第三百二話
小石を、一つずつ並べていった。
寮跡を見下ろす雑木林の斜面。
汐里は、倒木の脇に腰を下ろして、距離を、確かめていた。
ここから中庭まで、およそ二百五十メートル。
桧山が測った有効距離は、三百メートル。
余裕は、五十メートルしかない。
これ以上、一歩でも下がれば、道が細くなる。
汐里は、錫杖を両腕に抱えて、胸の奥に意識を向けた。
そこに、細い水路があった。
自分の中から、斜面を下り、雑木林を抜け、寮の中庭へと続いていく、目に見えない道。
その先に、先輩がいる。
水は、まだ流れていない。
道は、静かにそこにあるだけだった。
「……先輩」
汐里は、小さく呟いた。
傍らの木陰では、八咫の隊員が一人、無言で周囲を見張っていた。
寮舎の二階。
窓枠の半分が崩れ落ちた部屋の中に、ゴーストと緋雪が身を潜めていた。
汐里の部屋の、隣。
かつて、奈々美が使っていた部屋だった。
床には、割れた窓ガラスと、色褪せた畳の残骸が散らばっている。
壁に貼られていたらしいポスターの跡が、四角く日焼けせずに残っていた。
ゴーストは、窓の縁に片膝をついて、中庭を見下ろしていた。
中庭の中央に、二人の女が向き合っている。
深紅の戦装束の、若い女。
淡い色のブラウスを着た、四十代の女。
その四十代の女が、右手に黒い鉄のフライパンを握っていた。
「……本当に、持ってきたのね」
緋雪が、ゴーストの隣で小さく呟いた。
「今朝、戸棚の奥の鉄のフライパンが消えてたの。……軽いほうは、コンロの上に置いてあった」
「……選んだのね」
「丈夫なほうを、ね」
緋雪は、何も言えずに口元を押さえた。
ゴーストは、中庭から目を離さなかった。
口は出さない。
焔と、そう約束させられた。
母がどれだけ危なくなっても、ここから飛び降りてはいけない。
右胸の奥が、鈍く軋んでいた。
傷のせいではなかった。
寮跡の外周。
東側の雑木林には、ルディアと真里、それからルカとリリアが散っていた。
西側の斜面には、ヴィクトリアとシルヴィア、レイラ。
寮跡を中心に、半径一キロの輪が、目に見えない形で張られている。
誰も、口を開かなかった。
ただ、全員が、寮跡の方角と、その周囲の空気の揺らぎに、神経を張り詰めていた。
崩れかけた門の前。
五郎は、門柱の横の石に腰を下ろしていた。
今日は、缶コーヒーを持っていなかった。
代わりに、奈々美が家を出る前に持たせた、古い魔法瓶を握っている。
中身は、ほうじ茶だった。
——門の前で待つなら、温かいものを飲みなさい。冷えるから。
出かける間際に、妻はそう言って魔法瓶を押しつけてきた。
これから決闘に行く人間の言うことではなかった。
五郎は、魔法瓶の蓋を開けなかった。
ただ、両手で包んで、坂の上の古い建物を見上げていた。
そして、誰も気づかなかった。
寮舎の裏山の尾根。
冬枯れの木々の間に、半径数メートルだけ、音の消えた場所があった。
人の形をした何かが、そこに立っていた。
片腕のない、温度のない存在。
その目が、中庭の二人を、静かに見下ろしていた。
中庭では、焔が、目の前の鉄のフライパンをじっと見つめていた。
「……一本だけ?」
焔の声には、呆れと、困惑と、ほんの少しの納得が混じっていた。
「あなた、二刀流でしょう。……昔は、両手に剣を持って前線に出てたじゃない」
「ええ」
奈々美は、あっさりと頷いた。
「もう一本は、コンロの上」
「……コンロ」
「晩ご飯の支度が、あるのよ。肉じゃがを作るのに、玉ねぎを炒めないといけないの」
焔は、しばらく何も言えなかった。
冬の風が、中庭の焼け焦げた枯れ草を揺らしていく。
「……それに」
焔は、ふと何かを思い出したように、奈々美の足元を見た。
「あなた、昔はブーツに隠しナイフを仕込んでたわよね」
「……」
「踵を鳴らすと刃が飛び出して、それを足で振り回して。……前線の魔獣が、上からも下からも斬られて、何が起きたか分からないまま倒れていったの、覚えてるわ」
奈々美は、少しだけ頬を染めた。
「……やめたの」
「やめた?」
「主人に、見られてから」
奈々美は、フライパンの柄を握り直した。
「……はしたないって」
焔が、固まった。
同じ頃、門の前で、五郎が盛大なくしゃみをした。
「……っくしょん!」
魔法瓶を取り落としかけて、慌てて抱え直す。
