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未登録の魔法少女  作者: 浅川


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第三百九話

 鍵が、小さく回る音がした。

 白い洋館の二階の書斎。

 ヴィクトリア・ローゼンベルグは、重厚な机の一番下の引き出しを、ゆっくりと引いた。

 中には、書類が数冊と、古い革の手帳と、一枚の写真立てが伏せて入っていた。

 ヴィクトリアは、写真立てを取り出して、表に返した。


 色褪せた集合写真だった。

 石造りの古い建物の前に、揃いの制服を着た少女たちが三列に並んでいる。

 十代半ばから、二十歳過ぎまで。

 笑っている子もいれば、緊張した顔の子もいた。

 星監の、欧州支部の写真だった。

 最前列の端に、今よりずっと若いヴィクトリアが立っていた。

 背筋を伸ばし、カメラをまっすぐに睨んでいる。

 その隣に、背の高い若い男がいた。

 短く刈り込んだ髪。右の頬には、まだ傷跡がない。

 隊服の上から、階級章が一つだけ光っていた。

 セルゲイ・ベレンコフだった。

 ヴィクトリアは、その顔を指でなぞらなかった。

 ただ、長い間、見つめていた。

 それから、視線を写真の後列へ移した。

 後列の一番端に、小柄な少女が一人、立っていた。

 他の少女たちより、頭一つ分背が低い。

 まだ十二、三歳ほどだろう。

 色素の薄い髪を短く切り、大きすぎる隊服の袖を、何度も折り返している。

 カメラのほうを見ずに、足元を見つめていた。

 ヴィクトリアは、写真立てを裏返した。

 裏板に、少女たちの名前が、細いペンで書き連ねられていた。

 几帳面な字だった。何年も前の、自分の字だった。

 いくつかの名前の横に、小さな印がつけられていた。


 赤い、小さな丸。


 セントラルへ「推薦」された子たちの印だった。

 ヴィクトリアの指が、一番最後に書かれた名前の上で止まった。


 『エーリカ・ヴァイス』


 その名前の横にも、赤い丸がついていた。

 そして、その丸の上から、黒いペンで一本、斜めに線が引かれていた。


 ——逃亡。


 ヴィクトリアは、写真立てを胸に抱えたまま、窓の外を見た。

 垣根の向こうに、三神家の二階の窓が見えた。

 明かりが、一つだけ灯っている。


 同じ日の夜。


 郊外の町、翼の家。


 居間の長い座卓を、十人ほどが囲んでいた。

 白鳥と、奈緒と、翼の家の少女たち。

 それから、今日の協会の測定から戻ってきた凛花。

 座卓の上には、大皿の肉じゃがと、ほうれん草のお浸しと、豆腐の味噌汁が並んでいる。

 門柱の上に置かれていた羊羹は、食後のお楽しみとして、台所の戸棚にしまわれていた。


「……それで、協会の測定は、どうだったの?」


 白鳥が、凛花に味噌汁を注ぎながら聞いた。


「無事に、終わりました」


 凛花は、少しだけ疲れた顔で答えた。


「ただ、調査団の団長が、翼の家のことを知っているようでした」


「……そう」


「セントラルの人たちは、たぶん、また来ます」


 その言葉が出た瞬間、座卓の端で、小さな音がした。


 カラン。


 箸が、一膳、畳の上に落ちていた。

 全員の視線が、その方向へ向いた。

 座卓の端に、一人の少女が座っていた。


 十八、九歳ほど。

 色素の薄い髪を、肩の上で短く切り揃えている。

 白い、細い指が、何も持たないまま、宙で震えていた。


 エリだった。


 翼の家に来て、まだふた月足らずだった。

 隠密だった頃の記憶は、ほとんど戻っていない。

 口数は少なかったが、最近は、奈緒に折り紙を教えたり、庭の草むしりを手伝ったりするようになっていた。

 そのエリの顔から、血の気が、すっかり引いていた。


「……エリちゃん?」


 白鳥が、声をかけた。


 エリは、答えなかった。

 ただ、凛花の顔を、じっと見つめていた。

 その目は、この家に来てから一度も見せたことのない色をしていた。

 恐怖だった。

