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未登録の魔法少女  作者: 浅川


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第三百十話

 校門の脇の桜が、満開だった。

 薄紅色の花びらが、春の風に乗って、ひらひらと昇降口の前に降り積もっていく。

 新しい制服の一年生たちが、緊張した顔で掲示板の前に群がっている。

 その少し後ろで、零は、自分の名前を探していた。


 三年二組。

 出席番号の三十番目に、三神零の名前があった。


「……おっ」


 背後から、聞き慣れた声がした。


「零! 同じクラスだぞ、また!」


 狭間稔が、掲示板を指さしながら、零の背中を叩いた。


「三年連続だな。もう腐れ縁ってやつだ」


「そうだな」


「なんだよ、その薄い反応。もうちょっと喜べよ」


「喜んでる」


「顔が喜んでない」


 零は、小さく笑って、掲示板から目を離した。

 高校三年生。

 去年の今頃は、まだ二年生になったばかりだった。

 ゴーストとして夜の街を跳び回り、協会との抗争や御子柴による争いに巻き込まれ、四週間戻れない身体で過ごし、使徒と刃を交え、母の雷に守られた。

 そのどれもが、この一年の出来事だった。

 昇降口へ向かう途中、零は一度だけ空を見上げた。

 春の空は、高く、青かった。

 星のように瞬かない赤い光は、どこにも見えなかった。

 冬が終わるまでの日々は、奇妙なほど静かだった。

 中央魔法技術研究院の調査団は、あの後も日本に留まり続けた。

 協会と白百合で二度目、三度目の測定を行い、白百合の結衣が指定した場所と時間の中で、淡々と数値を集めていった。

 都内の上空には、時折、軍用の暗号化通信が混じった。

 そのたびに、白百合の情報班の解析室で、新実由鶴が静かにキーボードを叩いた。

 セルゲイ・ベレンコフは、一度だけ零の前に現れた。

 校門の脇で、姉たちの測定に協力してもらった礼を言いたい、と。

 十分ほど、とりとめのない立ち話をして、去っていった。

 その後、二度と零の前には姿を見せなかった。

 翼の家の周りを、赤みがかった金髪の少女が歩く姿が、何度か目撃された。

 だが、門の中に踏み込んでくることはなかったが、夜ごとの見回りは続けていた。

 だが、あの夜から、零は変身するたびに、同じことを考えるようになっていた。


 炎を、どう撃つか。

 氷を、どう使うか。

 闇の刃を、どう振るうか。


 三つの手札を、一枚ずつ見直していた。

 ほどかれないように。

 次に、あの杖の前に立った時のために。

 そして、あの小柄な魔女は、あれから一度も零の前に現れなかった。

 浅草で、鎌倉で、京都で。

 どこかの寺か温泉で、のんびりと団子でも食べているのだろう。

 そう思っていた。


 四月の、最初の土曜日。

 三神家の台所は、朝から戦場だった。


「零、唐揚げの下味、これでいい?」


「もう少し生姜。……母さん、ちらし寿司の錦糸卵は?」


「今、焼いてるわ」


 零と奈々美が、並んで台所に立っていた。

 まな板の上には、鶏もも肉と、海老と、菜の花。

 コンロの上では、二つの鍋が湯気を上げている。

 今日は、緋雪の十九歳の誕生日だった。


「……本当に、うちでやっていいの?」


 零は、錦糸卵を細く切りながら、母に聞いた。


「何を今さら」


 奈々美は、呆れたように笑った。


「緋雪ちゃんのお誕生日よ。うちでやらないで、どこでやるの」


「いや、緋雪さんの家とか」


「一人暮らしでしょう、あの子。……誕生日に、一人でケーキを食べさせるつもり?」


 零は、何も言い返せなかった。

 去年の緋雪の誕生日は、ちょうど白百合と協会の対立が一番激しかった頃だった。

 零は、何もできなかった。

 後で知って、ひどく後悔した。

 今年は、ちゃんと祝いたかった。


「お兄ちゃん!」


 リビングから、玲奈が飛び込んできた。

 手に、色とりどりの紙の輪を抱えている。


「飾り付け、これでいい?」


「……輪飾りって、小学生のお誕生日会じゃないんだから」


「えー、可愛いじゃん」


「緋雪さん、十九歳だぞ」


「十九歳だって、可愛いものは可愛いの!」


