第三十一話
抜けるような秋晴れの空の下。
三神零の通う高校は、年に一度の祭典『秋桜祭』の熱狂に包まれていた。
校門には色鮮やかなアーチが掲げられ、グラウンドにはたこ焼きやフランクフルトの屋台が立ち並ぶ。校舎内は一般客や他校の生徒たちでごった返し、すれ違うのも一苦労なほどの盛況ぶりだった。
そして、二年三組の『マジカル☆カフェ〜あなたの心に極大魔法!〜』もまた、大行列を作る大成功を収めていた。完璧な事前準備と、オタクたちの情熱が注ぎ込まれた内装が、客の心を鷲掴みにしていたのだ。
だが、その大成功の裏で。
三神零は、一人絶望の淵を歩き続けていた。
(……喋ったら終わる。喋ったら、ただの痛い男声の女装狂いだ……!)
校舎の一階から二階へと続く階段の踊り場で、零はピタリと立ち止まっていた。
身に纏うは、クラスの女子たちが本気で作った、ゴシック調の黒いフリルドレスと紫がかった漆黒のロングウィッグ。背中には銀紙で装飾された巨大な段ボール製の大剣。顔には、ゴースト特有のミステリアスさを引き立てる薄化粧。
本来なら、ここで「私の心は誰にも覗かせない」などと痛ポエムを朗読しながら客引きをしなければならない。
しかし、零は本番当日の朝、一つの『無言の宣伝戦略』を編み出していた。
声を出せば男だとバレてシュールな笑いを取ることになる。ならば、一切喋らなければいいのだ。
零は首から『2−3 魔法少女カフェ営業中!』と書かれた大きなプラカードを下げ、ひたすら無言で、無表情のまま校内を練り歩くという『サンドイッチマン・スタイル』を採用した。
これが、予想外の奇跡を生んだ。
羞恥心と絶望で完全に死んだ零の目が、ゴーストの『冷酷で見下すような眼差し』を完璧に再現。無言でプラカードを提げて佇むその姿は、本物のゴーストが持つ底知れぬオーラを放っていた。
すれ違う客たちは「えっ、あのコスプレめっちゃクオリティ高くない!?」「無口でクールなところまで完全再現じゃん!」「あの目で見下されたい!」と勝手に勘違いし、次々と二年三組のカフェへと吸い込まれていったのである。
(よし。このまま無言を貫き通せば、ただの『クオリティが高い無口なコスプレイヤー』として一日をやり過ごせる……)
零が内心で安堵の息を吐き、次の廊下へと足を踏み出そうとした、その時だった。
「——本当に、熱気がすごいですね」
「うんっ! 屋台の匂い、すっごく美味しそう!」
階段の下から上がってきた、二つの声。
その声を聞いた瞬間、零の心臓が、ヒュッ、と音を立てて凍りついた。
上がってきたのは、二人の少女だった。
一人は、清楚な白いブラウスに秋物のカーディガンを羽織り、銀髪を揺らす美しい少女。
もう一人は、活動的なパーカー姿で、金髪のツインテールを弾ませる小柄な少女。
(嘘だろ……。羽衣緋雪と、只野真奈……!? なんでこんな時間にもう来てるんだよ!)
生徒会の話では、彼女たちは「後夜祭のスペシャルゲスト」として夕方に来るはずだった。
しかし、広報活動の一環として、少し早めに私服で来校し、お忍びで文化祭を楽しもうとしていたらしい。日本支部のトップエース二人が、まさかのタイミングで目の前に現れたのだ。
零は慌てて背を向け、逃げ出そうとした。
しかし、遅かった。
「あ、見て緋雪ちゃん! あそこの踊り場にいるの——」
真奈が階段の上を指差し、その言葉が途切れた。
緋雪もまた、真奈の視線の先を追い、息を呑んだ。
踊り場に佇む、紫がかった漆黒の髪と、白と黒の魔装。背に負った大剣。
どこからどう見ても、自分たちを窮地から救い、そして特級魔獣を一撃で消し去った、あの『特S級・未登録魔法少女ゴースト』の姿がそこにあった。
「なっ……!?」
「ゴ、ゴースト……!? どうして、こんなところに!」
エース二人の顔つきが、一瞬にして『戦士』のものへと変わった。
周囲には一般人が大勢いる。もし彼女がここで特S級の魔力を暴走させれば、大惨事になる。いや、そもそもなぜ学校の文化祭などに潜入しているのか。レガリアの残党でも追ってきたのか。
様々な最悪の予測が脳裏を駆け巡り、緋雪と真奈の指先が、魔装を展開するために僅かに魔力を帯びた。
(や、やばいッ! 本物だと勘違いして臨戦態勢に入ってる!)