 それも、隠密だった頃の、ガラス玉のような虚ろさとは違う。

 ずっと昔に閉じ込めていたものが、急に蓋を開けて溢れ出してきたような、生々しい恐怖。


「……セントラル」


 エリの唇が、掠れた声を紡いだ。


「今、セントラル、って」


「……はい」


 凛花が、静かに頷いた。


「中央魔法技術研究院。……海の向こうの、研究機関です」


 エリの肩が、びくりと跳ねた。

 震える両手が、自分の二の腕を抱きしめる。

 爪が、服の上から食い込んでいく。


「……あそこの人たちが」


 声が、途切れた。


「来てるんですか」


 白鳥が、座卓を回り込んで、エリの傍らに膝をついた。


「エリちゃん。……大丈夫よ」


「……」


「大丈夫。ここは、翼の家よ」


 白鳥は、震えるエリの背中を、ゆっくりと撫でた。


「こっちへ、いらっしゃい。……少し、休みましょう」


 白鳥が、エリの肩を抱いて、居間を出ていった。

 残された少女たちが、不安そうに顔を見合わせている。

 奈緒が、畳の上に落ちた箸を拾い上げて、じっと見つめていた。


「……エリちゃん、こわいかお、してた」


「……そうね」


 凛花は、居間の出口のほうを見ていた。

 廊下の奥の部屋から、白鳥の低い声と、押し殺した泣き声が、微かに漏れてくる。

 凛花は、何も聞かなかった。

 ただ、あの少女の中に、セントラルという名前に怯えるだけの何かがあることだけは、はっきりと分かった。


 同じ日の夜、十一時。

 白い洋館の屋上に、二つの影が並んでいた。

 一つは、プラチナブロンドの髪を夜風に揺らす女。

 もう一つは、漆黒のドレスを纏った少女。

 ヴィクトリアに呼ばれて、ゴーストはここに来ていた。

 円卓の会議ではない。

 二人だけの、話だった。


「……夕方、あの男が来たわ」


 ヴィクトリアは、屋上の手すりに両手を置いたまま、前を向いて言った。


「セルゲイ・ベレンコフ。……車で、この通りまで」


 ゴーストの身体が、僅かに強張った。


「何をしに?」


「見に来たのよ」


 ヴィクトリアは、足元を見下ろした。

 垣根一つを挟んで、三神家の屋根が並んでいる。

 玄関の上の真鍮の鈴が、街灯の光を受けて鈍く光っていた。


「隣の家と、私の屋敷を。……並べて、じっくりとね」


「……」


「協会の旧い登録名簿から、三神という姓を辿ってきたのよ。白百合の測定で、澪さんが何か言ったらしいわ」


 ゴーストは、何も言えなかった。

 ——弟に付きまとうストーカーなら、知ってます。

 緋雪から、その話は聞いていた。

 姉は、何の悪気もなく、聞かれたことに答えただけだった。


「あの男は、今、手帳に私の名前を書いているわ。……隣家、星監総帥、ヴィクトリア・ローゼンベルグ、とね」


「……知り合い、なのね」


 ゴーストが、静かに言った。


「あの人と」


 ヴィクトリアは、しばらく答えなかった。

 夜風が、二人の間を吹き抜けていった。

 遠くで、踏切の警報機が鳴っている。


「……昔、同じ部隊にいたの」


 ヴィクトリアは、ようやく口を開いた。


「星監の、欧州の部隊よ。……私が、まだ隊長にもなっていなかった頃」


 ゴーストは、黙って続きを待った。


「あの男は、魔法を使えない。でも、戦場を見る目は、誰よりも確かだった。……私たち魔法少女がどこに立てば一番生き残れるか、あの男はいつも分かっていたわ」


 ヴィクトリアの声は、平坦だった。

 平坦すぎて、その下にあるものが、かえって透けて見えた。


「私は、あの男の指示で、何度も命を拾った」


「……」


「だから、信じていたのよ。……あの男が、星監を出ていくまでは」


 ヴィクトリアの指先で、紫電が一度、ぱちりと灯った。


「あの男は、セントラルに移ったわ。……そして、昔の伝手を使った」


「伝手」


「欧州支部の、見込みのある子たちを、セントラルの強化計画に『推薦』したのよ。……本人たちには、より良い訓練を受けられると言って」


 ゴーストの喉が、冷たくなった。


