第三百十九話
時計の針が、零時を指した。
白い洋館の裏庭。
手入れの行き届いた芝生の上に、月明かりが白く落ちている。
庭を囲む高い塀の向こうには、隣の三神家の屋根が黒い影になって並んでいるが、二階の窓の明かりは、もう全て消えている。
ヴィクトリアは、裏庭の中央に一人で立っていた。
黒いコートの襟を立て、プラチナブロンドの髪を隙なく結い上げている。
指先に、小さな紫電が灯っていた。
ぱち、ぱち、と、一定の間隔で弾けている。
屋敷の中には、シルヴィアとレイラを置いてきた。
二階の、汐里の部屋の前に。
夕方、翼の家から戻ってきた汐里は、少しだけ疲れた顔をしていた。
先輩に魔力を一撃分渡した、と、事もなげに言っていた。
——今夜は、部屋から出ないで。
ヴィクトリアは、それだけ伝えた。
汐里は、何も聞かずに頷いた。
隣の三神家の縁側に、小さな人影が一つ座っているのが、塀越しに見えた。
浴衣にケープを羽織った、小柄な少女。
湯呑みを両手で包んで、こちらを眺めている。
ヴィクトリアは、その人影から目を逸らした。
観光客は、手を出さない。
それは、分かっていた。
裏庭の塀の上に、小さな影が一つ、音もなく降り立った。
白い短髪。灰色のパーカー。首に、真っ赤なマフラー。
両手を、パーカーのポケットに突っ込んでいる。
フラウ・ミーヴェだった。
「……待ってた」
フラウが、塀の上から、ぽつりと言った。
ヴィクトリアは、紫電を灯したまま、小さく頷いた。
「ええ。待っていたわ」
「……誰に、聞いたの」
「さあ。誰かしら」
フラウは、塀の上から跳び降りた。
芝生の上に着地した瞬間、その両手がポケットから出た。
灰色の岩が、拳から肘までを覆っていく。
岩の籠手だった。
「……測る」
次の瞬間、フラウの姿が消えた。
——ドンッ!
芝生が、抉れた。
フラウの拳が、ヴィクトリアのいた場所の地面を、深く穿っていた。
ヴィクトリアは、もうそこにいなかった。
三歩、横にずれていた。
「速いわね」
ヴィクトリアは、指先の紫電を放った。
雷が、フラウの背中に直撃した。
——バリバリッ!
だが、フラウは倒れなかった。
雷は、フラウの岩の籠手を伝い、そのまま足元の地面へと流れ込んで消えていった。
芝生の上に、焦げた筋が一本走っただけだった。
「……効かない」
フラウが、振り返った。
「土は、雷を、逃がす」
「知っているわ」
ヴィクトリアは、表情を変えなかった。
「翼の家の門の前で、同じことを見たもの」
柊木静の大盾も、同じだった。
雷は、土を伝って、地面に逃げる。
地面に足をつけている限り、この子に雷は通らない。
フラウが、再び踏み込んだ。
岩の拳が、正面から奔る。
ヴィクトリアは、身体を半歩ずらして躱した。
二発目。三発目。
フラウの拳は、一発ごとに芝生を抉り、裏庭の地面に穴を開けていった。
ヴィクトリアは、その全てを、紙一重で躱していた。
躱しながら、フラウの足を見ていた。
踏み込む時。拳を振る時。跳び退る時。
この子は、拳を振るたびに、ほんの僅かに、地面から足が浮く。
全体重を拳に乗せるために、踏み込んだ足が、一瞬だけ地面を離れる。
ほんの、一瞬。
(……そこね)
ヴィクトリアは、躱しながら、指先を空に向けた。
紫電が、夜空へ昇った。
一本ではなかった。
十本。二十本。
細い紫電の糸が、裏庭の上空に、網の目のように張り巡らされていく。
月明かりの下で、紫色の光の網が、静かに揺れていた。
フラウが、空を見上げた。
「……何」
「網よ」
ヴィクトリアは、静かに言った。
「地面に雷を落としても、あなたには通らない。……なら、地面から足が離れた瞬間だけを、狙えばいい」
フラウの目が、僅かに見開かれた。
次の拳を振ろうとして、フラウの身体が止まった。
拳を振れば、足が浮く。
足が浮けば、網が落ちてくる。
フラウは、地面に足を張りつけたまま、拳を構えた。
だが、地面に足をつけたままでは、さっきまでの速さが出ない。
踏み込みの浅い拳を、ヴィクトリアは難なく躱した。
「……っ」
フラウが、跳んだ。
意を決して、全体重を乗せた、渾身の一撃を放つために。
その瞬間、上空の網から、紫電が一本、落ちた。
——バリバリバリッ!