 玲奈は、紙の輪を抱えたまま、リビングへ駆け戻っていった。

 廊下の向こうから、澪の声がした。


「零ー! ケーキ、冷蔵庫に入れといたからねー!」


「ありがとう、姉ちゃん」


「駅前のお店の、一番いいやつよ! 感謝しなさいよ!」


 澪は、昨日の夕方、わざわざ予約していたケーキを受け取りに行ってくれた。

 零の財布からではなく、自分の小遣いで。

 ——緋雪ちゃんには、いつもお世話になってるから。

 そう言って、そっぽを向いていた。

 居間では、五郎が新聞を広げたまま、そわそわと時計を見ていた。


「……何時に来るんだ、緋雪ちゃんは」


「六時って言ってたでしょう」


「そうか。……まだ、五時間もあるな」


「あなた、朝からそれ、七回目よ」


 奈々美が、台所から呆れたように言った。


 午後六時。


 玄関の鈴が、三つ鳴った。


「……お邪魔します」


 三和土に、緋雪が立っていた。

 淡い水色のワンピースに、白いカーディガン。

 銀色の髪を、いつもより少しだけ丁寧に編み込んでいる。

 手には、小さな菓子折りの紙袋を提げていた。


「いらっしゃい、緋雪ちゃん!」


 奈々美が、エプロン姿のまま玄関に駆け寄った。


「お誕生日、おめでとう」


「……ありがとうございます」


 緋雪は、少しだけ頬を染めて、頭を下げた。

 リビングの入り口をくぐった瞬間、緋雪の足が止まった。

 天井から、色とりどりの紙の輪飾りが下がっていた。

 壁には、玲奈の丸い字で「ひゆきさん おたんじょうび おめでとう」と書かれた画用紙が貼られている。

 食卓の上には、ちらし寿司の大皿と、唐揚げの山と、海老と菜の花の天ぷらと、色鮮やかなサラダが所狭しと並んでいた。


「……」


 緋雪は、何も言えずに立ち尽くしていた。


「飾り付け、私がやったんですよ!」


 玲奈が、得意げに胸を張った。


「お兄ちゃんには、小学生のお誕生日会みたいって言われたけど」


「……ううん」


 緋雪は、首を横に振った。


「……とても、嬉しいわ」


 その声が、少しだけ震えていた。

 その夜の食卓は、賑やかだった。

 五郎が、緋雪のグラスに何度もジュースを注ぎ足した。

 澪が、白百合での緋雪の武勇伝を、本人の前で面白おかしく語った。

 玲奈が、緋雪の隣に陣取って、唐揚げを取り分け続けた。

 奈々美は、にこにこと笑いながら、誰かの皿が空くたびに新しい料理を運んできた。

 緋雪は、ずっと少しだけ困ったような顔をしていた。

 それでも、その困った顔は、一度も曇らなかった。

 食事の後、澪が冷蔵庫から大きな箱を取り出した。

 駅前の洋菓子店の、苺のショートケーキだった。

 真ん中に、チョコレートの板が載っている。

 白いクリームで、『ひゆきさん 19さい』と書かれていた。


「……ひらがな」


 緋雪が、小さく呟いた。


「玲奈が、お店の人に頼んだのよ」


「ひらがなのほうが、可愛いもん!」


 蝋燭が、十九本立てられた。

 五郎が、ライターで一本ずつ火を点けていく。

 奈々美が、部屋の明かりを落とした。

 暗くなった居間に、十九本の小さな炎が揺れていた。


「はっぴばーすでー、とぅーゆー」


 玲奈が歌い始めると、五郎が調子外れの声で続いた。

 澪が、呆れながらも手拍子を合わせる。

 奈々美が、柔らかい声で重ねる。

 零は、少しだけ遅れて、歌に加わった。

 蝋燭の光の向こうで、緋雪が、じっとケーキを見つめていた。

 その目元が、炎の光を映して、きらきらと光っていた。


「……おめでとう、緋雪さん」


 歌が終わって、零が言った。


 緋雪は、零の顔を見た。

 それから、小さく息を吸って、十九本の蝋燭を吹き消した。

 拍手が、暗い居間に響いた。

 ケーキを切り分けた後、零は緋雪を二階のベランダに誘った。

 春の夜の空気は、まだ少しだけ冷たかった。

 住宅街の向こうに、遠くの公園の桜が、街灯に照らされて白く浮かんで見える。


「……びっくりした」


 緋雪が、ベランダの手すりに両手を置いて言った。


「こんなに、ちゃんと祝ってもらったの、初めてかもしれない」


「母さんが、張り切っちゃって」


「お母様だけじゃないわ」


 緋雪は、小さく笑った。


「澪さんのケーキも、玲奈さんの飾り付けも、お父様のジュースも。……みんな、張り切ってた」


