第三百十六話
細い光が一筋、夜の埠頭を横切った。
音は、なかった。
髪の毛ほどに細い光の線が、緋雪の頬の横を掠めて、背後へ抜けていった。
一拍、遅れて。
緋雪の背後に積まれたコンテナの鉄の壁に、斜めの線が一本走った。
——ずるり。
コンテナの上半分が、その線に沿って、ゆっくりと滑り落ちた。
鉄の塊が岸壁に落ちて、重い音が夜の埠頭に響き渡る。
緋雪は、振り返らなかった。
振り返らなくても、分かった。
切り口は、鏡のように滑らかだった。
錆びた鉄の壁が、まるで柔らかなバターのように、一筋の光に断たれていた。
頬に、冷たいものが流れていた。
指先で触れる。
血だった。
光は、頬に触れてはいなかった。
掠めた風圧だけで、薄く皮膚が裂けていた。
「……今のは、挨拶よ」
三段に積まれたコンテナの上で、アイシャが銃口を下ろした。
古めかしいマスケット銃の、長い銃身。
その先端から、細い白い煙が一筋、夜風に流れていく。
「断光」
アイシャは、楽しそうに言った。
「光を、細く、細く、研いだの。……髪の毛より細くなるまで」
「……」
「細くすればするほど、光は鋭くなる。触れたものは、何でも切れるわ。鉄でも、石でも、氷でも」
アイシャは、マスケット銃の銃身を、指先でそっと撫でた。
銃身の内側に、白い光が灯った。
次の一発が、装填された。
「この銃は、一発ずつしか撃てないの。……でも、撫でるだけで、次が込められる」
緋雪は、太刀を抜いた。
白い刃が、月明かりを受けて光る。
刃の表面に、薄い霜が這い上がっていく。
「……本気で、来なさい」
緋雪は、静かに言った。
「あなたが本気でないと、私の後ろにいる人たちが、困るわ」
アイシャの目が、きらりと光った。
「……嬉しい」
次の瞬間、アイシャの姿が、コンテナの上から消えた。
——ヒュッ。
風を切る音が、緋雪の右上から聞こえた。
見上げると、隣のコンテナの上に、アイシャが着地していた。
銃口が、もう緋雪を捉えている。
緋雪は、反射的に左手を突き出した。
足元から、氷の壁が立ち上がる。
厚さ三十センチの、透明な壁。
光が、走った。
——シュッ。
氷の壁に、細い線が一本、まっすぐに引かれた。
壁は、その線に沿って、音もなく二つに割れた。
割れ目の向こうから、光の線がそのまま緋雪の肩へ届く。
「——っ!」
緋雪は、身体をひねった。
光が、コートの肩口を掠めた。
布が、すっぱりと断たれて、夜風に舞った。
(……防げない)
氷では、止められない。
どれだけ厚くしても、あの光は、紙を切るように氷を断つ。
なら、躱すしかなかった。
アイシャは、もう次のコンテナに跳び移っていた。
高い位置から、撃ち下ろしてくる。
コンテナの迷路の上を、跳ねるように移動しながら。
一発撃つごとに、位置を変える。
——シュッ。
一射目は、緋雪の足元の地面が、細く抉られ、二射目は、背後のコンテナの扉が、蝶番ごと断たれて傾き、三射は、頭上を、光が掠めた。
髪の毛が、数本、夜風に散った。
緋雪は、コンテナの陰から陰へ、走り続けた。
だが、どこに隠れても、無駄だった。
あの光は、コンテナの鉄の壁ごと、隠れた者を断つ。
壁は、壁の意味をなさなかった。
(……どこから、来る)
光は、速すぎた。
引き金が引かれてから躱していては、間に合わない。
銃口が光った瞬間には、もう光は届いている。
