第三百二十五話
ホテルの通用口から夜の通りに出たテレサの背中を、セルゲイは、三十メートルほど離れた街路樹の陰から見送った。
零時を少し過ぎた都心の通りは、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていて、タクシーの赤いテールランプが、時折、遠くの交差点を横切っていくだけだった。
テレサは、大鎌を背負っていなかった。
赤みがかった金髪を高く結い上げ、首に真っ赤なマフラーを巻いただけの、身軽な格好で、振り返りもせずに地下鉄の駅のほうへ歩いていった。
セルゲイは、コートの襟を立てて、その後を追った。
尾行は、若い頃に情報部で嫌というほど叩き込まれた技術だった。
相手の歩く速さに合わせず、少しだけ遅く歩くこと。
相手が立ち止まった時に、自分も立ち止まらないこと。
ショーウィンドウの硝子や、停まっている車の窓に映る相手の姿を、直接見る代わりに目の端で追うこと。
魔法を使えない人間が、魔法少女を相手に生き延びるために覚えた、地味で古い技術だった。
テレサは、終電間際の地下鉄に乗り、郊外へ向かう私鉄に乗り換えた。
セルゲイは、同じ車両の反対側の端に座って、手帳を開いたふりをしながら、窓硝子に映るテレサの横顔を見ていた。
テレサは、吊り革にも掴まらずに扉の脇に立ち、暗い窓の外を流れていく街の灯りを、ぼんやりと眺めていた。
その横顔は、ひどく疲れているように見えた。
郊外の駅で降りたテレサは、改札を抜けると、迷いのない足取りで、住宅街の細い道へ入っていった。
セルゲイは、その道を知っていた。
ドローンの映像で、何度も見た道だった。
古い一軒家が並ぶ細い坂道を上りきった先に、修理されたばかりの土塀と、丸い木の看板を掛けた門柱がある。
翼の家だった。
セルゲイは、坂道の途中の、電柱の陰で足を止めた。
テレサは、翼の家の門の前まで歩いていくと、そこで立ち止まり、二階の窓を見上げた。
二階の窓に灯りが一つ点いていて、テレサが見上げると、その窓辺から人影が一つ消えた。
しばらくして、翼の家の玄関の戸が、音を立てないようにそっと開いた。
一人の少女が、庭の飛び石を渡ってきて、門の内側で足を止めた。
色素の薄い髪を、肩の上で短く切り揃えていた。
寝間着の上にカーディガンを羽織り、胸に、四角い何かを抱いている。
セルゲイの呼吸が、一瞬だけ止まった。
街灯の淡い光の下で、その少女の顔が見えた。
十八か、十九か。
頬の線は少女のものから大人のものへと変わりかけていて、髪も、記憶の中のものより少しだけ長かった。
それでも、分かった。
欧州支部の訓練場で、大きすぎる隊服の袖を何度も折り返していた、小さな女の子。
推薦の書類に、自分が署名をした子供。
施設の壁を越えて、港まで走って、それきり行方の分からなくなった子供。
(……エーリカ・ヴァイス)
セルゲイは、電柱の陰に立ったまま、動けなかった。
門を挟んで、テレサとエーリカが、何かを話していた。
声は、ここまでは届かなかった。
ただ、エーリカが門の格子越しに手を伸ばして、テレサの手を握るのが見えた。
テレサが、その手を握り返して、門の格子に額を押しつけるのが見えた。
セルゲイは、その光景から、目を逸らすことができなかった。
強化計画の施設で、隣り合った寝台に寝かされていた二人の子供。
一人は逃げ、一人は残った。
残った一人は、セルゲイの部下になり、今はセルゲイの命令で、器を連れ去るためにこの国にいる。
その二人が、今、門を挟んで、互いの手を握り合っていた。
背後の暗がりで、何かが揺れた気がした。
セルゲイは、振り返った。
電柱の落とす影が、街灯の光の中で、ほんの一瞬だけ、水面のように揺らいだように見えた。
だが、目を凝らしても、そこには何もなかった。
ただの、電柱の影だった。
魔法の気配を感じ取る力は、セルゲイにはない。
それでも、何十年も戦場で生き延びてきた身体が、首筋の毛を逆立てて、何かがいると告げていた。
(……見られている)
セルゲイは、しばらく影を見つめていたが、やがてゆっくりと、門の前の二人のほうへ視線を戻した。
影の中にいる何かは、何もしてこなかった。
ただ、そこにいるだけだった。
