第三百十一話
朝靄の中で、雑草が一本ずつ抜かれていった。
三神家の小さな庭。
夜明け前の薄青い光の中に、小柄な人影が一つ、しゃがみ込んでいた。
淡い金色の髪を、古風なリボンで結んでいる。
厚手のケープの袖をまくり上げ、白い指先で、花壇の縁に伸びた雑草を根元から丁寧に引き抜いていく。
抜いた草は、庭の隅に、きれいな小山になって積まれていた。
午前五時。
玄関の鈴が、三つ鳴った。
寝癖のついた頭で、五郎が新聞を取りに出てきた。
「……ん?」
五郎の足が、止まった。
庭の真ん中に、居候の少女がしゃがみ込んでいた。
その周りだけ、花壇の土がふかふかに耕されている。
昨日まで伸び放題だった雑草が、一本も残っていなかった。
「おお、おはよう、ミナちゃん」
「おう、おはよう」
ヴィルヘルミナは、しゃがんだまま振り返った。
「年寄りは、朝が早いんじゃ。……じっとしとるのも退屈でのう」
「いやあ、偉いなあ」
五郎は、新聞を脇に挟んだまま、ヴィルヘルミナの隣にしゃがみ込んだ。
「どれ、父さんも手伝うか」
「ほう。ええのう」
「ドクダミは根が深いからな。こうやって、指を土に差し込んで……」
「わかっとる、わかっとる。わしは草むしりには年季が入っとるんじゃ」
二人は、並んで草をむしり始めた。
台所の窓から、その光景が見えていた。
エプロンを締め、卵焼き器を火にかけようとしていた零の手から、菜箸が滑り落ちた。
カラン、と音を立てて、菜箸が床に転がった。
(……父さん)
窓の外で、父と魔女が、並んで草をむしっている。
三か月前、河川敷の中州で、自分の手札を一枚ずつ丁寧にほどいた魔女だった。
その魔女が、父と一緒に、ドクダミの根っこの抜き方で盛り上がっている。
零は、菜箸を拾い上げて、深く息を吐いた。
午前七時。
三神家の食卓は、いつもより一人多かった。
「ミナちゃん、卵焼きはどうだ」
五郎が、身を乗り出してヴィルヘルミナの皿に卵焼きを載せた。
「うちの零の卵焼きは、甘くて旨いんだぞ」
「ほう。……ふむ、ええ甘さじゃのう」
「だろう!」
五郎は、自分のことのように胸を張った。
「今日は、早く帰ってくるからな。縁側で、将棋でも指すか」
「ほう。わしは、強いぞ?」
五郎は、上機嫌で味噌汁をすすった。
「いやあ、なんだか、娘がもう一人増えたみたいだなあ」
食卓の空気が、僅かに冷えた。
五郎の隣に座っていた奈々美が、にこやかに微笑んだまま、そっと手を伸ばした。
その指が、五郎の左耳を、きゅっと摘まんだ。
「——いたっ!?」
「あなた」
奈々美の声は、どこまでも柔らかかった。
「会社、遅れるわよ」
「い、いたた、母さん、耳、耳が」
「ほら、鞄」
奈々美は、五郎の耳を摘まんだまま、空いた手で椅子の脇の鞄を持ち上げた。
それを五郎の胸に押しつける。
「ネクタイは、電車の中で締めなさい」
「ま、まだ味噌汁が」
「帰ってから飲みなさい」
奈々美は、耳を摘まんだまま、五郎を椅子から引き上げた。
そのまま廊下を歩き、玄関まで連れていく。
「い、いってきます……!」
「いってらっしゃい」
玄関の鈴が、三つ、慌ただしく鳴った。
扉が閉まる音がした。
奈々美は、何事もなかったような顔で食卓に戻ってきた。
自分の席に座り、湯呑みを手に取る。
「……さ、みんな、早く食べちゃいなさい」
食卓に、沈黙が落ちた。
玲奈が、口の中の卵焼きを飲み込めないまま固まっていた。
澪は、味噌汁の椀を持ったまま、そっと母から視線を逸らしていた。
ヴィルヘルミナだけが、茶をすすりながら、面白そうに目を細めていた。
「……ええ嫁じゃのう」
「あら、ありがとう」
奈々美は、にっこりと笑った。
食事の後、家族はそれぞれの支度に散っていった。
「じゃあ、お母さん、仕事行ってくるわね」
奈々美が、エプロンを外しながら言った。
「ミナちゃん、お昼は冷蔵庫の中のもの、好きに使っていいからね」
