第三百十五話
閉じた手帳が、机の上に置かれていた。
夜明け前の、高層ホテルの最上階。
カーテンを開け放った窓の向こうで、都市の灯りが一つ、また一つと薄れていく。
セルゲイ・ベレンコフは、窓際の椅子に座ったまま、壁に貼られた都内の地図を見つめていた。
地図の上には、赤いピンが何本も刺さっている。
協会の本部。白百合の本部。郊外の古い日本家屋。
住宅街の、並んだ二軒の家。
それから、昨日、桜の下で一枚のシートを囲んでいた公園。
手帳は、昨夜から一度も開いていなかった。
何を書けばいいのか、分からなかった。
この国に来てから、調べ続けた。
協会と白百合で測定を重ね、ドローンを飛ばし、少年に直接会い、住宅街を車で回った。
分かったことは、一つだけだった。
調べれば調べるほど、分からなくなる。
戦場では、こういうことはなかった。
敵は、地図の上のどこかにいて、地図の上のどこかへ動いた。
動けば、痕跡が残った。痕跡を辿れば、次の動きが読めた。
だが、この国の黒いドレスは、痕跡を残さない。
影から現れて、影へ消える。
そして、その周りには、見えない糸で繋がれたように、説明のつかない者たちが集まっていた。
セルゲイは、椅子から立ち上がった。
隣の部屋に通じる扉を、軽く叩く。
「起きろ。……集まれ」
五分後。
窓際のテーブルを、四人が囲んでいた。
テーブルの上には、冷めかけたコーヒーのカップが四つと、広げられた地図の写し。
アイシャは、寝癖のついた栗色の髪を手櫛で直しながら、まだ眠そうに目をこすっていた。
テレサは、赤みがかった金髪をきっちりと結い上げ終えて、背筋を伸ばして座っていた。
フラウは、パーカーのフードを被ったまま、黙って窓の外を見ていた。
三人とも、団長がこの時間に招集をかける意味を知っていた。
何かを、決めた時だ。
「調査は、ここまでだ」
セルゲイが、静かに言った。
三人の視線が、一斉に団長に向いた。
「見えないものを、見えるところから探してきた。……何も出てこなかった」
「……」
「出てこないなら、向こうから出てきてもらう」
セルゲイは、地図の上に指を置いた。
「記録を洗い直した。黒いドレスが現れるのは、いつも、誰かが危ない時だ」
指が、郊外の古い日本家屋の上で止まる。
「翼の家が襲われた時。三神家の隣が襲われた時。……それから」
指が、白百合の本部の上に移った。
「羽衣緋雪の周りだ」
アイシャの目が、ぱっちりと開いた。
「……羽衣緋雪」
「測定の日から、お前はずっとあの娘を気にしていたな」
「はい」
「手合わせを、申し込め」
セルゲイは、アイシャの顔をまっすぐに見た。
「本気でな。……黒いドレスが、あの娘を危ない目に遭わせたまま、放っておくとは思えん」
アイシャの顔に、ゆっくりと笑みが広がった。
「……いいんですか。本気で」
「殺すな。それだけだ」
「承知しました、団長」
アイシャは、膝の上の布の包みを、愛おしそうに撫でた。
「テレサ、フラウ。お前たちは、アイシャの後ろにつけ。……黒いドレスが出てきた時のためだ」
「了解です」
「……了解」
「ドローンは、今日から二日間、全て地上に降ろす」
「え?」
テレサが、首を傾げた。
「空の目を、閉じるんですか」
「閉じるのではない。……集めるのだ」
セルゲイは、地図の上の、湾岸の一点を指さした。
「当日、全てをここに集める。……それまでは、空に何も飛ばすな」
窓の外で、朝日が都市の輪郭を浮かび上がらせ始めていた。
二日後の夕方。
白百合の盾、情報班の解析室。
窓のない部屋の壁一面に、大小のモニターが並んでいる。
空調の低い唸りと、冷却ファンの回る音だけが、静かに部屋を満たしていた。
新実由鶴は、その真ん中の椅子に座って、眼鏡を押し上げた。
都内の上空の電波の流れを示す図が、映し出されている。
携帯電話の基地局。放送局の送信塔。警察と消防の無線。航空機の通信。
見慣れた光の網だった。
だが、この二日間、その網の中から、一つの線が消えていた。
毎晩、都内の何か所からも、都心の高層ホテルの最上階に集まっていた、細く短い暗号化通信の線。
セントラルの、ドローンの線だった。
