第三百四話
郵便受けの口から、白い封筒の角が三つ、覗いていた。
隣の洋館の門柱に取り付けられた、真鍮の郵便受けだった。
星監が屋敷を構えた時に据え付けたもので、これまで中に入っていたのは、町内会の回覧板と、近所のスーパーのチラシくらいのものだった。
汐里は、その三つの角を、しばらく門の内側から眺めていた。
切手が、貼られていない。
消印もない。
誰かが、直接ここまで届けに来たのだ。
汐里は、郵便受けの蓋を開けて、封筒を取り出した。
三通とも、宛名は同じだった。
『水瀬汐里様』。
だが、その字が、三通とも、まるで違っていた。
一通目は、細く、硬く、定規で引いたように端正な字。
二通目は、丸く、柔らかく、少しだけ右上がりの字。
三通目は、宛名の欄からはみ出しそうなほど大きく、筆圧の強い、殴り書きのような字。
汐里は、三通を胸に抱えて、屋敷の縁側へ戻った。
冬の朝の日差しが、縁側の板の上に斜めに差し込んでいる。
汐里は、そこに座って、膝の上に三通を並べた。
しばらく、どれから開けるか迷った。
それから、一番硬い字の封筒を手に取った。
白峰透からの手紙は、便箋三枚にわたっていた。
一行目から、背筋を伸ばしたような文章だった。
時候の挨拶。自分の名前と、所属と、手紙を書くに至った経緯。
そして、二枚目の半ばから、ようやく本題が始まった。
『あの夜、私はあなたの防壁に刃を当てました。
あなたが先輩の背中を守るために覚えた壁だと、知っていながら。
先輩として、後輩に刃を向けたことを、深くお詫び申し上げます』
三枚目は、ほとんどが謝罪の繰り返しだった。
言い訳は、一言も書かれていなかった。
ただ、最後の一行だけが、他と少しだけ違っていた。
『奈々美を、もう戦わせたくなかった。
それだけは、今も変わりません』
その一行だけ、字が僅かに滲んでいた。
書き直そうとして、やめたような跡があった。
汐里は、便箋を丁寧に畳んで、封筒に戻した。
二通目は、雨鏡鏡花からだった。
封筒を開けると、淡い桜色の便箋が出てきた。
隅に、小さな蛍の絵が描かれている。
色鉛筆で、丁寧に塗られていた。
『汐里ちゃんへ。
ごめんなさい。本当に、ごめんなさい。
居場所を探しに行ったのは私です。
焔様に怒られて、たんこぶができました。今も痛いです』
汐里は、思わず口元を押さえた。
手紙は、謝罪の後、とりとめのない話に移っていった。
寮の廊下で、夜中に一緒に抜け出して蛍を見たこと。
先輩が窓を開けて、小川の上を飛ぶ光を指さしてくれたこと。
二人並んで朝まで正座させられて、先輩が途中で寝てしまったこと。
最後の一文は、こうだった。
『先輩の髪、今は誰が結んでるのかな。
自分で結んでるのかな。
もし汐里ちゃんが結んであげる機会があったら、右側を少しきつめにしてあげて。
先輩、右側がすぐほどけるの』
汐里は、便箋を胸に当てて、しばらく目を閉じていた。
三通目の封筒は、ほとんど破るようにして糊付けされていた。
汐里は、苦労して封を開けた。
中から出てきたのは、ノートの切れ端のような、罫線入りの紙が一枚だけだった。
そこに、宛名と同じ殴り書きの字で、たった三行。
『ごめん。
名前、覚えた。水瀬汐里。
次に会ったら、ちゃんと挨拶する。 疾風』
汐里は、その紙を見つめたまま、固まった。
それから、肩が震え始めた。
「……ふ、ふふっ」
笑い声が、冬の縁側にこぼれた。
汐里は、紙を持ったまま、身体を折って笑った。
目尻に、涙が滲んだ。
十二年、あの白い礼拝堂で一度も言葉を交わさなかった相手が。
自分を潰しに来た相手が。
罫線入りの紙に、自分の名前を大きく書いて、覚えたと言っている。
「……先輩!」
汐里は、縁側から立ち上がって、庭の垣根へ駆け寄った。
垣根の向こうで、奈々美が洗濯物を干していた。
「あら、汐里ちゃん。どうしたの、そんなに笑って」
「手紙が、来たんです。三人から」
汐里は、垣根越しに三通の手紙を差し出した。
奈々美は、洗濯ばさみを口にくわえたまま、それを受け取った。
一通目を読み、二通目を読み、少しだけ目を細めた。
そして、三通目を開いた。
しばらく、その三行を見つめていた。
「……」
奈々美は、洗濯ばさみを口から外した。