五郎は、鼻をすすりながら首を傾げた。
「……誰か、俺の話でもしてるのか」
中庭では、焔が長い沈黙の後、ようやく口を開いた。
「……はしたない」
「ええ」
「前線で、魔獣の首を足で刈ってた子が」
「昔の話よ」
「……はしたない」
焔は、額に手を当てて、しばらく俯いていた。
それから、顔を上げた。
その目に、もう迷いはなかった。
「……いいわ」
焔は、地面に突き立てていた薙刀を、ゆっくりと引き抜いた。
紅蓮の刃が、冬の空気の中で陽炎を立ち上らせる。
中庭の温度が、一気に上がった。
「なら、それで来なさい」
奈々美は、目を閉じた。
雑木林の斜面で、汐里が息を呑んだ。
胸の奥の水路が、急に太くなった。
自分の中の、凪いだ湖の水が、斜面を下り、雑木林を抜け、中庭の一点へと流れ出していく。
引きずられるような感覚ではなかった。
先輩が、道の向こうから、そっと手を伸ばして、水を汲み上げている。
そういう感覚だった。
「……先輩」
汐里は、錫杖を強く抱きしめた。
中庭に、雷光が満ちた。
青白い光が、焼け焦げた枯れ草を、崩れかけた寮舎の壁を、焔の深紅の戦装束を、真っ白に染め上げる。
雷鳴が、冬の山にこだました。
光が収まった時、中庭の中央に、二十歳前後の女が立っていた。
深い藍色の戦闘服。
肩から背中にかけて、稲妻の紋が刻まれている。
長い黒髪を、後ろで一つに高く束ねていた。
その髪の一房一房に、青白い電光が走っている。
右手には、変わらず、黒い鉄のフライパンが握られていた。
その表面を、雷が這っていた。
寮舎の二階で、ゴーストは窓枠を握りしめていた。
二度目だった。
あの日、倒れた自分の頭上で雷を纏っていた背中。
それでも、見慣れなかった。
台所で味噌汁の鍋をかき回している人が。
三者面談で弁当の話をして、担任を煙に巻いた人が。
今、雷を纏って、使徒の頂点と向き合っている。
「……お母様」
緋雪が、小さく息を呑んだ。
中庭では、焔が薙刀を構えていた。
二十歳の姿の奈々美を、じっと見つめている。
その目に浮かんでいたのは、敵意ではなかった。
懐かしさと、嬉しさと、それから、どうしようもないほどの悔しさだった。
「……変わらないわね」
「先輩も」
「私は、変わらないようにしたのよ」
焔は、薙刀の穂先を天へ向けた。
「あなたは、変わっていったのに。……それでも、その姿は、あの頃のままなのね」
穂先に、炎が集まっていく。
渦を巻き、凝縮され、膨れ上がり——
中庭の上空に、小さな太陽が生まれた。
先日、この中庭で、ゴーストを外壁まで吹き飛ばした火球。
それを、焔は最初の一手に選んだ。
「手加減は、しないわ」
焔の声は、静かだった。
「二十年分よ。……全部、受け取って」
火球が、落ちてきた。
直径三メートルの、白く輝く炎の塊。
その熱だけで、中庭の枯れ草が一斉に燃え上がった。
寮舎の窓ガラスの残骸が、熱で溶けて垂れ落ちていく。
奈々美は、動かなかった。
火球が、頭上に迫る。
その光が、奈々美の顔を真っ白に照らす。
その、直前。
奈々美は、フライパンを斜めに構えた。
右手首を、ほんの僅かに返す。
台所で、焦げつきそうな炒め物を、鍋肌から剥がす時と同じ角度だった。
——ガァァァァンッ!
鉄のフライパンの底が、火球を受け止めた。
雷が、フライパンの表面から爆ぜた。
炎と雷が、鉄の板一枚を挟んでぶつかり合う。
奈々美の足元の地面が、衝撃で円形に陥没した。
それでも、奈々美の手首は、揺らがなかった。
そのまま、手首を返した。
——ゴォォォッ!
火球が、弾かれた。
フライパンの底を滑るように軌道を変え、中庭の外へ、冬の空へと打ち上げられていく。
寮舎の屋根を越え、裏山の上空で、火球は音を立てて弾け散った。
冬の空に、真昼の花火のような光が咲いた。
「——っ」
焔の目が、見開かれた。
その瞬間には、もう、奈々美はそこにいなかった。
雷は、速い。
焔の目が火球の行方を追った、その一瞬よりも、速い。
焔の視界の正面に、二十歳の奈々美が立っていた。
手を伸ばせば、届く距離。
焔は、反射的に薙刀を振り下ろそうとした。
十二年、一度も途切れることなく鍛え続けた、最速の一撃。
だが、振り下ろすより先に、フライパンの底が、薙刀の柄を横から叩いた。
——バキィンッ!
