第三百一話
ボールペンの先が、メモ帳の上で止まった。
三神家の台所。
夕飯の片付けを終えた流しの横で、奈々美は冷蔵庫の扉に貼ってあった小さなメモ帳を剥がし、食卓の上に広げていた。
普段は、買い物の品目を書き留めるのに使っているメモ帳だった。
一番上の頁には、昨日の自分の字で「牛乳、卵、白菜、豆腐」と並んでいる。
奈々美は、その頁をめくって、新しい白い頁を開いた。
——献立を決めてから、教えて。
垣根越しに、先輩はそう言って笑っていた。
奈々美は、しばらく白い頁を見つめていた。
何を書けばいいのか、少しだけ迷った。
決闘の日取りを、献立と一緒に知らせる人間が、この世にどれだけいるだろう。
それから、ボールペンを握り直した。
『日曜日の午後。
夕飯は、肉じゃが』
書き終えて、奈々美は自分の字を眺めた。
丸みのある、見慣れた字だった。
二十年前、寮の当番表に書いていた字と、少しも変わっていない。
奈々美は、その頁を丁寧に切り取った。
四つ折りにして、エプロンのポケットに入れる。
勝手口のサンダルをつっかけて、庭へ出た。
冬の夜の庭は、冷え込んでいた。
物干し竿には、まだ洗濯ばさみがいくつか残っている。
奈々美は、その一つを外して、垣根の前まで歩いていった。
垣根の向こうに、隣の洋館が見える。
二階の窓に、明かりが一つ灯っていた。汐里の部屋だった。
奈々美は、四つ折りのメモを、垣根の枝に洗濯ばさみで留めた。
白い紙が、夜風に小さく揺れる。
それだけして、奈々美は家の中に戻った。
翌朝。
奈々美が洗濯物を干しに庭へ出ると、垣根の枝に、まだ洗濯ばさみが留まっていた。
だが、挟まっている紙が、違っていた。
昨夜自分が留めた、メモ帳の切れ端ではない。
上質な和紙を、細長く折った紙だった。
奈々美は、洗濯籠を足元に置いて、その紙を外した。
開くと、流れるような美しい筆跡が並んでいた。
寮の掲示板で、何度も見た字だった。
『承知しました。
肉じゃが、あなたの味は二十年ぶりね。
——焔』
奈々美は、しばらくその紙を見つめていた。
それから、小さく吹き出した。
「……食べに来るつもりなのかしら」
誰に言うでもなく呟いて、和紙をエプロンのポケットにしまった。
垣根の向こうの二階の窓で、カーテンが僅かに揺れていた。
汐里が、その様子を見ていたらしい。
その日の夕食は、鶏の照り焼きだった。
零が作った照り焼きと、白菜の浅漬けと、大根の味噌汁。
食卓に家族五人が揃い、いつものように、とりとめのない話が飛び交っていた。
玲奈が、学校の友達の話をしている。
澪が、大学の教授の口癖を真似している。
五郎が、会社の後輩の失敗談を面白おかしく語っている。
奈々美は、その話に相槌を打ちながら、少しだけタイミングを計っていた。
話が一段落した時、奈々美は湯呑みを置いた。
「そうそう。今度の日曜の午後、また昔の友達と会ってくるわね」
澪の箸が、止まった。
「……この前と、同じ人?」
「ええ」
奈々美は、あっさりと頷いた。
「前回は、ちゃんとお話しできなかったから。今度は、ゆっくりね」
澪は、箸を置いた。
前回。
あの日、母は昔の友達とお茶をしてくると言って出かけていった。
そして、帰ってきた時には、二十歳の顔になっていた。
「……私も行く」
「駄目よ」
奈々美は、即答した。
「なんで」
「大人の話だもの」
「私、もう大学生よ」
「大人の話よ」
奈々美は、笑顔のまま繰り返した。
澪は、母の顔をまっすぐに見据えた。