——魔法を見るな。
声が、頭の中に響いた。
河川敷の中州で、毎晩聞いていた声。
杖を構えた小柄な魔女が、ゴーストに向かって、繰り返し言っていた言葉。
——人を見よ。肩と、足と、息じゃ。
緋雪は、コンテナの陰で足を止めた。
銃口を、見るのをやめた。
代わりに、アイシャを見た。
コンテナの上に立つ、栗色の髪の少女。
マスケット銃を肩に当て、片目を細めて、狙いを定めている。
その肩が、ほんの僅かに、沈んだ。
息を吸い込んで、止める直前の、ごく小さな沈み。
(——今)
緋雪は、横へ跳んだ。
——シュッ。
光が、緋雪がいた場所の地面を、まっすぐに抉った。
届かなかった。
アイシャが、次のコンテナに跳び移る。
肩に銃を当て狙いを定め息を止める。
緋雪は、また跳んだ。
届かなかった。
次々放たれる光の弾丸を緋雪は、その全てを躱していた。
コンテナの上で、アイシャが銃口を下ろした。
しばらく、黙って緋雪を見下ろしていた。
それから、ゆっくりと、その口元に笑みが広がった。
「……見えてるのね」
アイシャの声が、震えていた。
恐怖ではなかった。
隠しきれない、喜びだった。
「私の、息」
「……」
「撃つ前に、息を止める癖。……団長にも、直せって何度も言われたのに、直らなかったの」
アイシャは、銃身を撫でた。
次の光が、装填される。
「誰かに見抜かれたのは、初めて」
「……教えてもらったのよ」
緋雪は、太刀を構え直した。
「人を見ろって」
「素敵な先生ね」
アイシャは、心底楽しそうに笑った。
「その先生にも、いつか会ってみたいわ」
だが、躱せるだけでは、勝てなかった。
アイシャは、コンテナの上から降りてこない。
高い場所から、撃ち下ろし続ける。
緋雪の太刀が届く距離には、決して近づかない。
このままでは、いずれ集中が切れる。
一発でも躱し損ねれば、終わりだが、距離を、詰めなければならなかった。
しかし、コンテナを駆け上がろうとすれば、その瞬間に撃たれる。
跳び上がる身体では、弾を躱せない。
——時には、音を立てて凍らせい。
もう一つの声が、頭の中に響いた。
——相手の足を止めるのは、氷より先に、音じゃ。
緋雪は、太刀の切っ先を、足元の地面に下ろした。
それから、深く息を吸った。
冷気を、放つ。
地面へではなかった。
周囲を取り囲む、全てのコンテナの鉄の壁へ。
——パキッ。
一つ目のコンテナの壁が、乾いた音を立てて凍りついた。
——パキパキッ。
二つ目。三つ目。
——パキパキパキパキッ!
緋雪の冷気が、迷路のように並んだコンテナの壁を、次々と駆け抜けていった。
鉄の壁が凍りつくたびに、乾いた破裂音が響く。
右から。左から。前から。後ろから。
埠頭中のコンテナが、一斉に鳴り始めた。
静かに凍らせていた氷ではなく、わざと、音を立てる氷だった。
コンテナの上で、アイシャの肩が、跳ねた。
四方から響く破裂音に、反射的に視線が散った。
右を見る。左を見る。後ろを振り返る。
ほんの、一瞬だけ。
その一瞬に、緋雪は地面を蹴っていた。
凍りついたコンテナの壁を、駆け上がる。
鉄の壁に張った氷が、足場になった。
一段目。二段目。三段目。
アイシャが、視線を前に戻した時。
緋雪は、もう、目の前にいた。
「——っ!」
太刀が、横薙ぎに奔った。
アイシャは、マスケット銃の銃身で、それを受け止めた。
——ガキィンッ!
