第三百二十三話
商店街の外れの小さな公園で、ヴィルヘルミナは、ベンチに腰を下ろしてみたらし団子を頬張っていた。
昼下がりの公園には、ブランコで遊ぶ子供たちの声と、鳩に餌をやる老人の姿と、ベンチの脇の藤棚から零れる淡い紫の花の匂いがあった。
桜はもうすっかり散ってしまって、枝には若葉が茂り始めている。
ヴィルヘルミナは、ヤオヨシの隣の和菓子屋で買った三本の団子のうち、二本目の最後の一つを口に運びながら、藤の花を見上げて目を細めていた。
ベンチの反対側の端に、誰かが腰を下ろした気配がした。
ヴィルヘルミナは、そちらを見なかった。
団子の串を指先でくるりと回してから、三本目の包みを開けた。
「……ええ天気じゃのう」
「そうだな」
低い、訛りのある日本語だった。
ベンチの反対側の端に、黒いロングコートの背の高い男が座っていた。
短く刈り込んだ灰色の髪と、右の頬に斜めに走る古い傷跡があり、手には自動販売機で買ったらしい缶コーヒーを一本だけ持っていた。
セルゲイ・ベレンコフだった。
公園の入り口の、生け垣の陰には、真っ赤なマフラーを巻いた白い短髪の少女が一人、両手をパーカーのポケットに突っ込んで立っていた。
フラウ・ミーヴェは、昨夜土嚢の山に叩きつけられたせいか、少しだけ背中を庇うような立ち方をしていた。
「団子は、好きかの」
ヴィルヘルミナは、三本目の包みをベンチの真ん中に置いた。
「甘いものは、あまり食べない」
「もったいないのう。……最近の若い者は、これじゃからいかん」
「私は、若くない」
「わしから見れば、十分若いわい」
セルゲイは、缶コーヒーの蓋を開けて一口飲むと、ベンチの真ん中に置かれた団子の包みを、しばらく黙って見下ろしていた。
「……ヘクセン・ツィルケルの、ヴィルヘルミナ・クロイツだな」
「ほう。わしの名前を知っとるとは、物知りじゃのう」
「結社の魔女の名前は、セントラルの資料にいくつか載っている。……顔写真は、八十年前のものだったが」
「八十年前と、変わっとらんじゃろう」
「変わっていない」
セルゲイは、淡々と答えた。
「それが、一番恐ろしい」
ヴィルヘルミナは、喉の奥で小さく笑った。
ブランコの子供たちが、歓声を上げて高く漕いでいた。
鳩が、老人の撒いたパン屑に群がって、羽音を立てている。
ベンチの両端に座る二人の周りだけ、その賑やかさから、ほんの少しだけ切り離されているようだった。
「単刀直入に聞く」
セルゲイが、缶コーヒーを膝の上に置いた。
「黒いドレスを、鍛えているのは、あなたか」
ヴィルヘルミナは、三本目の団子の串を、指先でつまみ上げた。
「黒いドレスとは、テレビでやっとった、あの娘のことかの」
「そうだ」
「わしは、観光客じゃよ」
ヴィルヘルミナは、団子を一つ口に入れて、ゆっくりと噛んだ。
「浅草で団子を食うて、鎌倉で大仏を見て、京都の寺を回るつもりが、花見の季節で宿が取れんようになってのう。……親切な家に、居候させてもろうとる」
「三神家だな」
「ようご存じで」
「あの家の姉が、白百合の隊員だ。……炎の」
「澪のことかの」
ヴィルヘルミナは、あっさりと名前を口にした。
「あの子の稽古なら、見とるぞ」
セルゲイの目が、僅かに細くなった。
「……稽古を」
「居候の身じゃからの。家事の手伝いと、ちょっとした稽古くらいは、恩返しにせんといかん」
ヴィルヘルミナは、団子の串を指先で揺らしながら、藤の花を見上げた。
「赤い鎌の娘に、炎を溶かされたと泣きついてきてのう。……炎の絞り方くらいなら、見てやっとる。毎日、庭で花びらを回させとるよ」
「花びらを」
「年寄りの稽古は、地味なもんじゃ」
セルゲイは、しばらく黙っていた。
それは、確かめようと思えば確かめられることだった。
三神家の庭で、白百合の炎の娘が、居候の魔女の前で何かの稽古をしている姿は、ドローンの映像にも何度か映り込んでいた。
本当のことだった。
「それ以外は」
セルゲイが、低い声で問うた。
「それ以外は、何もしとらん」
ヴィルヘルミナは、三本目の団子の最後の一つを口に運んだ。
「観光して、団子を食うて、居候の家の草をむしって、炎の娘に花びらを回させとるだけじゃ」
「……黒いドレスは、あなたと河川敷で戦った後、別人のように強くなった」
「ほう。そうなのか」
「影のない場所に影を作り、炎と氷を一本の剣に重ね、断光を一発も掠らせずに躱した」
「ええ娘じゃのう」
ヴィルヘルミナは、心底感心したように頷いた。
「一度負けて、悔しゅうて、自分で考えたんじゃろう。……若い者は、伸びるのが早い」
