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未登録の魔法少女  作者: 浅川


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第三百三話

 頭のてっぺんが、脈を打つたびに疼いた。

 焔は、焼け焦げた枯れ草の上で、ようやく上体を起こした。

 右手を頭に当てると、指先に、見事な膨らみが触れた。

 十二年、変身を解いていない身体だった。

 どんな刃も、どんな魔獣の爪も、この身体に跡を残せなかった。

 それが、鉄のフライパン一枚で、たんこぶを作っている。


「……ふ、ふふ」


 また、笑いが込み上げてきた。

 焔は、膝を抱えて顔を伏せ、肩を震わせた。

 笑い疲れているはずなのに、止まらなかった。

 冬の風が、中庭を吹き抜けていく。

 さっき打ち上げられた火球の煙は、もう空の彼方へ流れていた。

 焦げた枯れ草の匂いと、雷の後の、鼻の奥がつんとする匂いだけが残っている。


 足音が、近づいてきた。


 焔は、顔を上げた。


 目の前に、奈々美が膝をついていた。


 二十歳の姿のままだった。

 藍色の戦闘服。高く束ねた黒髪。

 右手のフライパンは、足元の枯れ草の上に置かれている。

 髪の先を走っていた電光は、もうほとんど消えかけていた。


「……大丈夫?」


「大丈夫じゃないわよ」


 焔は、頭を押さえたまま答えた。


「たんこぶができたわ。……十二年ぶりに」


「冷やしたほうがいいわね」


「誰のせいだと思ってるの」


「先輩が、手加減しないって言ったから」


 奈々美は、少しだけ笑った。

 それから、右手を差し伸べた。


 白い、細い指。

 二十年前、前線で何度も差し伸べられた手だった。

 倒れた仲間を引き起こし、泣いている後輩の頭を撫で、瓦礫の下から一般人の男を引きずり出した手。

 焔は、その手を見つめていた。


「……先輩」


 奈々美の声が、少しだけ改まった。


「あなたたちも、あの子たちの仲間に入りなさい」


 焔は、瞬きをした。


「……あの子たち?」


「黒いドレスの子よ」


 奈々美は、寮舎の二階の窓のほうへ、ちらりと目を向けた。


「あの子の周りには、きっと、いい子たちが集まってるわ。……うちの子の、お友達みたいだし」


 焔は、奈々美の視線の先を追った。


 崩れかけた二階の窓辺。

 そこに、人影が二つ、身を潜めているのが分かった。

 隠れているつもりなのだろう。

 だが、十秒の決着の間、その窓辺から痛いほどの視線が注がれていたことに、焔は気づいていた。


「……随分、あの子を買っているのね」


「二回も、助けてもらったもの」


 奈々美は、差し伸べた手を下ろさなかった。


「悪い子じゃないわ。……先輩も、分かってるでしょう」


 焔は、しばらく黙っていた。

 それから、奈々美の手を取った。

 引き上げられて、立ち上がる。

 頭のたんこぶが、また一つ疼いた。


「……でも、ね」


 焔は、奈々美の手を握ったまま、静かに首を横に振った。


「その仲間には、入れないわ」


「……」


「変身を固定することで、私たちは、一騎当千の力を永遠に保てる」


 焔の声は、穏やかだった。

 だが、その奥には、どれだけフライパンで叩かれても揺らがないものがあった。


「年を取らない。力が薄れない。誰かを庇って前に出ても、魔力が尽きることはない。……それが、あの夜への、私たちの答えなの」


「……」


「あなたに負けても、それは変えられない。……変えたら、あの夜に死んだ子たちに、顔向けができないもの」


 奈々美は、何も言わなかった。


 あの夜。

 十二年前の厄災。

 力の薄れた年長者から順に、前線で倒れていった夜。

 自分は、その場にいなかった。

 だから、先輩のこの答えを、否定する資格はなかった。


「でもね」


 焔は、奈々美の手をそっと離した。


