第三百二十二話
郊外の演習場の入り口に協会の公用車が三台並んで停まると、投光器の白い光が、だだっ広い土のグラウンドを夜の底から照らし出した。
かつては自衛隊の訓練にも使われていたという広い演習場で、グラウンドの四隅には背の高い鉄塔が立ち、その上に据えられた投光器が、真昼のような光を地面に落としていた。
端のほうには、古い土嚢が腰の高さほどに積み上げられ、錆びた鉄骨の障害物がいくつか、雑草の中に半分埋もれている。
公用車から降りてきたのは、協会の立会人の男たちが三人と、測定を受ける周防凛花だった。
その後ろから、船戸真紀奈、湊春華、佐伯美羽の三人が、凛花の同僚として見届けに来ていた。
上層部からは、余計な口出しをしないようにと言い含められていたが、三人とも、凛花を一人で行かせるつもりはなかった。
グラウンドの反対側には、すでにセントラルの一団が待っていた。
白衣の研究員が数名、折り畳みの机の上にノートパソコンと計測機材を並べていて、その前に、真っ赤なマフラーを巻いた少女が二人立っていた。
栗色の髪のアイシャ・エインズワースと、白い短髪のフラウ・ミーヴェである。
「……一人、足りないわね」
春華が、眼鏡の奥の目を細めて呟いた。
白百合の測定の日にも、協会の測定の日にも、あの二人の隣には、赤みがかった金髪の少女が立っていたはずだった。
「テレサは、今夜は別件なの」
アイシャが、春華の視線に気づいて、にこやかに手を振った。
「団長も、今夜は来ないわ。……その代わり、空から見てるけど」
春華は、アイシャの指さした先を見上げた。
投光器の光の届かない夜空の高いところに、小さな赤い光が三つ、星のように瞬かずに浮かんでいるのが見えた。
三つの光は、ゆっくりと円を描きながら、演習場の真上を旋回していた。
「……見世物じゃないのよ」
真紀奈が、空を睨みつけて吐き捨てた。
協会の立会人が、手元の書類を読み上げて、測定の開始を告げた。
凛花は、光の剣を手に、グラウンドの中央へと歩み出た。
その前に、アイシャとフラウが、二人並んで立った。
「……二人、ですか」
凛花の問いに、アイシャはにっこりと笑って、肩に担いでいたマスケット銃を下ろした。
「実戦測定だもの。実戦では、相手が一人とは限らないでしょう?」
「ちょっと、待ちなさいよ!」
グラウンドの端から、真紀奈が叫んだ。
「二対一なんて、測定でも何でもないでしょ! 立会人、止めなさいよ!」
協会の立会人の一人が、口を開きかけたが、隣の男に腕を掴まれて、そのまま黙り込んだ。
上層部の判断に逆らえば、自分の立場が危うくなる。
三人の立会人は、気まずそうに書類に目を落として、何も見なかったふりをした。
「……大丈夫です、真紀奈さん」
凛花は、振り返らずに言った。
光の剣を構えると、刃が投光器の光を受けて、白く輝いた。
最初に動いたのは、アイシャだった。
銃身を撫でて断光を込めると、肩に当てて息を止め、引き金を引く。
髪の毛ほどに細い光の線が、一直線に凛花の胸元へ走った。
凛花は、光の剣でそれを受けた。
光と光が触れ合った瞬間、断光が剣の刃の上で僅かに揺らぎ、軌道が逸れた。
同じ光の系統の魔力同士が干渉し合って、断光の鋭さが、ほんの少しだけ鈍ったのだった。
それでも、受けきることはできなかった。
逸れた断光が、凛花の頬を掠めて、背後の土嚢を一つ、真っ二つに断ち割った。
「……へえ。普通は光同士だと、少し逸れるのね、教祖様が異常なだけか」
アイシャが、楽しそうに目を細めた。
その隙に、フラウが凛花の懐へ踏み込んでいた。
岩の籠手を纏った拳が、正面から凛花の胸を狙う。
凛花は、光の剣を縦に構えて、それを真正面から受け止めたが、重い衝撃が剣を伝って腕を痺れさせ、足元の土が深く抉れた。
凛花は、二人を相手に、退かなかった。
断光を剣で逸らし、岩の拳を剣の腹で受け流し、隙を見つけては光の刃を振るって、二人の間合いを崩そうとした。
五分が過ぎ、十分が過ぎても、凛花は崩れなかった。
だが、二人の攻めは、少しずつ凛花を削っていった。
断光が掠めるたびに、凛花の腕や肩に細い傷が増えていく。
フラウの拳を受けるたびに、剣を握る手の痺れが、少しずつ深くなっていく。
