第三百二十六話
地方空港の滑走路の外れに、一機の小型の旅客機が、灯りを落としたまま静かに着陸した。
午前二時を回った空港は、最終便を見送った後の静けさに包まれていて、ターミナルビルの窓の灯りも、ほとんどが消えていた。
旅客機は、ターミナルから遠く離れた貨物用の駐機場に向かうと、そこで機体を止めた。
駐機場の脇には、窓を黒く塗った大型のバンが、三台並んで待っていた。
旅客機の扉が開き、タラップが下ろされた。
最初に降りてきたのは、背の高い男だった。
短く切った黒髪に、感情の読めない灰色の瞳をしていて、黒い外套の襟を立て、手には何も持っていなかった。
男は、タラップの下で立ち止まると、周囲の暗がりを一度だけ見回してから、機内に向かって短く頷いた。
その合図で、少女たちが降りてきた。
一人、また一人と、黒い外套を纏った少女たちが、無言のままタラップを下りてくる。
年の頃は、十代半ばから二十代前半まで、ばらばらだった。
髪の色も、肌の色も、瞳の色も、それぞれが違っていた。
ただ、全員が同じ黒い外套を纏い、同じように表情を消して、同じ歩幅で歩いていた。
十八人。
最後に、一人の男が降りてきた。
短く刈り込んだ金髪に、薄い色の瞳をしていた。
仕立てのいいスーツの上に、黒い外套を羽織り、両手には、真っ白な手袋を嵌めていた。
男は、タラップの途中で足を止めると、日本の夜の空気を、確かめるように深く吸い込んだ。
「……湿っていますね」
男は、穏やかに微笑んだ。
「春の終わりの、いい匂いだ」
「ハインツ指揮官」
タラップの下で、背の高い男が言った。
「車両の準備は、整っています」
「ありがとう、ブルーガー」
ラングルド・ハインツは、白い手袋を嵌め直しながら、タラップを下りた。
「入国の記録は」
「残しておりません。……この便は、存在しないことになっています」
「結構です」
ラングルドは、バンの一台に乗り込む前に、少女たちのほうを振り返った。
十八人の少女たちが、黒い外套の中で、無言のまま整列していた。
海外の各地から集められた、S級からA級相当の魔法少女たち。
回収班の中でも、最も多くの「回収不能」を処理してきた部隊だった。
「皆さん。……日本へ、ようこそ」
ラングルドは、柔らかく言った。
「今回の任務は、器の回収と、黒いドレスの関係者の確保です。……回収できなかったものは、いつも通りに」
少女たちの誰も、返事をしなかった。
返事をする必要が、なかったからだ。
翌日の昼前、都心の高層ホテルの最上階の一室で、セルゲイ・ベレンコフは、本部から届いたばかりの電文を、黙って見下ろしていた。
——調査団団長セルゲイ・ベレンコフに告ぐ。
——本部は、回収班の派遣を前倒しで決定した。
——回収班は、本日未明に現地に到着している。
——回収班は、調査団の指揮系統から独立して行動する。調査団は、回収班の求めに応じて情報を提供し、その活動を支援せよ。
セルゲイは、電文の最後の一行を、長い間見つめていた。
前倒し。
二週間の期限は、まだ四日しか過ぎていなかった。
(……報告を、読まれたか)
器の確保には、なお相当の時間を要する。
本当のことだけを並べたはずの報告書が、本部には、別のものとして読まれたのだった。
指揮官が、現地に情を移した、と。
部屋の扉が、軽く叩かれた。
セルゲイが返事をするより先に、扉が開いて、一人の男が入ってきた。
短く刈り込んだ金髪に、薄い色の瞳。
仕立てのいいスーツに、白い手袋。
その後ろに、黒い外套の背の高い男が、影のように控えていた。
「お久しぶりです、ベレンコフ団長」
ラングルド・ハインツは、穏やかに微笑んで、白い手袋の手を差し出した。
「……ハインツ」
セルゲイは、その手を握らなかった。
ラングルドは、気にした様子もなく、差し出した手を引っ込めると、部屋の中をゆっくりと見回した。
ブラインドを下ろしたままの窓。
壁に貼られた、赤いピンだらけの地図。
机の上の、黒い手帳。
「ブラインドを、下ろしておられるのですね。……昼間なのに」