「推薦された子たちの多くは、戻ってこなかったわ」


 ヴィクトリアは、夜空を見上げた。


「戻ってきた子もいた。……でも、もう、前の子じゃなかった。笑い方を、忘れていたの」


 屋上に、長い沈黙が落ちた。


「一人だけ、計画の途中で逃げ出した子がいるわ」


 ヴィクトリアが、静かに言った。


「まだ十四歳だった。……施設の壁を越えて、港まで走って、貨物船に潜り込んで。この国まで、流れ着いたの」


「……この国に」


「でも、この国で、その子を最初に拾ったのは、私じゃなかった」


 ヴィクトリアの手すりを握る手に、力がこもった。


「政府の、御子柴よ」


 ゴーストの目が、見開かれた。


 御子柴。

 政府の暗部。

 才能がありながら見捨てられた少女たちを拾い、記憶と自我を消して、対魔法少女兵器を握らせた男。


「……隠密」


「ええ」


 ヴィクトリアは、目を閉じた。


「あの子は、セントラルから逃げて、今度は御子柴に捕まった。……記憶も、名前も、全部消されて」


「……」


「私があの子に再会したのは、隠密の刃を向けられた時よ。……剣の構えで、分かった。欧州支部で、私が教えた構えだったから」


 ゴーストは、何も言えなかった。

 翼の家には、隠密だった少女たちが何人も暮らしている。

 記憶を失い、名前を失い、それでも白鳥の家で、少しずつ自分を取り戻そうとしている子たち。


「今は、翼の家にいるわ」


 ヴィクトリアは、目を開けた。


「エリ、と呼ばれている子よ。……隠密になる前に、自分で名乗った名前の、欠片だけが残っていたの」


「……エリ」


「本当の名前は、エーリカ・ヴァイス。……あの子は、まだ思い出していないわ」


 ヴィクトリアは、ゴーストのほうへ向き直った。


「私は、欧州本部に背を向けた。……あの男がしたことを知って、それを止めなかった本部に、もういられなかったの」


「……それで、日本に」


「あの子を、追ってきたのよ。……半分はね」


 ヴィクトリアは、少しだけ笑った。

 寂しそうな笑い方だった。


「もう半分は、自分でもよく分からないわ」


 夜風が、ヴィクトリアのプラチナブロンドの髪を揺らしていた。


「あの男は、逃げた子の顔も、きっと覚えているわ」


 ヴィクトリアの声が、低くなった。


「あの男は、何一つ忘れない。……自分が送り出した子の顔も、名前も、逃げた子のことも」


「……」


「そして今、あの男は、あなたの隣の家を見ている」


 ゴーストは、足元の三神家の屋根を見下ろした。

 あの家には、何も知らない家族がいる。

 母がいる。父がいる。姉がいる。妹がいる。

 セルゲイは、もうあの家を、ただの家とは見ていない。


「隣人の務めは、果たすわ」


 ヴィクトリアが、静かに言った。


「あなたの家族には、指一本、触れさせない」


 ゴーストの肩が、僅かに揺れた。

 ヴィクトリアも、自分の言葉に気づいて、口を噤んだ。


 あなたの、家族。


 二人とも、それ以上は何も言わなかった。


 聞かないで、と言った。

 分かった、と答えた。

 その約束は、今夜も、何一つ変わらずにそこにあった。


 同じ頃。


 都心の高層ホテルの、最上階の一室。

 窓際のテーブルを、四人が囲んでいた。


 セルゲイ・ベレンコフ。

 アイシャ・エインズワース。テレサ・ローズ。フラウ・ミーヴェ。

 テーブルの上には、都内の地図が広げられていた。

 いくつかの地点に、赤いピンが刺さっている。

 協会の本部。白百合の本部。郊外の古い日本家屋。

 それから、住宅街の、並んだ二軒の家。


「役割を、割り振る」


 セルゲイが、地図の上に指を置いた。


「アイシャ」


「はい」


「羽衣緋雪を、見ていろ。……白百合のS級だ」


 セルゲイの指が、白百合の本部の上で止まった。


「いずれ、あの娘とはぶつかる。その時のために、癖を覚えておけ」


 アイシャの顔が、ぱっと明るくなった。


「……はい、団長」


「嬉しそうだな」


「測定の日から、ずっと気になっていたので」


