第三百二十話
一本の菜箸を、両手で握りしめていた。
夜明けの、翼の家の縁側。
庭の向こうの空が、少しずつ白み始めている。
昨夜の騒ぎで抉れた地面には、朝露が溜まって、鈍く光るなか、エリは、縁側の端に座っていた。
寝間着の上に、薄い毛布を一枚羽織って握りしめているのは、昨夜、取り落とした菜箸で拾い上げてから、ずっと手放せずにいた。
一睡も、していなかった。
——エーリカ?
赤みがかった金髪の少女の、掠れた声。
その名前が、耳の奥から離れなかった。
聞き覚えはない。
それなのに、その名前を思い出すたびに、胸の奥で何かが軋む。
白い壁。冷たい寝台。誰かの泣き声。
断片だけが浮かんでは、掴もうとした瞬間に、指の間から零れていく。
背後で、廊下の板が小さく鳴った。
振り返ると、奈緒が立っていた。
寝癖でぼさぼさの黒髪のまま、両手で小さな皿を持っている。
奈緒は、何も言わずにエリの隣に座った。
皿を、エリの膝の横に置く。
昨夜の煮物の残りだった。
里芋と、人参と、鶏肉。
冷えて、味がしっかりと染みている。
「……おばちゃんの」
奈緒が、ぽつりと言った。
「おいしいよ」
エリは、皿を見下ろした。
それから、菜箸で里芋を一つ摘んで、口に運んだ。
甘くて、少しだけしょっぱかった。
噛んでいるうちに、目の奥が熱くなった。
なぜ泣いているのか、自分でも分からなかった。
ただ、冷えた里芋の味が、ひどく優しかった。
奈緒は、何も聞かなかった。
エリの隣で、膝を抱えて、白んでいく空を見上げていた。
同じ日の午後。
翼の家の居間に、円卓の面々が集まっていた。
ゴースト、緋雪、凛花、白鳥。
ヴィクトリアとルディア、それから真里。
縁側の向こうでは、奈緒が庭の抉れた地面に、小さなスコップで土を戻していた。
その隣で、まひろと詩織が手伝っている。
「昨夜の件を、整理しましょう」
ヴィクトリアが、紅茶のカップを置いた。
「私のところには、白い短髪の子が来たわ。……撃退した」
「わたくしのお店には、栗色の髪の子が。……お帰りいただきましたわ」
ルディアが、袖で口元を隠したまま続けた。
「どちらも、事前に分かっておりましたので。万全の態勢で、お迎えできました」
「事前に、ね」
凛花が、小さく呟いた。
ヴィクトリアとルディアは、顔を見合わせた。
「差出人の分からない知らせが、届いたのよ」
ヴィクトリアは、淡々と言った。
「誰かは、存じませんわ。……ですが、助かりました」
ルディアも、同じように言った。
二人とも、緋雪のほうを見なかった。
緋雪は、膝の上で両手を重ねたまま、黙って紅茶を見つめていた。
「……翼の家は」
ゴーストが、凛花のほうを向いた。
「私が戻った時には、もう終わっていました」
凛花は、唇を噛んだ。
「零時と聞いていたのに、夕方に来たそうです。……私が協会に出ている隙を、突かれました」
「奈緒さんは、無事だったのね」
「はい。……奈緒さんは、つよいおばちゃんが助けてくれた、と言っていました」
居間の空気が、僅かに動いた。
「……つよい、おばちゃん」
ヴィクトリアが、繰り返した。
凛花は、白鳥のほうを見た。
白鳥は、少しだけ言いにくそうに、膝の上で手を組んだ。
「……三神さんの、お母様です」
凛花の目が、見開かれた。
「夕飯の前に、煮物を届けに来てくださって。……隣にいた女性と、二人で」
白鳥は、ゆっくりと続けた。
「庭の様子を見た瞬間に、お母様が、若い姿に変わったんです。……雷を纏って。門の脇の竹箒で、一撃で、あの赤い鎌の子を」
「……三神さんの、お母様が」
凛花の声が、掠れていた。
鰤大根の夕食の夜。
コンビニで、使徒から自分を引き離してくれた人。
湯呑みに茶を注ぎ足しながら、「昔の知り合いに、少し似ていたの」と微笑んでいた人。
あの人が、雷を。
「……知ってるわ」
ゴーストが、静かに言った。
凛花が、振り返った。
「その人のことは、知ってる」