「……いい子じゃない」
その声は、柔らかかった。
「会ったこと、ないけど。……いい子よ、この子」
「はい」
汐里は、涙を拭いながら頷いた。
「今度会ったら、私も、ちゃんと挨拶します」
奈々美は、二通目の便箋をもう一度開いた。
最後の一文を、じっと見つめる。
——右側を少しきつめにしてあげて。先輩、右側がすぐほどけるの。
奈々美は、自分の後頭部に手をやった。
今朝、自分で結んだ髪の、右側が、少しだけ緩んでいた。
「……よく、覚えてるわね。あの子」
奈々美は、小さく笑って、便箋を汐里に返した。
その日の放課後。
零の部屋の小さな座卓の上に、教科書とノートと問題集が山のように積まれていた。
向かいに座っているのは、白百合の制服姿の緋雪だった。
三者面談の話を聞いてから、緋雪は問題集を三冊抱えて現れるようになった。放課後に時間が空くたびに、こうしてこの部屋に来ている。
「……零くん」
「はい」
「この三ページ、全部やり直し」
「え」
「公式の使い方が、根本から間違ってるわ。……四週間の空白が、ちょうどここに当たってたのね」
緋雪は、ノートを零の前に戻した。
赤ペンで、容赦のない丸と線が書き込まれていた。
「お母様が、先生の前で『成績は本人が取り戻す』って仰ったんでしょう」
「……なんで知ってるの」
「お母様から、聞いたわ」
零は、天井を仰いだ。
それから二時間。
緋雪の指導は、容赦がなかった。
間違えれば、どこで間違えたのかを本人に言わせる。
分からなければ、分かるまで同じ問題を三回解かせる。
答えが合っても、なぜ合っているのかを説明させる。
零は、黙々と問題を解き続けた。
一時間を過ぎたあたりで、零は鉛筆を置いて、小さく息を吐いた。
「……緋雪さん」
「なに」
「鬼って、言われない?」
「言われるわ。白百合の後輩に」
緋雪は、赤ペンの蓋を閉めないまま答えた。
「でも、分かってきたでしょう」
「……うん」
「なら、あと一時間」
部屋の扉が、控えめに叩かれた。
「二人とも、お疲れさま。夜食よ」
奈々美が、盆を持って入ってきた。
盆の上には、小さなおにぎりが六つと、湯気の立つ味噌汁が二つ。
「緋雪ちゃん、ありがとうね。この子の面倒まで」
「いえ。……零くんには、成績を取り戻してもらわないと」
「あら、頼もしい」
奈々美は、くすくすと笑って、部屋を出ていった。
廊下の角から、澪がそっと部屋を覗いていた。
開いた扉の隙間から、弟と銀髪の少女が、座卓を挟んで頭を寄せ合っている姿が見える。
「……今日も、緋雪ちゃん来てるのね」
澪は、小さく呟いた。
ここ最近、この家に緋雪が来ない日のほうが少ない気がする。
母は、それを当然のように受け入れている。
父は、緋雪が来るたびに、なぜか夕飯のおかずが一品増える。
澪は、しばらく部屋の中を見ていた。
それから、何も言わずに自分の部屋へ戻っていった。
同じ頃。
都内某所、勾玉の施設。
地下三階の聴取室で、二人の使徒が向かい合わせの椅子に座らされていた。
柊木静と、永瀬久遠。
捕らえられてから、数日が経っていた。
割られた大盾も、凍りついた二丁拳銃も、ここにはない。
二人とも、簡素な作業着を着せられていた。
「……では、最後の確認をさせていただきます」
白衣の隊員が、手元の記録を読み上げた。
「あなた方に接触してきた海の向こうの研究機関。……正式な名称を、もう一度」
久遠が、椅子の背にもたれて、天井を見上げた。
「中央魔法技術研究院」
「通称は」
「セントラル。……向こうの人間は、みんなそう呼んでたわ」
隊員が、その名を記録に書き留めた。
「目的は」
「器よ」
久遠は、あっさりと答えた。
「あの紅い目の子。……氷と炎を、同時に使える子」
「なぜ、その子を?」
「二つの属性を、一つの身体で同時に扱える魔法少女は、周防凛音以外は三つの属性を使えるゴーストのみ」
久遠は、天井を見上げたまま続けた。
「セントラルは、その仕組みを知りたがってる。……解いて、分けて、組み直して、自分たちの手で作れるようにしたいのよ」
隊員の手が、一瞬だけ止まった。
「……作る、と」
「ええ。あそこは、そういうところよ」
久遠の声に、僅かな嫌悪が混じった。