 アイシャは、膝の上の布の包みを、愛おしそうに撫でた。


「テレサ」


「はい」


「郊外の、この家の周りを歩け」


 セルゲイの指が、郊外の古い日本家屋の上に移った。


「翼の家、というらしい。……ドローンは、あの家の上空だけ映像が乱れる。地上から見ろ」


「器の子ですね」


「そうだ。……だが、手は出すな。見るだけだ」


「承知しました」


 テレサは、背中の大鎌の包みを軽く叩いた。


「フラウ」


「……はい」


「私の傍にいろ」


「……はい」


 フラウは、それだけ答えて、また黙った。


 アイシャが、首を傾げた。


「団長は、どこを見るんですか」


 セルゲイは、地図の上の、並んだ二軒の家を指さした。


「三神家の、弟だ」


「……弟?」


「測定の日、姉が言っていた。黒いドレスは、弟に付きまとう、と」


 セルゲイは、地図から指を離した。


「黒いドレスが、なぜ一般家庭の少年の周りに現れるのか。……それを、確かめる」


 テレサが、ふと口を開いた。


「団長。……一つ、聞いてもいいですか」


「何だ」


「あの、ヘクセン・ツィルケルの魔女は」


 部屋の空気が、僅かに張り詰めた。

 三人とも、ドローンの映像を見ていた。

 中州の上で、黒いドレスの少女を仰向けに倒した、杖を持った小柄な少女を。


「あれには、手を出すな」


 セルゲイは、きっぱりと言った。


「こちらから触れなければ、あれは観光客のままだ。……触れた瞬間に、あれは災害になる」


「……災害」


「百年以上、生きている魔女だ。……我々の強化計画が、どれだけ積み上げても、あれには届かん」


 アイシャが、少しだけ唇を尖らせた。


「……試してみたいですけど」


「駄目だ」


「冗談です」


「お前の冗談は、冗談に聞こえん」


 テレサが、小さく吹き出した。

 フラウは、窓の外の夜景を、黙って見つめていた。


 三日後。


 午後四時過ぎ。


 零は、いつものように校門を出て、商店街の方角へ歩き出した。

 今日の夕飯は、豚の生姜焼きの予定だった。

 ヤオヨシで、豚ロースが特売になっているはずだ。

 玉ねぎは家にある。キャベツは、半玉だけ買い足せばいい。

 頭の中で献立を組み立てながら、校門の脇を通り過ぎようとした時だった。


「——三神零くん、だね」


 声が、した。


 零の足が、止まった。


 校門の脇の、桜の木の下に、男が一人立っていた。


 黒いロングコート。

 短く刈り込んだ灰色の髪。

 右の頬に、古い傷跡が一本、斜めに走っている。

 零の心臓が、一つ大きく跳ねた。


 セルゲイ・ベレンコフ。


 ヴィクトリアから聞いた名前。

 緋雪から聞いた、白百合の測定の日の話。

 テレビで流れた、調査団来日のニュース。

 その男が、今、目の前に立っていた。


「……はい」


 零は、何も知らない顔を作った。


「そうですけど。……どちら様ですか」


「中央魔法技術研究院の、セルゲイ・ベレンコフだ」


 セルゲイは、名刺を一枚、差し出した。

 訛りのある、正確な日本語だった。


「君のお姉さんたちに、先日、魔力の測定に協力してもらった。……その礼を言いたくてね」


「……ああ」


 零は、名刺を受け取った。


「姉が、外国の研究所の人が来るって言ってました。……すみません、わざわざ」


「いや。こちらこそ、突然すまない」


 セルゲイは、零の顔をじっと見ていた。

 零は、その視線を受け止めた。

 胸元の匣の中で、ペンダントは静かに沈黙している。

 勾玉の遮断具は、波形を一切漏らさない。

 今の自分は、魔力の欠片も持たない、ただの高校生だった。


「お姉さんたちは、優秀だね」


「そうですか。……家では、喧嘩ばかりしてますけど」


「炎と風の連携は、見事だった」


「へえ。……僕、魔法のことはよく分からないので」


 零は、少しだけ困ったように笑った。


「姉たちが魔法少女なのは知ってますけど。……僕は、そういうのとは縁がなくて」


「そうか」


