第三百二十四話
ブラインドを下ろしたままの薄暗い部屋で、セルゲイ・ベレンコフは、一枚の電文を机の上に置いた。
午前七時のホテルの最上階の一室には、窓の隙間から細く差し込む朝の光と、机の上の小さな卓上灯の明かりしかなかった。
机を囲むように、三人の少女が立っていた。
寝癖を手櫛で押さえたままのアイシャと、背中を少しだけ庇うように立つフラウと、昨夜も明け方に戻ってきたばかりで、目の下に薄い影を落としたテレサだった。
「本部からだ」
セルゲイは、電文を三人のほうへ向けて、机の上を滑らせた。
中央魔法技術研究院の紋章が、紙の上端に刷られていた。
歯車と、その中心に据えられた一つの星。
その下に、短い文面が、無機質な活字で並んでいた。
——調査団団長セルゲイ・ベレンコフに告ぐ。
——器を、本電文の受領より二週間以内に確保せよ。
——黒いドレスについては、可能であれば捕獲。不可能であれば、詳細な記録の取得をもって可とする。
——期限内に成果なき場合、本部は回収班を派遣する。
三人は、黙って電文を読んでいた。
「……回収班」
最初に口を開いたのは、アイシャだった。
その声には、いつもの楽しそうな響きがなかった。
栗色の髪を押さえていた手が、いつの間にか、膝の横で握りしめられていた。
「団長。……回収班って、どの班が来るんですか」
「分からん」
セルゲイは、短く答えた。
「だが、本部が回収班という言葉を使う時は、だいたい決まっている」
「……」
「あれが来れば、この国の誰も、無事では済まん」
セルゲイは、それ以上を説明しなかった。
説明しなくても、アイシャには分かっていた。
セントラルには、調査団とは別に、回収の名目で動く部隊がいくつもある。
その中には、回収できないものを、回収できないままにしておかない部隊もある。
強化計画の施設にいた頃、夜中に廊下の奥から聞こえてきた噂話の中で、その名前を何度か耳にしたことがあった。
フラウは、何も言わなかった。
ただ、パーカーのポケットの中で、両手が固く握り込まれているのが、布越しにも分かった。
テレサは、電文の一行を、じっと見つめていた。
器を、確保せよ。
器は、郊外の古い日本家屋にいる。
翼の家と呼ばれる、丸い看板が門柱に掛けられた家に。
そして、その同じ家の二階の窓辺に、毎晩、写真立てを抱いて座っている少女がいる。
テレサの顔から、ゆっくりと血の気が引いていった。
「……テレサ」
セルゲイが、静かに名を呼んだ。
テレサは、はっとして顔を上げた。
「顔色が悪いな」
「……昨夜、あまり眠れなかったので」
「そうか」
セルゲイは、それ以上は何も聞かなかった。
ただ、その目が、テレサの顔の上に、いつもより少しだけ長く留まっていた。
「今日から、器の周辺の調査を再開する。……二週間は、短い」
セルゲイは、電文を折り畳んで、コートの内ポケットにしまった。
「解散だ」
その夜、零時を回った頃、テレサはまた、翼の家の塀の外の暗い路地に立っていた。
大鎌は、今夜も、ホテルの部屋の壁に立てかけたままにしてきた。
団長が自分の夜の外出に気づいていることは、昨日の廊下での言葉で分かっていた。
それでも、今夜だけは、来ないわけにはいかなかった。
二階の窓には、今夜も灯りが一つ点いていた。
テレサが窓を見上げると、窓辺に座っていた少女が、すぐにこちらに気づいて立ち上がった。
窓は開かなかった。
その代わりに、窓辺から少女の姿が消えて、しばらくすると、翼の家の玄関の戸が、音を立てないようにそっと開いた。
エリが、寝間着の上に薄いカーディガンを羽織って、庭の飛び石を渡ってきた。
裸足に、白鳥のものらしい大きなサンダルをつっかけていた。
胸には、今夜も、写真立てが抱かれていた。
エリは、門の内側で足を止めた。