「……うん」


「あなたの唐揚げも、ね」


 零は、少しだけ顔を赤くした。

 それから、ポケットから小さな包みを取り出した。


「これ」


「……え?」


「プレゼント」


 緋雪は、包みを受け取った。

 細い指で、丁寧にリボンをほどく。

 中から出てきたのは、小さな髪飾りだった。

 銀色の細工で、雪の結晶の形をしている。

 真ん中に、淡い水色の小さな石が一つ、嵌め込まれていた。


「……」


 緋雪は、髪飾りを掌の上に載せたまま、しばらく動かなかった。


「……気に入らなかったら」


「気に入らないわけ、ないでしょう」


 緋雪は、髪飾りを胸の前で両手に包んだ。


「……ありがとう、零くん」


 その声は、ひどく小さかった。


「……つけて、くれる?」


 零は、少しだけ固まった。


 それから、緋雪の髪に、そっと手を伸ばした。

 編み込まれた銀色の髪の、耳の上あたり。

 慣れない手つきで、髪飾りを留める。

 雪の結晶が、街灯の光を受けて、小さく光った。


「……似合う?」


「……似合う」


「そう」


 緋雪は、手すりに顔を伏せた。


 耳まで、赤くなっていた。


 その時。


 階下で、玄関の鈴が、三つ鳴った。

 零と緋雪は、顔を見合わせた。


「……誰か来た?」


「こんな時間に?」


 午後九時を回っていた。


 階下から、母の声が聞こえてきた。


「はーい、どちら様?」


 玄関の戸が、開く音。


 それから、しばらく沈黙があった。


「……すまんのう、夜分に」


 その声を聞いた瞬間、零の全身の血が凍りついた。


 聞き覚えがあった。

 忘れられるはずがなかった。

 中州の砂利の上で、喉元に杖を添えられた時に聞いた声。


「宿が、取れんようになってのう」


 のんびりとした、年寄りくさい口調だった。


「花見の季節は、どこもかしこも満室じゃ。……この辺りを歩いとったら、ええ匂いのする家があっての」


 零は、ベランダから身を乗り出して、階下の玄関を見下ろした。

 門の前の街灯の下に、小柄な少女が立っていた。

 淡い金色の髪を、古風なリボンで結んでいる。

 厚手のケープを羽織り、背中には古びた木の杖。

 足元に、大きなトランクを一つ置いていた。

 ヴィルヘルミナ・クロイツだった。


「……嘘だろ」


 零の喉から、掠れた声が漏れた。

 隣で、緋雪の顔も、真っ白になっていた。

 玄関先で、奈々美が、目の前の少女をじっと見つめていた。

 可憐な顔立ち。十六、七ほどに見える外国の少女。

 だが、その目だけが、ひどく古い。

 奈々美の目が、ほんの僅かに細められた。

 少女もまた、奈々美の顔を、じっと見上げていた。

 四十代の、エプロン姿の主婦。

 だが、その身体の奥に、消えかけた、それでも確かに残る雷の匂いがある。

 そして、垣根の向こうの洋館から、細い水の道が、この人の胸へと繋がっている。


「……ほう」


 少女は、小さく息を吐いた。


「ええ匂いのするわけじゃ」


「……何のこと?」


「いや、いや。独り言じゃよ」


 少女は、にこりと笑った。


「一晩でええ。……泊めてくれんかの」


 奈々美は、しばらく少女の顔を見つめていた。

 それから、ふっと表情を緩めた。


「一人で、こんな夜中に困ってるんでしょう」


「そうなんじゃ。困っとるんじゃ」


「なら、上がりなさい。……ちょうど、ケーキが余ってるわ」


 ベランダで、零は手すりを握りしめたまま、声も出せなかった。


「……母さん」


 隣で、緋雪が小さく呻いた。


「……お母様、上げちゃった」


 十分後。


 三神家の居間に、奇妙な光景が広がっていた。

 食卓の上座に、小柄な外国の少女がちょこんと座っていた。

 目の前には、苺のショートケーキが一切れと、湯気の立つほうじ茶。


「ほう、ほう」


 少女は、ケーキをフォークで一口食べて、目を細めた。


「日本の洋菓子は、甘さが上品でええのう。……わしの国のは、砂糖の塊みたいなもんじゃ」


「あら、嬉しいわ」


 奈々美が、にこやかに茶を注ぎ足した。


「どちらの国から?」


「遠くじゃよ。……もう、百年ほど帰っとらんがの」


「百年?」


 玲奈が、目を丸くした。