グラウンドの端で、美羽が拳を握りしめて前に出かけたが、その袖を、春華が黙って掴んだ。
「春華さん……!」
「今出たら、凛花の測定が無駄になるわ。……それに」
春華は、凛花の背中を見つめたまま、低い声で言った。
「あの二人、凛花を倒しに来たんじゃない。……何かを、待ってる」
十五分が過ぎた頃、フラウの拳が、ついに凛花の剣を弾いた。
光の剣が凛花の手から離れて、グラウンドの土の上に転がった。
凛花は、痺れた腕を押さえたまま、膝をつきかけた。
アイシャが、マスケット銃を構えた。
その時、グラウンドの四隅に立つ鉄塔のうち、一番近い一本が落とす長い影の中で、何かが動いた。
投光器の光がまっすぐに地面を照らす中で、その影だけが、まるで水面のように揺れていた。
揺れた影の中から、漆黒のドレスの少女が、音もなくせり上がってきた。
ゴーストだった。
ゴーストは、膝をつきかけた凛花の隣に立つと、地面に転がった光の剣を拾い上げて、凛花の手に握らせた。
「……ゴースト」
凛花が、掠れた声で呟いた。
グラウンドの端で、協会の立会人たちがざわめいた。
「ひ、非登録対象……!」
「なぜ、ここに……!」
アイシャの目が、大きく見開かれていた。
「……出てきた」
フラウが、無言のまま、岩の籠手を構え直した。
ゴーストは、二人を静かに見下ろした。
「バレバレの情報戦ね」
その声は、演習場の端まで、はっきりと届いた。
アイシャの眉が、ぴくりと動いた。
「三日後と、五日後。……日付を二つ流して、どっちが漏れるか見るつもりだったんでしょう」
「……」
「どっちも、私の耳には届いてたわ」
グラウンドの端で、春華が息を呑んだ。
ゴーストは、夜空に浮かぶ三つの赤い光を、ちらりと見上げた。
「あなたたちの団長にも、伝えておいて」
「……何を」
「ホテルの最上階の、窓際の席。……毎朝、夜明け前に、壁の地図を見てるわね。ピンが、また増えたでしょう」
アイシャの顔から、笑みが消えた。
それは、作り話ではなかった。
皇室の特務部隊の偵察班が、調査団の来日以来、ホテルの向かいのビルから掴み続けていた、本当のことだった。
「……団長のこと、全部、見てたの?」
「さあ。どうかしら」
アイシャは、しばらくゴーストの顔を見つめていたが、やがてマスケット銃を握り直し、その口元に、また笑みを浮かべた。
「……埠頭では、手しか見せてくれなかったものね」
アイシャは、銃身をゆっくりと撫でた。
「今夜は、全部、見せてもらうわ」
フラウが、地面を蹴った。
同時に、アイシャが肩に銃を当てた。
ゴーストは、銃口を見なかった。
——魔法を見るな。人を見よ。肩と、足と、息じゃ。
中州で、毎晩、杖で打たれ続けながら教わった言葉が、頭の中で静かに響いていた。
アイシャの肩が、僅かに沈んだ。
息を吸い込んで、止める直前の、ほんの小さな沈みだった。
ゴーストは、断光が放たれるより先に、半歩だけ横へずれていた。
髪の毛ほどの光が、ゴーストのいた場所の土を、まっすぐに抉っていった。
「……っ」
アイシャは、すぐに次の断光を込めて撃ったが、二発目も、三発目も、四発目も、ゴーストは光が放たれる前に身体をずらし、一発も掠らせなかった。
「どうして……!」
アイシャの声に、初めて焦りが混じった。
ゴーストは、グラウンドの中央へと退いていった。
投光器の光が四方から真上に近い角度で降り注ぐその場所には、影がほとんど落ちていなかった。
アイシャが、それを見て、銃口をゴーストの足元に向けた。
「影がないところなら、沈めないでしょう……!」
ゴーストは、右の掌を、足元にかざした。
掌から落ちた闇が、土の上で揺らめき、消えずに留まって、ゴーストの足元に小さな黒い影を作った。
月明かりとも、投光器の光とも関係のない、ゴースト自身の闇だけで作った影だった。
中州で指二本しか沈められなかった影に、この二晩で、ようやく腰まで届くようになっていた。
ゴーストは、その影の中へ、腰まで沈んだ。
全身を沈めることは、まだできなかったが、それで十分だった。
次の瞬間、ゴーストの上半身は、アイシャの背後の、鉄塔が落とす影の中から浮かび上がっていた。
「——っ!?」
アイシャが振り返るより先に、ゴーストの大剣の腹が、マスケット銃の銃身を横から叩いた。
——ガキィンッ!