「すまんのう。恩に着る」
「お兄ちゃん、私、先に白百合に寄ってから学校行くね!」
玲奈が、制服のリボンを結びながら玄関へ駆けていく。
途中で、ふと足を止めて、ヴィルヘルミナを振り返った。
「ミナちゃん、昨日の飴、美味しかった!」
「ほう。なら、もう一つやろう」
ヴィルヘルミナは、ケープのポケットから飴を取り出して、玲奈の手に握らせた。
「わあい! いってきまーす!」
玲奈は、飴を握りしめて、上機嫌で出ていった。
居間に、澪が腕を組んで立っていた。
「……私は、今日は休みを取るわ」
「え?」
零が、弁当箱に卵焼きを詰めながら顔を上げた。
「白百合、休むの?」
「有給よ。溜まってるもの」
澪は、そう言いながら、ちらりと縁側のほうを見た。
縁側には、ヴィルヘルミナがちょこんと座って、朝日を浴びながら茶をすすっていた。
澪は、零の傍らに寄って、声を落とした。
「……あの子を、一人で家に置いておけないでしょ」
「……」
「絶対、ただの観光客じゃないわよ、あれ。……魔力が、底なしなの」
零は、何も言えなかった。
姉は、正しかった。
正しすぎて、何も言えなかった。
「……ていうか」
澪は、自分の格好を見下ろした。
寝間着のパジャマのままだった。
朝食の席に、そのまま座っていたのだ。
「着替えてくる」
澪は、そう言い残して、階段を上がっていった。
台所に、零とヴィルヘルミナの二人だけが残った。
零は、弁当箱に黙々とおかずを詰めていた。
だし巻き卵。鮭の塩焼き。ほうれん草の胡麻和え。きんぴらごぼう。
五つの弁当箱が、流しの横に一列に並んでいる。
縁側から、足音が近づいてきた。
ヴィルヘルミナが、湯呑みを持ったまま台所の入り口に立っていた。
零の手元を、しばらく黙って眺めている。
「……手際がええのう」
「毎朝、やってるので」
「ふむ」
ヴィルヘルミナは、流しの横の丸椅子に腰を下ろした。
それから、茶を一口すすって、何でもないことのように言った。
「中州の夜は、楽しかったぞ」
零の手が、止まった。
菜箸の先で摘まんでいた卵焼きが、弁当箱の縁から滑り落ちかけた。
「……のう。闇の娘」
零は、ゆっくりと顔を上げた。
ヴィルヘルミナが、丸椅子の上から、こちらを見ていた。
可憐な少女の顔。
だが、その目だけが、ひどく古かった。
「……何の、ことですか」
「隠さんでもええ」
ヴィルヘルミナは、湯呑みを両手で包んだ。
「その胸の、遮る箱。よう出来とる。……あれがあれば、たいていの者には分からんじゃろう」
「……」
「じゃが、わしは一度、おぬしの三つの色を間近で見た。……同じ屋根の下で三日も寝起きすれば、嫌でも分かる」
零は、何も言えなかった。
否定しても、無駄だった。
この人の前で、嘘は、中州の夜の手札と同じように、一枚ずつほどかれるだけだ。
「……家族には」
「言わん」
ヴィルヘルミナは、あっさりと答えた。
「安心せい。年寄りは、口が堅いんじゃ」
「……」
「それに、わしは、この家が気に入っとる。……荒らす気は、毛頭ない」
零は、長く息を吐いた。
それから、滑り落ちかけた卵焼きを、弁当箱に戻した。
「……それで。何の用ですか」
「話が早うてええのう」
ヴィルヘルミナは、湯呑みを置いた。
その顔から、年寄りくさい笑みが消えた。
「おぬし、わしの弟子にならんか」
零の菜箸が、また止まった。
「……弟子」
「そうじゃ」
ヴィルヘルミナは、零の目を、まっすぐに見た。
「わしは、百年、弟子を取らんかった」
「……」
「取りたいと思う者が、おらんかったからの。……才のある娘は、何人もおった。じゃが、わしが一から教えたいと思うほどの者は、一人もおらんかった」
ヴィルヘルミナは、零の手元の、並んだ弁当箱を見た。
「おぬしの手札は、一枚一枚は上等じゃ。炎も、氷も、闇も。……じゃが、重ね方を知らん」
「……重ね方」