門を挟んで、二人は向かい合った。
窓と塀を隔てていた昨夜までとは違って、今夜は、手を伸ばせば届く距離だった。
門柱の丸い看板が、街灯の淡い光を受けて、二人の間で小さく揺れていた。
「……テレサ」
「……エーリカ」
互いの名前を呼んだきり、しばらく、どちらも言葉が続かなかった。
夜風が、エリの短い髪と、テレサの赤みがかった金髪を、同じ方向に揺らしていった。
遠くで、踏切の警報機が鳴っていた。
「……あの夜」
先に口を開いたのは、テレサだった。
その声は、ひどく掠れていた。
「一緒に行かなくて、ごめん」
エリは、写真立てを胸に抱いたまま、黙ってテレサの顔を見つめていた。
「あなたが、逃げようって言ってくれたのに。……私、首を横に振った」
「……」
「ここにいれば強くなれる、強くなれば、もう誰にも捨てられないって、思ってた。……だから、あなたが壁を越えていくのを、窓から見てるだけだった」
テレサは、門の格子を、両手で握りしめた。
「次の朝、隣の寝台が空になってて。……私、何も感じないふりをした」
エリの目が、街灯の光の中で、僅かに揺れていた。
「ずっと、責められると思ってた。……もし、どこかで生きてたとしても、あなたは私を恨んでるって」
テレサは、俯いた。
「……ごめん、エーリカ」
しばらく、何の音もしなかった。
やがて、門の格子を握るテレサの手の上に、細い指が、そっと重ねられた。
テレサは、顔を上げた。
エリが、門の内側から手を伸ばして、テレサの手に触れていた。
「……生きててくれて、よかった」
エリの声は、小さかった。
テレサは、言葉を失った。
責められると思っていた。
恨まれていると思っていた。
それなのに、あの夜、自分が見捨てた少女は、門越しにこちらの手を握って、生きていてよかったと言っていた。
「私、ずっと、何も覚えてなかったの」
エリは、テレサの手を握ったまま、静かに続けた。
「名前も、どこから来たのかも。……でも、この前、テレサが名前を呼んでくれて、少しずつ、思い出せるようになった」
「……」
「白い部屋のことも、隣の寝台のことも。……夜中に、テレサが、私の手を握っててくれたことも」
テレサの喉の奥で、何かがつかえた。
覚えていた。
消毒液の匂いのする白い部屋で、隣の寝台の小さな女の子が、毎晩泣いていた。
泣き声が聞こえるたびに、寝台の間の狭い隙間から手を伸ばして、その手を握っていた。
女の子は、手を握られると、少しずつ泣き止んで、やがて眠った。
そんなことまで、覚えていてくれたのだった。
テレサは、門の格子に額を押しつけた。
それから、長い沈黙の後で、絞り出すように言った。
「……エーリカ。聞いて」
「……うん」
「二週間以内に、ここが、襲われる」
エリの手が、テレサの手の上で、ぴたりと止まった。
「本部から、命令が来たの。……器の子を、二週間以内に連れていけって」
「……奈緒ちゃんを」
「もし、私たちが連れていけなかったら、本部から、別の部隊が来る」
テレサの声が、震えていた。
「回収班っていうの。……あの人たちは、連れていけないものは、連れていけないままにしておかない」
エリの顔から、血の気が引いていった。
「……テレサも、来るの?」
エリが、小さな声で問うた。
テレサは、答えられなかった。
来ない、と言えば、嘘になるかもしれなかった。
団長の命令が下れば、自分は大鎌を背負って、この門の前に立つことになる。
それが、セントラルの強化魔法少女として生きてきた、自分の役目だった。
「……ここから、逃げて」
テレサは、答える代わりに、そう言った。
「エーリカも、器の子も。……どこか、遠くへ」
「テレサ」
「お願い」
テレサは、エリの手を、門の格子越しに強く握り返した。
それから、その手を離して、一歩後ろへ下がった。