「……飛んで、いませんね」
由鶴は、小さく呟いた。
二日前の夜から、ぴたりと止まっている。
一機も、飛んでいない。
由鶴は、端末のキーボードを叩いて、過去の記録を呼び出した。
あの調査団が来日してから、ドローンが一晩でも飛ばなかった日は、一度もなかった。
雨の夜も、風の強い夜も、測定の間だけ控えてほしいと頼んだ日でさえ、どこかで必ず一機は飛んでいた。
「空の目を閉じるのは」
由鶴は、画面を見つめたまま、独りごちた。
「見る必要がなくなった時か。……あるいは、別のどこかに、全てを集めようとしている時、でしょうか」
由鶴は、端末から顔を上げた。
解析室の扉が開いて、緋雪が入ってきた。
夕方の巡回の報告書を、届けに来たところだった。
「由鶴。報告書、ここに置いておくわね」
「羽衣さん」
由鶴は、椅子ごと緋雪のほうへ向き直った。
「少し、よろしいですか」
「……どうしたの」
「セントラルのドローンが、この二日間、一機も飛んでいません」
緋雪の手が、報告書を置きかけたまま止まった。
「……一機も?」
「はい。あの方々が来てから、初めてのことです」
由鶴は、眼鏡の奥の目で、緋雪をまっすぐに見た。
「近いうちに、向こうから何か仕掛けてくると思います。……特に、羽衣さんは、お気をつけください」
「……私?」
「測定の日に、あの栗色の髪の方が、羽衣さんにだけ声をかけていました」
由鶴は、静かに続けた。
「あの方の目は、測る側の目ではありませんでした。……戦いたい人の目でした」
緋雪は、しばらく何も言わなかった。
それから、小さく頷いた。
「……ありがとう、由鶴」
「いえ」
由鶴は、モニターに向き直った。
「会長にも、同じことをお伝えしておきます」
その夜、零時。
町外れの河川敷の中州は、今夜も白い霧に包まれていた。
川面を渡る夜風は、もう冬の冷たさを失っている。
葦の若い緑が、霧の中で、かすかに揺れていた。
霧の内側で、ゴーストは砂利の上にしゃがみ込んでいた。
右の掌を、足元にかざしている。
掌から、闇が、ゆっくりと砂利の上に落ちていく。
闇は、砂利の上で揺らめいた。
薄く、広がりかけて——そして、消えた。
「……っ」
「もう一度じゃ」
中州の端で、ヴィルヘルミナが杖を突いて立っていた。
ゴーストは、もう一度、掌をかざした。
闇を落とす。
揺らめく。
消える。
稽古が始まってから、半月が経っていた。
毎晩、夜明けまで、同じことを繰り返してきた。
朝になれば弁当を五つ詰め、学校で授業を受け、夜になればまたこの中州に来る。
眠る時間は、日に日に削られていった。
それでも、一度も、影にはならなかった。
——影がないなら、作ればええ。
ゴーストは、目を閉じた。
闇を、ただ落とすのではない。
落とした闇が、そこに留まるように。
砂利の上に、自分の影として、根を張るように。
工場跡で、炎と氷を刃の中に収めた時のことを思い出した。
闇を器にした。
器に、形を与えた。
なら、影も。
闇に、形を与えればいい。
ただの靄ではなく、地面に落ちる影という、形を。
ゴーストは、ゆっくりと目を開けた。
掌から、闇を落とす。
闇が、砂利の上に落ちた。
揺らめいた。
消えなかった。
砂利の上に、手のひらほどの大きさの、黒い影が一つ、落ちていた。
月明かりとは、何の関係もない影。
ゴーストの闇だけで作られた、小さな影だった。
「……」
ゴーストは、息を詰めたまま、その影を見下ろしていた。
それから、恐る恐る、右手の人差し指を、影の上に伸ばした。
指先が、影に触れた。
——沈んだ。
指が、影の中に、すうっと吸い込まれていった。
砂利の冷たさではない。
いつも影移動で沈む時の、あの、冷たくて静かな、闇の中の感触。
指一本分だけ、影の中にあった。
「……」
ゴーストは、指を引き抜いた。
影が、ふっと揺らいで、消えた。
「……ほう」
中州の端で、ヴィルヘルミナが目を細めていた。
「指一本、か」
「……はい」
「三か月かかると言うたが」
ヴィルヘルミナは、杖を突いて、ゴーストのほうへ歩いてきた。
「半月で指一本なら、上出来じゃ」