「見られているのでな」
「ほう。それは、興味深い」
ラングルドは、壁の地図の前に立って、赤いピンの一つ一つを、白い手袋の指先でなぞっていった。
「器は、ここですね。郊外の古い家」
「……ああ」
「それから、黒いドレスの関係者。……三神、という家族」
ラングルドの指先が、住宅街の、並んだ二軒の家のピンの上で止まった。
「団長の報告書を、全て拝読しました。……実に、丁寧な調査でした」
「それは、どうも」
「黒いドレスは、三神家の少年の周りに現れる。少年の姉が、そう証言した。隣家には、星監の総帥が住み、ヘクセン・ツィルケルの魔女が居候している。……そして、雷の女」
ラングルドは、セルゲイのほうへ振り返った。
「これだけ材料が揃っているのに、なぜ、関係者に直接、話を聞かなかったのですか」
「少年には、会った。……一般人だった」
「一般人」
ラングルドは、繰り返した。
「団長。……一般人でも、口は、ついていますよ」
セルゲイの背筋に、冷たいものが走った。
ラングルドの口元は、穏やかに微笑んだままだった。
だが、その薄い色の瞳の奥で、何かが、楽しそうに揺れていた。
「家族を、四人ほど並べて」
ラングルドは、白い手袋の指を、一本ずつ折っていった。
「父親から始めるか、母親から始めるか。……順番を間違えなければ、子供たちは、たいてい、すぐに口を割ります」
「……ハインツ」
セルゲイの声が、低くなった。
「彼らは、民間人だ」
「ええ、存じております」
ラングルドは、少しも悪びれずに頷いた。
「だからこそ、話を聞くのが簡単なのです。……訓練された魔法少女は、痛みに慣れていますからね。退屈なんですよ」
部屋の空気が、凍りついた。
隣の部屋に通じる扉の向こうで、誰かが息を呑む気配がした。
アイシャだった。
扉の隙間から、その会話を聞いていたのだった。
ラングルドは、扉のほうをちらりと見て、また穏やかに微笑んだ。
「団長の部下の皆さんにも、ご挨拶をしておきましょうか。……優秀な方々だと、伺っています」
「……必要ない」
「そうですか。残念です」
ラングルドは、壁の地図から離れると、扉のほうへ歩いていった。
扉の前で、ふと足を止めて、振り返った。
「作戦は、明後日の夜です。……器のほうは、ブルーガーを含めた十五名で、郊外の家へ。関係者のほうは、私を含めた五名で、三神家へ参ります」
「……」
「調査団の皆さんは、ここで待機していてください。……情報の提供だけで、結構です」
ラングルドは、白い手袋を嵌め直して、柔らかく頭を下げた。
「それでは、団長。……良い報告を、お待ちください」
扉が、静かに閉まった。
セルゲイは、椅子に座ったまま、しばらく動かなかった。
机の上に置いた手が、自分でも気づかないうちに、固く握りしめられていた。
隣の部屋の扉が、そっと開いた。
アイシャが、青ざめた顔で立っていた。
その後ろに、テレサとフラウが続いていた。
「……団長」
アイシャの声が、震えていた。
「今の人、本気でした。……本気で、あの家の人たちを」
「分かっている」
セルゲイは、目を閉じた。
「あれが、回収班だ。……私が、来させたくなかったものだ」
同じ日の午後、白百合の盾の情報班の解析室で、新実由鶴は、壁一面のモニターの前で、眉を寄せていた。
都内の上空の電波の流れを示す図に、見慣れない線が混じっていた。
セントラルの調査団の、ドローンの線ではなかった。
もっと太く、もっと複雑に暗号化された通信が、都内の三か所の地点から、断続的に発せられていた。
そのうちの一つは、都心の高層ホテルの、セルゲイ・ベレンコフの部屋とは別の階だった。
「……新しい方々が、入国されたようです」
由鶴は、眼鏡を押し上げて、小さく呟いた。
暗号の組み方が、調査団のものとは違っていた。
軍の情報部の古い規格を使うセルゲイの通信には、どこか几帳面な癖があった。
この新しい通信には、それがなかった。
ただ、無駄がなく、冷たく、隙のない組み方だった。
由鶴は、内線の受話器を取った。