「……」
「でも、詮索しないで」
ゴーストの声は、穏やかだった。
だが、その奥に、触れてはいけないものがあった。
「その人は、自分で選んで、家族と暮らしてる。……昨夜は、小さな女の子が危なかったから、手を伸ばしただけよ」
凛花は、しばらく何も言えなかった。
それから、小さく頷いた。
「……はい」
ヴィクトリアとルディアは、何も言わなかった。
ただ、二人とも、ゴーストの横顔を一瞬だけ見て、すぐに視線を逸らした。
「議題を、変えましょう」
ヴィクトリアが、紅茶のカップを置いた。
「セルゲイは、あの雷を使った女を探し始めるわ。……あの家の守りを、もう一段上げる」
「星監の常駐の方を、増やすということですの?」
「ええ。それから」
ヴィクトリアは、縁側の向こうを見た。
庭で土を戻している奈緒たちの、さらに奥。
廊下の柱の陰に、色素の薄い髪の少女が、一人で座っていた。
「……少しだけ、時間をもらえるかしら。白鳥さん」
夕方。
翼の家の離れの小さな和室で、ヴィクトリアとエリが向かい合って座っていた。
障子越しに、夕日が橙色に差し込んでいる。
卓の上には、湯呑みが二つと、伏せられた写真立てが一つ。
エリは、膝の上で両手を握りしめていた。
朝からずっと持っていた菜箸は、もう手放していた。
「昨夜、あの子に、名前を呼ばれたでしょう」
ヴィクトリアが、静かに言った。
エリの肩が、小さく跳ねた。
「……エーリカ、と」
「はい」
「その名前に、聞き覚えは」
「……ありません」
エリは、首を横に振った。
「でも、聞くと、胸が痛くて」
ヴィクトリアは、卓の上の写真立てに手を伸ばした。
ゆっくりと、表に返す。
色褪せた集合写真だった。
石造りの古い建物の前に、揃いの制服を着た少女たちが三列に並んでいる。
最前列の端に、今よりずっと若いヴィクトリア。
ヴィクトリアは、写真の後列の、一番端を指さした。
他の少女たちより、頭一つ分背が低い女の子。
色素の薄い髪を短く切り、大きすぎる隊服の袖を、何度も折り返している。
カメラのほうを見ずに、足元を見つめていた。
「……この子よ」
エリは、写真を見つめた。
長い間、見つめていた。
「あなたの名前は、エーリカ・ヴァイス」
ヴィクトリアの声は、優しかった。
「星監の、欧州支部にいたの。……私が、剣の構えを教えた子よ」
エリの指が、写真の中の小さな女の子に、そっと触れた。
大きすぎる袖。
足元を見つめる、俯いた顔。
知らない子だった。
それなのに、その袖の折り返し方を、指が覚えていた。
「……エーリカ」
エリは、自分の唇で、その名前を呼んだ。
胸の奥で、何かが、かちりと音を立てた。
白い壁。
冷たい寝台に消毒液の匂い。
夜中に、誰かが泣いている声。
——いや、違う。
泣いていたのは、自分だった。
「……白い、部屋に、いました」
エリの声が、震えた。
「寝台が、二つ、並んでいて。……隣の、寝台に」
エリの指が、写真の端を、なぞった。
写っていない誰かを、探すように。
「赤みがかった、金色の髪の子が、いました」
ヴィクトリアの手が、卓の上で止まった。
「その子に、言ったんです。……一緒に、逃げようって」
エリの目から、涙が一粒、写真の上に落ちた。
「首を、横に、振られました」
「……」
「次の夜、一人で、壁を越えて。……振り返ったら、窓に、あの子がいて」
エリは、写真を胸に抱きしめた。
「……テレサ」
その名前が、離れの小さな和室に、静かに落ちたが、ヴィクトリアは、動かなかった。
テレサ。
昨夜、翼の家を襲った、赤い鎌の少女。
セルゲイが連れてきた、強化魔法少女の一人で、エーリカの、隣の寝台にいた子。
エリは、写真を抱いたまま、身体を折って泣いていた。
声を殺して、肩を震わせて。
ヴィクトリアは、何も言わなかったが、ただ、その小さな背中に、そっと手を置いた。