炎でできた柄が、真ん中から折れた。
紅蓮の刃が、焔の手から離れて宙を舞い、中庭の枯れ草の上に突き刺さる。
刃は、地面に触れた瞬間に、炎の粒になって散った。
焔の両手が、空になった。
奈々美は、フライパンを振り上げていた。
高く。
まっすぐに。
焔は、それを見上げていた。
二十年前、前線で何度も見た光景だった。
魔獣の群れの真ん中に飛び込んでいく、雷を纏った後輩の背中。
その背中を、自分はいつも、後ろから見ていた。
今、その後輩が、正面に立っている。
(……ああ)
焔は、目を閉じなかった。
(やっぱり、追いつけなかった)
——ごんっ。
鈍い音が、中庭に響いた。
鉄のフライパンの底が、焔の頭のてっぺんを、正確に打ち据えていた。
焔の膝が、崩れた。
深紅の戦装束が、ゆっくりと後ろへ傾いていく。
長い髪がほどけて、焼け焦げた枯れ草の上に広がった。
焔は、仰向けに倒れた。
中庭に、静寂が落ちた。
決着まで、十秒とかからなかった。
寮舎の二階で、ゴーストは窓枠を握りしめたまま、動けなかった。
隣で、緋雪が口元を両手で押さえていた。
「……十秒」
「……うん」
「……お母様、強いわね」
「……うん」
ゴーストは、それしか言えなかった。
あの人は、毎朝、弁当箱に卵焼きを詰めている。
洗濯物を畳んで、夕飯の献立に迷って、父の晩酌の肴を作っている。
その人が、今、十二年変身を解いていない使徒の頂点を、フライパン一本で沈めた。
ゴーストは、窓枠から手を離した。
指先が、白くなっていた。
中庭の中央で、焔は仰向けに倒れたまま、冬の空を見上げていた。
薄い雲が、ゆっくりと流れている。
さっき打ち上げられた火球の煙が、まだ空の一角に残っていた。
「……」
焔は、しばらく何も言わなかった。
頭のてっぺんが、じんじんと痛む。
十二年、一度も感じたことのない種類の痛みだった。
「……フライパン」
ぽつりと、焔は呟いた。
それから、肩が震え始めた。
最初は、小さく。
それから、少しずつ大きく。
「……ふ、ふふ……っ」
焔は、仰向けのまま、声を上げて笑い出した。
「あはは……っ、あははははっ……!」
冬の空に向かって、腹の底から。
目尻に涙を浮かべて、枯れ草の上で身をよじって。
十二年、いや、二十年ぶりに、心の底から笑っていた。
「フライパンで……っ、私、フライパンで……!」
奈々美は、フライパンを肩に担いだまま、焔を見下ろしていた。
雷を纏った長い髪が、冬の風に揺れている。
「……痛かった?」
「痛いわよ……!」
焔は、笑いながら頭を押さえた。
「鉄よ、それ……! 鉄のフライパンよ……!」
「丈夫なほうを選んだのよ」
「知ってるわよ、見れば分かるわよ……!」
焔は、笑い転げながら、涙を拭った。
奈々美は、左手首の腕時計に目を落とした。
「……まだ、三時前ね」
「……は?」
「肉じゃが、間に合うわ」
焔は、また吹き出した。
雑木林の斜面で、汐里は錫杖に縋って座り込んでいた。
胸の奥の水路を、水が流れていった感覚が、まだ残っていた。
三倍の速さで、魔力が汲み出されていった。
それでも、ほんの十秒だった。
湖の水面が、少し下がっただけ。
汐里は、錫杖を抱えたまま、肩を震わせていた。
笑っていた。
泣いていた。
どちらなのか、自分でも分からなかった。
「……先輩」
遠く、中庭のほうから、焔の笑い声が聞こえてくる。
「先輩、やっぱり、終わらせるのが早い」
汐里は、錫杖に額をつけて、声を殺して泣き笑いした。
傍らの八咫の隊員が、何も言わずに、そっと汐里の肩にコートを掛けた。
寮舎の裏山の尾根。
音の消えた小さな場所で、人の形をした何かが、中庭を見下ろしていた。
「……十秒」
温度のない声が、凪の中に落ちた。
失われた片腕の跡から、紫色の光が微かに漏れている。
その指先が、一度だけ、脈打った。
無響は、それ以上何も言わなかった。
ただ、中庭で笑い転げる炎の使徒と、その傍らに立つ雷の女を、じっと見下ろし続けていた。
崩れかけた門の前。
五郎は、魔法瓶を両手で包んだまま、坂の上を見上げていた。
さっき、空に大きな光が咲いた。
それから、雷鳴が一つ。
その後は、静かになった。
そして今、坂の上から、女の笑い声が聞こえてくる。
聞き覚えのない、若い女の声だった。
腹の底から、何かが可笑しくてたまらないというような、笑い声。
五郎は、しばらくその声を聞いていた。
それから、小さく肩の力を抜いた。
魔法瓶の蓋を開けて、ほうじ茶を一口すする。
まだ、温かかった。
「……終わったか」
五郎は、誰にともなく呟いた。