宙に浮いたフラウの身体を、雷が真上から貫いた。
逃げ場がなかった。
足が地面についていない。
雷は、岩の籠手を伝っても、どこにも流れていかなかった。
フラウの全身を、紫色の光が駆け巡った。
「——っ、あ……!」
フラウの身体が、芝生の上に叩きつけられた。
それでも、フラウは立ち上がった。
岩の籠手が、焦げて黒ずんでいる。
灰色のパーカーから、細い煙が上がっていた。
「……まだ」
フラウは、拳を構え直した。
ヴィクトリアは、その拳を見つめていた。
焦げた岩の籠手。
手首から肘にかけて、岩の継ぎ目が、一本だけ白く浮き上がっている。
さっきの雷で、そこだけ、僅かに罅が入っていた。
ヴィクトリアは、指先に、全ての紫電を集めた。
網を解いた。
空に張り巡らせていた紫電が、全て、ヴィクトリアの右手の人差し指の先に収束していく。
小さな、小さな、紫色の点。
だが、その点の周りで、夜の空気が、細かく震えていた。
「……ごめんなさいね」
ヴィクトリアは、穏やかに言った。
「少しだけ、痛いわよ」
指先から、紫電が放たれた。
一本の、細い光。
まっすぐに、フラウの右腕の、岩の継ぎ目へ。
——バキィンッ!
岩の籠手が、継ぎ目から、真っ二つに割れた。
灰色の岩の破片が、芝生の上に散らばる。
フラウの右腕が、剥き出しになった。
フラウは、自分の右腕を見下ろした。
しばらく、何も言わなかった。
「……固く、ない」
ぽつりと、呟いた。
それから、左手の籠手も、ゆっくりと解いた。
岩が、砂のように崩れて、芝生の上に落ちていく。
「……測定、終わり」
フラウは、焦げたパーカーの裾を払って、塀に向かって歩き出した。
塀の上に跳び上がる直前、一度だけ振り返った。
「……総帥。強い」
「ありがとう」
ヴィクトリアは、紫電の消えた指先を、静かに下ろした。
フラウの姿が、塀の向こうへ消えた。
裏庭に、静寂が戻った。
抉れた芝生と、焦げた筋と、散らばった岩の破片。
それ以外は、何も壊れていなかった。
屋敷の窓も、塀も、隣の三神家も。
塀の外の路地に、黒い車が一台、停まっていた。
運転席の窓が、ゆっくりと下りた。
セルゲイ・ベレンコフが、塀越しに裏庭を見上げていた。
「……待っていたな」
ヴィクトリアは、塀に歩み寄った。
塀を挟んで、二人の目が合った。
「隣人の務めよ」
「誰に、聞いた」
「……」
「今夜、零時。三か所。……知っていたのは、我々だけのはずだ」
ヴィクトリアは、何も答えなかった。
ただ、紫の瞳で、元同僚の顔を見下ろしていた。
セルゲイは、しばらく黙っていた。
それから、小さく息を吐いた。
「……昔から、君は、肝心なことは何も言わなかったな」
「あなたもね」
ヴィクトリアは、塀から離れた。
「帰りなさい、セルゲイ。……あなたの子は、少し休ませてあげたほうがいいわ」
セルゲイの窓が、ゆっくりと閉まった。
黒い車が、路地の向こうへ走り去っていった。
隣の三神家の縁側で、小柄な少女が、湯呑みを傾けていた。
「……ほう」
ヴィルヘルミナは、塀越しの裏庭を眺めて、目を細めた。
「星監の娘、やはり、ええ雷じゃのう」
その背後の暗い廊下に、零が立っていた。
物音で目を覚まして、降りてきたのだった。
「……師匠」
「言うたじゃろう。今夜は、おぬしの出番はないと」
ヴィルヘルミナは、振り返らずに茶をすすった。
「おぬしの周りには、ええ大人が多いのう」
同じ時刻。
スーパー「ヤオヨシ」の、裏手の駐車場。
閉店後の駐車場は、静まり返っていた。
店のシャッターは、全て下ろされている。
街灯が一本、アスファルトの上に、白い円を落としていた。
その円の中に、ルディアが立っていた。
緑のエプロンを外し、白い礼装に着替えている。
黄金の長髪を背に流し、袖で口元を隠していた。
駐車場の隅の、配送用のトラックの陰に、真里が控えている。
店の屋根の上には、赤いリボンと青いリボンの双子が、身を伏せていた。
街灯の円の外から、足音が近づいてきた。
栗色の髪。真っ赤なマフラー。
肩に、長いマスケット銃を担いでいる。
アイシャ・エインズワースだった。
「こんばんは、教祖さん」
アイシャは、街灯の円の手前で足を止めた。
「やっぱり、待ってたのね」
「いらっしゃいませ」
ルディアは、袖の陰で、穏やかに微笑んだ。