「お母さん。……前に会った時、帰ってきたら顔が変わってたでしょう」
食卓の空気が、少しだけ固まった。
玲奈が、味噌汁の椀を持ったまま、姉と母の顔を交互に見ている。
五郎は、黙って照り焼きをつまんでいた。
「今度は、何があるの。……危ないこと、じゃないの」
「危なくないわ」
「本当に?」
「本当よ」
奈々美は、少しだけ首を傾げた。
「昔の友達と、ちょっと話をするだけ。……晩ご飯までには帰るわ」
「……」
「だから、澪。肉じゃがの下ごしらえ、お願いね。じゃがいもの皮むきと、玉ねぎを切っておいてくれると助かるわ」
澪は、何か言い返そうとした。
だが、母の目を見て、言葉が出てこなかった。
穏やかで、柔らかくて、いつもと何も変わらない目。
その奥に、一歩も引かない何かがあった。
この目をした母に、何を言っても無駄だということを、娘は経験で知っていた。
「……分かった」
澪は、小さく溜息を吐いた。
「でも、晩ご飯までに帰ってこなかったら、探しに行くから」
「ええ。お願いするわ」
奈々美は、にこやかに頷いた。
「俺が、車で送る」
五郎が、照り焼きを飲み込んでから言った。
「あなた」
「帰りも、迎えに行く。門の前で待ってる」
五郎は、それだけ言って、味噌汁をすすった。
それ以上は、何も聞かなかった。
零は、黙って自分の茶碗を見下ろしていた。
母の嘘は、いつも穏やかだった。
それを聞くたびに、自分の嘘も、きっとこういう風に聞こえているのだろうと思った。
翌日の夕方。
翼の家の離れに、円卓の面々が集まっていた。
今回は、白鳥と凛花は同席していなかった。
議題が、一つの家族の、一つの決着に関わることだったからだ。
「……一騎打ちよ」
ゴーストが、静かに告げた。
「天城焔が、お母様に申し入れたの。……寮跡で、二人だけで決着をつけると」
「お母様は、受けたのね」
ヴィクトリアが、紅茶のカップを置いた。
「ええ。……『晩ご飯までには、帰るわよ』って」
ルディアが、袖で口元を隠した。
その肩が、小さく震えていた。
「……あの方らしいですわ」
「笑い事じゃないわ」
「分かっておりますわ。……でも、少しだけ」
ゴーストは、小さく息を吐いた。
「焔には、口を出すなと言われてる。……でも、見届けには行くわ」
「当然ね」
ヴィクトリアが、即座に頷いた。
「問題は、あの音のない子よ」
「ええ」
「寮跡は、あの子が最初に姿を見せた場所。……決闘の最中に割り込んでくる可能性は、十分にあるわ」
「外周は、わたくしどもで固めますわ」
ルディアが、袖を下ろした。
「真里と、ルカとリリアと。……寮跡の周囲一キロに、福音の鐘の者を配置いたします」
「星監も出すわ。シルヴィアとレイラを」
「……ありがとう」
ゴーストが、頭を下げた。
その時、離れの障子の外から、控えめな声がした。
「……あの」
障子が、少しだけ開いた。
汐里が、錫杖を抱えて立っていた。
ヴィクトリアの屋敷から、星監の車でここまで連れてこられたらしい。
顔色は、あの夜から少しずつ戻り始めていた。
「私も、連れていってください」
ゴーストが、振り返った。
「汐里さん」
「先輩が変身するには、私が三百メートル以内にいないといけません」
汐里は、錫杖を握りしめた。
「私がいなければ、先輩は、今の身体のまま焔様と向き合うことになります」
離れの空気が、静まり返った。
四十を過ぎた母。
魔力は、ほとんど残っていない。
その身体のまま、十二年変身を解いていない使徒の頂点と向き合う。