ここで彼女たちが魔法をぶっ放せば、校舎が吹き飛ぶ。
零はパニックになりながら、無言の誓いをかなぐり捨てた。
「ま、待ってくださいッ!」
踊り場から、野太い、焦りに満ちた男子高校生の低い声が響き渡った。
「…………え?」
「は?」
緋雪と真奈の動きが、ピタリと止まった。
二人は顔を見合わせ、それから再び、踊り場にいるゴースト(零)を凝視した。
零は両手を顔の前で振りながら、首から下げた『カフェ営業中』のプラカードを必死にアピールした。
「コ、コスプレです……! クラスの出し物の宣伝で、やらされてるだけで……! 本物じゃないです!」
完全に声変わりを終えた、低く響く男声。
緋雪と真奈はポカンと口を開け、数秒間フリーズした後、ゆっくりと零に近づいてきた。
そして、魔力探知の感覚を研ぎ澄ませるが……目の前の人物からは、あの氷と炎と闇の圧倒的な魔力波形は微塵も感じられない。どころか、魔力因子すら持たない、ただの一般人の気配しかしない。
さらによく見れば、顔立ちこそ驚くほど似ているが、肩幅は女性にしては広く、首筋にはうっすらと喉仏が見え、胸元は完全に真っ平らだった。背に負っている大剣も、よく見れば段ボールに銀紙を貼った手作りの小道具だ。
「あ……男の人……だったのですね」
緋雪が、ホッと安堵の息を吐きながら肩の力を抜いた。
「びっくりしたー! 本物のゴーストかと思ったよ! お兄さん、すっごくクオリティ高いね!」
真奈もケラケラと笑いながら、魔力を引っ込めた。
誤解は完全に解けた。特S級の魔力がないこと、そして男であるという物理的な事実が、彼女たちの警戒心を一瞬で解きほぐしたのだ。
(よ、よかった……! なんとか最悪の事態は回避できた……!)
零は内心で滝のような冷や汗を拭いながら、ぺこりと頭を下げた。
なんとかこの場をやり過ごし、早々に立ち去ろう。そう思った矢先だった。
「……あれ? あなた……」
緋雪が、至近距離で零の顔をじっと覗き込んできた。
蒼い瞳が、零の瞳と交差する。
「もしかして、この前駅前で、クレープ屋を案内してくれた学生さん……ですか?」
ビクッ! と零の肩が跳ねた。
化粧をしてウィッグを被っていても、至近距離で見つめられれば、素の顔の面影はどうしても残る。
「あっ! ほんとだ! この前のイベントの握手会で、『内緒の友達に似てる』って言ったお兄さんじゃん!」
真奈もまた、零の顔を指差して声を上げた。
万事休す。完全に顔を覚えられていた。
「あ、ははは……奇遇ですね。こんなところで……」
零は引きつった笑みを浮かべることしかできなかった。
しかし、次の瞬間。緋雪と真奈の様子が、どこかおかしいことに気がついた。
「そうでしたか……あなたが」
緋雪は、プラカードを首から下げ、段ボールの大剣を背負う零の姿を、上から下までじっと見つめた。
普段は親切で、優しい普通の男子高校生。
それが今、クラスのために、恥を忍んで自分が大ファンである(と思い込んでいる)ゴーストの精巧な女装コスプレをして、一生懸命に無言で客引きの看板持ちをしている。
その健気で必死な姿と、本物のゴーストそっくりに整った冷たくも美しい顔立ち(ベースが同じなのだから当然である)。
トクン、と。
緋雪の胸の奥で、小さな、しかし確かな高鳴りが響いた。