「薬は、配らないわ」


 奈々美の目が、僅かに見開かれた。


「一般の人に、翼を配るのは、今日でやめる」


 焔は、自分の掌を見下ろした。


「あれは、私たちの答えじゃなかった。……答えを急いだ誰かが、勝手に作ったものよ。それを、私は止めなかった」


「……先輩」


「止めるわ。今日から」


 焔は、顔を上げた。

 その目は、もう笑っていなかった。


「それが、あなたに負けた私にできる、一番大きなことよ」


 奈々美は、しばらく先輩の顔を見つめていた。


 それから、小さく頷いた。


「……それで、十分よ」


 寮舎の二階の窓辺から、漆黒の影が降りてきた。

 影は、中庭の枯れ草の上に音もなく着地した。

 その後ろから、銀髪の少女が、崩れかけた外階段を駆け下りてくる。


 ゴーストと、緋雪だった。


 焔は、降りてきたゴーストを見て、呆れたように片眉を上げた。


「……口を出さないでって、言ったでしょう」


「決闘には、出してないわ」


 ゴーストは、静かに答えた。


「これは、その後の話よ」


「……屁理屈ね」


「そうかもしれないわ」


 焔は、小さく息を吐いた。

 それから、何も言わずに、ゴーストの前に立った。

 奈々美が、少し離れた場所から二人を見ていた。

 緋雪は、その奈々美の傍らに、そっと並んだ。


「……緋雪ちゃん」


 奈々美が、小さく声をかけた。


「今日も、あの子と一緒なのね」


「……はい」


「そう」


 奈々美は、それ以上は聞かなかった。

 ただ、少しだけ嬉しそうに微笑んだ。

 ゴーストは、焔を正面から見据えた。


「……休戦の中身を、確認させて」


「どうぞ」


「一つ。聖薬を、一般の人に配ることを、教団として禁止すること」


「ええ。今、奈々美と約束したわ」


「二つ。あの音のない存在とは、今後一切関わらないこと」


「それも、もう決めたことよ」


 焔は、寮舎の裏山の方角を、ちらりと見上げた。


「……あれは、今もあそこにいるわね」


「知ってたの」


「十秒の間、ずっと見られていたもの」


 ゴーストは、頷いた。


「三つ。捕まえた二人……第四使徒と第十二使徒は、今こちらで預かってる」


「静と、久遠ね」


「海の向こうの研究機関について、話を聞き終えたら、あなたに返すわ」


 焔の目が、少しだけ見開かれた。


「……返してくれるの」


「あの二人は、陽動だった。……それに、子供たちの眠る家の前で、あの二人は看板を壊さなかったわ」


「……」


「壊せたはずなのに」


 焔は、しばらく黙っていた。

 それから、深く頭を下げた。


「……ありがとう」


「私たちとの休戦は、それでいい?」


 ゴーストは、あえて組織の名を口にしなかった。

 少し離れた場所で、奈々美が聞いていたからだ。


「ええ」


 焔は、顔を上げた。


「あなたたちとは、休戦するわ。……別の組織のまま、ね」


「それで、十分よ」


 ゴーストの言葉に、焔は小さく吹き出した。


「……さっきの奈々美と、同じことを言うのね」


 ゴーストの肩が、僅かに強張った。

 焔は、それに気づかないふりをした。

 奈々美が、汐里の様子を見に雑木林のほうへ歩き出した時だった。

 緋雪も、その後ろについていく。

 中庭に、焔とゴーストだけが残された。

 焔は、奈々美の背中を見送りながら、ゴーストにだけ聞こえる声で言った。


「……大事にしなさい」


 ゴーストが、振り返った。


「あの子を」


 焔は、それだけ言って、口を閉じた。


 あの子。

 それが、誰を指しているのか。

 遠ざかっていく母の背中なのか。

 それとも。


 ゴーストは、何も聞き返せなかった。

 ただ、黙って、小さく頷いた。


 焔は、満足そうに笑った。

 それから、頭のたんこぶに手を当てて、顔をしかめた。


「……それにしても、痛いわね、これ」


 雑木林の斜面を、汐里が八咫の隊員に支えられて降りてきた。