何年も前、欧州支部の訓練場で、泣いているこの子の背中に、同じように手を置いたことがあったがあの頃と同じ、細い背中だった。
同じ日の夜。
三神家の縁側で、ヴィルヘルミナが湯呑みを傾けていた。
春の夜の空気は、もう冬の冷たさを失って庭の花壇には、草むしりの後に植えた小さな花の苗が、夜風に揺れていた。
「……ちょっと」
背後から、声がした。
振り返ると、澪が立っていた。
風呂上がりらしく、長い黒髪を肩に流し、腕を組んで、縁側の端から、ヴィルヘルミナを見下ろしていた。
「なんじゃ、姉さん」
「……姉さんって呼ぶの、やめてくれる」
「なら、なんと呼べばええ」
「澪でいいわよ」
澪は、ヴィルヘルミナの隣に、少しだけ距離を空けて腰を下ろした。
しばらく、二人とも黙っていた。
庭の向こうの、隣の洋館の窓に、灯りが一つ点いている。
「……あんたに頼むのは、癪なんだけど」
澪が、前を向いたまま口を開いた。
「ほう」
「もっと強くなりたいの」
ヴィルヘルミナの湯呑みが、口元で止まった。
「この前、負けたの。……赤い鎌の子に。炎を、全部溶かされた」
「……」
「玲奈を庇うのが、精一杯だった」
澪の手が、膝の上で握りしめられていた。
「溶かされない炎が、欲しいの。……あんた、何でもできるんでしょ。家事も、料理も」
「家事と魔法は、別物じゃぞ」
「分かってるわよ」
澪は、ヴィルヘルミナのほうを向いた。
「でも、あんた、ただの観光客じゃないでしょ。……魔力が、底なしなんだから」
ヴィルヘルミナは、しばらく澪の顔を見つめていた。
それから、少しだけ困ったように笑った。
「……わしの弟子は、一人で手一杯じゃ」
「弟子? 誰か、弟子がいるの?」
「……のーこめんとじゃ」
ヴィルヘルミナは、湯呑みを置いた。
「じゃが、炎の絞り方くらいなら、見てやってもええ」
澪の目が、僅かに見開かれた。
「……本当に?」
「明日の昼じゃ。庭でな。……おぬし、休みじゃろう」
「……なんで知ってるのよ」
「この家のことは、だいたい分かる」
台所の流しの前で、零は皿を拭く手を止めて縁側のやり取りを聞いていた。
零は、拭きかけの皿を持ったまま、片手で額を押さえた。
翌日の昼。
三神家の小さな庭に、澪とヴィルヘルミナが向かい合って立っていた。
春の日差しが、花壇の苗を照らしている。
塀の向こうの洋館から、星監の常駐員がちらりとこちらを覗いて、すぐに引っ込んだ。
「まず、絞ってみい」
ヴィルヘルミナは、縁側から持ってきた湯呑みを片手に言った。
「赤い鎌の娘と戦った時、最後にやったんじゃろう。……炎を、一点に」
澪は、右手を前に出した。
変身はしていないが、それでも、指先に、小さな炎が灯った。
澪は、目を閉じた。
あの空き地で、大鎌の柄を焦がした時のことを思い出す。
広げずに。膨らませずに。ただ、一点に。
指先の炎が、細く、白く絞られていった。
「……ほう」
ヴィルヘルミナは、炎を見ていなかった。
澪の手の、周りを見ていた。
炎が絞られていく、その瞬間、澪の手の周りの空気が、静かに動いていた。
庭の空気が、ゆっくりと、炎のほうへ流れ込んでいくのが見えた。
炎が燃えるのに必要な分だけ、正確に。
しかし、澪は、それに気づいていなかった。
風の属性は、持っていない。
それなのに、炎を絞るたびに、無意識に、空気を手繰り寄せている。
「……もう一度じゃ」
ヴィルヘルミナが、湯呑みを縁側に置いた。
「今度は、炎を出さずに」
「……え?」
「その手の周りの空気だけを、集めてみい」
澪は、首を傾げた。
「空気って。……私、炎属性なんだけど」
「ええから、やってみい」
澪は、怪訝な顔のまま、右手のひらを上に向けた。
炎を出さずに。
さっき、炎を絞った時の感覚だけを、思い出す。
手のひらの上の空気が、動いた。
小さな渦が、生まれた。
庭の花壇の脇に落ちていた桜の花びらが一枚、ふわりと浮き上がった。
澪の手のひらの上で、くるくると回っている。