(……なんて、一生懸命な人なの。それに……男の人なのに、すごく、綺麗……)
緋雪の白い頬が、ポッと桜色に染まる。
彼女にとって、ゴーストは届かない憧れの存在であり、追いつくべき目標だ。しかし目の前にいるのは、同じ顔を持ちながらも、自分に優しく接してくれた、等身大の優しい少年。その奇跡のようなギャップが、氷の女王の心を急速に溶かしていた。
「お兄さん、すごい! この衣装、自分で作ったの!?」
真奈もまた、目をキラキラと輝かせて零に身を乗り出してきた。
彼女も同様だった。握手会で言葉を交わした、ゴーストのことを「強くて優しい」と理解してくれていた青年。彼が今、自分たちの推しの姿をして、照れ臭そうにしている。
(お兄さん、すっごくかっこいい……! ゴーストみたいに冷たくないし、なんだか守ってあげたくなっちゃう!)
真奈のピンク色の瞳にも、明らかな熱がこもっていた。
「あ、いや、衣装はクラスの女子が作って……俺はただ、着せられてるだけで……」
後ずさる零に対し、二人はズイッと距離を詰めてきた。
「学生さん。とても、お似合いですよ。……本物のゴーストよりも、親しみやすくて、私は好きです」
緋雪が、上目遣いで、恥じらいを含んだ微笑みを向けてくる。
その破壊力は特級魔獣のブレスよりも凄まじく、零はドギマギして視線を泳がせた。
「私も私も! ねえお兄さん、せっかくだから一緒に写真撮ろうよ!」
真奈がスマホを取り出し、零の腕にギュッと抱きついてきた。
右腕には土属性の豪腕娘、正面には氷の女王。日本支部が誇る二大エースに完全にロックオンされ、零の脳内はパニック状態に陥った。
「えっ、ちょ、写真!? いや、俺はただの裏方で……!」
「遠慮しないでください。私たち、学生さんのクラスのカフェに行きますから。案内してくれますか?」
緋雪が、そっと零の左腕に手を添えた。
(なんなんだこの状況!? なんでエース二人が顔を真っ赤にして俺の腕を掴んでるんだ!? 俺、敵対してる特S級の野良魔法少女だぞ!?)
正体を知らない彼女たちからすれば、目の前にいるのは「健気で心優しく、推しのコスプレを完璧に着こなすイケメン(美女顔)の男子高校生」である。
クラスの悪ノリで始まったゴーストのコスプレが、まさか本職のエース二人に強烈な『一目惚れフラグ』を突き立てる結果になるとは、誰が予想できただろうか。
「あーっ! 三神の野郎、あんな美少女二人を両手に花で歩いてやがる!」
「おい、あの二人の子、どっかで見たことないか? すげえ可愛いんだけど!」
「三神くんのゴーストコスプレ、マジで無双してるじゃん!」
階段を降りていく三人を見て、周囲の生徒たちがどよめき、さらにカフェの客が増えていく。
「さあ学生さん、カフェに案内してくださいね」
「お兄さんのおすすめ、全部頼んじゃうから!」
「…………はい」
抵抗を諦めた零は、死んだような目でプラカードを揺らしながら、エース二人を引き連れて二年三組の教室へと向かうしかなかった。
アメリカやロシアの刺客が迫る中、未登録魔法少女ゴーストは。
文化祭という平和な戦場で、魔法少女たちの『恋心』という、全く別の、そしてある意味で最も厄介な包囲網に捕らわれてしまったのであった。
彼の胃壁が崩壊する日は、そう遠くないかもしれない。