「いや、いや。言葉の綾じゃ」


 少女は、ほうじ茶をすすって、満足そうに息を吐いた。

 その隣で、五郎が、なぜか嬉しそうに頷いていた。


「いやあ、お嬢ちゃん、日本語が上手だな。……なんというか、うちの死んだ婆さんみたいな話し方だ」


「ほう。婆さんとな」


「ああ。縁側で、よく茶をすすってた」


「ええ婆さんじゃのう。……わしも、縁側は好きじゃ」


「おお、そうか!」


 五郎は、手を打った。


「うちにも縁側があるぞ。小さいがな。……明日、日向ぼっこでもするか」


「ええのう、ええのう」


 二人は、なぜか意気投合していた。

 澪と玲奈は、居間の隅で身を寄せ合っていた。


「……お姉ちゃん」


「なに」


「あの子、魔力、すごくない?」


「……すごいなんてもんじゃないわよ」


 澪の顔が、青ざめていた。


 白百合の隊員として、魔力の気配には敏感だった。

 目の前の少女から感じるものは、これまで出会った誰とも違っていた。

 深い。底が見えない。

 母が「借り物の力」を纏った時よりも、ずっと。


「……あれ、何者?」


「知らないわよ。……お母さんが、上げちゃったんだから」


 零は、居間の入り口で立ち尽くしていた。


 隣に、緋雪がいた。

 雪の結晶の髪飾りが、居間の明かりを受けて光っている。

 食卓の上座で、少女がケーキを食べている。

 あの冬の夜、河川敷の中州で、自分の手札を一枚ずつ丁寧にほどいた、あの魔女が。

 その目が、ふと、居間の入り口に向いた。


 零と、目が合った。


 零の心臓が、跳ねた。

 胸元の匣の中で、ペンダントは静かに沈黙している。

 遮断は、効いているはずだった。

 少女は、零の顔を、しばらくじっと見つめていた。

 それから、にこりと笑った。


「ほう。……ここの、息子さんか」


「……はい」


「ええ顔をしとるのう」


 それだけ言って、少女はまたケーキに目を戻した。


 何も、言わなかった。

 気づいたのか、気づいていないのか。

 零には、分からなかった。


「それでな、奥さん」


 少女は、フォークを置いて、奈々美のほうへ向き直った。


「一晩と言うたが」


「ええ」


「……宿が取れるまで、しばらく置いてもらえんかの」


 居間が、静まり返った。


「しばらく、って」


「花見の季節が終わるまでじゃ。……それまでは、どこも満室での」


 少女は、両手を合わせて、奈々美を見上げた。


「家事は手伝う。庭の草むしりも得意じゃ。……年寄りは、役に立つぞ」


「年寄りって」


 玲奈が、また目を丸くした。

 奈々美は、少しだけ考えた。

 それから、にっこりと笑った。


「……いいわよ」


「母さん!?」


 零と澪の声が、重なった。


「客間が空いてるもの。お布団もあるし」


「いや、でも」


「困ってる人を、放り出すわけにはいかないでしょう」


 奈々美は、少女の頭を、ぽんと撫でた。


「お名前は?」


「ヴィルヘルミナじゃ。……長いから、好きに呼んでくれてええ」


「じゃあ、ミナちゃんね」


「ミナちゃん」


 少女は、目を瞬いた。


 それから、心底嬉しそうに笑った。


「……ええのう。百年ぶりに、ちゃん付けで呼ばれたわい」


「百年?」


「言葉の綾じゃ」


 その夜、三神家の客間に、布団が一組敷かれた。

 ヴィルヘルミナは、トランクを部屋の隅に置き、杖を枕元に立てかけて、満足そうに布団に潜り込んだ。

 零は、自室の窓際に座って、夜空を見上げていた。

 向かいの屋根の上に、二つの小さな影があった。

 赤いリボンと、青いリボン。

 二人とも、口を開けて、三神家の客間の窓を見ていた。

 垣根の向こうの洋館の二階では、窓が一つ、灯りを灯したまま開いていた。

 プラチナブロンドの髪の女性が、窓辺に立ち尽くしていた。

 紅茶のカップを、手から落としかけていた。

 零は、スマートフォンを取り出した。

 緋雪からのメッセージが、一件届いていた。


『髪飾り、ありがとう。一生大事にする。

 ……それと、明日から、どうするの』


 零は、しばらく画面を見つめていた。


 それから、短く返した。


『わからない』

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