「本日は、閉店いたしましたけれど」
「お買い物じゃないの」
アイシャは、マスケット銃を肩から下ろした。
「この前、レジで会った時。……あなたの気配、全然分からなかったの。強いのか、弱いのか」
「……」
「だから、確かめに来たの」
アイシャは、銃身を撫でた。
銃身の内側に、白い光が灯った。
「断光。……光を、細く研いだもの。あなたも光の人なんでしょう?」
「ええ。わたくしの光は、神使様の御心をお守りするためのものですわ」
「じゃあ、どっちの光が鋭いか、比べっこね」
——シュッ。
細い光が、走った。
ルディアの頬の横を、髪の毛ほどの光が掠めていく。
背後の配送トラックの荷台に、細い線が一本、まっすぐに引かれた。
ルディアは、動かなかった。
袖の陰で、ゆっくりと、目を細めた。
「……鋭い光ですわね」
「でしょう?」
「ええ。とても、細くて、鋭い」
ルディアは、袖を、口元から下ろした。
その手のひらから、光が溢れ出した。
細い光ではなかった。
柔らかく、温かく、どこまでも広がっていく光だった。
光は、ルディアの足元から湧き上がり、霧のように駐車場全体へ流れ出していく。
アスファルトを覆い、配送トラックを包み、街灯の柱を呑み込み、店のシャッターを白く染めていく。
駐車場が、光の霧に沈んだ。
「……何、これ」
アイシャの声に、初めて戸惑いが混じった。
視界が、白い。
どこを見ても、柔らかな光の粒子が漂っている。
ルディアの姿が、その光の霧の中に溶けて、見えなくなった。
アイシャは、銃を構えた。
霧の中の、さっきまでルディアが立っていた場所へ。
——シュッ。
断光が、走った。
髪の毛ほどに細い光が、霧の中へ突き進む。
だが、光の霧に触れた瞬間、断光は、まっすぐに進まなくなった。
霧の中の、無数の光の粒子に当たって、細い光が散っていく。
右へ。左へ。上へ。
一本の鋭い光が、霧の中で、何十本もの頼りない光の筋に砕けて、ばらばらに散乱していった。
「……っ!?」
「細い光は、鋭いですわ」
霧の中から、ルディアの声がした。
どこから聞こえているのか、分からなかった。
「ですが、細いからこそ、真っ直ぐにしか進めません。……光の中では、光は迷子になりますのよ」
アイシャは、もう一度、撃った。
散った。
もう一度。
散った。
断光が、霧の中で、一度もまっすぐに届かなかった。
何でも断てる光。
鉄も、石も、氷も、空間さえも。
その光が、柔らかな光の霧の中で、ただ散らばっていく。
「……ずるい」
アイシャが、小さく呟いた。
その時、霧の中から、何かが降ってきた。
赤いリボン。
「——えいっ!」
ルカの大鎌の柄が、アイシャの肩を上から叩いた。
アイシャは、身体をひねって、それを銃身で受け止めた。
——ガキンッ!
受け止めた瞬間、背後の霧から、別の気配が来た。
青いリボン。
「……ん」
リリアの双剣の峰が、アイシャの膝の裏を払った。
アイシャの体勢が、崩れた。
崩れたところへ、霧の中から、三つ目の気配が来た。
無表情な、エプロン姿の女。
真里の、拳だった。
アイシャは、マスケット銃の銃床で、辛うじてそれを受けた。
だが、受けた衝撃で、数メートル後ろへ吹き飛ばされた。
アスファルトの上を転がる。
立ち上がった時、アイシャは、霧の真ん中に一人で立っていた。
どこから来るのか、分からない。
霧の中には、四つの気配があった。
だが、どれがどこにいるのか、光に溶けて、何一つ掴めない。
——魔法を見るな。人を見よ。
埠頭の夜、羽衣緋雪が、どこかで教わったと言っていた言葉。
だが、この霧の中では、人そのものが見えなかった。
「……教祖さん」
アイシャは、銃を下ろした。
「降参。……これ以上やったら、本気で撃たなきゃいけなくなる」
「本気で撃っても、迷子になるだけですわ」
霧の中から、ルディアの声がした。
「……でしょうね」
アイシャは、苦笑した。
霧が、ゆっくりと晴れていった。
街灯の白い円の中に、ルディアが立っていた。
袖で、また口元を隠している。
その両脇に、双子が並んでいた。
トラックの陰から、真里が無表情のまま戻ってくる。
アイシャは、マスケット銃を肩に担ぎ直した。
それから、ルディアの顔を、まじまじと見つめた。
「……教祖さん」
「はい」