 足取りは、少しふらついていた。

 だが、顔色は、あの屋敷の夜ほど悪くはなかった。

 十秒分の消耗は、湖の水面を少しだけ下げただけだった。


「汐里ちゃん」


 奈々美が、駆け寄って肩を支えた。


「大丈夫?」


「大丈夫です、先輩。……ほんの、少しだけでしたから」


 汐里は、弱々しく笑った。


 その視線が、中庭の中央に立つ焔に向いた。

 焔が、ゆっくりと歩いてきた。


 汐里の前で、足を止める。

 深紅の戦装束のまま、長い髪をほどいたまま。

 焔は、汐里に向かって、深く頭を下げた。


「……ごめんなさい、汐里」


 汐里の目が、見開かれた。


「うちの子たちが、あなたを潰しに行った。……透も、鏡花も、早苗も。私が、止められなかった」


「……焔様」


「本当に、ごめんなさい。……三人には、あなた宛てに、謝罪の手紙を書かせているわ」


 汐里は、しばらく言葉を失っていた。

 十二年、焔の背中を見てきた。

 教団の頂点として、誰にも頭を下げなかった人。

 その人が、今、自分の前で頭を垂れている。


 汐里は、首を横に振った。


「……焔様」


「……」


「手紙、待ってます」


 焔が、顔を上げた。


「早苗さんとは、ほとんどお話ししたことがないので。……どんなことを書いてくださるのか、少しだけ楽しみです」


 焔は、少しだけ目を見開いてから、小さく笑った。


「……ええ。三通、必ず届けさせるわ」


「楽しみにしてます」


 汐里の右の頬に、えくぼが浮かんだ。


 寮跡の外周。


 西側の斜面に立っていたヴィクトリアが、ふと顔を上げた。


「……動いたわ」


 裏山の尾根の方角。

 ずっとそこに留まっていた、小さな凪の気配が、ゆっくりと動き始めていた。

 寮跡から、遠ざかる方向へ。

 東側の雑木林では、ルディアも同じものを感じ取っていた。


「……ヴィクトリア・ローゼンベルグ。追いますか」


 通信機越しに、ルディアの声が届いた。

 ヴィクトリアが答えるより先に、別の声が通信に割り込んだ。


『——追わないで』


 ゴーストの声だった。


『今日は、ここまでよ』


 ヴィクトリアは、しばらく尾根を見上げていた。


「……承知したわ」


「承知いたしましたわ」


 二人の声が、重なった。


 裏山の尾根。


 音の消えた小さな場所で、人の形をした何かが、一度だけ振り返った。

 中庭で、雷の女と炎の女が並んで立っている。

 その傍らに、水の女と、銀髪の少女と、黒いドレスの少女。


「……炎は、牙を収めたか」


 温度のない声が、凪の中に落ちた。


「なら、次は」


 その先は、言葉にならなかった。

 凪が、冬の山の奥へと溶けていった。

 後には、枯れ枝を揺らす風の音だけが戻ってきた。


 崩れかけた門の前。


 五郎は、魔法瓶を両手で包んだまま、坂の上を見上げていた。


 足音が、下りてきた。


 淡い色のブラウスを着た女だった。

 顔は、四十代の、見慣れた妻の顔に戻っている。

 腕には、藍色の風呂敷包みを抱えていた。


「……ただいま、あなた」


「……おかえり」


 五郎は、立ち上がった。


 妻の顔を、上から下まで確かめる。

 怪我はない。

 顔色も悪くない。

 ただ、少しだけ疲れたように、目尻が下がっていた。

 五郎は、黙って魔法瓶を差し出した。


「……冷めたぞ」


「あら。飲まなかったの?」


「飲んだ。半分だけだ」


「半分?」


「……残りは、お前の分だ」


 奈々美は、少しだけ目を丸くした。

 それから、魔法瓶を受け取って、蓋を開けた。

 ぬるくなったほうじ茶を、一口すする。


「……ぬるいわね」


「冬だからな」


 五郎は、妻の腕の中の風呂敷包みに目を落とした。


「……使ったのか、それ」


「一回だけよ」


「一回」


「頭に、一回」


 五郎の肩が、震え始めた。


「……ぶ、っ」


「笑わないで」