翼の家の門の前に立つ二人の少女と、坂道の途中の電柱の陰に立つ自分とを、黙って見ているだけだった。
門の前で、テレサがエーリカの手を離し、一歩後ろへ下がった。
それから、エーリカに何かを言って、坂道のほうへ振り返った。
セルゲイは、電柱の陰から離れて、坂道の脇の路地へ身を隠した。
テレサは、セルゲイが隠れた路地の前を通り過ぎて、坂道を駆け下りていった。
その頬が、街灯の光の中で、濡れて光っていた。
セルゲイは、テレサの足音が遠ざかるのを待ってから、路地を出た。
翼の家の門の前には、もう誰もいなかった。
二階の窓の灯りが、静かに消えるところだった。
電柱の影は、もう揺れていなかった。
明け方近く、ホテルの最上階の廊下で、テレサは、エレベーターから降りたところで足を止めた。
廊下の壁に背を預けて、セルゲイが立っていた。
あの夜と同じだった。
ただ、あの夜と違うのは、セルゲイのコートの裾が、夜露で僅かに湿っていることだった。
テレサは、それに気づいて、息を呑んだ。
「……部屋に、来い」
セルゲイは、それだけ言って、自分の部屋の扉を開けた。
ブラインドを下ろしたままの部屋は、卓上灯の明かりだけが灯っていて、壁に貼られた地図の赤いピンが、薄暗がりの中で鈍く光っていた。
セルゲイは、机の椅子に腰を下ろし、テレサに、向かいの椅子を手で示した。
テレサは、座らなかった。
部屋の真ん中に立ったまま、両手を身体の脇で握りしめて、団長の顔をまっすぐに見ていた。
「……見ていたんですね」
「ああ」
セルゲイは、否定しなかった。
「駅から、ずっとだ」
テレサは、唇を噛んだ。
覚悟は、していた。
命令に背いて、夜ごとに持ち場を離れ、敵の拠点の門の前で、敵の側の人間と手を握っていた。
本部に報告されれば、ただでは済まない。
強化計画の施設に送り返されるか、それとも。
「……エーリカ・ヴァイスか」
セルゲイが、静かに言った。
テレサの肩が、跳ねた。
「……団長は、エーリカを」
「知っている」
セルゲイは、机の上に置いた黒い手帳に、目を落とした。
「欧州支部から、あの子をセントラルに推薦したのは、私だ」
テレサの目が、見開かれた。
「推薦の書類に、私が署名をした。……お前の書類にも、だ」
部屋の中に、長い沈黙が落ちた。
テレサは、何かを言おうとして口を開きかけたが、結局、何の言葉も出てこなかった。
「あの子が逃げたと聞いた時、私は、ほっとした」
セルゲイは、手帳の表紙を、指先でなぞりながら言った。
「施設の壁を越えて、港まで走って、それきり行方が分からなくなった。……どこかで野垂れ死んだのかもしれないし、どこかで生きているのかもしれない。分からないままのほうが、楽だった」
「……」
「今夜、あの子の顔を見た」
セルゲイの声は、静かだったが、その奥で、何かが軋んでいた。
「生きていた。……髪が、少し伸びていた」
テレサは、両手を握りしめたまま、団長の顔を見つめていた。
初めて見る顔だった。
何十人もの部下を率い、戦場の全てを地図の上で見通してきた男が、手帳の表紙を見下ろしたまま、どこにも焦点の合わない目をしていた。
「……団長」
テレサは、震える声で言った。
「エーリカに、話しました。……二週間以内に、あそこが襲われることを」
「知っている」
「……え」
「お前が、あの子に何を話すかくらい、見なくても分かる」
セルゲイは、顔を上げた。
「本部に、報告するつもりはない」
テレサは、言葉を失った。
「……どうして」
「報告すれば、お前は施設に送り返される。……あの子は、器と一緒に、回収の対象に加えられる」
セルゲイは、机の上の電文に目を落とした。
二週間以内に、器を確保せよ。
期限内に成果なき場合、本部は回収班を派遣する。
「一つだけ、聞く」
セルゲイは、テレサの目をまっすぐに見た。
「もし、回収班が来たら。……お前は、どうする」
テレサは、しばらく黙っていた。
門の格子越しに握ったエーリカの手の温かさが、まだ指先に残っていた。
——生きててくれて、よかった。
その言葉が、耳の奥で、何度も繰り返されていた。
「……守ります」
テレサは、はっきりと答えた。
「エーリカを。……あの家を」
「回収班を、敵に回してもか」
「はい」
「セントラルを、敵に回してもか」
テレサの唇が、震えた。
