第三百二十一話
姫嶋結衣は、一通の通達を読み終えると、眼鏡を外して机の上に置いた。
白百合の盾の会長室には、午後の柔らかな日差しが窓から斜めに差し込んでいて、机の上に置かれた白い紙を、ぼんやりと照らしていた。
協会を経由して届いた、中央魔法技術研究院からの「参考」としての通達である。
白百合の隊員を襲撃した件で正式な抗議文を送ってから、まだ数日しか経っていないにもかかわらず、向こうは何事もなかったかのような丁寧な文面で、次の予定を知らせてきていた。
——近日中に、協会所属・周防凛花の実戦測定を行う。日時は、五日後の夜。白百合の盾におかれては、参考までにご承知おき願いたい。
「……白百合の隊員ではない方の予定を、わざわざ白百合に知らせてくる理由が、分かりません」
結衣は、机の前に立つ新実由鶴に向かって、静かに言った。
「新実さん。この通達の扱いについて、少し調べていただけますか」
「承知いたしました」
由鶴は、通達の写しを受け取って、深く頭を下げた。
情報班の解析室に戻った由鶴は、通達をモニターの脇に置き、協会と白百合の共同調査のために用意された連絡用の掲示板を開いた。
セントラルの調査団が来日してから、協会と白百合の双方が測定の予定を確認できるようにと設けられたもので、互いの組織の予定が一覧になって並んでいる。
由鶴は、協会側の欄を、上から順に目で追っていった。
周防凛花、実戦測定。
その横に記された日付を見た瞬間、由鶴の指が、キーボードの上で止まった。
三日後の夜、と書かれていた。
由鶴は、手元の通達に目を戻した。
白百合に届いた通達には、確かに五日後の夜と書かれている。
同じ人物の、同じ測定についての知らせであるにもかかわらず、協会に渡された日付と、白百合に渡された日付が、二日ずれていた。
由鶴は、しばらく二つの日付を見比べていたが、やがて眼鏡を押し上げて、小さく息を吐いた。
「……カナリア、ですね」
炭鉱で、毒の気配を知らせるために籠に入れて連れていく小鳥のように、わざと違う餌を撒いて、どちらが外に漏れるかを確かめるための仕掛けだった。
もし五日後という日付が、白百合の外の誰かの耳に入れば、漏れたのは白百合からだと、向こうには分かってしまう。
由鶴は、会長室への内線の受話器を取った。
「会長。……同じ通達で、日付だけが違います」
『……日付だけが』
「はい。協会には三日後、白百合には五日後と伝えられています。……情報の流れを、測ろうとしているのだと思います」
受話器の向こうで、結衣はしばらく黙っていた。
『……この前の、三か所の件ですね』
「はい。向こうは、白百合の中から情報が漏れたと考えているのだと思います」
由鶴は、静かに続けた。
「この五日後という日付は、白百合の外には、決して出さないようにいたします」
『お願いします』
結衣の声は、いつもと変わらず穏やかだったが、その奥に、張り詰めたものが混じっていた。
その日の夕方、由鶴は内線で緋雪を解析室に呼んだ。
窓のない部屋に入ってきた緋雪に、由鶴は二つの日付を並べて見せた。
協会の掲示板の三日後と、白百合の通達の五日後。
緋雪は、それを一目見ただけで、何が起きているのかを理解したようだった。
「……緋雪」
由鶴は、椅子に座ったまま、緋雪の顔を見上げた。
「今回は、どなたにも、お伝えにならないでください」
「……」
「五日後という日付が、もし凛花さんの耳に入れば、白百合の中に、外へ情報を流している者がいると、向こうに知られてしまいます」
緋雪は、何も言わずに、由鶴の顔を見つめていた。
由鶴は、それ以上のことを、何も言わなかった。
三か所の襲撃の夜、誰が、どこへ、何を知らせたのか、由鶴は一度も口にしたことがなかったし、今も口にしようとはしなかった。
ただ、眼鏡の奥の目だけが、いつもより少しだけ長く、緋雪を見ていた。
「……分かったわ」
緋雪は、小さく頷いた。
「ありがとう、由鶴」
「職務ですので」
由鶴は、モニターに向き直ったが、その指は、しばらくキーボードの上で動かなかった。
その夜、町外れの河川敷の中州は、いつものように白い霧に包まれていた。
稽古を終えたゴーストが砂利の上に座り込み、肩で息をしている傍らで、ヴィルヘルミナは杖を突いて立ったまま、湯気の立つ水筒の蓋を傾けていた。
今夜の稽古は、自分の闇で作った影に、指二本を沈めるところまで進んでいた。