「……もう、見送るだけなのは、嫌なの」
テレサは、エリに背を向けると、夜の路地の向こうへ、走り去っていった。
エリは、門の内側に立ち尽くしたまま、遠ざかっていく赤みがかった金髪の背中を、見えなくなるまで見送っていた。
翌朝、エリは、台所で朝食の支度をしていた白鳥の袖を引いた。
白鳥は、エリの顔を見た瞬間に、手にしていた菜箸を置いた。
エリの目は真っ赤に腫れていて、その手は、まだ微かに震えていた。
「……白鳥さん。話が、あるんです」
エリは、昨夜のことを、全て話した。
門の前で、テレサと手を握り合ったこと。
二週間以内に、この家が襲われること。
期限までに器を連れていけなければ、回収班という部隊が来ること。
その部隊は、連れていけないものを、連れていけないままにはしておかないこと。
白鳥は、最後まで黙って聞いていた。
それから、エプロンのポケットから携帯端末を取り出して、ヴィクトリアの番号を呼び出した。
一時間後、翼の家の離れの小さな和室で、ヴィクトリアがエリと向かい合って座っていた。
ヴィクトリアは、エリの話を、一言も口を挟まずに聞いていた。
テレサという名前が出るたびに、膝の上で組んだ指に、僅かに力がこもった。
「……テレサ・ローズ、と言ったわね」
「はい」
ヴィクトリアは、鞄の中から、あの写真立てを取り出した。
欧州支部の、色褪せた集合写真。
ヴィクトリアは、写真を表に向けず、裏板のほうをエリに見せた。
細いペンで、少女たちの名前が書き連ねられていた。
いくつかの名前の横に、小さな赤い丸がつけられている。
セントラルへ「推薦」された子たちの印だった。
ヴィクトリアの指が、名前の一覧を、上から順になぞっていった。
そして、エーリカ・ヴァイスの名前の、二つ上で止まった。
『テレサ・ローズ』
その横にも、赤い丸がついていた。
エリが、息を呑んだ。
「……テレサも、欧州支部に」
「ええ」
ヴィクトリアの声は、静かだった。
「あなたより、一年早く、セントラルに送られた子よ。……私が、剣の構えを教える前に」
ヴィクトリアは、写真の表を返した。
前列から三列目の、真ん中より少し右。
赤みがかった金髪を、少し不揃いに短く切った、十二、三歳ほどの少女が、まっすぐにカメラを見つめていた。
その目つきには、今のテレサの面影が、確かに残っていた。
「……あの子も、私が守れなかった子の一人ね」
ヴィクトリアは、写真の中の少女の顔を、そっと指先でなぞった。
その日の夕方、翼の家の居間に、円卓が緊急に集められた。
ゴースト、緋雪、凛花、白鳥。
ヴィクトリアとルディア、それから真里。
ヴィクトリアは、エリから聞いた話を、要点だけを選んで伝えていった。
二週間という期限。
器の確保という命令。
期限を過ぎれば、本部から回収班が来ること。
「回収班、ですって」
ルディアが、袖で口元を隠したまま、低い声で言った。
「どのような部隊ですの」
「詳しくは、分からないわ」
ヴィクトリアは、首を横に振った。
「ただ、テレサという子は、連れていけないものは、連れていけないままにしておかない部隊だと言ったそうよ」
居間の空気が、冷たく張り詰めた。
「……奈緒さんを、殺すかもしれない、ということですか」
凛花の声が、震えていた。
「奈緒さんだけじゃないわ」
ヴィクトリアは、縁側の向こうの庭を見た。
奈緒が、まひろと詩織と一緒に、抉れた地面に植えたばかりの花の苗に、如雨露で水をやっていた。
「この家にいる、全員よ」
ゴーストは、黙って、庭の奈緒を見つめていた。
「……二週間」
やがて、静かに口を開いた。
「それまでに、備える」
同じ頃、三神家の小さな庭では、澪が花壇の前で手のひらを上に向け、藤の花びらの輪の真ん中に、小さな炎を灯していた。
