表情の真里が、静かに拳を握り込んでいた。
さらに、門の外の暗がりから、銀色の髪の少女が駆け込んできた。
「——奈緒さん!」
緋雪だった。
白百合の制服の上にコートを羽織り、腰の太刀を抜き放ちながら、凛花の隣に並ぶ。
耳の上の、雪の結晶の髪飾りが、庭の炎の光を受けて揺れていた。
「緋雪さん……!」
「遅くなったわ、凛花さん」
緋雪は、太刀を構えながら、短く言った。
「由鶴が、向こうの通信が一斉に動き出したのに、気づいてくれたの。……今夜だ、って」
庭の中央で、円卓の面々が、背中合わせに陣を組んだ。
ゴーストと、緋雪と、凛花と、ヴィクトリアと、ルディアと、真里。
その背後の縁側に、奈緒が両手に氷と炎を灯して立っていた。
黒い外套の少女たちは、まだ十一人が立っていた。
グライは、崩れた塀の外で腕を組んだまま、その光景を灰色の瞳で見つめていた。
「……星監に、福音の鐘。それに、白百合と協会のS級」
グライは、表情一つ変えずに呟いた。
「調査団の報告通りだな」
黒い外套の少女たちが、再び動き出した。
氷の槍と、雷の鞭と、炎の塊と、黒く光る刃が、四方から円卓の陣に襲いかかる。
一人一人が、S級からA級に相当する魔法少女だった。
連携は機械のように正確で、躊躇いは一切なかった。
倒された仲間を気にかける者も、一人もいなかった。
ゴーストの大剣が、氷の槍を断ち割った。
緋雪の太刀が、雷の鞭を凍りつかせた。
ヴィクトリアの紫電が、炎の塊を空中で弾き散らした。
ルディアの光の壁が、黒い刃を受け止めた。
だが、数が多かった。
一人を退けるたびに、別の二人が、陣の隙間を狙って踏み込んでくる。
縁側の奈緒を狙う刃が、何度も円卓の陣をすり抜けかけた。
二階の端の部屋の窓が、からりと開いた。
色素の薄い髪の少女が、窓枠に手をかけて、庭を見下ろしていた。
エリだった。
白鳥に、子供たちと一緒に奥の部屋にいるように言われていた。
それでも、窓の外の轟音が、どうしても気になって、窓を開けてしまったのだった。
黒い外套の少女の一人が、その窓を見上げた。
手の中に、炎の塊が膨れ上がる。
「——っ、エリさん、窓を閉めて!」
凛花の叫び声が、庭に響いた。
炎の塊が、二階の窓へ向かって放たれた。
エリは、窓枠に手をかけたまま、動けなかった。
炎が、窓のすぐ手前まで迫った、その瞬間。
——ずるり。
炎の塊が、空中で溶けた。
燃え盛っていた炎が、どろりとした赤い液体のように形を崩して、横から伸びてきた大鎌の刃に、吸い込まれていった。
庭の、二階の窓の真下に、赤みがかった金髪の少女が、大鎌を構えて立っていた。
首に、真っ赤なマフラーを巻いていた。
「……テレサ」
窓の上から、エリの声が、震えながら降ってきた。
テレサは、振り返らなかった。
大鎌を構えたまま、炎を放った黒い外套の少女を、まっすぐに睨みつけていた。
「……この家には、手を出させない」
テレサの声は、低く、はっきりとしていた。
「この窓の向こうにいる子には、絶対に」
崩れた塀の向こうから、もう二つの人影が、庭に跳び込んできた。
栗色の髪の少女が、マスケット銃を肩に当てて、円卓の陣の隣に着地した。
白い短髪の少女が、両腕に岩の籠手を纏いながら、奈緒の前に立ち塞がった。
「……アイシャ・エインズワース」
緋雪が、太刀を構えたまま、隣に降り立った栗色の髪の少女を見た。
「こんばんは、羽衣緋雪」
アイシャは、にっこりと笑って、銃身を撫でた。
「今夜は、あなたと同じ側よ。……よろしくね」
「……どういうつもり」
「団長の、命令なの」
アイシャは、銃口を、黒い外套の少女たちに向けた。
「自由戦闘。……どこで、誰と戦うかは、自分で決めろって」
崩れた塀の外で、グライの灰色の瞳が、初めて僅かに揺れた。
「……調査団が」
グライの声が、低くなった。
「裏切ったか」
同じ頃、三神家の住宅街の、街灯の届かない細い路地を、黒い外套の人影が五つ、音もなく歩いていた。
先頭を歩く男の、白い手袋だけが、闇の中でぼんやりと浮かび上がっていた。
ラングルド・ハインツは、三神家の門の前で足を止めると、玄関の上に吊るされた真鍮の鈴を見上げて、穏やかに微笑んだ。
「……さて」
白い手袋の指先が、門の閂に、そっと触れた。
「話を、聞かせていただきましょうか」