「強い魔法少女を、見つけるんじゃなくて、作るの。……それも、副作用のない形で」
聴取室が、静まり返った。
隣の椅子で、静が小さく口を開いた。
「……第九が、あの人たちと話をつけていたの」
「第九使徒、工藤美沙ですね」
「ええ。第九が捕まって、話が宙に浮いたから、私たちが引き継いだ。……でも、もうセントラルは、窓口を待つつもりはないみたい」
「と、言いますと」
「自分たちで来るわ」
静は、膝の上で両手を組んだ。
「近いうちに、この国に」
聴取は、それで終わりだった。
一時間後。
施設の裏手の、人目につかない搬入口に、一台の車が停まっていた。
車の脇に、女が一人立っていた。
長い髪を緩くまとめた、二十三歳ほどの美しい女。
落ち着いた色のコートを羽織り、両手をポケットに入れている。
搬入口の扉が開き、静と久遠が、八咫の隊員に付き添われて出てきた。
二人の足が、止まった。
「……焔」
「迎えに来たわよ」
天城焔は、ポケットから手を出して、軽く上げた。
静と久遠は、しばらく何も言えなかった。
捕まった時、もう戻れないと思っていた。
陽動に失敗した使徒が、どう扱われるのか。
礼拝堂の白い壁の中で、どんな処分が待っているのか。
だが、迎えに来たのは、焔自身だった。
「……怒って、ないの」
久遠が、恐る恐る聞いた。
「怒ってるわよ」
「……」
「帰ったら、朝まで正座よ。二人とも」
久遠と静は、顔を見合わせた。
それから、同時に小さく息を吐いた。
「……奈々美は」
静が、ぽつりと聞いた。
「奈々美は、元気?」
「元気よ、決闘の時にフライパンで、私の頭をたたきに来たわ」
焔は、あっさりと答えた。
静と久遠が、同時に固まった。
「……は?」
「鉄のフライパンよ。……たんこぶができたわ。今も、少し痛い」
「ちょ、ちょっと待って」
久遠が、額を押さえた。
「フライパン?決闘に?」
「ええ」
「……奈々美らしい」
静が、呆れたように、でも少しだけ嬉しそうに呟いた。
「それから」
焔は、車の扉を開けながら、何でもないことのように付け加えた。
「肉じゃがを食べたわ。二十年ぶりの味だった」
静と久遠が、同時に目を見開いた。
「……ずるい」
「ずるいわ」
二人の声が、重なった。
「同期なのに、私たち、まだ顔も見てないのに」
「先輩ばっかり、ずるい」
「……だったら」
焔は、二人を振り返った。
「今度、顔を見に行けばいいじゃない」
「……」
「ちゃんと、正面から。……あの子は、もう迎えに行かなくても、会ってくれるわよ」
静と久遠は、しばらく黙っていた。
それから、静が小さく頷いた。
「……そうね。今度」
「肉じゃが、残ってるかしら」
「残ってないわよ。私と汐里で、全部食べたもの」
「ずるい!」
焔は、笑いながら二人を車に押し込んだ。
同じ日の夜。
翼の家の居間に、円卓の面々が集まっていた。
ゴースト、緋雪、凛花、白鳥。
ヴィクトリアとルディア、真里。
縁側の向こうでは、奈緒が少女たちと一緒に、夜空の星を数えていた。
「欧州支部から、報告が入ったわ」
ヴィクトリアが、手元の端末を卓の上に置いた。
その顔は、いつもより少しだけ硬かった。
「中央魔法技術研究院。……セントラルが、動き始めたわ」
「セントラル」
凛花が、その名を繰り返した。
「ゴーストの知り合いのところで、久遠さんが話した名前ね」
緋雪が、静かに補足した。
「ええ。……その記録は、ゴースト様の知り合いから、こちらにも回ってきているわ」
ヴィクトリアは、端末の画面を切り替えた。
「セントラルが、日本への渡航申請を出したそうよ。正規の手続きで、研究者と職員を含む十数名。名目は、『魔法少女の国際共同調査』」
「国際共同調査……」
「協会と白百合の双方に、近いうちに正式な協力要請が届くはずよ。両組織のエースたちの、魔力測定と実地調査」
緋雪の表情が、僅かに強張った。
「……白百合も、対象に」
「ええ。あなたも、周防さんも、おそらく測定対象になるわ」
「でも、それは表向きの話でしょう」
ゴーストが、静かに言うとヴィクトリアは、頷いた。
「本当の狙いは、二つ」
ヴィクトリアの紫の瞳が、縁側の向こうの奈緒へ、それからゴーストへと、順番に向いた。