銃が、アイシャの手から離れて、土の上を転がっていった。
フラウが、岩の籠手を纏った拳で、正面からゴーストに殴りかかってきた。
ゴーストは、大剣を構え直した。
刃の芯に、氷を。
刃の縁に、炎を。
そして、その二つの間を、闇で隔てる。
工場跡で初めて試した時は、隔てる闇が分厚すぎて、五体で限界を迎えた。
今は違った。
弁当箱の中で、卵焼きとほうれん草を隔てている、紙のように薄い仕切りのように、闇を薄く、薄く延ばしていく。
混ざりさえしなければ、それで十分だった。
大剣が、フラウの岩の拳を、真正面から受け止めた。
芯の氷が、岩の籠手に触れた瞬間、その表面を白く凍りつかせた。
凍って脆くなった岩に、縁の炎が触れると、急激な熱が岩を内側から弾けさせた。
——バキィンッ!
岩の籠手が、粉々に砕け散った。
フラウの目が、見開かれた。
ゴーストは、そのまま大剣を横に振り抜いた。
刃ではなく、大剣の腹が、フラウの胴を正面から捉えた。
フラウの小柄な身体が、宙に浮いた。
そのまま、グラウンドの上を真横に吹き飛ばされて、演習場の端に積み上げられた土嚢の山に、背中から叩きつけられた。
——ドサァッ!
土嚢が崩れて、フラウの身体が、その中に半分埋もれた。
グラウンドに、静寂が落ちた。
ゴーストが姿を現してから、一分も経っていなかった。
アイシャは、土の上に転がった自分の銃を拾い上げると、土嚢の山から這い出してくるフラウを見て、それから、グラウンドの中央に立つゴーストを見つめた。
「……全然、違う」
アイシャの声は、震えていた。
「埠頭の手だけじゃ、何も分からなかった。……こんなに、強いなんて」
「教えてくれる人が、いたのよ」
ゴーストは、大剣を下ろした。
刃の芯の氷と、縁の炎が、薄い闇の仕切りの中で、まだ静かに並んでいた。
工場跡の夜のように、すぐに揺らぎ始めることはなかった。
ゴーストは、凛花の傍らに歩み寄ると、その耳元にだけ聞こえる声で囁いた。
「……五日後は、もう来ないわ」
凛花が顔を上げた時には、ゴーストの身体は、すでに鉄塔の影の中へと沈み始めていた。
漆黒のドレスの裾が、影の中に吸い込まれて消えると、グラウンドには、投光器の白い光と、砕けた岩の破片と、崩れた土嚢の山だけが残された。
グラウンドの端で、真紀奈が、呆然と立ち尽くしていた。
「……あいつ、前より強くなってる」
最初に口を開いたのは、真紀奈だった。
「羽田の時も、アタシたちを子ども扱いしたけど。……あの時は、まだ、何をしてるかは見えたのよ」
真紀奈の声が、僅かに震えていた。
「今のは、見えなかった。いつ剣を振ったのかも、どこから出てきたのかも」
「……影から出てくるの、前は足元の影だけだったよね」
美羽が、震える声で続けた。
「今、影のないところから出てきた。……自分で、影を作ってた」
春華は、眼鏡を押し上げたまま、ゴーストが沈んでいった鉄塔の影を、黙って見つめていた。
「炎と氷を、一本の剣に同時に乗せてたわ」
やがて、春華が静かに口を開いた。
「前は、一つずつ使い分けてたはずよ。……あれは、混ぜてるんじゃない。重ねてるのね」
「重ねてる……?」
「誰かに、教わってるのよ」
春華は、眼鏡の奥の目を細めた。
「あれは、独学で辿り着ける戦い方じゃないわ」
凛花は、手の中の光の剣を握りしめたまま、何も言わなかった。
これまでにも、ゴーストの戦いを間近で見たことは何度もあった。
あの頃のゴーストも強かったが、今夜のゴーストは、戦い方そのものが違っていた。
協会の立会人の一人が、凛花の前に歩み寄ってきた。
「周防君。……なぜ、非登録対象が、君を庇う」
「……存じません」
凛花は、短く答えた。
「存じませんで、済むと思っているのか。協会は、非登録対象の情報提供を求められているんだぞ」
「庇われたのが、凛花のせいなわけないでしょ」
真紀奈が、凛花と立会人の間に割って入った。