セルゲイは、魔女の横顔を見つめていた。
嘘をついている人間の顔を、何十年も見てきた。
視線の泳ぎ方、呼吸の乱れ、指先の小さな震え、言葉と言葉の間に生まれる、ほんの僅かな間。
どんなに訓練された工作員でも、嘘をつけば、どこかに必ず痕跡が残る。
だが、目の前の魔女の横顔には、何の痕跡もなかった。
視線は藤の花に向けられたまま揺らがず、呼吸はゆったりと穏やかで、団子の串を持つ指先は、少しも震えていなかった。
(……嘘を、ついていない)
セルゲイは、そう判断した。
嘘はついていない。
だが、全てを話しているわけでもない。
百年を生きた魔女は、本当のことだけを並べて、肝心なことを、その間にきれいに隠していた。
「……あなたは、何者の味方だ」
セルゲイが、最後に問うた。
ヴィルヘルミナは、空になった団子の串を三本、包み紙の中にきちんと揃えてしまうと、ようやくセルゲイのほうへ顔を向けた。
可憐な少女の顔の中で、その目だけが、ひどく古かった。
「わしは、わしの味方じゃよ」
ヴィルヘルミナは、穏やかに言った。
「それと、わしが気に入った者の味方じゃ」
「……」
「あの家は、ええ匂いがする。……味噌汁と、洗濯物と、日向の匂いじゃ」
ヴィルヘルミナは、セルゲイの目を、まっすぐに見つめた。
「あの家に、手を出すでないぞ」
その声は、少しも大きくなかった。
それなのに、藤棚の下の空気が、一瞬だけ、ひどく重くなった。
生け垣の陰で、フラウの肩が小さく跳ね、ポケットの中の手が、思わず拳を握り込んでいた。
セルゲイは、魔女の目から、視線を逸らさなかった。
「……覚えておこう」
「ええ子じゃ」
ヴィルヘルミナは、ふっと表情を緩めて、また年寄りくさい笑みを浮かべた。
それから、ケープのポケットから、包み紙の飴を一つ取り出して、ベンチの真ん中に置いた。
「ほれ。お駄賃じゃ」
「……甘いものは、食べないと言った」
「なら、あの娘にやればええ」
ヴィルヘルミナは、生け垣の陰のフラウのほうを、顎で示した。
「背中、痛そうじゃからの。……甘いものでも舐めて、休ませてやれ」
セルゲイは、飴を見下ろしたまま、何も言わなかった。
ヴィルヘルミナは、ベンチから立ち上がり、ケープの裾を払うと、藤棚の下をゆっくりと歩き出した。
数歩進んだところで、ふと足を止めて、振り返らずに言った。
「……おぬし、雷に、目が行くのう」
セルゲイの指が、缶コーヒーの上で止まった。
「昔、雷を使う誰かを、ずっと見とったんじゃろう」
「……」
「目の奥に、その残り香がある」
ヴィルヘルミナは、それだけ言って、また歩き出した。
藤の花の淡い紫の向こうに、小柄な少女の背中が遠ざかっていき、やがて商店街の人混みの中に溶けて見えなくなった。
セルゲイは、ベンチに座ったまま、しばらく動かなかった。
生け垣の陰から、フラウが歩み寄ってきて、ベンチの前に立った。
「……団長」
「何だ」
「……分からなかった」
フラウは、魔女が去っていった方角を見つめたまま、ぽつりと言った。
「あの人、何を考えてるのか。……全然、分からなかった」
「私もだ」
セルゲイは、ベンチの上の飴を摘み上げると、フラウの手のひらに乗せた。
「嘘は、ついていなかった」
「……なら、本当のことを、言ってたの?」
「本当のことしか、言っていなかった」
セルゲイは、缶コーヒーを飲み干して、立ち上がった。
「だが、全部を言ったわけではない。……あれは、本当のことを並べて、その隙間に、言いたくないことを隠す話し方だ」
フラウは、手のひらの飴を、じっと見下ろしていた。
それから、包み紙を開けて、飴を口に放り込んだ。
「……甘い」
「そうか」
「……背中、少し、楽になった気がする」
「気のせいだ」
セルゲイは、コートの襟を立てて、公園の出口へ歩き出した。
その足取りは、いつもと変わらず一定だったが、右手だけが、コートのポケットの中で、固く握り込まれていた。
——昔、雷を使う誰かを、ずっと見とったんじゃろう。
欧州の、石造りの古い訓練場。
プラチナブロンドの髪を隙なく結い上げた若い女が、指先に紫電を灯して、まっすぐにこちらを睨んでいた。
その女の背中を、自分はずっと、後ろから見ていた。
セルゲイは、その記憶を、ポケットの中の拳ごと、きつく握り潰した。
その日の夕方、三神家の小さな庭では、澪が花壇の前に立って、右の手のひらを上に向けていた。
稽古を始めて、一週間が経っていた。
手のひらの上では、桜の花びらの代わりに、藤の花びらが五枚、淡い紫の輪を描いてくるくると回っていた。