「全然、ただの店員じゃないじゃない」
「わたくしは、ただの店員ですわ」
ルディアは、袖の陰で、にっこりと微笑んだ。
「昼間は、ですけれど」
アイシャは、しばらく黙っていた。
それから、心底楽しそうに、声を上げて笑った。
「……あはは。羽衣緋雪といい、教祖さんといい、日本は面白い」
アイシャは、ひらりと手を振って、駐車場の外へ歩いていった。
「また、お買い物に来るわね。……今度は、本当に、紅茶を買いに」
「お待ちしておりますわ」
ルディアは、深く頭を下げた。
アイシャの姿が、夜の路地の向こうへ消えた。
ルカが、大鎌を担いだまま、ルディアの袖を引いた。
「ルディア様、かっこよかった!」
「……ん。光霧、すごかった」
「お褒めにあずかり、光栄ですわ」
ルディアは、双子の頭を順に撫でた。
それから、夜空を見上げた。
駐車場の上空に、小さな赤い光が一つ、静止していた。
ルディアは、その光を、袖の陰からじっと見つめた。
「……見ていらしたのね」
同じ頃。
都心の高層ホテルの、最上階の一室。
セルゲイ・ベレンコフは、ノートパソコンの画面を見つめていた。
ドローンの映像だった。
ヤオヨシの駐車場の上空から、光の霧が晴れていく様子を映している。
今夜は、妨害はなかった。
白百合の隊員が戦っていない以上、白百合の情報班が動く理由はない。
だからこそ、全てを見ることができた。
そして、全てを見ても、ほとんど何も分からなかった。
光の霧の中で、何が起きていたのか。
映像には、白い霧しか映っていなかった。
セルゲイは、椅子の背にもたれた。
洋館の裏庭。ヤオヨシの駐車場。
どちらも、待ち伏せされていた。
翼の家だけは、予定を早めたことで、待ち伏せを外せた。
だが、そこには、雷の女が現れた。
「やはり……情報が、漏れている」
セルゲイは、呟いた。
三か所。零時。
知っていたのは、自分と、三人の部下だけのはずだった。
だが、ドローンは飛ばしていた。
三か所の上空に、下見のために。
セルゲイは、目を閉じた。
ドローンの飛び方から、狙いを読む者がいる。
読んだ上で、白百合の外の者に、警告を流す者がいる。
白百合の情報班。
眼鏡をかけた、小柄な少女。
「……また、天敵か」
傷のある頬が、僅かに動いた。
だが、セルゲイは、すぐにその考えを打ち消した。
あの少女は、白百合の隊員を守るためにしか動かない。
白百合の外の者に、自分の名で警告を出すはずがない。
なら、間に誰かがいる。
白百合の内側から、白百合の外へ、名前を伏せて情報を流した誰かが。
セルゲイは、目を開けて、壁の白い紙を見た。
『ヴィクトリア・ローゼンベルグ ?』
『ルディア・ロンディニウム ?』
セルゲイは、ペンを取った。
二つの「?」を、線で消した。
その横に、二重の丸を書いた。
黒いドレスと、魔女の横に書いたのと、同じ二重の丸。
それから、その下に、もう一行を書き加えた。
『雷の女 ?』
ペンを置いた。
脅威は、増える一方だった。
この国に来た時、狙いは、器と黒いドレスの二つだけだった。
今、壁の紙には、二重の丸が四つと、正体の分からない雷が一つ、並んでいる。
「……何なんだ、この国は、世界クラスの魔法少女ばっかりじゃないか」
セルゲイは、窓の外の夜景を見つめた。
同じ頃。
ホテルの、別の部屋。
テレサ・ローズは、ベッドの縁に腰かけて、大鎌の刃を研いでいた。
研ぎ石が、刃の上を滑る。
しゃり、しゃり、と、規則正しい音が、暗い部屋に響いている。
腕には、まだ、竹箒の雷の痺れが残っていた。
研ぎ石を動かす手が、途中で止まった。
——テレサ。
白い壁の部屋。
冷たい寝台が、二つ並んでいた。
隣の寝台で、毎晩、色素の薄い髪の小さな女の子が泣いていた。
——テレサ、一緒に、逃げよう。
あの夜。
女の子は、寝台の上で膝を抱えて、そう言った。
テレサは、首を横に振った。
逃げても、どこにも行く場所はない。
ここにいれば、強くなれる。強くなれば、もう誰にも捨てられない。
そう、思っていた。
次の朝、隣の寝台は、空になっていた。
テレサは、研ぎ石を膝の上に置いた。
大鎌の刃に、自分の顔が映っていた。
「……生きてたんだ」
小さな声だった。
「エーリカ」
暗い部屋の中で、その名前だけが、ひどく大きく響いた。