 セルゲイは、少しの間、黙っていた。

 それから、何気ない調子で聞いた。


「君は、この後どこへ?」


「スーパーです。夕飯の買い物に」


「君が、買い物を?」


「うち、僕が料理担当なので。……今日は、生姜焼きです」


「……料理担当」


「母も作りますけど。朝ご飯と、弁当は、だいたい僕が」


 セルゲイの目が、僅かに細められた。


「毎朝、弁当を?」


「五人分です。……慣れれば、そんなに大変じゃないですよ」


 セルゲイは、零の手を見た。

 包丁を握り慣れた、少しだけ荒れた手だった。

 指先に、小さな火傷の痕が一つ。

 それ以外に、何もない。

 剣を握る者の手の皮の厚さも、魔法を扱う者に特有の、指先の微かな痺れの痕もない。


「……一つ、聞いてもいいかな」


「はい」


「君のお姉さんが言っていた。……黒いドレスの魔法少女が、君の周りによく現れる、と」


 零は、瞬きをした。


 それから、心底困ったように、眉を下げた。


「……姉ちゃん、そんなこと言ったんですか」


「ああ」


「すみません。……姉、ちょっと思い込みが激しくて」


 零は、頭を掻いた。


「確かに、家の近くで、そういう人を見たって話は聞きます。でも、僕は会ったこともないですし。……姉が勝手に、付きまとわれてるって心配してるだけなんです」


「会ったことは、ないのか」


「テレビでは、見ましたけど」


 零は、少しだけ笑った。


「ぼやけた映像で、よく分からなかったです」


 セルゲイは、しばらく零の顔を見つめていた。


 表情に、揺れがない。

 目の動きにも、不自然なところがない。

 嘘をつく人間に特有の、ほんの僅かな呼吸の乱れも、なかった。

 セルゲイは、何十人もの魔法少女を見てきた。

 嘘をつく子も、何かを隠す子も、怯えを押し殺す子も。

 その経験が、目の前の少年は「何も持っていない」と告げていた。


「……そうか」


 セルゲイは、小さく頷いた。


「時間を取らせて、すまなかった。……生姜焼き、うまく作れるといいな」


「ありがとうございます」


 零は、軽く頭を下げて、商店街の方角へ歩き出した。

 背中に、視線を感じていた。

 振り返らなかった。

 角を曲がって、セルゲイの姿が見えなくなるまで、歩く速さも変えなかった。

 角を曲がった瞬間、零は、止めていた息を、長く吐き出した。

 校門の前の通りに、黒い車が一台、停まっていた。

 運転席に、セルゲイが戻っていた。

 助手席には、真っ赤なマフラーを巻いた白い短髪の少女が、黙って座っている。

 セルゲイは、黒い手帳を開いた。


 几帳面な字が並んでいる。


 『三神。姉妹。炎と風。連携良好』

 『姉の証言:黒いドレスは、弟に付きまとう』

 『隣家:星監総帥、ヴィクトリア・ローゼンベルグ』

 その下に、セルゲイは新しい一行を書き加えた。

 『三神零。魔力反応なし。挙動に不審点なし。一般人』

 ペンを置いて、しばらく、その一行を見つめていた。


「……ただの、少年だ」


 セルゲイは、呟いた。


 料理が得意な、どこにでもいる高校生。

 魔力の欠片もない。

 嘘をついている様子もない。


「……では、なぜ」


 セルゲイは、手帳を閉じて、フロントガラスの向こうを見た。

 商店街の方角へ、少年の背中が消えていった角。


「黒いドレスは、あの少年の周りに現れる?」


 隣の席で、フラウが、ぽつりと言った。


「……分からない、の?」


「分からん」


 セルゲイは、正直に答えた。


「何十年も、人を見てきた。……その目が、あの少年は何も持っていないと言っている」


「……なら、何も持ってないんじゃ」


「そうかもしれん」


 セルゲイは、エンジンをかけた。


「だが、何も持っていない少年の隣の家に、星監の総帥が住んでいる。……それだけで、十分に分からん」


 黒い車が、ゆっくりと走り出した。

 答えの出ない問いが一つ、車内に残っていた。

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