金属と金属がぶつかる、甲高い音が夜の埠頭に響いた。
至近距離で、二人の目が合った。
「……やるじゃない」
アイシャが、歯を食いしばりながら笑った。
「音で、目を逸らさせたのね」
「……教えてもらったのよ」
「その先生、本当に素敵ね」
アイシャは、太刀を受け止めた銃身を、くるりと回した。
銃床が、下から跳ね上がってくるが、緋雪は、身体を反らしてそれを躱した。
アイシャは、マスケット銃を、まるで棒術の棒のように扱っていた。
銃身で受け、銃床で打ち、また銃身で払う。
遠距離だけではなかった。
近接でも、その動きには一分の隙もなかった。
太刀と銃が、コンテナの上で何度もぶつかり合った。
緋雪の氷が、アイシャの足元を凍らせる。
アイシャは、凍った足場を蹴って跳び、空中から銃床を振り下ろす。
緋雪は、太刀の腹でそれを受け、返す刃で銃身を払う。
互角だった。
S級と、S級。
どちらも、決定的な一撃を入れられない。
同じ頃。
都心の高層ホテルの、最上階の一室。
セルゲイ・ベレンコフは、ノートパソコンの画面を見つめていた。
画面は、細かく分割されていた。
埠頭の上空に集めた、十数機のドローンの映像。
コンテナの上で斬り結ぶ二人の少女を、あらゆる角度から映し出している。
「……テレサ。フラウ」
セルゲイは、無線機に向かって言った。
「まだ、動くな」
『了解です。……でも、団長。アイシャが、押されてます』
「押されてはいない。互角だ」
『……』
「黒いドレスが出るまで、待て。……出てこないなら、出てくるまで待つ」
『……了解』
セルゲイは、画面の一つ一つに目を走らせた。
コンテナの影。岸壁の暗がり。倉庫の屋根の上。
黒いドレスは、どこにも映っていなかった。
だが、いるはずだった。
羽衣緋雪が、ここにいるのなら。
同じ頃。
白百合の盾、情報班の解析室。
新実由鶴は、壁一面のモニターの前で、両手を膝の上で握りしめていた。
モニターの一つに、埠頭の上空に集まったドローンの信号が、赤い点の群れとして映っている。
十数機。全てが、一点を囲むように旋回している。
その中心に、羽衣緋雪がいる。
由鶴は、しばらく、その赤い点の群れを見つめていた。
それから、深く息を吸った。
「……白百合の隊員が、許可なく、撮影されています」
由鶴は、誰に言うでもなく、静かに呟いた。
「隊員の安全を守るのは、情報班の職務です」
由鶴の指が、キーボードの上で動き始めた。
「……隊員の保護のため、妨害させていただきます」
ホテルの一室で、セルゲイの画面の一つが、ふっと暗転した。
セルゲイの目が、細くなった。
二つ目の画面が、暗転した。
三つ目。四つ目。
画面の隅に、警告の表示が次々と点灯していく。
『制御信号に干渉』
『映像送信、途絶』
『映像送信、途絶』
十数機のドローンの映像が、一つ、また一つと、黒い画面に変わっていった。
セルゲイは、椅子の背にもたれた。
「……また、君か」
傷のある頬が、僅かに動いた。
第七埠頭。
コンテナの上で、アイシャが大きく後ろへ跳んだ。
隣のコンテナの上に着地する。
緋雪との間に、十メートルほどの距離が開いた。
アイシャは、マスケット銃を肩に当てた。
「……ねえ、羽衣緋雪」
アイシャの声が、少しだけ低くなった。
「このままじゃ、決着がつかないわ」
「……」
「だから、全力でいくわね」
アイシャは、銃身を、両手でゆっくりと撫でた。
一度。二度。三度。
銃口に、光が集まり始めた。
髪の毛ほどの細い光ではなかった。
何本もの細い光が、銃口の先で束ねられていく。
束ねられた光が、さらに研ぎ澄まされていく。
銃口の先の空気が、震え始めた。
光の束の周りで、空間そのものが、細かく軋んでいる。
「……これは、断光の、一番鋭いの」
アイシャの目が、真剣だった。
「空間ごと、断つわ。……躱しても、躱した先ごと、断つ」
緋雪は、背後を見た。
コンテナの壁だった。
左右も、コンテナに塞がれている。
跳べば、宙で断たれる。
逃げ場が、なかった。
「……殺さないって、団長に言われてるの」
アイシャは、銃口を緋雪に向けたまま、言った。