「……え」
澪の目が、丸くなった。
「なに、これ」
花びらは、澪の手のひらの上で、回り続けていた。
「私、炎属性なんだけど。……風なんて、使えないはずなのに」
ヴィルヘルミナは、何も答えなかった。
その顔から、年寄りくさい笑みが消えていた。
(……属性に、縛られとらん)
炎の娘のくせに、炎の後ろにある元素に、手が届いている。
炎が燃えるために必要な空気を、炎を通さずに、直接掴んでいる。
属性ではなく、元素そのものに触れる素質は百年生きて、ほんの数えるほどしか見たことがなかった。
結社の魔女たちが、魔女になる前に、必ず持っていたもの。
それは、魔女の才能だった。
「……ちょっと、何か言いなさいよ」
澪が、花びらを手のひらに乗せたまま、ヴィルヘルミナを睨んだ。
「これ、何なの」
ヴィルヘルミナは、ゆっくりと笑みを取り戻した。
「……おぬしの炎は、溶かされんようになる」
「は?」
「属性にこだわらず炎だけで、戦わんようになればな」
「……どういう意味よ」
「そのうち、分かる」
ヴィルヘルミナは、縁側の湯呑みを手に取って、ほうじ茶をすすった。
「今日は、ここまでじゃ。……毎日、その花びらを回す稽古をせい。炎は、出さんでええ」
「炎の稽古じゃなかったの!?」
「炎の稽古じゃよ」
澪は、手のひらの花びらと、ヴィルヘルミナの顔を、交互に見つめていた。
その日の夕方。
学校から帰ってきた零は、台所の窓から庭を見て、足を止めた。
庭の真ん中で、澪が一人、手のひらを上に向けて立って訓練しているのが見えた。
手のひらの上で、桜の花びらが一枚、くるくると回っている。
零は、息を呑んだ。
姉は、炎属性のはずで風は、使えないはずだった。
縁側で、ヴィルヘルミナが茶をすすっていた。
零と、目が合った。
ヴィルヘルミナは、何も言わずに、小さく目を細めた。
その夜。
客間で、ヴィルヘルミナは一人、湯呑みを両手で包み布団の上に正座して、障子越しの月明かりを眺めている。
「……三つの色を持つ弟と」
小さく、呟いた。
「元素に、手の届く姉か」
湯呑みから、湯気が立ち上っていた。
「この家は、ほんに、ええ匂いがするのう」
ヴィルヘルミナは、ほうじ茶をすすった。
「……母親は、雷じゃしの」
同じ頃。
都心の高層ホテルの、最上階の一室。
「白百合の内側から、情報が漏れている」
セルゲイ・ベレンコフが、三人の部下に告げていた。
「誰が流しているか、確かめる」
「どうやって、ですか」
アイシャが、首を傾げた。
「偽の作戦を、流す」
セルゲイは、地図の上の一点を指さした。
「協会を通じて、白百合に情報を渡す。……近いうちに、周防凛花を我々が襲う、とな」
「もし、それが、どこかに漏れたら」
「漏れた先を辿れば、流した者に辿り着く」
セルゲイは、地図から指を離した。
「準備を始める」
テレサは、黙って聞いていた。
その目は、地図ではなく、窓の外の夜空を見ていた。
その夜、零時を回った頃。
翼の家の塀の外の、暗い路地に、一人の少女が立っていた。
赤みがかった金髪を、高く結い上げている。
首に、真っ赤なマフラー。
背中には、何も背負っていなかった。
テレサ・ローズだった。
大鎌は、ホテルに置いてきたし、団長には、何も言わずに出てきた。
テレサは、翼の家の二階を見上げると、窓が一つ、灯りを灯していた。
その窓辺に、色素の薄い髪を、肩の上で短く切り揃えている少女が一人、座っていた。
胸に、何かを抱きしめていた。
写真立てのようだった。
窓の内側と、塀の外側。
二人の目が、合ったがエリは、動かなかった。
テレサも、動かなかった。
夜風が、テレサのマフラーを揺らしていった。
窓の向こうで、エリの唇が、ゆっくりと動いた。
声は、聞こえなかった。
それでも、テレサには、分かった。
——テレサ。
テレサは、塀の外の暗がりに立ったまま、一歩も動けなかった。