それは、決闘ではなかった。
「……でも、あなたの身体は」
「大丈夫です。あの夜の分は、ほとんど戻りました」
汐里は、まっすぐにゴーストを見た。
「それに、先輩はきっと、長くは戦いません」
「……」
「あの人は、昔から、終わらせるのが早いんです」
汐里の右の頬に、小さなえくぼが浮かんだ。
ゴーストは、しばらく汐里の顔を見つめていた。
それから、静かに頷いた。
「……分かったわ。一緒に行きましょう」
「ありがとうございます」
その夜。
白百合の盾の会長室で、緋雪は姫嶋結衣の前に立っていた。
「……休暇を、申請します」
緋雪は、一枚の書類を机の上に置いた。
「日曜日。一日だけ」
結衣は、書類に目を落とした。
理由の欄には、「私用」とだけ書かれていた。
結衣は、しばらく書類を見つめていた。
眼鏡の奥の目が、書類から緋雪の顔へ、ゆっくりと移る。
「……理由は、聞かないほうがよさそうですね」
「……はい」
「そうですか」
結衣は、書類に判を押した。
それから、眼鏡を外して、机の上に置いた。
「羽衣さん」
「はい」
「次は庇いきれない、と言ったのは、覚えていますね」
「……はい」
「これは、正式な休暇です。……庇う必要のない、ただの休みです」
結衣は、判を押した書類を緋雪に返した。
「気をつけて、行ってきなさい」
緋雪は、書類を受け取って、深く頭を下げた。
「……ありがとうございます、会長」
決闘の前夜。
日付が変わる少し前、五郎は喉の渇きで目を覚ました。
隣の布団は、空だった。
五郎は、寝間着のまま、足音を忍ばせて階段を降りた。
台所の明かりが、細く廊下に漏れている。
台所を見ると奈々美がいた。
流しの前に立ち、両手に一本ずつ、フライパンを持っていた。
一本は、普段使いの軽いフライパン。
もう一本は、戸棚の奥にしまってあった、少し重たい鉄のフライパン。
奈々美は、その二本を交互に持ち上げては、手首を返して重さを確かめていた。
「……」
五郎は、暖簾の陰で固まった。
奈々美が、夫の気配に気づいて振り返った。
「あら、あなた。起きちゃった?」
「……それ」
「ん?」
「持っていくのか」
奈々美は、両手のフライパンを見下ろした。
「ええ」
それから、真剣な顔で夫を見上げた。
「どっちがいいと思う?」
「……は?」
「こっちは軽くて振りやすいの。でも、こっちのほうが丈夫なのよ。鉄だから」
奈々美は、鉄のフライパンを軽く持ち上げてみせた。
「先輩の薙刀、炎でできてるでしょう。軽いほうだと、柄が溶けちゃうかもしれないの」
五郎は、しばらく妻の顔を見ていた。
真剣だった。
一点の曇りもなく、真剣に、フライパンの耐熱性を検討していた。
五郎の肩が、震え始めた。
「……ぶ、っ」
「笑わないで」
「く、くくっ……!」
「真面目に聞いてるのよ」
五郎は、暖簾に掴まったまま、声を殺して笑った。
深夜の台所で、腹を抱えて、目尻に涙を浮かべて。
「……お前は、本当に」
「なによ」
「……いや。なんでもない」
五郎は、涙を拭って、妻の手の中の鉄のフライパンを指さした。
「そっちだな。……丈夫なほうがいい」
「やっぱり、そうよね」
奈々美は、満足そうに頷いた。
軽いほうのフライパンを、コンロの上にそっと戻す。
明日の夕飯の肉じゃがで、玉ねぎを炒めるのに使うつもりだった。
鉄のフライパンは、布巾で丁寧に拭いてから、藍色の風呂敷に包んだ。
結び目を、きゅっと固く締める。
五郎は、その手つきを黙って見ていた。