「く、くくっ……! あ、頭に……フライパン……!」


「先輩が、手加減しないって言ったのよ」


「そういう問題じゃ……っ、くくっ……!」


 五郎は、門柱に手をついて、腹を抱えて笑った。

 奈々美は、呆れたようにそっぽを向いた。

 それでも、その口元は、少しだけ笑っていた。


 帰りの車の中。


 夕暮れの国道を、軽自動車が走っていく。

 窓の外を、冬枯れの田畑が流れていった。

 助手席の奈々美は、膝の上に風呂敷包みを乗せたまま、窓の外を見ていた。


「……ねえ、あなた」


「うん」


「明日のお弁当、何にしようかしら」


 五郎は、ハンドルを握ったまま、少しだけ笑った。


「……零に、聞いてみろ」


「あの子に任せると、また卵焼きが甘くなるわよ」


「甘いのがいいんだろう、玲奈は」


「そうね」


 奈々美は、窓に額を寄せた。

 夕日が、その横顔を橙色に染めていた。

 三神家の台所では、澪が不機嫌そうな顔で、流しの前に立っていた。

 ボウルの中には、皮を剥いたじゃがいもが山のように積まれている。

 まな板の上には、くし切りにした玉ねぎ。

 人参も、糸こんにゃくも、全部準備が済んでいた。

 澪は、それらを睨みつけながら、壁の時計を見上げた。


 午後五時半。


 晩ご飯までには帰る。

 母は、そう言った。


 玄関の鈴が、三つ鳴った。


「——ただいま」


 澪は、包丁を置いて、玄関まで走った。

 三和土に、母が立っていた。

 淡い色のブラウス。藍色の風呂敷包み。

 四十代の、いつもの顔だった。

 澪は、母の顔を、上から下まで確かめた。

 二十歳の顔には、なっていない。

 怪我も、していない。


 澪の肩から、ゆっくりと力が抜けていった。


「……おかえり」


「ただいま。下ごしらえ、してくれた?」


「……山ほど、剥いた」


「あら、ありがとう」


 奈々美は、娘の頭を軽く撫でて、台所へ向かった。

 少し遅れて、また鈴が三つ鳴った。


「ただいま」


 零だった。


 澪は、弟の顔を見た。

 弟は、少しだけ疲れた顔をしていたが、どこも怪我はしていないようだった。


「……遅い」


「ごめん」


「肉じゃが、手伝いなさいよ」


「うん」


 その夜、三神家の台所には、三人が並んで立った。

 母が玉ねぎを炒め、息子が牛肉を入れ、娘がじゃがいもを鍋に流し込む。

 軽いほうのフライパンが、コンロの上で小気味いい音を立てていた。


 夕飯の後。


 奈々美は、タッパーに肉じゃがを詰めて、庭へ出た。

 垣根の向こうの洋館の、一階の縁側に、明かりが灯っていた。


「汐里ちゃん」


 垣根越しに声をかけると、縁側の障子が開いた。


 汐里が、顔を出した。

 その後ろに、もう一人、人影が座っていた。

 長い髪を緩くまとめた、二十三歳ほどの美しい女。

 片手に、濡らした手拭いを包んだ保冷剤を持ち、頭のてっぺんに押し当てている。


「……先輩」


「あら」


 奈々美は、少しだけ目を丸くした。

 焔が、縁側で気まずそうに手を上げた。


「……汐里の様子を、見に来ただけよ」


「……玄関で、あの自称守護者に三十分くらい睨まれたけど」


「そう」


 奈々美は、くすりと笑って、タッパーを垣根越しに差し出した。


「二人分、入ってるわ」


 汐里が、両手でそれを受け取った。

 縁側に並んで座った二人の前で、タッパーの蓋が開けられた。

 湯気と一緒に、甘辛い醤油の匂いが、冬の夜の空気に広がっていく。

 焔は、箸を手に取って、じゃがいもを一つ口に運んだ。


 ゆっくりと、噛む。


 しばらく、何も言わなかった。


「……二十年ぶりね」


 焔は、ぽつりと呟いた。


「この味」


 汐里が、隣で小さく頷いた。

 垣根の向こうで、奈々美は、少しだけ照れくさそうに笑っていた。

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