中州の端で稽古を見守っていた緋雪が、二人のそばに歩み寄ってきたのは、霧の向こうの空が少しずつ白み始めた頃だった。
「……話しておきたいことが、あるの」
緋雪は、由鶴に見せられた二つの日付のことを、順を追って話していった。
協会の掲示板には三日後と書かれ、白百合に届いた通達には五日後と書かれていたこと。
五日後の日付が白百合の外に漏れれば、白百合が疑われること。
由鶴に、誰にも伝えないでほしいと頼まれたこと。
ゴーストは、黙って最後まで聞いていた。
「罠の上に、罠か」
ヴィルヘルミナが、水筒の蓋を傾けながら、感心したように呟いた。
「向こうの団長は、本当に、戦場の人間じゃのう」
「……どっちが本当の日付か、分からない。五日後が本当なら、凛花さんは何も知らないまま狙われる」
緋雪は、膝の上で両手を握りしめていた。
「でも、知らせれば、白百合が疑われる。……会長にも、由鶴にも、これ以上迷惑はかけられない」
ゴーストは、しばらく砂利の上の小さな石を見つめていた。
三か所の襲撃の夜、緋雪は自分の名前を伏せて、ヴィクトリアとルディアと凛花に知らせを送った。
そのせいで、今、白百合が疑われている。
緋雪が誰かを守ろうとするたびに、緋雪自身と、緋雪の居場所が、少しずつ追い詰められていく。
「……なら、疑いを、私に向ければいいわ」
ゴーストが、静かに言うと緋雪が、顔を上げた。
「三日後の夜、協会の測定の場に、私が出ていく」
「……え」
「そこで、五日後の日付も知っていたって、向こうにわざと聞かせる。……向こうが協会と白百合に送った通達を、届く前に二通とも読んでいたのは私だったって思わせるの」
緋雪の目が、見開かれた。
「この前の三か所の知らせも、全部私の仕業だったって、向こうは思うはずよ」
「……あなたが、矢面に立つの?」
「最初から、向こうの狙いは私よ」
ゴーストは、夜明け前の空を見上げた。
「今さら、少し疑いが増えたところで、何も変わらないわ」
緋雪は、何か言い返そうとして、唇を開きかけたが、結局、何も言えずに口を閉じた。
その代わりに、ゴーストの隣に腰を下ろして、肩をそっと寄せた。
ヴィルヘルミナが、水筒の蓋を傾けたまま、喉の奥で小さく笑った。
「罠に、罠を返すか。……ええ弟子じゃのう」
「師匠も、何か言ってくださいよ」
「わしは観光客じゃからの。何も言わん」
ヴィルヘルミナは、水筒の蓋を閉めて、霧の向こうの空を見上げた。
「ただ、一つだけ覚えておけ。……嘘を言う時は、本当のことを一つだけ混ぜるんじゃ。全部が嘘より、そのほうがよう通る」
翌日の午後、魔法少女協会の本部ビルの一室で、凛花は上層部から渡された一枚の書類を見下ろしていた。
三日後の夜、郊外の演習場にて、中央魔法技術研究院による実戦測定を行う。周防凛花は、これに協力すること。
短い文面の下には、協会の上層部の判が押されていた。
白百合が抗議文を送ったことは、協会の中でも噂になっていたが、上層部は国際的な評価を優先して、セントラルとの関係を崩すつもりはないらしかった。
「……三日後、ね」
会議室の長机を挟んで、船戸真紀奈が腕を組んでいた。
その隣で、佐伯美羽が書類を覗き込み、湊春華が眼鏡の奥の目を細めて、通達の文面を一行ずつ確かめている。
「白百合の子たち、この前、何人も襲われたんでしょ。……それで、今度は凛花の番ってわけ」
「測定、って書いてあるけど」
美羽が、不安そうに凛花の袖を引いた。
「あの赤いマフラーの人たち、来るんだよね。……凛花ちゃん、大丈夫?」
「大丈夫です。……協会の立会人も、来てくださるそうですから」
凛花は、穏やかに答えたが、その手は書類の端を、知らず知らずのうちに強く握っていた。
「……でも、変ね」
ずっと黙っていた春華が、通達から顔を上げた。
「日付まで、向こうから丁寧に教えてくるのは、親切すぎるわ」
「親切って」
「白百合の子たちを襲った時は、何の前触れもなかったでしょう。……それが今度は、何日も前から、日付と場所まで知らせてくる」
春華は、眼鏡を押し上げて、通達の紙を机の上に置いた。
「向こうが見たいのは、凛花の測定の数字じゃないのかもしれないわね」
会議室に、短い沈黙が落ちた。
凛花は、何も言えなかった。
三日後に何が起きるのか、凛花には分からなかったし、五日後という日付があることも、まだ知らなかった。
同じ頃、三神家の小さな庭では、澪が花壇の前に立って、右の手のひらを上に向けていた。
ヴィルヘルミナに言いつけられた稽古を始めて、今日で四日目になる。