そして今日は、その輪の真ん中に、指先ほどの小さな炎が、一つだけ灯っていた。
花びらは、燃えていなかった。
炎の周りの空気だけが、炎を支えるように静かに流れていて、花びらは、その流れの外側を、炎に触れずに回り続けていた。
「……ほう」
縁側で、帰ってきたばかりのヴィルヘルミナが、ケープを脱ぎながら目を細めた。
「炎を、空気の籠に入れたか。……教えとらんのに、ようやるわい」
「勝手にできたのよ」
澪は、手のひらの上の小さな炎と花びらを見つめたまま、ぶっきらぼうに答えた。
「花びらを回してたら、なんとなく、炎を真ん中に置けそうな気がして」
「ええ勘じゃ」
ヴィルヘルミナは、縁側に腰を下ろした。
「その籠の空気を、外から断たれたら、炎はどうなる」
「……消える?」
「そうじゃ。……じゃが、籠の空気を、おぬしが握っとる限り、外から何を浴びせられても、炎は消えん。溶かされもせん」
澪の手のひらの上で、炎が、僅かに揺れた。
「……赤い鎌の子の、溶解も?」
「溶解は、炎に触れて、炎を溶かすんじゃろう」
ヴィルヘルミナは、湯呑みを手に取った。
「炎に触れる前に、籠の空気が邪魔をすれば、どうなるかのう」
澪は、しばらく黙って、手のひらの上の炎を見つめていた。
それから、小さく息を吐いて、手のひらを握った。
炎と花びらが、ふっと消えた。
「……明日も、やるわ」
「ほう。毎日、弱音を吐いとった娘が」
「吐いてないわよ」
澪は、そっぽを向いて、家の中に戻っていった。
台所の窓の向こうで、零が、夕飯の支度をしながら、その一部始終を見ていた。
姉が家の中に入っていったのを確かめてから、零は手を拭いて、縁側に出ていった。
「……師匠」
「なんじゃ」
「今日、どこに行ってたんですか」
「公園で、団子を食うとった」
ヴィルヘルミナは、湯呑みを傾けながら、あっさりと答えた。
「……誰かと、会いましたか」
ヴィルヘルミナは、少しだけ目を細めて、零の顔を見上げた。
「傷のある男と、ベンチで並んで座った。……観光の話をしただけじゃよ」
零の手が、エプロンの裾を握りしめた。
「……何か、聞かれたんですか」
「黒いドレスを鍛えとるのは、わしか、とな」
零の顔から、血の気が引いた。
ヴィルヘルミナは、湯呑みを膝の上に置いて、穏やかに笑った。
「観光客じゃと、答えておいた。……澪の稽古は見とるが、それ以外は何もしとらん、とな」
「……」
「嘘は、一つも言うとらんぞ」
ヴィルヘルミナは、零の顔を見上げたまま、目を細めた。
「わしが中州で稽古をつけとるのは、黒いドレスじゃなく、この家の、弁当の上手な息子じゃからの」
零は、しばらく何も言えなかった。
それから、深く息を吐いて、縁側の柱にもたれた。
「……師匠、本当に、嘘はついてないんですね」
「年寄りは、嘘が下手なんじゃ」
ヴィルヘルミナは、また湯呑みを口に運んだ。
「本当のことを、言う順番を選んどるだけじゃよ」
夕暮れの空の向こうで、隣の洋館の窓に、灯りが一つ点いた。
ヴィルヘルミナは、その灯りを、しばらく黙って見つめていた。
「……あの男、雷に、弱いのう」
「え?」
「なんでもない。独り言じゃ」
その夜、明け方近く。
都心の高層ホテルの、最上階の廊下で、セルゲイは、壁に背を預けて立っていた。
廊下の奥の、エレベーターの扉が静かに開いて、一人の少女が降りてきた。
赤みがかった金髪を高く結い上げ、首に真っ赤なマフラーを巻いていた。
背中には、何も背負っていなかった。
テレサ・ローズは、廊下の壁にもたれて立つ団長の姿を見て、足を止めた。
「……団長」
「どこへ、行っていた」
セルゲイの声は、静かだった。
テレサは、しばらく黙っていた。
「……散歩です」
「何晩も続けて、大鎌を置いて、か」
テレサの肩が、僅かに強張った。
セルゲイは、それ以上は何も聞かなかった。
壁から背を離して、テレサの横を通り過ぎ、自分の部屋の扉に手をかけた。
「明日の朝は、七時に集合だ」
「……はい」
「遅れるな」
扉が、静かに閉まった。
テレサは、廊下の真ん中に立ったまま、しばらく動けなかった。
部屋に戻ったセルゲイは、ブラインドを下ろしたままの窓の前を通り過ぎて、机の上の黒い手帳を開いた。
几帳面な字が、何ページにもわたって並んでいる。
黒いドレス。魔女。雷の女。器の子。星監の総帥。福音の鐘の教祖。
三神。
セルゲイは、新しいページを開くと、そこに一行だけを書き記した。
『テレサ:夜間不在、複数夜。大鎌を持たず』
ペンを置いて、その一行を、長い間見つめていた。
それから、手帳を閉じて、机の引き出しの一番奥にしまった。