「だから、太刀だけを狙うわ。……動かないでね」
「……」
「動いたら、太刀じゃないところに当たるから」
緋雪は、太刀を構えたまま、動かなかった。
アイシャの肩が、沈んだ。
息を吸い込んで、止める。
引き金が、引かれた。
——その瞬間。
緋雪の足元の、コンテナが落とす影が、揺れた。
影の中から、何かが伸びた。
闇だった。
漆黒の、手の形をした闇。
それが、緋雪の前に、薄い盾のように広がった。
光の束が、闇に触れた。
——断てなかった。
空間ごと断つはずの光が、闇の盾の表面で、ぴたりと止まった。
止まって、そして、滑った。
光の束は、闇の盾の表面を滑るように軌道を逸らされ、斜め上へ跳ね上がった。
夜空へ向かって、白い一筋の光が、まっすぐに抜けていった。
雲が、一つ、細く断たれた。
闇の手は、すぐに影の中へ引っ込んだ。
ほんの、一瞬だった。
緋雪の足元の影は、もう、ただのコンテナの影に戻っていた。
コンテナの上で、アイシャが、銃口を下ろしたまま固まっていた。
その目が、大きく見開かれていた。
「……出て、きた」
アイシャの唇が、震えた。
「……出てきた」
断光は、何でも断てる。
鉄も、石も、氷も、空間さえも。
この銃で断てなかったものは、今まで一つもなかった。
それが、断てなかった。
影の中から伸びた、たった一本の、闇の手に。
アイシャは、しばらく、緋雪の足元の影を見つめていた。
それから、ゆっくりと、マスケット銃を肩から下ろした。
「……今夜は、引き分けね」
アイシャは、笑っていた。
満足そうに。
心の底から、嬉しそうに。
「でも、見られたから。……満足」
緋雪は、太刀を構えたまま、何も答えなかった。
コンテナの影の中から、二つの人影が姿を現した。
赤みがかった金髪の少女と、白い短髪の小柄な少女。
テレサと、フラウだった。
テレサの手が、背中の大鎌の柄にかかっていた。
フラウの拳が、固く握られていた。
二人は、緋雪の足元の影を見た。
そこには、何の気配もなかった。
冷たくて静かな、あの気配は、もうどこにもなかった。
「……いない」
フラウが、ぽつりと呟いた。
「消えた」
テレサは、しばらく影を睨んでいた。
それから、大鎌の柄から、ゆっくりと手を離した。
ホテルの一室で、セルゲイの画面に、ドローンの映像が一つずつ戻ってきた。
妨害が、解除されたのだった。
画面に映っていたのは、コンテナの上に立つ、二人の少女だけだった。
銃を下ろした栗色の髪の少女と、太刀を構えた銀髪の少女。
その周りに、赤みがかった金髪の少女と、白い髪の少女。
黒いドレスは、どこにも映っていなかった。
無線機から、アイシャの声が届いた。
『団長。……いました』
「……」
『影の中から、闇の手が出てきました。私の断光を、逸らしました。……全力の、断光を』
「映像は」
『……ないと思います。ドローン、止まってましたよね』
セルゲイは、しばらく黙っていた。
それから、画面の隅の、妨害の記録を表示した。
発信元の位置が、地図の上に示されていた。
白百合の盾の、本部。
セルゲイは、その一点を、長い間見つめていた。
「……天敵め」
傷のある頬が、僅かに動いた。
怒ってはいなかった。
笑っていた。
同じ頃。
白百合の盾、情報班の解析室。
新実由鶴は、キーボードから手を離して、椅子の背にもたれた。
モニターの中の赤い点の群れが、埠頭の上空から、ゆっくりと散っていくところだった。
由鶴は、眼鏡を外して、目頭を押さえた。
「……間に合って、よかったです」
小さな声だった。
誰も聞いていなかった。
埠頭の、コンテナの影の中。
ゴーストは、影の奥深くに身を沈めたまま、右手を見下ろしていた。
闇の手を伸ばした、右手。
自分で作った影には、まだ指一本しか沈められない。
それでも、影の中から、闇を手の形にして伸ばすことはできた。
ほんの一瞬だけだった。
それでも、あの光の前に、闇を立てることができた。
——肩と、足と、息。
アイシャが息を止めた瞬間を、影の中から見ていた。
だから、間に合った。
ゴーストは、右手を握りしめた。
影の外で、緋雪が太刀を納める音が、小さく聞こえた。