「中州で、わしは一枚ずつほどいた。……それは、おぬしが一枚ずつ出したからじゃ」
ヴィルヘルミナの声は、静かだった。
「三つを重ねれば、ほどけん。……わしが教えれば、誰にもほどかれん重ね方を、覚えられる」
零は、何も言わなかった。
中州の夜の感触が、背中に戻ってくる。
冷たい砂利。喉元の杖。
持っている全てを出して、その全てを、丁寧にほどかれた、あの感触。
あれから三か月、ずっと考えていた。
手札を、どう使えばいいのか。
答えは、まだ見つかっていなかった。
その答えを、この人は知っている。
零の胸の奥で、何かが揺れた。
その時、階段を降りてくる足音が聞こえた。
澪だった。
零は、弁当箱の蓋を、一つずつ閉めていった。
一つ。二つ。三つ。四つ。五つ。
それから、ヴィルヘルミナのほうを見ずに、小さく答えた。
「……考えて、おきます」
ヴィルヘルミナの目が、少しだけ細められた。
それから、満足そうに頷いた。
「ええ返事じゃ」
ヴィルヘルミナは、湯呑みを持ち上げた。
「わしは、花見が終わるまでは、ここにおる。……ゆっくり考えるとええ」
台所の入り口に、着替えた澪が立っていた。
シャツにカーディガンを羽織り、髪を後ろで一つにまとめている。
その目が、台所の中の二人を、交互に見た。
「……何の話、してたの」
「卵焼きの話じゃ」
ヴィルヘルミナは、しれっと答えた。
「坊の卵焼きは、甘くてええのう、という話じゃよ」
「……ふうん」
澪は、疑わしげにヴィルヘルミナを見ていた。
零は、弁当箱を二つ鞄に詰め、残りの三つを食卓の上に並べた。
「姉ちゃんの分と、ミナちゃんの分、ここに置いとくから」
「……わしの分も、あるのか」
「居候でも、弁当は要るでしょう」
零は、鞄を肩にかけて、玄関へ向かった。
ヴィルヘルミナは、食卓の上の弁当箱を、しばらく見つめていた。
それから、小さく笑った。
「……やはり、ええ弟子になりそうじゃのう」
「え?」
澪が、振り返った。
「なんでもない。独り言じゃ」
玄関の鈴が、三つ鳴った。
零が出ていった後、三神家に、澪とヴィルヘルミナの二人だけが残された。
澪は、居間のソファにどっかりと腰を下ろした。
テレビもつけず、スマートフォンも触らず、ただ腕を組んで、縁側を睨んでいる。
縁側では、ヴィルヘルミナが日向ぼっこをしていた。
春の日差しが、縁側の板をぽかぽかと温めている。
ヴィルヘルミナは、座布団の上に正座して、湯呑みを両手で包み、目を細めて庭を眺めていた。
一時間が経った。
ヴィルヘルミナは、動かなかった。
「……飴、食うか?」
縁側から、声がかかった。
「いりません」
「甘いぞ」
「いりません」
「そうか」
ヴィルヘルミナは、飴を自分の口に放り込んだ。
昼が近づいた頃、ヴィルヘルミナがふらりと台所へ入っていった。
「……何してるの」
澪が、ソファから身を乗り出した。
「昼飯じゃよ。奥さんが、冷蔵庫のものを使ってええと言うとったからの」
「お弁当、あるでしょ」
「あれは、夜にとっとく。……せっかく坊が作ったんじゃ、ゆっくり味わいたいでな」
澪が止める間もなく、台所から包丁の音が聞こえ始めた。
とん、とん、とん。
澪は、思わず台所の入り口まで歩いていった。
ヴィルヘルミナが、まな板の前に立っていた。
冷蔵庫の残り物の、半端な人参と、玉ねぎ半分と、豚こま肉の切れ端。
それらが、見る見るうちに揃った細切りになっていく。
手際が、よかった。
零と、同じくらいに。
十五分後。
食卓の上に、湯気の立つ焼きうどんが二皿並んでいた。
「ほれ。おぬしの分も作ったぞ」
「……私は、いいって」
「冷めるぞ」
澪は、しばらく焼きうどんを睨んでいた。
それから、観念したように箸を取った。
一口、食べた。
「……」
「どうじゃ」
「……普通に、美味しい」
「そうじゃろう」
ヴィルヘルミナは、満足そうに頷いた。
澪は、悔しそうに焼きうどんを食べ続けた。