ゴーストは、自分の人差し指を見下ろしていた。
たった、指一本。
身体ごと沈むには、まだ遠い。
それでも、月明かりのない場所でも、影を作れる。
その最初の一歩だった。
「……少しずつ、ですね」
「最初の一歩は、誰でも少しじゃと、言うたじゃろう」
ヴィルヘルミナは、満足そうに頷いた。
それから、中州の反対側を振り返った。
そこに、緋雪が立っていた。
太刀を抜いて、構えたまま、ゴーストの稽古を見守っていた。
「銀髪の娘」
「……はい」
「おぬしにも、一つだけ教えておこう」
緋雪は、目を瞬いた。
ヴィルヘルミナは、杖の先で、緋雪の太刀を指した。
「おぬしの氷は、静かすぎる」
「……静か」
「凍らせる時、音がせん。……音もなく凍らせるのは、ええ技じゃ。じゃが、それだけでは足りん」
ヴィルヘルミナは、杖の石突きで、砂利を軽く叩いた。
——コン。
「時には、音を立てて凍らせい」
「……音を」
「相手の足を止めるのは、氷より先に、音じゃ」
ヴィルヘルミナは、緋雪の顔を見上げた。
「人は、音に驚く。驚けば、足が止まる。……足が止まった一瞬に、氷が届けばええ」
緋雪は、太刀を握り直した。
それから、試しに、足元の砂利に冷気を落とした。
——パキッ。
小さな音がした。
氷が、砂利の上で、乾いた音を立てて弾けた。
「……そうじゃ」
ヴィルヘルミナが、にやりと笑った。
「その音を、覚えておくとええ。……近いうちに、使うかもしれんでな」
翌日の夕方。
白百合の巡回を終えた緋雪は、駅へ向かう歩道を歩いていた。
春の夕暮れが、街を橙色に染めている。
桜はもう、ほとんど散っていた。
歩道の端に、薄紅色の花びらが吹き溜まり、通り過ぎる自転車の風に、ふわりと舞い上がる。
商店街の八百屋の店先には、春キャベツと新玉ねぎが並び始めていた。
帰り道を急ぐ会社員や、塾へ向かう学生たちが、緋雪の横を足早に追い越していく。
駅前の交差点に差しかかった時だった。
「——羽衣緋雪」
声が、した。
緋雪の足が、止まった。
交差点の向こう側の、ガードレールに、一人の少女が腰かけていた。
栗色の髪を、肩の上で切り揃えている。
首に、真っ赤なマフラー。
膝の上に、布で包まれた長い何かを抱えていた。
アイシャ・エインズワースだった。
信号が、青に変わった。
アイシャは、ガードレールから降りて、横断歩道を渡ってきた。
人の流れの中を、まっすぐに。
すれ違う誰も、その少女が膝に抱えていたものの正体に気づかない。
緋雪の目の前で、足を止める。
「こんばんは」
「……こんばんは」
「測定の日に言ったこと、覚えてる?」
アイシャは、にっこりと笑った。
「いつか、あなたとは本気でやってみたい、って」
「……覚えてるわ」
「その、いつかが、今夜なの」
アイシャは、布の包みを軽く叩いた。
中から、硬い金属の音がした。
「今夜、零時。湾岸の、第七埠頭。……あなたと、本気で、やりたいの」
緋雪は、アイシャの顔をじっと見つめていた。
——近いうちに、向こうから何か仕掛けてくると思います。特に、羽衣さんは。
由鶴の言葉が、頭の中で響いた。
「……お断りするわ」
緋雪は、静かに答えた。
「私には、あなたと戦う理由がないもの」
「あら」
アイシャは、少しだけ首を傾げた。
それから、残念そうに眉を下げた。
「そう。……なら、仕方ないわね」
アイシャは、布の包みを抱え直して、踵を返しかけた。
それから、何でもないことのように、振り返らずに言った。
「じゃあ、別の誰かと遊ぶだけよ」
「……」
「炎と風の、姉妹とか」
緋雪の身体が、凍りついた。
炎と風の姉妹。
澪と、玲奈。
「測定の日に見たわ。いい連携だった。……二人がかりなら、少しは楽しめそう」
アイシャは、肩越しに、ちらりと緋雪を見た。
その目は、笑っていた。
だが、冗談を言っている目ではなかった。
「来るか、来ないか。……あなたが決めて」
アイシャは、人混みの中へ歩いていった。
真っ赤なマフラーが、夕暮れの雑踏の中に、ゆっくりと消えていく。
緋雪は、交差点の真ん中に立ち尽くしていた。
信号が、赤に変わった。
車のクラクションが、遠くで鳴った。