縁側では、ヴィルヘルミナが湯呑みを傾けている。
学校から帰ってきた玲奈が、鞄を提げたまま、庭の入り口で口を尖らせていた。
「……お姉ちゃんだけ、ずるい」
「何がよ」
「ミナちゃんに、稽古つけてもらってるじゃん」
玲奈は、鞄を縁側に放り出すと、ヴィルヘルミナの前に正座した。
「ミナちゃん、私にも教えて!」
「ほう。おぬしもか」
ヴィルヘルミナは、湯呑みを置いて、玲奈の顔をしげしげと眺めた。
「風じゃったな、おぬしは」
「うん!」
「ちょいと、手のひらで風を出してみい」
玲奈は、勢いよく右手を前に突き出した。
手のひらから、一筋の風が、まっすぐに吹き出した。
縁側の前の物干し竿に掛かっていた洗濯物が、一斉に横になびいて、ぱたぱたと音を立てた。
ヴィルヘルミナは、しばらく、その風を黙って眺めていた。
澪の時のように、目を細めることはなかった。
ただ、穏やかに、湯呑みをまた口に運んだ。
「……ええ風じゃ」
「ほんと!?」
「まっすぐで、ええ風じゃ。……余計なことは、教えんほうがええ」
玲奈の顔が、みるみる曇った。
「えー、それって、才能ないってこと?」
「違う、違う」
ヴィルヘルミナは、笑いながら首を横に振った。
「まっすぐなものは、まっすぐなままが、一番強いんじゃよ。……ひねくれた稽古なんぞ、させたら、もったいない」
「……ほんとに、褒めてる?」
「褒めとるとも」
玲奈は、褒められたのかどうか、しばらく首を傾げて考えていたが、やがて嬉しそうに立ち上がると、物干し竿の前に駆けていって、まっすぐな風で、まだ湿っていた洗濯物を乾かし始めた。
その夜、町外れの河川敷の中州は、いつものように白い霧に包まれていた。
ゴーストは、砂利の上に立って、足元に右の掌をかざしていた。
掌から落ちた闇が、砂利の上で揺らめき、消えずに留まって、ゴーストの足元に黒い影を作った。
初めて指一本を沈めた夜から、まだ半月も経っていなかった。
影は、今では、ゴーストの身体がすっぽり収まるほどの大きさになっていた。
ゴーストは、深く息を吸った。
それから、自分の闇で作った影の中へ、ゆっくりと身体を沈めていった。
足首。膝。腰。胸。肩。
そして、頭の先まで。
ゴーストの全身が、自分で作った影の中に、初めて沈みきった。
だが、それは、ほんの一瞬だった。
次の瞬間、影が大きく揺らいで、ゴーストの身体は、弾き出されるように砂利の上に転がり出ていた。
「……っ、はあ……っ」
ゴーストは、砂利の上に手をついて、肩で息をした。
「全身、沈んだのう」
中州の端で、ヴィルヘルミナが杖を突いて立っていた。
「……一瞬だけ、です」
「一瞬でも、沈んだことに変わりはない」
ヴィルヘルミナは、杖を突きながら、ゴーストのほうへ歩いてきた。
「二週間、と言うたな」
「……はい」
ヴィルヘルミナは、ゴーストの足元の、まだ消えきらずに揺らめいている影を見下ろした。
「それまでに、その一瞬を、三つ数える間に延ばせ」
ゴーストは、顔を上げた。
「三つ数える間、自分の影に潜っていられれば、どこからでも、どこへでも行ける。……誰かが危ない時に、間に合う」
ゴーストは、しばらく黙って、師匠の顔を見つめていた。
それから、また立ち上がって、足元に掌をかざした。
同じ頃、都心の高層ホテルの最上階の廊下を、セルゲイは一人で歩いていた。
テレサの部屋の扉の前で、足を止める。
扉の下の隙間からは、今夜も、灯りが漏れていなかった。
セルゲイは、しばらくその扉を見つめていた。
それから、自分の部屋に戻ると、ハンガーに掛けていた黒いロングコートを手に取って、袖を通した。
机の引き出しから、黒い手帳を取り出して、内ポケットにしまう。
ブラインドを下ろしたままの窓の前を通り過ぎて、セルゲイは、静かに部屋を出ていった。