「奈緒さんと、あなたよ。ゴースト様」
居間が、静まり返った。
「二つの属性を同時に扱う器。……そして、記録のどこにも存在しない、闇属性と炎と氷の属性を持つ未登録の魔法少女」
ヴィクトリアは、端末を閉じた。
「セントラルにとって、これ以上の研究対象はないわ」
「……調査団の顔ぶれは」
ルディアが、袖を下ろして問うた。
「団長は、セルゲイ・ベレンコフ」
ヴィクトリアの声が、僅かに低くなった。
「元軍人。セントラルの魔法少女部隊の指揮官よ。……魔法は使えないけれど、戦場を見る目は、誰よりも確か」
「ご存じですの」
「ええ」
ヴィクトリアは、それ以上は言わなかった。
ただ、膝の上で組んだ指に、ほんの少しだけ力がこもっていた。
ゴーストは、その指先を見ていた。
ヴィクトリアが、何かを言わずに飲み込んだのが分かった。
「奈緒さんの護衛を、見直しましょう」
凛花が、姿勢を正した。
「……私が、奈緒さんの近くにいます」
「周防さん」
「協会の測定対象になるなら、私はどのみち調査団の近くにいることになります。……なら、奈緒さんの傍にいても大した問題もないはずですし、調査団の人たちの動きも見えます」
白鳥が、凛花に深く頭を下げた。
「……ありがとう、周防さん」
「いえ」
凛花は、縁側の向こうの奈緒を見た。
小さな少女は、夜空を指さして、何かを数えていた。
隣の少女に「あれ、みっつめ」と言って、得意げに笑っている。
「……あの子を、器なんて呼ばせません」
凛花は、静かに呟いた。
会議が終わった後、縁側に出たゴーストの隣に、ヴィクトリアが並んだ。
冬の夜空に、星が冷たく光っている。
「……聞かないの?」
ヴィクトリアが、前を向いたまま言った。
「セルゲイのことを」
ゴーストは、しばらく黙っていた。
「聞かないでと言った私がそれを聞くことはできないわ」
ヴィクトリアは、少しだけ目を見開いた。
それから、小さく笑った。
「……そうだったわね」
二人は、それ以上何も言わずに、並んで夜空を見上げていた。
海の向こう、数千キロ離れた空港の出発ロビー。
搭乗口の前の椅子に、男が一人、座っていた。
短く刈り込んだ灰色の髪。
右の頬に、古い傷跡が一本走っている。
背筋を伸ばし、膝の上に一冊の分厚いファイルを広げていた。
セルゲイ・ベレンコフ。
ファイルの一番上に、一枚の写真が挟まれていた。
漆黒のドレスを纏った少女の後ろ姿。
ぼやけた、遠くから撮られた写真だった。
その隣の椅子に、三人の少女が座っていた。
一人は、長い布の包みを膝の上に抱えている。中身は、古めかしい銃身のようだった。
一人は、背中に大きな鎌を背負っている。
一人は、何も持たずに、ただ拳を膝の上で握りしめていた。
「……団長」
布の包みを抱えた少女が、口を開いた。
「日本は、寒いのかしら」
「冬だ」
セルゲイは、ファイルから目を離さずに答えた。
「着いたら、防寒具を買え。……経費で落とす」
搭乗案内のアナウンスが、ロビーに響いた。
セルゲイは、ファイルを閉じて立ち上がると三人の少女も、無言で続く。
同じ頃、同じ空港の、別の搭乗口。
小柄な少女が一人、大きなトランクの上に腰かけていた。
淡い金色の髪に、古風なリボン。
人形のように整った顔立ちの、十六か十七ほどに見える少女だった。
膝の上に、古びた木の杖を横たえている。
少女は、手元のガイドブックを広げていた。
表紙には、日本の寺社と、湯気の立つ温泉の写真が並んでいる。
「……ふむ」
少女は、ガイドブックの一頁を指でなぞった。
「温泉に、寺に、団子か。……悪くないのう」
それから、トランクの上で、腰をとんとんと叩いた。
「長旅は、腰にくるわい。……最近の飛行機は、座席が狭くていかん」
通りがかった子供が、不思議そうに少女を見上げた。
少女は、ポケットから包み紙の飴を一つ取り出して、子供の手に握らせた。
「ほれ。舐めておれ」
子供は、目を丸くして、母親のもとへ駆けていった。
少女は、満足そうに頷いて、またガイドブックに目を落とした。
ヴィルヘルミナ・クロイツ。
秘密結社ヘクセン・ツィルケルの魔女。
今回の旅は、結社の仕事ではなかった。
ただの、観光だった。