その夜、九時。
三神家の二階、零の部屋。
緋雪から電話を受けた零は、そのまま部屋を出て、廊下の奥の客間の襖を叩いた。
「……師匠」
「入れ」
襖を開けると、ヴィルヘルミナが布団の上で茶をすすっていた。
枕元には、杖が一本立てかけられ、畳の上には、読みかけの日本の旅行雑誌が開いたままになっている。
零は、緋雪から聞いた話を、全部伝えた。
アイシャのこと。
湾岸の、第七埠頭。
零時。
来なければ、澪と玲奈を狙う、という言葉。
ヴィルヘルミナは、最後まで黙って聞いていた。
それから、湯呑みを置いて、即答した。
「罠じゃな」
「……」
「銀髪の娘を、餌にしとる。……釣りたいのは、おぬしじゃ」
零は、拳を握りしめた。
「分かってます」
「分かっとるなら、話は早い」
ヴィルヘルミナは、零の顔を見上げた。
「行くなとは言わん。……じゃが、おぬしが出れば、向こうの思う壺じゃ」
「……緋雪さんを、一人では行かせられません」
「じゃろうな」
ヴィルヘルミナは、小さく息を吐いた。
「なら、教えたことを使え」
「……」
「肩と、足と、息。……人を見よ。それから、影がないなら、作れ。指一本でも、ないよりはましじゃ」
ヴィルヘルミナは、また湯呑みを手に取った。
「わしは、観光客じゃからの。……手は、出さんぞ」
零は、深く頭を下げた。
「……ありがとうございます、師匠」
「礼は、帰ってきてから言え」
零が部屋に戻ると、スマートフォンに、緋雪からのメッセージが届いていた。
『一人で行くわ。
あの子は、私と戦いたいだけ。あなたが出てきたら、向こうの思う壺よ。
だから、あなたは、影から見ていて。
本当に危なくなるまで、出てこないで』
零は、しばらく画面を見つめていた。
それから、短く返した。
『分かった。でも、本当に危なくなったら、行く』
すぐに、返事が来た。
『知ってる』
午前零時。
湾岸の、第七埠頭。
夜の海風が、潮の匂いを運んでいた。
積み上げられたコンテナが、迷路のように並んでいる。
錆の浮いた鉄の壁が、月明かりを鈍く跳ね返していた。
遠くの倉庫街の灯りが、黒い海面に、細く揺れていた。
岸壁に打ち寄せる波の音が、一定の間隔で、闇の中に響いている。
冬の終わりに、第三使徒と第九使徒を迎え撃った、あの埠頭だった。
コンテナとコンテナの間の、少し開けた場所に、緋雪が一人で立っていた。
白百合の制服の上に、コートを羽織っている。
腰に、太刀を差していた。
耳の上の、雪の結晶の髪飾りが、月明かりを受けて小さく光っている。
向かいの、三段に積まれたコンテナの一番上に、人影が一つ座っていた。
栗色の髪。真っ赤なマフラー。
アイシャは、膝の上の布の包みを、ゆっくりと解いていった。
中から現れたのは、一挺の長い銃だった。
古めかしい、マスケット銃。
木製の銃床に、銀色の細工が施されている。
長い銃身が、月明かりを受けて、冷たく光った。
「……来てくれたのね」
アイシャが、嬉しそうに言った。
「来ないかと、思ってた」
「来なかったら、あなたが別の誰かのところへ行くんでしょう」
「ええ」
「なら、来るしかないじゃない」
緋雪は、太刀の柄に手をかけた。
コンテナの影の中に、二つの気配があった。
一つは、大きな鎌を背負った、赤みがかった金髪の少女の気配。
もう一つは、何も持たない、小柄な白い髪の少女の気配。
緋雪は、それにも気づいていた。
それから、もう一つ。
足元の、コンテナが落とす影の中に、ほんの僅かに、冷たくて静かな気配があった。
緋雪は、そちらを見なかった。
見れば、気づかれる。
見なくても、そこにいることは分かっていた。
同じ頃。
白百合の盾、情報班の解析室。
新実由鶴は、壁一面のモニターの前で、身を乗り出していた。
二日間、沈黙していた光の線が、一斉に灯っていた。
都内の何か所からも、細く短い暗号化通信の線が伸びていく。
ホテルの最上階ではない。
全ての線が、湾岸の、ただ一点に向かって集まっていく。
第七埠頭。
「……やはり、そうでしたか」
由鶴は、眼鏡を押し上げた。
その指が、僅かに震えていた。
「誘い出し、ですね」