炎は出さずに、手のひらの周りの空気だけを、そっと集めて回す。
最初の日には一枚しか回らなかった桜の花びらが、三日目には二枚になり、今日は三枚が、澪の手のひらの上で、くるくると輪を描いて回っていた。
「……お姉ちゃん、何してるの?」
学校から帰ってきた玲奈が、鞄を提げたまま庭の入り口で首を傾げていた。
「稽古よ」
「稽古? 花びら、回してるだけじゃん」
玲奈は、姉の手のひらの上を覗き込んで、ぱっと顔を明るくした。
「あ、分かった。新しいダイエット?」
澪の手のひらの上の花びらが、三枚とも、ぱらぱらと地面に落ちた。
「……違うわよ」
「えー、じゃあ何」
「稽古だって言ってるでしょ」
澪に睨まれた玲奈は、肩をすくめて家の中に逃げ込んでいった。
縁側では、ヴィルヘルミナが湯呑みを両手で包んで、日向ぼっこをしていたが、地面に落ちた花びらを見ても、ただ「ほう」と言うだけで、何も教えようとはしなかった。
その日の夜、会社から帰ってきた五郎が、ネクタイを緩めながら庭を覗くと、澪がまだ花壇の前で、手のひらを上に向けて立っていた。
「おお、澪。まだやってるのか」
「……お父さん、邪魔しないで」
「何をしてるんだ、それは」
「稽古」
五郎は、縁側に腰を下ろしていたヴィルヘルミナの隣に座り込むと、娘の真似をして、自分の手のひらを上に向けてみた。
当然、何も起きなかったが、五郎は手のひらを上に向けたまま、真剣な顔でしばらく唸っていた。
「……ミナちゃん。父さんの手には、何も回らんな」
「そりゃあ、そうじゃろう」
「才能がないのか」
「花びらの代わりに、晩酌の徳利と酔いなら、よう回りそうじゃがのう」
台所から、奈々美の笑い声が聞こえてきた。
その夜も、零時を回った頃、翼の家の塀の外の暗い路地に、テレサ・ローズが一人で立っていた。
赤みがかった金髪を高く結い上げ、首に真っ赤なマフラーを巻いていたが、背中には、今夜も何も背負っていなかった。
団長に黙ってこの路地に立つのは、今夜で三晩目になる。
初めての夜は、窓辺の少女と目が合っただけで、何も言えずに立ち去った。
二晩目は、窓の灯りが消えるまで、塀の外で立ち尽くしていた。
今夜も、二階の窓には灯りが一つ点いていて、その窓辺に、色素の薄い髪の少女が座っているのが見えた。
テレサが窓を見上げていると、窓の向こうの少女が、ゆっくりと立ち上がった。
からり、と小さな音がして、窓が開いた。
夜風が、窓辺の少女の短い髪を揺らしていた。
エリは、窓枠に両手をかけて、塀の外の路地を見下ろしていた。
その胸には、今夜も、写真立てが抱かれていた。
二人の間には、塀と、庭と、二階分の高さがあった。
「……テレサ」
窓の上から、エリの声が、小さく降ってきた。
初めて、声として聞こえた名前だった。
テレサの喉の奥で、何かがつかえて、すぐには声が出なかった。
「……エーリカ」
ようやく絞り出したその名前は、自分でも驚くほど掠れていた。
それ以上、言葉は続かなかった。
何を言えばいいのか、二人とも分からなかった。
あの夜、一緒に逃げようと言われて、首を横に振ったこと。
次の朝、空になった隣の寝台を見て、何も感じないふりをしたこと。
言わなければならないことは山ほどあるはずなのに、どれ一つとして、喉から先へ出てこなかった。
エリも、窓枠を握ったまま、黙ってテレサを見下ろしていた。
夜風が、二人の間を吹き抜けていった。
窓と塀を隔てたまま、二人は長い間、ただ互いの顔を見つめていた。
同じ頃、都心の高層ホテルの最上階の一室で、セルゲイ・ベレンコフは、机の上に置いた一枚の紙を見下ろしていた。
紙には、二つの日付が並べて書かれていた。
協会に渡した、三日後の夜。
白百合に渡した、五日後の夜。
セルゲイは、窓の外の夜景に目を移した。
「三日後に、周防凛花が備えるのは、当然だ」
独り言のように、低い声で呟いた。
「問題は、五日後に、周防凛花が何をするかだ」
五日後の夜に、もし凛花が備える素振りを見せれば、白百合から漏れたことになる。
もし何もしなければ、白百合は無関係ということになる。
どちらに転んでも、答えは出るはずだった。
隣の部屋に通じる扉の向こうは、静まり返っていた。
アイシャとフラウの部屋からは、寝息が聞こえていたが、テレサの部屋だけは、今夜も、扉の下から灯りが漏れていなかった。
セルゲイは、その扉を、しばらく黙って見つめていた。