午後になった。
春の日差しが、居間の窓から斜めに差し込んでいた。
ソファの上は、ちょうど日溜まりになっている。
澪は、腕を組んだまま、縁側を睨み続けていた。
だが、昼食の満腹感と、春の陽気と、朝からの緊張の疲れが、少しずつ瞼を重くしていった。
(……寝ちゃ、だめ)
澪は、頭を振った。
(あいつから、目を、離しちゃ……)
瞼が、落ちた。
澪が目を覚ましたのは、夕方の四時を過ぎた頃だった。
窓の外が、橙色に染まり始めている。
澪は、慌てて身体を起こした。
肩から、何かが滑り落ちた。
毛布だった。
居間の押し入れにしまってあった、薄手の毛布。
いつの間にか、澪の肩に掛けられていた。
「……っ」
澪は、居間を見回した。
様子が、違っていた。
ローテーブルの上に散らかっていた新聞と雑誌が、きれいに揃えて棚に戻されている。
床には、掃除機をかけた跡が、規則正しい筋になって残っていた。
縁側の窓ガラスが、夕日を映して、曇り一つなく光っている。
庭の物干し竿に干してあったはずの洗濯物が、なくなっていた。
澪は、ソファから立ち上がって、和室の襖を開けた。
畳の上に、洗濯物が、きちんと畳まれて積まれていた。
五郎のワイシャツ。零のジャージ。玲奈の靴下。奈々美のエプロン。
家族ごとに、色分けするように、丁寧に。
廊下の奥の風呂場から、湯を張る音が聞こえてきた。
「……」
澪は、風呂場の前まで歩いていった。
脱衣所で、ヴィルヘルミナが、浴槽の湯加減を指で確かめていた。
「お、起きたか」
ヴィルヘルミナは、振り返って笑った。
「よう寝とったのう。……春の日溜まりは、年寄りにも若い者にも、毒じゃ」
「……あんた」
澪は、脱衣所の入り口で、立ち尽くしていた。
「全部、やったの」
「全部、とは」
「掃除も、洗濯物も、お風呂も」
「ああ、それか」
ヴィルヘルミナは、あっさりと頷いた。
「暇じゃったからの」
「……私が、寝てる間に?」
「おぬしの寝顔を見とるのも、飽きてきたからのう」
澪の顔が、一瞬で赤くなった。
「……っ、見てたの!?」
「年寄りは、若い者の寝顔を見るのが好きなんじゃ」
ヴィルヘルミナは、にやりと笑った。
「毛布も、掛けといたぞ」
澪は、何も言い返せなかった。
警戒していた。
ずっと、目を離さないつもりだった。
それなのに、居眠りをして、その間に家中を片付けられて、毛布まで掛けられていた。
「……何者なの、あんた」
澪は、掠れた声で呟いた。
ヴィルヘルミナは、湯加減を確かめていた手を止めた。
「百年も生きとれば」
それから、少しだけ肩をすくめた。
「家のことくらい、一通りできるようになるわい」
「百年?」
「言葉の綾じゃ」
午後六時。
玄関の鈴が、三つ鳴った。
「ただいまー」
仕事から帰った奈々美が、廊下に上がってきた。
そして、和室の襖の向こうに積まれた洗濯物を見て、目を丸くした。
「あら」
居間の、磨き上げられた窓を見た。
掃除機の跡が残る、床を見た。
風呂場から漂ってくる、湯気の匂いを嗅いだ。
「……あら、あら」
奈々美の顔が、ぱっと明るくなった。
「ミナちゃん、全部やってくれたの?」
「暇じゃったからの」
「助かるわあ」
奈々美は、ヴィルヘルミナの頭を、ぽんぽんと撫でた。
「本当に、ありがとうね」
「ええよ、ええよ」
ヴィルヘルミナは、目を細めて、撫でられるままになっていた。
その光景を、居間の隅から澪が見ていた。
腕を組んだまま、ひどく複雑な顔をしていた。
夕食の後。
縁側に、奈々美とヴィルヘルミナが並んで座っていた。
春の夜の空気は、まだ少しだけ冷たい。
二人の間には、湯気の立つ湯呑みが二つ。
庭の向こうの垣根越しに、隣の洋館の窓の灯りが見えていた。
しばらく、二人とも黙っていた。
湯呑みを傾ける音だけが、縁側に響いている。
「……奥さん」
ヴィルヘルミナが、庭を見たまま、口を開いた。
「昔は、雷を落としとったじゃろう」