それでも、テレサは目を逸らさなかった。
「……はい」
セルゲイは、長い間、テレサの顔を見つめていた。
それから、小さく息を吐いて、椅子の背にもたれた。
「……そうか」
それだけ言って、セルゲイは、机の上の手帳を開いた。
「下がれ。……七時の集合には、遅れるな」
「……団長」
「下がれ、と言った」
テレサは、しばらくその場に立ち尽くしていたが、やがて深く頭を下げると、部屋を出ていった。
扉が閉まった後、セルゲイは、手帳の中の一行に目を落とした。
『テレサ:夜間不在、複数夜。大鎌を持たず』
セルゲイは、ペンを取って、その一行の上に、一本の線を引いた。
それから、机の端に置いてあった報告用の端末を引き寄せて、本部への定時報告の画面を開いた。
指が、キーボードの上で、しばらく止まっていた。
器の所在は、分かっている。
器を守る者たちの戦力も、ほとんど測り終えた。
二週間あれば、アイシャとテレサとフラウの三人で、器を連れ出すことは、決して不可能ではない。
だが、その器のいる家の二階には、エーリカ・ヴァイスが住んでいる。
セルゲイは、ゆっくりと、報告の文面を打ち込んでいった。
——器の所在は把握済み。ただし、器の周辺には、星監、福音の鐘、および正体不明の黒いドレスとその情報網が厚く布陣している。
——加えて、ヘクセン・ツィルケルの魔女の介入が確認されている。
——器の確保には、なお相当の時間を要する。性急な行動は、調査団の全滅を招く恐れがある。
嘘ではなかった。
全て、本当のことだった。
あの魔女が、公園のベンチで、本当のことだけを並べて肝心なことを隠したのと同じように、セルゲイもまた、本当のことだけを並べて、エーリカ・ヴァイスの名前を、その隙間に隠した。
セルゲイは、送信の釦を押した。
画面に、送信完了の文字が浮かんだ。
セルゲイは、端末を閉じて、ブラインドの隙間から差し込み始めた朝の光を、黙って見つめていた。
あの魔女なら、今の報告を読んで、何と言うだろうか。
——ええ子じゃ。
ふと、そんな声が聞こえた気がして、セルゲイは、自嘲するように小さく息を吐いた。
その数時間前、翼の家の門の前の電柱の影の中で、ゴーストは、坂道を下っていく黒いロングコートの背中を見送っていた。
円卓で期限のことを聞いたその夜、ゴーストは中州での稽古を早めに切り上げて、翼の家の周りの見張りに来ていた。
そこへ、テレサの後をつけてきた男が現れ、電柱の陰に立って、門の前の二人を見ていた。
男は、何もしなかった。
ただ、門の前で手を握り合う二人を、ひどく遠い目で見つめていただけだった。
影の中から、男の横顔が見えた。
何十年も戦場を生き延びてきた男の顔が、あの時、ほんの一瞬だけ、子供を見送る父親のような顔になっていた。
ゴーストは、影の中で、自分の闇で作った影に、全身を沈めていた。
一つ。
二つ。
二つ数えたところで、影が大きく揺らいで、ゴーストは電柱の陰に弾き出された。
まだ、三つには届かなかった。
同じ頃、海の向こうの、窓のない白い部屋で、一人の男が、届いたばかりの報告書を読んでいた。
短く刈り込んだ金髪に、薄い色の瞳。
口元には、穏やかな、どこか楽しそうな笑みが浮かんでいる。
白い手袋をはめた指先で、報告書の最後の一行を、ゆっくりとなぞっていた。
——器の確保には、なお相当の時間を要する。
「……ベレンコフ団長も、焼きが回ったようですね」
男は、報告書を机の上に置いた。
「情を、移しましたか」
部屋の隅に立っていた、背の高い男が、無表情のまま口を開いた。
「どうなさいますか、ハインツ指揮官」
「期限を、待つ理由がなくなりました」
ラングルド・ハインツは、白い手袋を嵌め直しながら、穏やかに微笑んだ。
「ブルーガー。……部隊を、集めてください。二十名、全員です」
「了解しました」
グライ・ブルーガーは、短く頭を下げると、部屋を出ていった。
ラングルドは、机の脇に積まれた、これまでの調査団の報告書の束から、一枚の写真を指先で摘み上げた。
町の住宅街の、ごく普通の二階建ての一軒家。
玄関の上に、真鍮の鈴が三つ吊るされている。
「……黒いドレスの、関係者」
ラングルドは、写真の家を見つめたまま、楽しそうに目を細めた。
「話を聞かせていただくのが、楽しみですね」