「文句があるなら、あの黒いドレスに直接言いなさいよ。……言えるもんならね」
立会人は、何か言い返そうとして口を開きかけたが、さっきの一分間を思い出したのか、そのまま黙り込んで、公用車のほうへ戻っていった。
帰りの車の中で、春華は、窓の外の暗い田畑を眺めながら、隣に座る凛花にだけ聞こえる声で言った。
「……あの黒いドレス、凛花を守りに来たんじゃないわね」
「……え?」
「凛花の後ろにいる、誰かを守りに来たのよ」
凛花は、春華の横顔を見つめた。
「日付が二つ、って言ってたでしょう。三日後と、五日後。……私たちには、三日後しか知らされていなかったわ」
春華は、窓ガラスに映る自分の顔を見つめたまま、続けた。
「五日後の日付を知っていた誰かが、どこかにいる。……あの黒いドレスは、その誰かの代わりに、わざと立会人の前に姿を晒したのよ」
凛花は、何も答えられなかった。
その「誰か」が誰なのか、凛花には分からなかった。
ただ、ゴーストが自分を守り、それと同時に、自分の知らない誰かを守るために、協会の立会人たちの前にわざと姿を見せたのだということだけは、春華の言葉で、なんとなく分かった気がした。
同じ頃、都心の高層ホテルの最上階の一室で、セルゲイ・ベレンコフは、ノートパソコンの画面を身じろぎもせずに見つめていた。
ドローンの映像は、全て記録されていた。
今夜は、白百合の隊員が戦っていなかったから、白百合の情報班が妨害をかけてくることもなかった。
画面の中で、黒いドレスの少女は、断光を一発も掠らせずに躱し、影のない場所に自分で影を作り、炎と氷を一本の剣に重ねて、フラウの籠手を砕いていた。
工場跡の映像では、五体を斬ったところで刃の光が揺らいでいた。
その同じ剣が、今夜は一度も揺らがなかった。
ドローンの集音装置が拾った音声が、映像に重なって流れていた。
協会の眼鏡の娘が、「誰かに、教わってる」と言っていた。
セルゲイは、映像を止めた。
無線機の向こうから、アイシャの報告が届いた。
黒いドレスが、三日後と五日後の両方の日付を知っていたこと。
それから、団長がホテルの窓際で、毎朝夜明け前に地図を見ていることを、知っていたこと。
セルゲイは、椅子から立ち上がって、窓の前に立った。
眼下には、都市の灯りが広がっていた。
向かいのビルの窓が、無数に並んでいる。
そのどれか一つから、この部屋が見られていた。
セルゲイは、窓のブラインドに手をかけると、この国に来てから初めて、それを下ろした。
「……白百合では、なかったか」
低い声が、暗くなった部屋に落ちた。
「黒いドレスが、自分の目と耳で、二つとも拾っていた。……三か所の夜の知らせも、全て、黒いドレスの仕業だ」
セルゲイは、机に戻って、黒い手帳を開いた。
几帳面な字で、新しい一行を書き加える。
『黒いドレスの情報網:正体不明。……我々も、見られている』
それから、もう一行。
『黒いドレス:急速に強くなっている。……魔女が、教えているのか』
ペンを置いた。
三神家に居候する、百年を生きた魔女。
その魔女が、黒いドレスを一夜で倒した。
そして、それから間もなく、黒いドレスは、別人のように強くなった。
セルゲイは、手帳の上の、三神という文字を、長い間見つめていた。
同じ頃、白百合の盾の情報班の解析室では、新実由鶴が、モニターの中のドローンの信号の群れが、演習場の上空からゆっくりと散っていくのを見届けていた。
由鶴は、眼鏡を外して、目頭を押さえると、誰にも聞こえない声で、小さく息を吐いた。
「……助かりました」
ホテルの最上階の、廊下の奥。
セルゲイは、隣の部屋の扉の前に立って、軽くノックをした。
返事は、なかった。
セルゲイは、もう一度ノックをしてから、扉を開けた。
部屋の中は暗く、ベッドは整えられたままで、誰かが眠った形跡はなかった。
壁際には、布に包まれた大鎌が一本、静かに立てかけられていた。
テレサ・ローズの姿は、どこにもなかった。