奈々美の湯呑みが、口元の手前で止まった。
しばらく、そのまま動かなかった。
「……」
「身体の奥に、消えかけた雷の匂いがする。……それから」
ヴィルヘルミナは、垣根の向こうの洋館を、ちらりと見た。
「隣の家から、細い水の道が、奥さんの胸に繋がっとる」
「……」
「ええ後輩を、持ったのう」
奈々美は、湯呑みを、ゆっくりと膝の上に下ろした。
否定は、しなかった。
「……昔の話よ」
それだけ、静かに答えた。
ヴィルヘルミナは、それ以上は何も聞かなかった。
「わしは、見るだけじゃ」
ヴィルヘルミナは、茶をすすった。
「この家を、荒らす気はない。……この家は、ええ匂いがするからのう」
「……ええ匂い?」
「ああ」
ヴィルヘルミナは、夜空を見上げた。
「味噌汁と、洗濯物と、日向の匂いじゃ。……百年、あちこちを歩いてきたが、こういう匂いのする家は、そう多くない」
奈々美は、隣の少女の横顔を見つめていた。
可憐な顔立ち。
だが、その目は、自分よりもずっと長い時間を見てきた人の目だった。
「……ゆっくりしていきなさいね、ミナちゃん」
「ああ。そうさせてもらう」
同じ日の夜、八時過ぎ。
三神家の玄関の鈴が、三つ鳴った。
「こんばんは」
玄関先に、ヴィクトリア・ローゼンベルグが立っていた。
プラチナブロンドの髪を隙なく結い上げ、手には上品な菓子折りの紙袋を提げている。
表向きは、隣人としての挨拶だった。
「あら、ヴィクトリアさん。いらっしゃい」
奈々美が、エプロン姿のまま出迎えた。
「ご親戚の方がいらしていると伺ったので。……ご挨拶に」
「まあ、わざわざ。……ミナちゃーん、お隣さんよ」
廊下の奥から、ヴィルヘルミナが顔を出した。
玄関の三和土と、廊下の上がり框。
二人の視線が、正面からぶつかった。
ヴィクトリアの紫の瞳が、僅かに細められた。
ヴィルヘルミナの古い目が、面白そうに輝いた。
「……ほう」
ヴィルヘルミナが、先に口を開いた。
「星監の娘か。……隣に住むとは、物好きじゃのう」
「……観光客にしては、随分と長逗留ですわね」
ヴィクトリアは、完璧な微笑みを浮かべたまま答えた。
「花見が終わるまでじゃよ」
「桜は、もうすぐ散りますわ」
「なら、葉桜も見ていくかの」
二人の間の空気が、目に見えないほど静かに、張り詰めていった。
奈々美が、二人の顔を交互に見た。
「あら。……お二人とも、お知り合い?」
「いいえ」
「いいや」
二人の声が、同時に重なった。
奈々美は、首を傾げた。
「そう?」
「ええ。初対面ですわ」
「初対面じゃ」
ヴィクトリアは、菓子折りを奈々美に手渡した。
「つまらないものですけれど。……ご親戚の方にも、どうぞ」
「あら、ありがとう」
「では、失礼いたしますわ」
ヴィクトリアは、優雅に一礼して、玄関を出ていった。
垣根の前まで歩いたところで、一度だけ、三神家の二階を見上げた。
零の部屋の窓に、明かりが灯っていた。
同じ頃。
都心の高層ホテルの、最上階の一室。
「——三神家に、あの魔女が滞在しています」
テレサ・ローズが、報告書を読み上げていた。
「昨日の夜から、客間に。……家族は、親戚の子として扱っているようです」
セルゲイ・ベレンコフは、窓の外の夜景を見たまま、しばらく黙っていた。
それから、机の上の黒い手帳を開いた。
几帳面な字が、並んでいる。
『三神零。魔力反応なし。挙動に不審点なし。一般人』
セルゲイは、その一行を、長い間見つめていた。
「……一般人の家に」
低い声が、暗い部屋に落ちた。
「星監の総帥が、隣に住む。……ヘクセン・ツィルケルの魔女が、居候をする」
「団長?」
「偶然が、重なりすぎている」
セルゲイは、ペンを取った。
『三神零。一般人』の一行の下に、新しい一行を書き加える。
『三神家:再調査』
ペンを置いた。
窓の外で、春の夜の街の灯りが、静かに瞬いていた。