「……緋雪。少し、解析室までお越しいただけますか」
その日の夕方、翼の家の居間に、円卓が再び集められた。
ヴィクトリアは、膝の上で両手を組んだまま、ひどく険しい顔をしていた。
「欧州の伝手に、確認したわ」
ヴィクトリアの声は、低かった。
「今朝、入国記録のない小型機が、地方の空港に降りている。……乗っていたのは、セントラルの回収班。その中でも、一番たちの悪い部隊よ」
「一番、たちの悪い」
凛花が、繰り返した。
「指揮官は、ラングルド・ハインツ」
その名前を口にした瞬間、ヴィクトリアの指先で、紫電が一度、ぱちりと弾けた。
「欧州の魔法少女の間では、知らない者はいないわ。……回収できなかった子を、二度と誰にも見つからないようにする男よ。それも、楽しみながら」
居間が、静まり返った。
「……期限は、二週間じゃなかったんですか」
白鳥が、震える声で問うた。
「前倒しになったのよ」
ヴィクトリアは、目を閉じた。
「セルゲイの報告が、本部に、時間稼ぎだと見抜かれたんでしょうね」
ゴーストは、黙って、縁側の向こうの庭を見つめていた。
夕暮れの庭で、奈緒がエリと並んで、花壇の苗に水をやっていた。
エリの手には、まだ写真立てが握られていた。
「……残りの時間は、どれだけあるの」
ゴーストが、静かに問うた。
「分からないわ」
ヴィクトリアは、首を横に振った。
「ただ、あの男が来たのなら。……長くは、待たないはずよ」
同じ日の夜、三神家の食卓には、零が作った鯖の味噌煮と、春キャベツの浅漬けと、豆腐とわかめの味噌汁が並んでいた。
五郎が、会社の後輩の失敗談を面白おかしく話していて、玲奈が、それを聞きながら笑い転げていた。
澪は、味噌汁の椀を持ったまま、昨日の稽古で七枚まで回せるようになった花びらの話を、奈々美に得意げにしていた。
奈々美は、娘の話に相槌を打ちながら、誰かの茶碗が空くたびに、ご飯をよそっていた。
いつもと何も変わらない、三神家の夕飯だった。
縁側で、ヴィルヘルミナが、自分の分の味噌煮をつつきながら、ふと箸を止めた。
庭の向こうの、夜の空気を、じっと見つめている。
「……ミナちゃん、どうしたの?」
玲奈が、首を傾げた。
「いや、いや」
ヴィルヘルミナは、また箸を動かし始めた。
「風が、変わったのう、と思うただけじゃ」
「風?」
「春の終わりの風じゃよ。……そろそろ、夏が来る」
ヴィルヘルミナは、にこやかに笑って、味噌煮を口に運んだ。
台所で、零は、洗い物をしていた手を止めていた。
ヴィルヘルミナの横顔を、窓越しに見つめる。
その目が、笑ってはいなかった。
その夜、都心の高層ホテルの最上階の一室で、セルゲイは、アイシャ、テレサ、フラウの三人を、自分の部屋に集めていた。
ブラインドを下ろしたままの部屋で、卓上灯の明かりだけが、四人の顔を照らしていた。
「回収班の作戦は、明後日の夜だ」
セルゲイは、壁の地図を指さした。
「ブルーガーを含めた十五名が、器のいる家へ。……ハインツを含めた五名が、三神家へ」
テレサの顔が、白くなった。
「三神家には、魔女がいるわ」
アイシャが、低い声で言った。
「ハインツは、それを知ってるんですか」
「知っている。……報告書に、書いてある」
「なら、どうして」
「侮っているのだろう」
セルゲイは、目を閉じた。
「居候の、子供の姿をした観光客だと。……あれが何者なのかを、あの男は、自分の目で見ていない」
部屋に、沈黙が落ちた。
テレサが、拳を握りしめて、口を開いた。
「……団長。私たちは、ここで待機ですか」
セルゲイは、目を開けた。
三人の顔を、一人ずつ見ていった。
測定の日から、ずっと緋雪と戦いたがっていたアイシャ。
夜ごとに、大鎌を置いてエーリカに会いに行っていたテレサ。
黙ったまま、魔女にもらった飴の包み紙を、まだポケットの中に持っているフラウ。
「……明後日の夜まで、まだ時間はある」
セルゲイは、それだけ言った。
「それまでに、考えておけ。……自分が、どこに立ちたいのかを」