「……昔も、そうやって出ていったのか」
奈々美の手が、少しだけ止まった。
「……ええ」
奈々美は、風呂敷包みを両手で抱えた。
「夜食を作ってる時に、警報が鳴ったりするのよ。……着替える暇もなくて」
「何回くらいだ」
「三回くらい、かしら」
「……三回か」
「後輩に見られてて、しばらく『フライパンの奈々美』って呼ばれてたわ」
五郎は、また笑い出しそうになるのを、どうにか堪えた。
「……今度も、ちゃんと帰ってこいよ」
「ええ」
奈々美は、風呂敷包みを抱えたまま、夫の顔を見上げた。
「晩ご飯までには、ね」
決闘の日の昼。
三神家の玄関に、奈々美が立っていた。
淡い色のブラウスに、動きやすいパンツ。
腕には、藍色の風呂敷包みを一つ抱えている。
「いってきます」
「お母さん、それなに?」
見送りに出てきた玲奈が、首を傾げた。
「お土産よ」
「お土産? 昔の友達に?」
「ええ」
「ずいぶん、重そうだけど」
「気持ちがこもってるのよ」
奈々美は、にこやかに言って、玄関の扉を開けた。
鈴が三つ鳴る。
門の前には、五郎の軽自動車がすでに停まっていた。
運転席の五郎が、軽く手を上げる。
奈々美が助手席に乗り込むのを、二階の窓から澪が見下ろしていた。
カーテンを少しだけ開けて、腕を組んで。
その表情は、硬いままだった。
母は、嘘をついている。
それが分かっていて、止められない。
止める言葉を、自分は持っていない。
車が、走り出した。
角を曲がって、見えなくなる。
澪は、しばらく窓辺に立ち尽くしていた。
「……姉ちゃん」
背後から、声がした。
振り返ると、零が部屋の入り口に立っていた。
コートを羽織って、出かける支度をしている。
「俺、緋雪さんと出かけてくる」
「……今日?」
「うん」
「……」
澪は、弟の顔をじっと見た。
「晩ご飯までには、帰ってきなさいよ」
「……うん」
「肉じゃが、手伝わせるからね」
「分かった」
零は、それだけ言って、階段を降りていった。
玄関の鈴が、また三つ鳴った。
澪は、もう一度窓の外を見た。
母が消えた角と、弟が歩いていく背中。
二つの方向が、なぜか、同じ場所へ向かっている気がした。
郊外の山の麓。
戦姫の旧寮跡。
中庭の枯れ草は、先日の戦いの跡で、ところどころ黒く焼け焦げていた。
溶け落ちた外壁は、そのまま固まって、奇妙な形の岩のようになっている。
その中庭の中央に、焔が立っていた。
白いセーターではない。
深紅の戦装束だった。
胸元から裾にかけて、炎の紋が刻まれている。
長い髪を、今日は一つに高く結い上げていた。
紅蓮の薙刀を、地面に突き立てている。
焔は、その柄に両手を重ね、目を閉じていた。
冬の午後の風が、中庭を吹き抜けていく。
やがて、坂の下から、足音が聞こえてきた。
一歩、また一歩。
落ち着いた、急がない足取り。
焔は、目を開けた。
崩れかけた門の下に、奈々美が立っていた。
淡い色のブラウス姿で、藍色の風呂敷包みを抱えている。
「……来たのね」
「約束したもの」
奈々美は、中庭の中へ歩いてきた。
焼け焦げた枯れ草を踏みしめて、焔の前、十歩ほどの距離で足を止める。
それから、風呂敷の結び目に指をかけた。
きゅっ、と結び目が解ける。
藍色の布が、はらりと落ちる。
中から現れたのは、一本の、黒い鉄のフライパンだった。
焔は、しばらく何も言わなかった。
中庭に、冬の風の音だけが響いていた。
「……本当に」
長い沈黙の後、焔は呟いた。
「本当に、持ってきたのね」




